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イナンナは空港で待っていた。不謹慎かも知れないが、久し振りに実物のイナンナを見て、日向の気持ちは舞い上がる。
彼女は背中まであった栗色の真っ直ぐな髪を、肩よりも短く切ってしまった。長い髪の時に漂っていた清楚な雰囲気の代わりに、利発な少女の様に輝いて見える。それはそれで、素敵だ。
「ヒュー!」
会うなり、イナンナは両手を広げ、日向に熱烈なハグをする。途端、日向の周囲を甘い香りが満たす。以前イギリスに居た時だって、こんな事は一度も無かった。西洋人ならば、男女がハグするのに特別な意味は無いだろう。単なる挨拶。だが、日本人の日向にとってはそうじゃない。ケヴィンが行方不明になっていると言う事情を知らなければ、すっかり勘違いしてしまうところだ。
女の子ってこんなに柔らかいんだ。
余韻に浸っている場合じゃない。日向は、イナンナがこんなに自分との再会を喜んでくれるのは、それだけケヴィンが居なくなって心細かったのだろうと解釈する。
「行こう。」
イナンナは空港までレンタカーで来ている筈だ。彼等が共に過ごした学園都市は、ロンドンの北30kmに位置している。自動車道を使えば、さして時間はかからない。
最初にイナンナのメッセージが届いてから、日向がロンドンの空港に降り立つまでの数日間、二人は現状についてSNSでやりとりした。だから、日向も状況を充分理解している。ケヴィンが居なくなったのにイナンナが気付いたのは、彼が姿を消したと思われる日から10日後の事だった。大学の同期生に訊き回っても、誰もケヴィンが居なくなった理由を知らない。ヒントになりそうな出来事もない。そもそもそれ以前から、ケヴィンは時々、大学の講義を欠席していたらしい。最初の内は1ヶ月に数日。段々頻度が多くなり、最後はむしろ大学に顔を出す事の方が珍しくなっていた。だから、ケヴィンが遂に姿を消しても誰も気にしなかったし、イナンナの話を聞いても、またその内、何食わぬ顔で現れるだろうと言って、真剣に考えてくれる人も居なかった。では何故、イナンナはケヴィンが戻って来ないと思っているのか。答えは簡単だ。それまでケヴィンのSNSは生きていた。ケヴィンが、大学にたまにしか顔を出さなくなった時期ですら、彼とイナンナはSNSでやり取りする事ができていた。それが遂にSNSすら不通になった。異変を感じたイナンナがケヴィンを探し始めた時には、ケヴィンが最後に大学で姿を見掛けられてから10日が過ぎていたと言う訳だ。
手掛かりは何も無い。一体どうやって探せば良いだろう。
日向はロンドンへ向かう飛行機の中で考え続けた。勿論、飛行機のシートに縛り付けられ、身動きが取れない状態で良い考えなんか浮かばない。結局、何のアイデアも無いまま、助けたいと言う気持ちだけでイナンナの前に姿を現している。
「今日はホテルでゆっくり休んでと言いたいところだけど、今夜、ケヴィンのお母さんと会う約束を取り付けたの。一緒に行ってくれない?」
レンタカーを運転し始めて直ぐに、イナンナが説明を始める。ケヴィンの実家に連絡をしたのはイナンナだ。恋人同士なんだから、実家を知っていても何も不思議はない。イナンナから連絡をもらうまで、ケヴィンの両親は彼の失踪に気付いていなかった。両親は直ぐに捜索願を警察に提出したそうだ。そして、彼の母親が急遽北アイルランドの実家から学園都市まで出て来ると言うので、イナンナは会って話がしたいと申し込んでいた。
「勿論、一緒に行くよ。僕は観光に来たんじゃない。できる事をどんどんやらなけりゃ。」
