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講義を終えた教授が、スタスタと階段教室の教壇を降りて教室を出て行く。中間よりも前の席に座り、講義を聴いていた神原日向は大きく溜息を漏らす。
駄目だ。だいぶ英語に慣れてきたつもりでも、専門的な話になると、分からない単語だらけで話に付いて行けない。復習用に机の上に置いて講義を録音していたスマートフォンの録音をオフにする。何とか授業について行こうとそこまでしているけど、何度聴き直したところで結局聞き取れない予感しかしない。と言って、挑戦する前から諦めてしまう事は無い。軽く溜息をつきながら、後でもう一度聴き直してみるつもりにだけはなっておく。
「ヒュー、この後、予定あるかい?」
落ち込んでいる日向の隣に座っていたケヴィン・オブライエンから声が掛かる。彼はいつも英語に不慣れな日向の事を考えて、スラングを使わず、単語も省略せずに丁寧に話してくれる。それでもネイティブの発音は、半分くらいしか聞き取れない。分からなかった半分は、話の流れから推測して応対するスキルだけは身に付いた。時々、頓珍漢な事を答えてしまうが、それはそれ。笑い飛ばしてしまえば良い。そんなクソ度胸で受け流してしまうのは、良い事なのか、悪い事なのか。
「いや、もう無い。」
「なら、パブに行こう。」
「OK。」
二人は連れ立って、教室を後にする。
ケヴィン・オブライエンは、赤毛が丁度良い具合にウエイブを描く天然パーマの髪と、青い瞳を持った、ソバカスの目立つ、如何にもイギリス人の青年だ。日向の身長は170センチだが、それより1つ頭が飛び出ているから、きっと180センチはあるだろう。筋肉質ではないが、きっと鍛えればムキムキになりそうな、逆に怠惰に流れれば、将来太鼓腹の中年になりそうな、頑丈な胸板と上腕を持っている。
一方の神原日向だが、日本人にしては鼻が高い事が自慢だった。ちょっと日本人離れした顔立ちだと鏡を見る度に思う。身長もそこそこあるのだから、西洋人の中に入っても、きっと大して違和感ないだろうと高を括っていたが、イギリスに来てみれば、西洋人とは顔の作りも体格も全く別物だ。語学力だけじゃなく、色んな意味でプライドをへし折られ、すっかり慎み深い男になってしまった。
短期留学の間にケヴィンと友人になれたのは、きっとラッキーなのだ。日向が受講している3つの講義には、中国人とインド人の留学生なら沢山いる。韓国人も2、3人。だが、どういう巡り合わせか、日本人は日向一人だけだ。同郷の者同士は母国語で話が通じるし、そうした者達で群れを作れば、居心地が良いに決まっている。中国人は中国人、インド人はインド人で塊になり、彼等の中に日向が入り込む余地など無い。もし近寄ろうものなら、『何だ、お前』という視線を一斉に浴びせられるのに決まっている。自身をコミュニケーション下手だとは思っていない日向ですら、彼等のコミュニティに近付こうと言う気持ちは湧かない。寧ろ、地元イギリス人の方が、日向に対して寛容だ。彼等は、留学生同士で固まっているのを快く思っていないし、東洋人の日向が話し掛けても、あからさまに嫌な顔をする者はいない。ただ、この場合は会話が問題だ。ネイティブの英語は想像を絶する速さできちんと発音しないから、まるで聞き取れない。その上、学生同士の会話に遠慮はない。スラングやいろんな文化的背景を心得ているのが前提の会話だ。そうしたものを身に付けていない日向には、聞き取れたとしても理解できない。留学したての頃、何度かイギリス人の学生に話し掛けたが、自分の英語力の未熟さを痛感して撤退した。そんな自信喪失状態の日向に、ケヴィンは、彼の方から声を掛けてくれた。
きっかけは、経済学の授業のディスカッションだった。課題として出された論文を読み込んできて、その内容についての意見を発表し合い、討議すると言う形式の授業だ。数人のグループで話し合うのだが、そのグループの中にケヴィンが居た。授業の間、日向は特別ケヴィンを気にしていなかった。他の学生と同じ様に、意見を出し合っていた一人に過ぎなかった。ところが授業の後、ケヴィンが日向に近付いて来る。
「君、日本人なんだね。」
