第五話 指先の温もりは
天使たちは追ってはこなかった。
足を止めた瞬間、張りつめていたものが一気に切れたように感じる。
美沙は壁に手をつき、前のめりに。
「ぅ……ぉぇっ」
こみ上げるものを我慢できずに、また嘔吐する。
胃の中はほとんど空で、酸っぱい液体だけが喉を焼いた。
少しずつ息を整えていく。
が、冷静になっていくほど、美沙の友人のことを思い出してくる。
(天ちゃん……天ちゃんは……?)
胸がギュッと締め付けられる。
もしこの世界に来てしまったのなら。
死体だらけの世界で辛い思いをしているに違いない。
もし、あの天使たちから逃げているのだとしたら。
追いつかれて……そして。
「うぅぅ……ぉぇ……」
震える指で口元を抑る。
ゴソッと端の方で物音がした。
視点を移すと、あの少女と目が合う。
「……君は……大丈夫?」
反応はない。
ただ、じっと美沙の方を見続けている。
しかし、助けてくれたお礼を言うわけではなく、この状況に憂いているわけでもない。
どこか冷たく、視線は鋭く。
まるで、弱い生き物の動きを確かめているような。
けれど
(やっぱり、綺麗だなぁ)
血に汚れたはずの灰色の髪は、光を含んだ銀糸みたいに揺れている。
蒼白な肌は壊れそうに薄く、けれど不思議と目を離せない気品がある。
細い顎、整った鼻筋、伏せられた睫毛の影さえも絵画みたいだった。
ぼろ布の隙間から見える羽は、小さくも広がっており、額から見える角も、輝きを失っていない。
何よりも、暗い赤紫色の瞳は、ただ美しいだけではなかった。
どれだけ踏みにじられても折れず、
何度でも立ち上がり、静かに周囲を圧倒する――
生まれながらにして上に立つ者の瞳だった。
美沙は、震える足を叩いて、一歩踏み出した。
「ね、ねぇ、君、無事……じゃないかもだけど、無事?」
かすれた声で少女の安否を確かめようとする。喉はひりつき、鋭い痛みが走る。
それでも何とか口を開く。
「……」
少女はわずかに眉を動かしただけで、返事はない。
「あ、あの……に、逃げれたのかな?」
「……」
「なんなんだろうね、あれ。私たち……何か悪いことでもしたのかな……」
「……」
「……」
「……」
再び沈黙が訪れる。
言葉は通じない。態度は冷たい。状況は絶望的。
洞窟の奥からは、かすかな風が流れ込んでくる。
美沙は腕をさすった。
汗で濡れた制服が張り付き、気持ちが悪い。
いつまでここにいなければいけないのだろうかと考えがよぎる。
「天ちゃん……」
名前を呼んだ瞬間、胸の奥がひりついた。
あの光景。
あの白い殺戮兵器。
圧倒的な血と暴力と死。
思い出したくない現実。
(きっと……)
唇が震える。
(きっと、もう……)
それ以上は、考えられなかった。
分かっている。
あの中で無事でいられる確率なんて、ほとんどない。
助けに戻る体力もない。
戻ったところで、何ができるわけでもない。
足は震え、喉は焼け、立っているだけで精一杯だ。
(天ちゃん……ごめん……無理かも……)
心のどこかが、そう囁く。
諦めよう、と。
現実なんてみたくない、と。
涙がにじむ。けれど。
美沙はゆっくりと、顔を上げた。
視線の先には、傷だらけの灰色の髪の少女。
(……せめて)
ぎゅっと拳を握る。
(せめて、この子だけは)
今、目の前にいるこの子は違う。
自分の手の届く場所にいる。
だから。
(この子だけは、守る)
――ひとりぼっちがどれだけ苦しいか、たくさん味わってきたから。
美沙は少女の方を見ると、あることに気が付いた。
少女の肩が若干震えていたのだ。
今の少女は、ボロボロの布を一枚羽織っているだけで、寒さをしのげるわけがなかった。
