第一章 小次郎②
一週間後、派遣元の広瀬から電話が来た。
広瀬は、小次郎の担当営業である滝川の上長で、スペシャルスタッフィングの東京支社で苦情処理担当者を兼ねている四十二歳の男だった。小次郎は広瀬と面識があった。三年前のオリエンテーションで挨拶を交わし、契約更新のたびに顔を合わせていた。実直そうな、口数の少ない男だった。娘がこの春に小学校に上がったと、前回の面談で少し嬉しそうに話していた。
「先週ご指摘いただいた件、派遣先と協議しまして、該当の主任には注意を行ったと報告を受けております」
広瀬は電話口で、丁寧な口調で話した。
「注意、というのは?」
小次郎の語気が荒くなる。まさか、と思った。
まさか、口頭注意で終わらせてないよな。
予感は的中した。
「口頭で、人権に配慮した言動をお願いしたいと、派遣先の社長から伝えた、と」
「他には」
「他には?」
広瀬の声が上擦った。
「始末書の有無や、社内掲示板への掲載など、今回の処分を記録に残してあるのかと聞いてます」
「いえ、社長が注意したのみだと」
「再発防止策は?」
「部署内での研修を検討すると聞いております」
乾いた笑いが出た。隠蔽の二文字が頭をよぎる。
「それで御社は納得したんですか? 自社のスタッフが配属された現場で、ハラスメントが常態化してたんですよ? いつスタッフが巻き込まれるかもわからない。そんな環境、組織として抗議するのが当たり前ではないですか」
小次郎は、ハラスメントの常態化を根拠に、自身も被害者だと訴えた。いつハラスメントを受けてもおかしくない危険な環境に就業させられている。これは、環境型ハラスメントだと主張した。
広瀬は、小次郎の話をしばらく聞いていた。
「対応については社で検討します」
小次郎は、携帯を握ったまま、大きくため息をついた。視線を机の上のノートに落とす。ノートには、四月最初の月曜日からの出来事が、日付順に書かれていた。小次郎は、今日の日付の下に、一行書き加えた。「口頭注意のみ。書面なし。研修は検討段階」。
「広瀬さん。二つやってもらいたいことがあります」
「はい」
「派遣元と派遣先の対応内容を書面にまとめて、私宛に送付してください」
「書面、ですか」
「はい。議事録のスキャンでも構いません。私が経緯報告書にまとめた通り、今回のハラスメントは常態化しています。派遣先の処分に口出しが難しいのであれば、せめて、再発防止策はしっかりと請求してください」
広瀬は、三秒ほど黙ってから、わかりましたと答えた。
「それともう一つ」
「はい」
「今後、本件に関する連絡は、全てメールでお願いします」
広瀬は、少し黙った。
「よろしいですね」
念押しするように言う。
広瀬は、また少し黙ってから、「わかりました」と答えた。
電話を切ってから、小次郎は机に戻った。派遣先の現場で、小次郎は長年、この方法で仕事をしてきた。設計の仕様変更は、必ず書面かメールで受ける。口頭の指示は、後から「そんな指示はしていない」と言われる。何度も経験したことだった。だから、現場での口頭の指示は、必ず自分からメールに起こして、相手に送り返して、確認を取る。営業と現場の言った言わないを、証拠で封じる。これが小次郎の仕事のやり方だった。
今日から、派遣元とのやり取りも、同じ方法で扱うことにした。
二週間後、小次郎のパソコンにメールが届いた。差出人はスペシャルスタッフィング東京支社だった。
開封すると、Word文書が添付されていた。
文面は、一般論だった。
『当社は派遣労働者の皆様が働きやすい環境の整備に努めております。今後ともハラスメント防止に関する啓発活動を継続してまいります。引き続きどうぞよろしくお願いいたします』
小次郎は、その文書を十分ほど眺めた。責任者の名前はおろか、書面の作成日すら、記載がなかった。どれだけ眺めても、これが再発防止につながるとは思えなかった。こんな拙い内容で、作成日すら記載されていない書面で、なぜやりましたと言えるのか、理解できなかった。
驚きはなかった。
心のどこかで、こうなる予感はしていたのだ。




