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翌日は、ケヴィンの姿を大学で見付けた。だが、講義の教室ではなく、日向が課題を進めるために立ち寄った図書館に彼は居た。机の上にノートを広げ、眉間に皺を寄せて、自分の書いた文章を睨み付けている。大方、レポートのまとめが上手くいかないのだろう。課題で苦労しているのが自分だけじゃないと思えて、日向は少し気が楽になる。
「フィン。」
彼の正面側から机に近付くと、ひそひそ声で呼び掛ける。ケヴィンは視線を上げて、そこに日向を認めると、笑顔で軽く手を挙げて応える。
「何だ、困った顔して。フィンにも分からない事があるのか?」
日向は机の上を覗き込む。
途端、フィンは開いていたノートを勢い良く閉じる。こげ茶色の表紙、随分長い間使っているのか、四角は角が取れて丸くなり、紙の表面が毛羽立っている。
「あ、これは、課題じゃないんだ。例の個人的な研究ノートだ。悪いが、こいつは見せられない。」
フィンの慌て様に、何だか不用意に悪い事をしてしまったと悟った日向は一歩後ずさる。
「済まない。勝手な事をして。」
「OK。」
ケヴィンは、ノートを鞄に押し込んで、立ち上がる。
「次の授業の教室に行こう。ヒューと一緒だよな。」
「あ、ああ。」
二人は、連れ立って図書館を後にする。
「レポートは纏まりそうか?」
何だか取って付けた様なケヴィンの質問。
「そう、それで悩んでいるんだ。こんな大変な思いは初めてだよ。日本語ならもっと楽なんだと思う。」
「あんまり神経質になるな。レポート1つで人生が決まる訳じゃない。」
「ありがとう。だけど僕にとっては、これがこの大学で出す最後のレポートだから、自分が納得できるものに仕上げないと、後悔しそうな気がするんだ。」
「おい、何だって!日本に帰るのか?」
ケヴィンは血相を変えて、日向に迫る。
「ああ、短期留学だから。期間終了だよ。」
「いつだ?いつ帰る?」
「大体1ヶ月後だ。」
「そうなのか…。何で言ってくれなかったんだ。」
「済まない。直ぐでもないから、そのうち話そうと思ってはいたんだが。」
最初は、まさかこんなに仲良くしてくれる相手だと思っていなかったし、仲良くなった後では、そんな話を話題にしづらくなった。
「それ、ナンは知っているのか?」
「いや、話してない。」
「よし、これから伝えよう。ナンを探すぞ。」
「おう、…分かった。」
授業そっちのけで、キャンパス中を探し回る。イナンナを見付けたケヴィンは、彼女の事情など気にも掛けずにいきなり話し出す。
「ナン、ヒューが日本に帰っちまうぞ。」
「え?」
ケヴィンの後ろから付いて来た日向の顔とケヴィンの顔を交互に見ながら、イナンナは驚いている。
「そんなすぐじゃないよ。僕は短期留学で来ているから」言葉の足りないケヴィンに代って、言葉に不慣れな日向が補足する。「後1ヶ月くらいで日本に帰るんだ。急にそんな事言い出して済まない。」
「一時帰国じゃなくて?もう、戻って来ないの?」
イナンナは両手を広げ、如何にも残念そうな顔をしてくれる。それだけでも有難い。
「もう、戻らない。」
短期留学生は沢山来ている。日本からだけじゃない。全世界から集まって来る。いずれ帰ってしまうのはお互い承知している筈だ。なのに、こうして改めて口にすると、日向自身で自分に運命の宣告している気分だ。
「どうする?」
ケヴィンが、イナンナと日向の表情を見ながら呟く。
「決まってるじゃない。壮行会を開きましょ。」
イナンナははっきり言い切る。
「3人でか?」
「3人で。」
「なら、場所を確保しなけりゃな。」
「それなら任せて。」
イナンナは片目を瞑って見せた。
日向がイギリスを去る1週間前に日向の壮行会が催された。別に何か試合をしに行く訳じゃない。単に母国へ帰るだけなのに、送別会じゃなくて壮行会だと二人は言い張る。当日の夜、ケヴィンとイナンナが留学生の寮まで車で迎えに来てくれた。寮の玄関で二人の姿を見た日向は仰天する。ケヴィンはタキシードに蝶ネクタイ、イナンナは肩の出た薄いピンクのパーティードレスを着ている。Tシャツ、ジーパン姿だった日向は、玄関に二人を待たせて、自室に飛んで戻る。兎に角あれに釣り合う格好をしなければならない。