手遅れにならない内に。
喉まで出かかったその言葉を、日向は慌てて呑み込んだ。
ケヴィンの母親との面会の場所は、母親が滞在しているホテルのラウンジだった。ホテルのロビーで、イナンナがスマートフォンから電話を掛けると、程無くして、背の低い丸っこいシルエットの御婦人がエレベーターで降りて来る。パーマをかけた銀色に輝く白髪は、髪一本の乱れも無い。青地に黒の幾何学模様がプリントされたワンピースを着込み、金縁に桜色の耳当てが付いた眼鏡をチェーンで首から提げている。
婦人はエレベーターから降りると、真っ直ぐにイナンナへと近づく。
「貴方が、イナンナさん?」
「イナンナ・シェムスレックです。わざわざお時間を取って頂きありがとうございます。」
婦人が手を差し出す前に、イナンナは両手を広げて、彼女をハグする。
「こちらこそ、ケヴィンが居なくなっちゃった事を知らせてくれて助かったわ。貴方の事は、ケヴィンから聞かされていたけど、本当に素敵なお嬢さんね。」
日向の存在など、まるで無いかの様だ。彼女等は初対面なのだろう。男の母親と男の恋人の対面。こりゃ、入って行ける雰囲気じゃない。
傍らで棒立ちになり二人を見つめている日向に、イナンナが婦人の注意を向ける。
「こちらは?」
婦人は、日向にではなく、イナンナに問い掛ける。何故か不安そうな表情をしている。
「ケヴィンさんの友人のヒュウガ・カンバラです。」
イナンナが説明を始める前に、日向は自分で名乗り、右手を婦人に向けて差し出す。
「あら、そう。」
婦人は少し戸惑った様な仕草で、軽く日向と握手を交わすと直ぐに手を引っ込める。
「早速ですが、お話をお伺いしても良いでしょうか。」
イナンナは優しく婦人に話し掛ける。
「ええ、そうね。ラウンジに行きましょう。」
二人の女性が並んで歩き、その後ろを日向が歩き、ラウンジに向かう。
「貴方の実家はスコットランドって聞いているけど、どのあたりなの?」
「ハイランドにあります。」
「それじゃあ、根っからのスコット人ね。」
「そう言う訳でもありません。」
「いいえ、きっとそう。」
二人の女性は、すっかり打ち解けている。日向はその後ろ姿を見ながら、黙って歩く。
なんだ、この、まるで義理の母と娘になる事を前提とした様な会話は。どっちも互いの距離を一気に縮めようとしているのが見え見えだ。
日向は、やっぱり到着した最初の夜くらい、宿でゆっくりしていれば良かったと半分後悔しながら、ラウンジのテーブルを彼女達と囲む。
婦人は3人分の紅茶を注文する。
「捜索願の手続きは済んだんですか?」
イナンナが話題を変える。婦人の顔が曇る。
「ええ。ケヴィンがどこに行ったか、何か思い当たる事は無い?」
「残念ですが、何も。彼の友人達にも聞いて回りましたが、誰にも何も言わず、いつの間にか姿が見えなくなっていた様です。少し前から大学を休みがちになっていたらしいので、余計誰も気が付かなかったのでしょう。その内、フッと戻って来ると考えている者も居るくらいです。」
「昔から一言も言わずにどこかに出掛けてしまう子でしたけど、私達と連絡が取れなくなる様な事はありませんでした。今回は、今までと状況が違います。」
「私もそう思います。」
イナンナは婦人の目を見て小さく頷く。
運ばれてきた紅茶を嗜む間、少しばかりの沈黙が訪れる。
「私達も、独自にケヴィンの行方を探してみようと思うのですが、構いませんか?」
紅茶を口にした後で、イナンナからまた話が始まる。
「ええ、是非お願いします。もう今では、母親よりもあなたの方がケヴィンの事に詳しいわよね。」
おいおい!その言い方は何だよ!
