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結局、日向の心配は直ぐに解消した。暫くすれば、いつもの下らない話に戻り、和やかな雰囲気の中で、学園都市まで戻って来た。レンタカーを返した後、イナンナが夕飯を食べるならばここと強く主張した地中海料理のレストランで食事をして3人は別れた。
休日明けの講義にケヴィンは現れなかった。ケヴィンの居る毎日に慣れてしまった日向は何だか心細さを感じるが、ケヴィンが居ない時こそ、交友を広げるチャンスだ。日向は講義の討議の中で意識して発言し、他の学生と議論する。ケヴィンやイナンナと会話する機会が増えたせいだろうか、心なしかネイティブの英語でも以前より聞き取れる。
『スコットランドや、アイルランドの人間には訛りがあるんだ。』
あんな事言っていたけど、ケヴィンやイナンナの英語は、どのくらい訛っているのだろう。訛っていてもいなくても、聞き取れない日向にはどっちでも同じだ。
そんな事を考えている内に講義は終わる。講義を録音したスマートフォンをポケットにしまい、教室を出る。
さて、どうしよう。いつもなら、ケヴィンとパブに行くところだが、思いがけなく時間ができた。図書館で講義に関わる事前の調べものをこなしておくか。
日向は、ケヴィンと親しくなる前、良く使っていた図書館に足を向ける。最初に見付けた空いている机に座り、講義の課題に関係する書物を書棚から見付け出して読み始める。
翻訳アプリは偉大だ。
スマートフォンのカメラでそのページを映せば、たちどころに翻訳してくれる。多少翻訳に難があっても、そのくらいなら自分の力で補正できる。何より、書いてある中身が分かると、それだけで達成感がある。
どのくらいそうしていただろう。近寄る人の気配に紙面から視線を上げる。
「ナン!」
隣に立って、日向の様子を覗き込んでいるのがイナンナだと気付いて、思わず大きな声が出る。即座に自分に向けられる視線を感じて周囲を見回せば、図書館中の学生の非難の視線が日向を捉えている。ヒラヒラが付いたターコイズブルーのワンピースがはち切れそうなくらいパンパンになっている、図書館司書と思しき太った婦人も、眼鏡の上から日向を見据えている。四方八方に情けない愛想笑いを振りまいて、その場を誤魔化す。
笑いを堪えるイナンナは、指で小さく図書館の出口を差す。
外へ出ようと言う事か。
見れば、イナンナは既に手提げ荷物を手にしている。数メートル離れたテーブルで、イナンナと日向の方に刺す様な視線を送っている、恐らくイナンナのクラスメートの女学生達の集団に向けて、イナンナは小さく手を振る。彼女等もそれに応えて手を振るが、相変わらず、視線を日向に突き刺してくる。
こりゃ、早いところ姿を消した方が無難だな。
そそくさと荷物を纏めると、イナンナと一緒に図書館を後にした。
「そろそろお昼だから、一緒にランチでもどう?」
図書館を出るなり、イナンナの方から話し出す。
「ああ、良いけど…。」
言うべきかどうか迷って、そこで言葉を切る。日向が続きを話すのを、イナンナは彼の顔を見つめて待っている。
「…今日は、ケヴィンが居ないんだ。」
「別に私は構わないけど、二人じゃ嫌?」
「そんな事ない!」つい大声になる。「勿論、二人が良い。」
イナンナがクスクスと笑う。
あれ?何か変な事を言っちゃったか?