「そんなの、事前に教えてくれなきゃ。」
愚痴を零しながらクローゼットの中を漁る。まさか、イギリスでこんな機会があるとは思っていないから、有るのはラフな服装だらけだ。そもそも荷物になるからと、日本から持って来た服は、普段の通学に必要な最低限の数に減らしてある。仕方ない、緊急事態だ。こんな時は、留学生が集まっている寮で暮らしていて助かった。周囲の部屋を訪ねて、服を貸してくれないか頼み込む。何とか、体形が近い中国人留学生から、スーツとネクタイを借りて着込む。ちょっと寸法が合っていない部分もあるが、体が服に収まるからよしとしよう。それよりも、二人を待たせている。バタバタしながら、大汗を掻いて支度をし、含み笑いを浮かべるケヴィンの運転するレンタカーのジャガーでレストランへ向かう。
「イギリスじゃ、こういう会は普通なのかい?」
車の後部座席に収まって、気持ちが落ち着いてから声を上げる。今日の後部座席は、主賓の日向が独り占めだ。目の前に、運転するケヴィンと助手席のイナンナの後ろ姿が並んでいる。
「さあ、どうだろうなぁ。」ケヴィンの声は何だか笑っている。「日本じゃ、どうなんだ?」
「フォーマルなパーティーなんて無いよ。あ、そう言うパーティーをわざわざやるのが趣味の人も居るけど、僕は違う。後、もう1つ先に言っておくけど、僕、ダンスは踊れないよ。」
途端、二人が声を上げて笑う。
「ナン、残念だな!壁際に立っていても、ヒューはダンスに誘ってくれないそうだ。」
「本当に残念!今からでも、バンドの予約、キャンセルできるかしら。」
二人は暫く、くだらない冗談を言い合って笑っていた。
連れて行かれたのは、郊外の近代的な高級レストランだ。個室の予約席へと案内される。テーブル担当のウェイターが付く。浅黒い肌の男。茶色の短髪にもみあげから繋がる顎鬚。中東からの移民だろうか。レストランの白い制服をきっちりと着込んで、日向達を席へと案内する。これからフルコースの食事が順番に運ばれて来るって流れだ。日向だって、取り敢えずテーブルマナーくらいなら何とかなる。
「それじゃあ、ヒューの新しい人生の門出を祝して…」
ケヴィンが赤ワインのグラスを持って立ち上がり、咳払いをしてから話し始める。
これはこれは、有難い。
慌てて日向もワイングラスを手に立ち上がろうとすると、「座ってろよ。」と止められる。
主賓だから、デンと構えてなけりゃならないのか。
椅子の上で居住いを正して、ケヴィンの話を聞く。胸を張って、3人と担当のウェイターしかいない部屋の壁を見回しながら、モゴモゴと聞き取りにくいケヴィンの演説が暫く続いた。話の内容は、最初にケヴィンと出会った時には、小動物の様に落ち着かない眼をしていたくせに、今じゃすっかり、日本の皇太子がイギリスに社会勉強にやって来たかの様な日向の態度だ。これならきっと、本国に帰って一流のビジネスマンとして大成するに違いない、と言うものだ。
「もし、ビジネスでイギリスに来る事があったら、その時は、良い条件で俺にも1枚噛ませろよな。」
ケヴィンは片目でウインクしてから乾杯する。こういう事をやっても、様になるから白人は羨ましい。ケヴィンはおいしそうにワインを喉に流し込む。一気にグラスの半分くらいが空になる。どっかりと椅子に腰を下ろしながら、続けざまに言い放つ。
「ナン、これ旨いな。良いワインを注文したな。」
「この店で一番…と言いたいけど、流石にそれは無理だった。」
「ン?なんだ?」ケヴィンは、日向がまだケヴィンに注目しているのに気付く。「僕の演説が感動的過ぎたか?」
「いや、そうじゃない。食事会の後、ケヴィンがまた運転するんだろ?大丈夫かなって。」
「なんだ、イギリスの法律を知らないのか?血中アルコール濃度0.08%まではOKだ。こんなワイン、普通に食事している分には問題ない。」
「うん…」
ケヴィンが交通違反で捕まるかどうかが心配な訳じゃない。自分の命に危険が及ばないかどうかが心配なんだ、と思いながらも口には出さない。