日向は口を挟みたくて、むずむずしている。
「今の所、何も手掛かりは無いのですが」イナンナは話しながら、ちらちらと日向の方に視線を飛ばす。「同席してもらっているヒュウガさんの洞察力がとても頼りになる筈です。…彼の参加もご了解頂けますか?」
テーブルに着いて初めて婦人の視線が日向の存在を捉える。
「…ええ、そうねぇ。貴方がそう言うって事は、この方は有能なのね?」
「保証します。」
面映ゆい。そんな安請け合いをして大丈夫か?日向の実体が普通の人間でしかない事を充分理解していたら、そんな後悔しそうな事は絶対言えない筈だ。
婦人は目を伏せる。
「あなた達に任せるわ。」
「ありがとうございます。警察の捜索を邪魔しない様、慎重に行動しますから、ご安心下さい。」
婦人は、テーブルに視線を落としたまま、小さな溜息を漏らす。
「ケヴィンの部屋には行かれましたか?」
婦人の感情に遠慮していては何も進まない。日向は思い切って口を開く。一瞬、夫人は驚いた顔を日向に向けたが、直ぐに平常心を取り戻す。
「ええ、今日、見に行って来たの。多少散らかっていたけれど、気になる様なところは無かったわ。」
「僕等に入らせてもらえませんか。何か手掛かりになる物が見付けられるかも知れない。」
日向は二人の女性の会話を聞きながら、ずっと考えていた。今僕等がケヴィン捜索の取っ掛かりにできそうなのは、これしかない。探偵ものの推理小説は、部屋に残されたメモとか、謎の暗号とか、そんな物からスタートするじゃないか。
「え?…そうねえ…。」
婦人は口元に手を持って行き、考え込む。
「ミセス・オブライエン。」イナンナが脇から加勢する。「ケヴィンを見付けるのに必要な事なんです。」
イナンナは婦人のもう一方の手を取り、両手で握る。それでも婦人は考え込んでいる。分からないでもない。もし、提案したのがイナンナだったら、婦人は1も2も無くケヴィンの部屋を見せていただろう。だが、言い出したのは、得体の知れない東洋人の男。イナンナが保証すると言ったところで、婦人は日向を信用していない。
「僕は、ケヴィンに助けられました。」日向は静かに話し始める。「留学期間の前半、僕は孤独に過ごしていました。友達を作る努力をしても、全て空振りでした。でも、ケヴィンに会って変わりました。彼はアジアの端っこにある日本から来た、英語も上手く話せない僕を無条件で友達と認めてくれました。その事で、どれだけ僕が救われたか。自分の人生が変わる程の出来事でした。だから、今度は僕がケヴィンを助けたい。彼が困っているならば、僕は、この身を投げ出してでも助けます。」
話している日向を、婦人はじっと見つめる。だがその瞳は、未だ猜疑の色を帯びている。日向が話し終えても、婦人は口を開かない。片手で口元を押さえたまま、日向を見ている。
「ケヴィンを見付け出したい気持ちは私も一緒です。是非お願いします。」
イナンナが一生懸命訴えると、流石の婦人も首を縦に振った。明日、もう一度、このホテルで落ち合い、ケヴィンの暮らしていたアパートの部屋を訪ねる事になった。イナンナと日向は婦人と別れ、日向の泊まるホテルへと向かう。
「あれは、失敗だった。すまない。」
車の助手席で前を見つめたまま、日向が話し掛ける。
「何が?」
ハンドルを握るイナンナも前を見たまま応える。
「ケヴィンの部屋を見せてもらう話は、僕じゃなく、イナンナから提案した方がスムーズに了解がもらえた筈だ。下手をしたら、拒否されて身動きが取れなくなるところだった。」
「良いじゃない。結果的に了解はもらえたんだし、部屋を見せてもらえる事になったんだから、何としても、何かヒントを見付けなきゃ。」
「ミセス・オブライエンと話す前に、どういう役回りで話すか打合せしておけば良かった。」
フフッとイナンナが笑う。
「本物の探偵みたいね。ノリノリじゃない?」
「別にそう言うんじゃない。ただ、ケヴィンを助けたい気持ちは、さっき話した事が本心だ。」
嘘は言っていない。ミセス・オブライエンを説得しようと、その場の思い付きで言葉にしたが、それは創作なんかじゃなく、自分の思いがそのまま口から勝手に出てきた結果だ。
でも…。
こうして、あらためてイナンナに告げてみると、本当にそれが自分の本心なのか疑問に思えてくる。ケヴィンを助けたい。その気持ちに偽りはない。けれど、もし日本に居る日向に連絡してきたのが、イナンナじゃなかったら…、もし、イナンナがケヴィンを探そうとしていなかったら、自分はミセス・オブライエンを説得してまでケヴィンの行方を追おうとしただろうか。結局、自分は何のために動いているんだ?
自分の気持ちのどこまでが本当なのか分からなくなった日向は、前を走る車のテールランプを見つめて黙っていた。