「それじゃ、食堂へ行きましょ。」
あ、そうね。大学の食堂ね。何だろう、何だか、ちょっと拍子抜けした気分になる。
それぞれ自分の好きな料理を注文し、出された料理をトレーに載せて、空いているテーブルに向い合せに座る。高々大学の食堂だと言うのに、もうそれだけで落ち着かない。こんなにイナンナの存在を近くに感じるのは初めてだ。ストーンヘンジを見に行った車の中でも隣に居たけど、それとは状況が違う。イナンナが日向と二人でいる事を選択したのだ。
友達、友達。単なる友達だぞ。
自分に言い聞かせながら、他の学生達がこっちを見ていないか、周囲を盗み見る。男女二人で居る学生など別に珍しくもない。誰一人、日向達を見ていない。
イナンナは何も気にせず、もうパスタを口に運んでいる。
パスタかぁ、トマトベースの味付けじゃないから、服にソースが飛ぶのを気にしなくて良いのかも知れないが、きっと気になっている男性の前では選ばないメニューだろうな。それだけ日向の事は何とも思っていないって事だ。まあ、それは当たり前。でも、何だかちょっと凹む。
クルクルとフォークにパスタを巻き付けるイナンナの軽やかな指の動きに引き寄せられる。スラリと伸びた長い指だ。ずんぐりした日向の指とは比べるべくもない。つい、無遠慮にイナンナの手元を凝視し続ける。特に小指は特別な感じだ。薬指と同じくらい長くスラリとしている。
「土曜日は大変だったわね。フィンの気紛れに付き合うのに懲りたんじゃない?」
イナンナの言葉で彼女の手元から視線を上げると、真っ直ぐに日向を見つめる彼女の視線とぶつかる。彼女はいつでも相手の目を見て話す。イギリスじゃ普通の行為なんだろうが、日本人の日向は、こういう仕草に慣れていない。日本で迂闊に相手をじっと見ようものなら、男でも女でも、こいつ気があるんじゃないかと勝手に解釈をされるだろう。気持ち悪がられて距離を置かれるのが関の山だ。
これは、西洋の習慣。自分はイナンナにとって、ちょっと珍しいだけの東洋人だ。
胸に手をやり、自分に言い聞かせる。
「面白かったよ。ストーンヘンジにあんな目的があったなんて、勉強になったよ。」
イナンナは苦笑いを浮かべる。
「あれはフィンの勝手な思い込み。ストーンヘンジの本当の目的は、きっと違うわ。」
「そうなんだ?でも、帰りの車でも、フィンは熱弁を振るってた。」
「12についての話?」
「そう。寮に戻ってからも、あの話が頭にこびり付いちゃって、色々考えてしまって、暫く眠れなかった。」
「あら、どんな事、考えたの?」
イナンナの瞳に好奇心の光が灯る。
あ、そうだよね。イナンナが興味を持つのは、そう言う難しい話。いやいや、難しい話が好きなのじゃなくて、砕けた話は、もっとそれにふさわしい仲間とするって事か…。
何だか、少し肩の力が抜けて、気が楽になる。
「えーっと、12って言えば、東洋にも12にまつわる物事があるなって思い出したんだ。
『十二支』って呼ばれる、12種類の動物を割り当てたものがあるんだ。その中には空想上の動物、竜も含まれている。12種類の動物は順番が決まっていて、輪になって並んでいる。日本独自の物じゃなくて、起源は中国だと思う。中国から日本にも伝わって来たんだ。年毎に、その動物が割り当てられていたり、東西南北の方角を12分割して、十二支で表現したり、中世には、1日の時間を12分割して十二支で表現していた。遠く離れているから関係ない話だけど、そうやって考えてたら、フィンが言う様に、12って何かパワーの様な物があるのかも知れないって思ったよ。」
日向の話を、イナンナはじっと日向を見つめたまま聞いていた。興味があるのは、話の中身なのは分かっていても、そう目を輝かせて見つめられると、内心穏やかでは居られない。やけに暑い。
「面白い話ね。大陸から日本に伝わったのね。必ずしも関係ない話とは言い切れないんじゃない?物事が遠く離れた地まで伝搬して行った例は沢山あるから。例えば宗教とか。」
「そうだね…、あれ?じゃあ、この国の12に関する話も、十二支の話も、大元が同じだとしたら、起源は大陸の中央辺りにあるって事か。」
イナンナが気持ち悪いくらいにニンマリと笑う。
あれ?また何か、変な事を言ってしまったか?
