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第一章 小次郎③

 五月の連休明け。小次郎は有給を取り、水道橋の労働局へ向かった。

 総合労働相談コーナーには、平日の午前中にもかかわらず十人以上の待機者がいた。受付で整理券を受け取り、ベンチに腰を下ろす。向かいに座る中年女性は、ずっと下を向いたままハンカチを握りしめていた。

 番号を呼ばれたのは、一時間後だった。

 相談員は四十代の男性。小次郎はA4にまとめた時系列のメモと、派遣元から届いた形骸化された報告書のコピーを差し出した。相談員はそれを二分ほど読み、顔を上げる。

「派遣労働者の方の、派遣先でのハラスメントに関するご相談ですね」

「はい」

「本件につきましては、派遣労働者の就労に関わる案件ですので、需給調整事業部の所管になります。同じ労働局内なのですが、建物が違いまして」

 相談員は、別庁舎への案内図が印刷されたチラシを小次郎に差し出した。

「田町ですか」

「はい。こちらにお越しいただけますか」

 小次郎はチラシを受け取る。

「ハラスメントの通報自体は、こちらでは受け付けていただけないのでしょうか」

「受理はいたします。ただ、派遣労働者の案件は需給調整事業部がより詳しく扱える部署になりますので、そちらでお話しいただいてから、必要であればこちらに戻っていただく形になります」

「分かりました」

「それと、あらかじめお伝えしておきますが、通報を受理した後、調査を実施するかどうか、また実施した場合の進捗につきましては、原則として通報者の方にはお知らせしておりません」

「調査するかどうかも、したかどうかも、知らされない」

「はい」

「開示請求はできるんでしょうか?」

「可能です。しかし、何をどこまで開示するかは案件によります。調査対象となった事業主の希望如何によっては、全て黒塗りになる場合もございます」

 小次郎は相談員の顔を見た。顔色に変化はない。ただ機械的にルールを説明しているだけだ。

「……わかりました。ありがとうございました」

 小次郎は短く礼を言い、相談コーナーを出た。


 電車を乗り継ぎ、JR田町駅から徒歩十分ほどの場所。その合同庁舎の七階に、需給調整事業部の窓口はあった。

 受付で名乗り、要件を伝えてしばらく待つ。出てきたのは三十代後半と思われる女性の担当者だった。名札には「若林」とある。

 小次郎はテーブルに書類を並べた。時系列のメモ、派遣元とのやり取りの記録、一般論だけの報告書コピー。全て日付順に、論点別に整理されている。

 若林は書類を一つずつ丁寧に確認し、やがて顔を上げて申し訳なさそうに言った。

「お話、よく分かりました。ただ、ハラスメントに関するご相談と指導は、こちらの所管ではなく、雇用環境均等部になります」

 若林は別のチラシを出し、テーブルの上に置いた。

 小次郎は、数秒動けなかった。

「たらい回し、ですか」

 低い声が出た。若林を射抜くように見据える。

 労働局の職員が、面倒な案件を押し付け合っているようにしか見えなかった。労働者を守るはずの省庁が、巨大な敵として立ち塞がっている。

「申し訳ありません」

 若林は頭を下げた。

 小次郎は無言のまま、机の上の書類をまとめ始めた。一枚ずつクリアファイルに戻していく。この日のために、行政が即座に介入できるよう要点を絞り、何度も作り直した資料だ。その労力が、管轄違いという一枚のチラシで弾き返される。

