第一章 小次郎④
エレベーターを降りて一階、掲示板とベンチだけの空間に、へたり込む。ぐらついた頭を、重力に任せた。
重い。腰も。背中も。肩も。頭も。足と視界は、ボヤけていた。ガラスから差し込む西日に焼かれるまで。ずっと、そうしていた。
体調は戻らなかった。眠ることができなかった。どうせならと思い、やるべきことを済ませておく。先の先を考えた、証拠の準備。毎朝、気を失うように眠りについた。
やるべきことを、一つずつ潰した。
需給調整事業部へ、派遣法指針及び労使協定違反の申告。過去の賃金を見直し、不当に下げられた分の差額を算出し、提出。雇用環境均等部へは、ハラスメント行為の隠蔽を通報した。
就業条件明示書のランクについて、小次郎は書面で派遣元に抗議した。設備設計という職種に対して、登録区分が不当に低く設定されており、労使協定方式における一般賃金水準を下回っている。過去五年分の差額賃金について、精査と是正を求めた。CCに労務グループと総務グループのアドレスを入れた。
一週間後、広瀬からメールが来た。
「ご指摘の件、社内で確認しまして、登録区分については現状のままで問題ないとの判断になりました」
「問題ない、という判断の根拠をいただけますか」
「弊社では、経験年数ではなく実際の職務内容とそのレベルによってグレードを決定しています。今回、CADを使う職種なので、生産工程としています」
「設計の仕事はCADの操作だけではありません。強度計算や機器選定、現地確認、進捗管理など、複合的なスキルを要する仕事です。派遣先に確認してください」
「確認して、折り返します」
広瀬からの返信は、数日後に来た。小次郎の主張通り、設計には現地調査等の仕事が含まれていることは確認できた。しかし、拘束時間の中でCADを使用する時間が最も長い。よって、登録区分は現状のままという判断だった。空いた口が塞がらなかった。同じ言語とは思えない。
派遣元の言い分が通るなら、PCを使う人間はタイプライターに区分できる。論理は破綻している。これが広瀬個人の判断なら、派遣元と手をとって、違法行為を挟殺できる。
メールの宛先を再確認する。CCには、送信の時に入れた労務・総務のアドレスがそのまま含まれていた。
まともな会社なら、気付くはずだった。小次郎の背後にいる弁護士、あるいは、有資格者の影に。小次郎の主張の正当性に。気付いたら、放置出来るはずがない。
もしこれが、ただの過失であるならば。
メールを閉じる。逃げ道を塞いでおいてよかった。知らなかったでは済ませない。会社として責任を取らせる。
差し違えても、潰す。
公僕の精神なんて持ち合わせていない。やるしかなかった。そう思ってないと、やり切れる気がしなかった。
十日後、小次郎はメールで診断書を提出し、休職することを告げた。休業期間は、診断から一ヶ月。三ヶ月更新の契約は破棄するしかなかった。同じメール内で、特定受給資格者相当の会社都合退職と、派遣元の瑕疵によって失った契約期間の補填を請求した。
請求の理由は、職場環境におけるレイシャルハラスメントが派遣元派遣先双方によって隠蔽されており、安全配慮義務違反が認められることだ。苦情窓口が機能しておらず、行政にこれを通報し、正式に受理されたことを付した。
差額賃金の請求を別のメールに乗せた。需給調整事業部職員、若林の名前を出し、違法性が認められると見解があったこと。既に、通報として受理されたことを。
送った三日後、広瀬からメールが来た。
「会社都合退職及び休業補償の件、了承いたします」
小次郎は、目を疑った。
「離職票は会社都合として発行します。退職日については、有期契約期間の最終日とします。また、休業補償も賃金相当となるよう調整します」
自分の部屋で、椅子に深く座る。天を見上げ、息を吹き上げた。急に言葉が通じた。当たり前のことに、混乱した。
同じメールの中に、差額賃金の請求を拒否する旨が記載されていた。
「そもそも、契約内容に異議があるなら、なぜ、更新の際に指摘しなかったのか」
理解不能な主張の中に、一文だけ。広瀬の苛立ちが浮かんでいた。
小次郎は、両拳を思い切り叩きつけた。モニター上の文字を睨みつける。画面の向こうにいる広瀬に、はっきりと、黒い感情を向けた。もし法が許すなら、ぶっ殺して、山に埋めてやるのに。
異議は唱えた。給与を上げるように要求した。
その度、広瀬はこう言ったのだ。
「申し訳ありません。派遣先企業様と交渉しましたが、力が及びませんでした」
派遣先の応接室で、広瀬が頭を下げた。小次郎は覚えている。記録には残っていない。しかし、はっきりと刻み込まれている。
労使協定の説明は、派遣業の義務。需給調整事業部の若林が、そう言った。労使協定と就業条件明示書、過去の業務内容を箇条書きにした文書を提出した際、「違法性がある」と回答した。担当者を変えても、答えは変わらなかった。
小次郎の給与は適正でない。不当に低く評価されている。これが、行政の見解。適正でないなら、その差額はどこにあるのか。
小次郎の時給が低くされているにも関わらず、派遣先が単価交渉に応じなかった理由。答えは、派遣単価とマージン率にある。
派遣元責任者であり、小次郎に時給を示し、派遣先と単価交渉をした広瀬が、知らないはずないのだ。