「ね、昨日帰りの車の中でフィンが、12にまつわる事をいくつも取り上げたでしょ。あの時、上がらなかった話がまだあるの。聞いてくれる?」
イナンナの茶色の瞳が悪戯っぽく煌めいている。
「ああ、勿論。」
また12にまつわる話?正直、もうお腹いっぱいだけど、そんなに嬉しそうな顔で迫られたら、聴かない選択肢は有り得ない。
「英語の数の名前は、12まで固有の名前が付いている。数字の呼び方の法則に従うなら、11と12も-teenが付く筈なのに、そうじゃない。」
「うん。」
「これ、12進法の名残だって言われてる。英語以外にも、ドイツ語やオランダ語、スウェーデン語にも11と12に特別な名前が付けられてる。これらは、ゲルマン語派と呼ばれる言語なの。一方で、フランス語やイタリア語はそうじゃない。フランス語の数字の数え方はもっとヘンテコな所があるけどね。こっちはラテン語の影響を受けている。」
イナンナはここで話を切った。何か感想を言って欲しいのに違いない。
「日本の大学では第2外国語を学ぶ制度があって、ドイツ語を選択しているから、11と12の呼び方が特別なのは知っていたよ。でも、英語とドイツ語って言う2つの言語は、そもそも似ているじゃない?例えば8は英語でeight、ドイツ語でacht。初めて英語を習った時に、『ghって何?何でこんな無駄な物が挟まってるんだ?』って思ったけど、ドイツ語を習って、なんか分かった気がしたよ。アングロ族やサクソン族は、きっとchの発音が上手くできなかったんだ。…あ、話が逸れちゃったけど、何が言いたかったかって言うと、えーっと…、そう、同じ流れを汲む言語にだけ11と12の特別な名詞が残っているって事は、各言語に分岐する前、ゲルマン人がまだ1つの塊だった頃に話されていた言語が12進法の影響を受けていたって事じゃないかな。」
「そうね。それをゲルマン祖語って言うの。きっとゲルマン人がユーラシア大陸の北部に固まって住んでいた頃、12進法を使っていたのかも知れない。実はもう1つ面白い事実があるの。12までの特別な名前を持つ言語が他にもあるのよ。それが、ナイジェリアの地方で使われている3つの言語と、ネパールの地方で使われる1つの言語。ヒューは、この事実をどう考える?」
イナンナの瞳が輝きを増している。何か特別な答えを日向がしてくれるんじゃないかと期待している感じだ。そんな、急に突拍子もない事を言われて、気の利いた反応ができる程、優秀じゃない。
「え?何?どこで使われているって?」
「ナイジェリアとネパールの地方の言語。」
「ナイジェリアって、アフリカの国だよね。アフリカ大陸の真ん中くらいにある。ネパールはヒマラヤ山脈だ。まるで違う方向じゃないか。」
「そう。1つはユーラシア大陸北部、1つはアフリカ中部、あと1つはヒマラヤの山の中。」
「そんなの繋がっているとは、とても思えないよ。偶然にそれぞれの地で発生したんじゃないのかな。」
イナンナの瞳の輝きが鈍る。
あれ?失敗したかな?
「そうね。偶然、夫々の地で12までの数を表す名詞が生まれた可能性はある。でも、なんで12までなの?世界中の言語で、数字の固有名詞が、11までだったり、13までだったりしているなら、偶然12まで固有名詞のある言語が複数あっても不思議じゃない。でも、そうじゃない。他の言語は全て10までなのに、12まで固有名詞がある言語だけが複数見付かるなら、何か理由がある筈じゃない?」
「例えば、12まで固有の名詞が必要になる共通の事情みたいな?」
「そうそう。」
「ふーん。」
イナンナの瞳の輝きが戻って来る。一体何を期待しているんだ?