「さあ、次はレディ・シェムスレックから、一言頂こう。」
ケヴィンは、上機嫌でイナンナに振る。
「それじゃ、私は座ったままで。」
慌てる事なく、彼女は応える。
イナンナもちゃんと言う事を考えてあるのだ。…当たり前か。
日向の脈拍が早くなる。今飲んだワインのせいではないだろう。彼女はいつもの様に真っ直ぐ日向を見つめて話し出す。失礼が無い様に、日向も彼女を見つめる。
「ヒュー、貴方と知り合いになれて幸運だった。こんなに知的なお喋りができる友人は、あなた以外に居ない。」
そう日向はイナンナにとって友人、友人だ。知的と言うか、イナンナの話について行こうと必死で考えていた印象しか残っていない。
「なんだよ」ケヴィンが口を挟む。「僕とは知的な会話ができないのか?」
「フィンは黙ってて。」
イナンナに睨まれて、ケヴィンは両手を広げ、了解の意を示す。イナンナは再び日向に視線を戻す。
「これでお別れなんて言わないで、SNSでやりとりしましょ。ケヴィンと私のアカウント知ってるわよね?いつでも連絡頂戴。そうだ、チャンスがあれば、私が日本に行くわ。ヒューがどんな国で生まれたのか知りたい。私の友達に日本に行ってみたいって言っている子もいるし。」
「その子達と一緒においでよ。勿論案内するよ。今度は僕が奢る番だね。」
日向の答えに、イナンナは嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。
コースディナーが始まると、日向はおかしな事に気付く。料理を運んで来る顎髭のウェイターが、日向の前に皿を置く度に、視線を日向に送って来る。最初は、『持って来てくれてありがとう』って言う意味を込めて、ちょっと笑顔を返していたが、段々気味悪くなってくる。
何だ?これ、もしかして、あちらの趣味の人?自分に興味あるとか?
そう思ったら、背筋に悪寒が走る。その後は、顎髭男の熱い視線を無視して、意識してケヴィンやイナンナとの会話を弾ませて、その場をやり過ごした。
帰国当日、日向はロンドンの空港で一人だった。ケヴィンもイナンナも見送りには来なかった。
〈Good Luck!〉
イナンナから短いメッセージが送られて来ている。出発ロビーで搭乗を待ちながら、日向は短いそのメッセージを何度も見直した。
日本に戻り、元の大学に復帰する。分かっていた事ではあるが、同級生の中でも早い奴は、もう就職活動を始めている。自分も取り残されたら堪らないと、いやでも焦る。ケヴィンやイナンナの事を考えている余裕などない。電車に乗っている時、風呂で髪を洗っている時、ふと、自分を見つめていたイナンナの茶色の瞳を思い出して胸が締め付けられても、頭の中から振り払う。
彼女は、遠い彼方で暮らすケヴィンの恋人。想ってみても、しょうがない。
意識して、SNSにコメントを入れない様にしたが、そんな日向の気持ちを察しているのか、単に思い出してみるだけの存在でもないのか、二人からの連絡は、帰国以来1つも無い。SNSを開けば、イナンナがくれた『Good Luck!』の文字が最後になっている。なんだが寂しくて、開いてみる事も無くなった。
日向も就職活動を始めた。決して出遅れたと言う程ではないつもりだけれど、エントリーシートを送っても、面接に漕ぎ着ける事すら難しい。焦りが募り、自信も無くなって来る。同じ境遇の同期生同士で、愚痴を零して傷をなめ合うのが唯一の慰めだ。何とか受ける事ができた一次面接の結果は、通っていればメールで送られて来る。そろそろ連絡が来る時間だと、祈る様な気持ちでスマートフォンを開いた時だった。
メッセージが届いている。
英文だ。差出人はイナンナ。心臓が飛び出しそうになる。一次面接の結果より先に、メッセージを開く。短い英文が表示される。
〈フィンが居なくなった。もう2週間、消息が分からない。助けて、ヒュー。〉
要件だけを、ストレートに書いてある。スマートフォンの画面を見つめて、日向は3分間固まる。〈Help me,Hyu!〉の文字から視線が離せない。
迷う事なんかあるか。好きな女に助けてと言われて、動かない男なんていない。
日向は直ぐにロンドン行きの航空便の空き状況を調べた。