そう言うケヴィンは笑顔だ。別に揶揄おうと言うつもりじゃなさそうだ。
「うん。」
何か気の利いた言葉を返せたら良いのだろうが、日向の英語力では、ストレートに返す事しかできない。
「僕には、東洋人はみんな同じに見える。今日、討議で一緒に話すまで、君も中国人留学生の一人だと思っていたよ。他に日本人は居るのかい?いつもどうしている?」
中国人、韓国人、日本人を区別するのは西洋人には無理だろう。容貌の違いと言うよりも文化の違いに近いから、それを肌感覚で感じられないと区別できない。
「日本人は僕だけだ。だから、一人でいるよ。」
「僕はケヴィン。ケヴィン・オブライエンだ。」
一緒に教室を出ながら、ケヴィンは右手を日向の前に差し出す。急な事で一瞬戸惑ったが、相手がそれに気付く前に、日向は彼の手を勢いよく握る。
「日向だ。ヒュウガ・カンバラ。」
「ヒュウガ?ニックネームを考えなきゃ。」ケヴィンは面白そうに日向の姿を上から下まで根目回す。「ヒュー。どうだい?ヒューって言うのは、なかなか良くないか?ヒューって呼んで良いか?断然お勧めだ。」
「ああ、良いよ、そう呼んでくれ。ケヴィンは、どう呼んだら良い?」
「あ、あ~、それ、普通は訊かなくてもケブだ。僕以外にケヴィンって奴に会ったら、そんな質問せずに、ケブって呼んでやってくれ。…だけど、僕はフィンだ。」
「フィン?」
「そう。フィン。」
訊いて良いものだろうか。ケヴィンがどうしてフィンになるのだろう。日向が思案顔をしているのを見て、ケヴィンが説明を始める。
「セカンダリ・スクールの時から、みんなにそう呼んでもらってる。その理由を知った奴の半分は呆れ、半分はどうでも良いって反応をする。君はどうかな。…フィンは物語の中の英雄さ。勿論、僕は英雄なんかじゃない。英雄になれもしない。そんなの分かってる。ただ、常に意識して居たいんだ。自分がアイルランド人だって。」
「そうなんだ…。」
フィンが物語の英雄だと、どうしてアイルランドと結びつくのか、その時の日向には分からなかった。後日、フィンという架空の人物が、フィアナ物語というアイルランドに古くからある物語の主人公であるとケヴィンが教えてくれた。
会話の相手が西洋人の学生の場合、その時は仲良く話せた様に思えても、その場限りで終わる事が多い。相手もそれなりの年齢の人間だ。そつなく社会的コミュニケーションを取る術を身に付けている。当たり障りの無い会話でその場をやり過ごして、それでお終いだ。それを日向も理解しているから、次の日から馴れ馴れしく話し掛ける様なヘマはしない。だが、ケヴィンは違った。次の日も、教室で日向の姿を見付けるなり、軽く手を挙げて挨拶をし、日向に近寄って来る。日向は少し戸惑いながらも挨拶を返す。同時に、なんだが凄く嬉しい気持ちが体の中から湧き上がってくる。
「ヒュー、パブに行こう。」
その日、授業が終わってから連れて行かれたのは、アイリッシュパブだった。イングランドの学園都市の片隅に、そのパブはある。イギリスの文化・パブには、ブリティッシュパブ、スコティッシュパブ、アイリッシュパブとあるそうだが、違いは知らない。ケヴィンが「ここがアイリッシュパブさ。」って言うのを、そのまま鵜呑みにしただけだ。ケヴィンは必ずエールビールを飲む。日向もそれに倣う。矢鱈と口の中を刺激する日本のビールと違い、柔らかな舌触りで日向も好きになった。パイントグラスで出て来る常温のビールを、ケヴィンはいくらでも飽きずに飲む。
その日以来、パブに行っていろんな話をする様になった。ケヴィンは北アイルランドの出身で、自分自身をイギリス人と言うよりも、アイルランド人と認識している事もその中で知った。彼のお婆さんが、古いアイルランドの言葉、エール語の話者だと言う事も教えてくれた。フィアナ物語がアイルランドの古い物語だと教えてもらったのも、そのパブだった。きっと彼は、自分の出自に誇りを持っているのだ。その誇りを大切にしようと言う気持ちがいろんな形で表れているのだろう。東北出身の日向が日本に居た時、何でも東京中心に物事が進められるのに反発を覚えたのと同じ様な感覚じゃないだろうか。日向はそんな風にケヴィンの気持ちを分かった気になって、彼との距離が近くなったと感じた。