「思い付かないな。」
「じゃ、なぜ12なのかは置いておいて、どうして、離れた3か所に共通の特徴を持つ言語が残っているんだと思う?」
「え~…」
日向は首を傾げて考え込む。ここで適当な答えをすれば、きっとイナンナを落胆させてしまう。
日向はそれぞれの場所を頭の中で想像してみる。1つはユーラシア大陸北部。ヨーロッパとアジアの境くらいだろうか。冬は寒いだろう。きっと、雪の大平原が広がっているに違いない。もう1つは、正反対の熱帯ナイジェリア。ジャングルが覆う赤茶けた大地。そして最後にヒマラヤの麓。急斜面にへばりつく様に小さな家々があるのだろう。
「12に関わる何かがあったとしても、古代の事だよね。」いつまでも黙っている訳にもいかず、日向は考えているままを口にする。「ネパールやナイジェリアは、今でも栄えているって訳じゃないけど、北ユーラシアだって、その時代は辺境だったんじゃないかな。」
「そうでしょうね。文明の発祥はメソポタミア。」
「まるでバラバラだ…。共通点なんか無い。」今度は、頭の中に世界地図を描いてみて、それぞれの場所に印を付けてみる。「距離も遠く離れてる。」
その時、日向の頭の中で、何かが煌めく。
「あれ?」
思わず日本語が口に出る。
「何?何か思い付いた?」
イナンナが意気込んで身を乗り出す。
「いや、大した思い付きじゃないんだ。何て言うか、こんな風に、離れた何の関係も無い場所に共通点が存在する事を示した地図を、以前に見た事を思い出したんだ…。数字や言語とは全く関係ないんだけどね。」
「何々、言ってみて。」
「うん…。ナンは、遺伝子の特徴であるハプロタイプって知っているかい?その特徴を分類して、近いもの同士をハプログループって呼ぶグループに分類している。男性の性染色体Yは、父親から息子へと引き継がれていく。世界中の人のY染色体を調べて、ハプログループとして分類されている。それで、そのハプログループの1つに、ハプログループDと言うのがある。このグループに属する遺伝子を持っている男性は、日本以外に、チベット高原、インド洋に浮かぶ島、アンダマン諸島だけに居るって言うんだ。それらの間、例えば、中国にハプログループDに属する人が全くいない訳じゃないみたいだけど、とても少ないらしい。3つの地域は遠く離れてる。間にある地域を通り越して、直接人の行き来があったとは思えない。ね?状況が似ていると思わないか?…僕の英語通じているかな?」
「ええ、分かる。それで、ヒューはそれをどう考えるの?」
何故か、イナンナが急かしてくる。
「僕が自分で考えた訳じゃない。読んだ資料に書かれていたんだ。人間はアフリカに生まれ、全世界に広がった。広がる過程で、ハプログループDを持つ集団が、南から北、つまり、インド洋から海沿いに東南アジアを通って、日本を含む東アジアへ、インドから内陸を北上してチベットへと広がって行った。つまり、一度は、東アジア全体にハプログループDの人間達が一様に分布していた。その後、他のハプログループに属する人間が東アジアにやって来て置き換わったって話だ。これは、僕の推測だけど、きっと人の動きが多い地域は、生存競争が激しくて、ハプログループDの人達はその競争に負けてしまったんだ。こうして、大陸の一番東の端の島国、標高のとても高い高原、海で大陸から遠く離れた島々でだけ遺伝子が受け継がれた…。もしかしたら、これと同じじゃないかな。12進法の考え方は、ユーラシアとアフリカ大陸で広く共有された考え方だった。その時は、どの言語でも、12までの数字に固有名詞が付けられていた。だけど、その後、別の考え方、つまり10進法の考え方が広まり定着した。10進法の方が、直感的に理解し易いからね。そうして、知識がどんどん進歩する文明の中心では、12進法も11や12固有の名前も忘れられてしまったんじゃないかな。結果、一旦は12進法を共有していた文化圏の周縁部にだけその考え方が残った。…証明する方法が無いのを良い事に、大胆過ぎる仮説かな。…これでも一生懸命考えたんだよ。」
イナンナは何も言わずに日向の顔を見つめている。
あれ?また、なんか変な事言っちゃったかな?下手くそ英語だからな。
「ナン、僕の言った事、上手く伝わった?」
「…ヒュー、貴方の瞳って、真っ黒で素敵ね。」
え?何、何を言っている?
「見込んだ通りだった。面白い意見をありがとう。」
「ああ、どういたしまして。」日向はドギマギしながら答える。「でも、どうしてそんなにフィンもナンも12に拘るんだい?」
「そんな風にみえる。」
いや、見えない訳ないだろ。
日向は大きく2度頷く。
「私は、それが運命だから。」
イナンナは、薄っすらと笑みを浮かべた。




