第一章 小次郎①
四月の最初の月曜日、現場の休憩室で声を聞いた。
小次郎が朝礼前にコーヒーを取ろうと休憩室に入ったとき、テーブルの奥で、男が三人、話しているところだった。真ん中にいたのは派遣先の主任で、両脇は同じ派遣先の作業員だった。主任の向かいに、林明が座っていた。
「林さん、もう日本は長いんだっけ」
主任は、穏やかな声で、そう言った。
「十歳から、ですので」
「へえ、じゃあもう慣れたよね」
「はい」
「ご飯とか、もう日本のでいいの。国のご飯、恋しくならない?」
主任は、笑顔で聞いていた。周囲の作業員も、穏やかに笑っていた。
林は、少し、間を置いてから、答えた。
「日本の、大丈夫です」
「そう? いや、俺は気になってさ、やっぱりたまには帰りたいんじゃないかなって」
「いえ、大丈夫です」
「無理しなくていいよ、そういうの。故郷の言葉とか、出ちゃうときあるでしょ」
「ないです」
「ああ、そうだ、今度の中国の祝日って、いつなんだっけ。春節の後に、もう一つあったよね」
林は、答えなかった。
小次郎は、コーヒーサーバーの前に立ったまま、背中越しに、その場の空気を感じていた。
主任は、少し、間を置いた。
そして、笑顔のまま、言った。
「なんだ、都合が悪くなったら、日本語わからないふりか?」
周囲の作業員が、笑った。
主任も、笑った。
林は、顔を上げなかった。
小次郎は、コーヒーを注ぐ手を、動かさずにいた。
林は、それから数分、テーブルに座っていた。それから、立ち上がって、休憩室を出た。出るとき、小次郎とすれ違ったが、林は顔を上げなかった。
小次郎は、コーヒーを注いで、主任たちのテーブルとは反対側の椅子に座った。
十歳で中国の瀋陽から来て、東京の中学と高校と専門を出たと、いつだったか昼休みに林が話してくれたことがあった。日本語に訛りはなく、敬語も自然で、漢字は小次郎よりよほど正確に書いた。設備設計の図面を起こすときの寸法の取り方には癖があって、そこが林だと小次郎にはすぐ分かった。
その林に対して、主任は、今の会話をしていた。笑いながら、冗談の形で。
小次郎は、コーヒーを一口飲んでから、その日の会話を、頭の中で順に整理した。整理してから、自分のメモ帳に、日付と時刻と、発言内容を、箇条書きで書き留めた。
昼休みに、小次郎はトイレで手を洗っていた。背後で、同じ主任の声が聞こえた。別の作業員と、雑談している声だった。
「あいつ、何人なんだっけ」
「中国。でも帰化はしてないって」
「じゃあ本物か」
「本物だろ」
笑い声が続いた。
小次郎は水を止めて、手を拭いた。振り返らずにトイレを出た。
トイレを出てから、自分のメモ帳に、昼の会話も、日付と時刻と一緒に書き留めた。
その日の夕方、小次郎は担当営業の滝川に電話をかけた。定時の十五分後で、滝川は事務所にいた。
「派遣先の主任が、林さんに対して、人種に関する不適切な発言を繰り返しています。対応をお願いします」
「不適切、っていうのは、具体的に」
「朝の休憩室で、日本に慣れたかとか、国のご飯が恋しくないかとか、繰り返し聞いていました。林さんが答えなかったら、『都合が悪くなったら日本語わからないふりか』と笑いながら言いました。昼にはトイレで、別の作業員と、帰化してない本物の中国人だ、と話しながら笑っていました」
滝川は、一瞬黙った。
「そりゃ、まあ、あんまり良くないですね」
「良くないではなく、人種差別。レイシャルハラスメントです」
「断定するほどですか?」
電話の向こうで、滝川が息を吐いた。
「とりあえず、広瀬さんに報告しておきます」
「報告ではなく、通報です。仔細は追ってメールしますので、組織として毅然と対応してください」
「はい、はい、わかりました」
滝川は電話を切った。小次郎は通話の終わった携帯画面を睨み、ポケットにしまった。
その夜、小次郎は派遣先の本社のコンプライアンス窓口にもメールを出した。件名に「ハラスメントに関する通報」と書き、日時、場所、発言内容、発言者、目撃者としての自分の立場を、順序立てて記述した。最後に、再発防止策の策定と、その報告書の提示を求めると記した。
主任の幼稚さには驚かされた。何をしてもハラスメントと言われる今のご時世、人種差別は誤魔化す余地がない。あれが罷り通っているのであれば、他のハラスメントも常態化している。小次郎も、これが普通のパワハラだったら、通報していない。
送信ボタンを押したのは、夜の十時を過ぎた頃だった。




