序章
コスモスの咲く庭に、4歳のイナンナが佇んでいる。イナンナは、両手で握ったコスモスの花束を見下ろす。少し冷たい風が時折吹き抜ける。おかっぱに切り揃えた細い栗色の髪の毛が風になびく。彼女の表情は沈んでいる。今だけじゃない。このところずっと、彼女は時々ふと寂しそうな表情をして俯く。花束を握った両手に力をこめたり、緩めたりして、その両手の様子をじっと見ている。
「どうしたい。まだ、痛むのかい?」
彼女の後ろに近付きながら、老人が声を掛ける。シェブル爺さん、イナンナの祖父だ。顔は沁みだらけ、皺だらけだけど、白髪は頭の上でクリクリと渦を巻く程豊かに残り、まだ足腰もしっかりしている。
その声にイナンナは振り返る。けれど、直ぐに元の様に俯いて自分の両手を見つめる。
ゆっくり彼女に近付いた祖父は、イナンナの傍らに腰を下ろして、視線の高さを合わせる。彼女が両手で握る花束を見ているのに気付くと、彼は再び口を開いた。
「痛いのは最初のうちだけだ。その内、何でもなくなる。」
彼女は、痛い訳じゃないという意味を込めて、黙って首を横に振る。振り回された髪の毛が、数本ずつ、イナンナの唇やまつ毛に引っかかっている。
「学校に行く様になったら、友達を作りたいだろ?」イナンナの反応など気にせずに、シェブル爺さんは勝手に話し続ける。「何も気にする事は無い。イナンナが普通に振舞っていれば、自然と友達ができる。」
シェブル爺さんは、イナンナの顔を見て笑顔を作る。イナンナは、まだ自分の手元を見つめて黙っている。
「仕方の無い事なんだよ。」イナンナの気持ちが晴れないと察すると、祖父は言葉を足す。「儂等が生きていくのは、困難が付いて回る運命なんだ。…それでも、これでイナンナは、自分の姿を気にせずに居られる。随分楽になる筈だ。」
イナンナはそれでも何も言わない。重く沈んだ表情のまま押し黙る。
これは、何を言ってもしょうがない、今は放っておくのが一番と察した祖父は、もう一度笑顔で孫娘を見つめる。それから彼女の背中を優しくポンポンと叩くと、そっと孫娘の側を離れる。
彼女は、祖父の言葉を聞きながら、自分が気にしているのはそこじゃないと思っていた。友達とか、他の人の視線とか、そんな事どうでも良い。何故、綺麗に過不足無く備わっていた自分の体が、理不尽に傷付けられなければならなかったのか。それが今でも納得できない。他の人と違っている事の何がいけないのか。ずっと誰かにぶつけたい不満が、彼女の頭の中でぐるぐると渦を巻いている。
イナンナを置いて家の中に戻りかけた祖父が、ふと思いついて立ち止まる。
「そうだ、イナンナに言うべき事がもう1つあった。…これで笑顔にしてやろう。」
シェブル爺さんは、ニヤリと笑うと、孫娘の元へと勇んで戻った。