 書類を戻しながら、苛立ちが漏れた。

「均等部に行けば、今度は『派遣労働者のことでしたら需給調整事業部へ』と、また言われるんじゃないですか?」

 若林は一瞬、言葉に詰まった。小次郎は、その沈黙を肯定と受け取る。

「で、ここに戻ってくると、均等部に行けと言われるわけか。政治家の答弁みたいだ。何のための制度かわかんねーな」

 独り言のつもりだった。しかし、若林が顔を歪め、「申し訳ありません」と深く頭を下げた。

 小次郎は苦笑して息を吐く。額を押さえたまま、長く、長く。

 若林は沈黙したまま、何も答えない。

 しばらくして、小次郎は若林に向き直り、深く頭を下げた。

「すみません。八つ当たりでした。ご相談いただき、ありがとうございます」

「いえ。お力になれず、申し訳ございません」

 沈黙が落ちた。

 若林は、その沈黙の中で小次郎の顔をもう一度見た。少し間を置いて、口を開く。

「少し立ち入ったことをお伺いしますが……最近、よく眠れていますか」

「大丈夫です」

 小次郎は目を合わせず、ファイルにまとめた書類の束を鞄に突っ込んで立ち上がった。

「一度、派遣元に休業を申し出ることも選択肢の一つです。ハラスメント被害を理由とした休業は、派遣元の安全配慮義務の観点からも対応すべき事項ですから」

「休んだら、会社が休業手当を払うと思いますか? そもそも、ハラスメント被害での休業がすんなり認められるとも思えない」

 若林は答えに窮した。

 休業手当は法律で最低六割の給付が義務付けられている。しかし、ハラスメントへの対応を形式的に済ませ、一般論だけの報告書を出してくるような会社に、法を遵守する意思などない。若林が会社の不作為を想定しきれていないのは、彼女自身が「常識と善意」の範疇で判断しているからだ。

 それだけならまだいい。だが、制度そのものが機能していないのは致命的だった。

 需給調整事業部はハラスメントを所管外だと言い、均等部に行けばまた戻される可能性が高い。頼ろうとした全ての機関が使い物にならない。

 小次郎のように物証を揃えてくる人間は稀だ。多くの被害者は縋る思いでここへ来る。そんな状態で「担当が違う」とたらい回しにされれば、待っているのは泣き寝入りしかない。

 責任の所在を曖昧にして逃げる、なんとも日本らしいシステムだ。

「休業手当についてですが」

 若林が、独り言のように呟いた。

「もし受給するのであれば、まず、労使協定を確認されたほうがいいですよ」

 聞き慣れない言葉に、小次郎は若林を見た。

「……労使協定?」

 若林の目は、行政の窓口担当者のものではなくなっていた。一人の人間が、目の前の窮地にある人間に、武器を手渡そうとする目だった。

「資料をお持ちしますので、少々お待ちください」


 若林は机の上に資料を広げた。厚生労働省告示の抜粋だ。

「派遣労働者の賃金は、二〇二〇年の労働者派遣法改正で『同一労働同一賃金』の原則が適用されることになりました。派遣先の社員と同等の待遇を実現する方式と、もう一つ、『労使協定方式』と呼ばれる方式があります。多くの派遣元は、後者を採用しています」

 若林は指で資料の表を示した。

「労使協定方式では、派遣元と派遣労働者の代表者が協定を結び、厚労省告示で定められた『一般賃金水準』を下回らない賃金を払うと取り決めます。この一般賃金水準は、職種、地域、能力・経験年数、これら三つの掛け算で決まります」

 若林は別の表を出した。職種区分のリスト。

 小次郎は、票の項目に目を通しながら、若林の説明を聞いた。

「例えば設備設計であれば、この区分が該当します。区分ごとに基本の単価が決まっており、これに地域指数の係数を掛け、さらに経験年数に応じた係数を掛ける。算出された金額が、労働者に支払う報酬の最低額となります。派遣契約の度に、労働者にこれを説明するのが法的義務です」

「……は?」

 小次郎は顔をあげ、言葉を失った。

 若林が言う『労使協定』の説明を受けた記憶がない。

 経験年数によって係数が変わるのであれば、派遣社員は例外なく毎年昇給しなければならない。0年相当では1だが、3年相当なら1.2を超える。年収400万の人間なら、480万になっていなければ違法ということになる。

 小次郎は頭の中で、自身の職種区分、経験年数、地域係数を掛け合わせた。弾き出された時給帯。

「……どう考えても届いてない。いや、そんな馬鹿な」

「ご自身の就業条件明示書と、会社の労使協定を確認してください。就業条件明示書には職種と経験年数、職務内容の記載があるはずです。労使協定は毎年更新されるもので、都度、従業員全員への開示が必要です。多くの場合、会社のHPなどに掲載されています」

「違法性が確認できた場合は?」

「就業条件明示書と労使協定をお持ちください。違法性があると判断できた場合、正式な通報として受理いたします。メールでの提出も可能です」

「わかりました」

「なお、こちらで通報を受理した場合でも、調査の実施可否と進捗については個別にお知らせしておりません。労働局全体の運用方針です。ご了承ください」

 小次郎は深く礼をして、窓口を離れた。


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