暗く、隙間風が吹くこの環境では当たり前である。
(……そうだよね……寒いよね)
美沙は一歩近づいた。
少女はそれにすぐに反応し、視線だけでけん制する。
その目は相変わらず鋭く、美沙に訴えかけているようだ。
それでも、美沙は止まらず歩み続ける。
「ごめんね。でも、ほっとけないよ」
小さく呟いて、さらに歩み始める。
自分がくっついてあげることで、少しでも寒さを和らげようと考えただけだったのだ。
――しかし、少女は露骨に顔をしかめた。
顔をわずかに背け、一歩分、体をずらす。
(あ……嫌だよね……)
美沙はそのしぐさで理解した。
制服には、汗と血と吐瀉物の臭いでいっぱいだった。
自分でもとても不快に感じる程、強烈な匂いであった。
こんな匂いを発している人に近づかれたら、どれほどの極限状態であっても避けてしまうだろう。
美沙はそれ以上近づくのを止め、洞窟の壁にもたれかかった。
二人の間に、今までよりもさらに大きく距離が開いてしまった。
洞窟は静まり返っている。
遠くで風が唸る音だけが、かすかに響いていた。
時間の感覚が曖昧になる。
どれくらい経ったのか分からない。
ただ、寒さだけが、じわじわと体の芯に入り込んでくる。
美沙は歯を食いしばった。
(寒い)
隙間風と光が無い場所に長時間過ごしたせいで、汗が冷え、体を冷やしていった。
震えが止まらない。
(あの子はどうなっているのかな?)
少女の方を見る。
少女は壁際に身を寄せ、できるだけ小さく体を縮めていた。
膝を抱え、羽を閉じ、肩をすくめる。
さっきよりも明らかに震えが大きい。
唇は色を失い、呼吸も浅い。
視線を感じた少女は美沙の方を見る。
こちらを見る目だけは鋭いまま。
(どうしよう……出ないといけないのかな……)
いつまでもここで過ごすわけにもいかない。水も食料も無く、暖も取れず、安心して寝ることもできない。
(でも外には、あれが……そもそもあれはもういないのかな……)
グルグルと思考が渦を巻くようにめぐる。
(でも、あんな景色は……もう……)
少女の震えが、さらに強くなる。
ぎゅっと体を丸め、限界まで小さくなる。
布一枚では、到底足りない。
美沙はゆっくりと制服の胸元を見る。
吐瀉物の跡。
血のしみ。
汗の濃い臭い。
顔をしかめながら、ポケットからハンカチを取り出した。
震える手で、シャツの汚れを拭う。
落ちきらない。
それでも、何度もこする。
足りないと分かっていても、スカートの裾でも軽く拭った。
(これで……少しは……)
立ち上がる。
一歩、踏み出す。
少女の目が、すぐに細められる。
警戒している。
拒絶もしている。
それでも、美沙は止まらない。
「……寒いでしょ」
小さく言う。
少女の唇が動く。
「▭▭▭……▭▭」
低く、鋭い声。
何を言っているのか分からない。
けれど、拒絶だということだけは伝わる。
「うん、分かんないけど……多分、怒ってるよね」
苦笑いを浮かべる。
さらに一歩。
少女は眉を吊り上げる。
「▭▭▭!」
声が少し強くなる。
だが、後ろは壁だ。
逃げ場はない。
美沙はゆっくりと、その隣に腰を下ろした。
距離は、肩が触れるか触れないか。
少女は露骨に顔を背ける。
けれど、離れない。
震えは止まらない。
また沈黙が続いた。
互いの呼吸だけが響く。
やがて。
ほんのわずかに。
少女の肩が、美沙の腕に触れた。
睨み続けたまま。それでも、その視線は若干和らいだような気がした。
少しずつ、寄ってくれる。
納得していないような。
屈辱を堪えるような。
唇を噛みしめて。
それでも――
(あ……)
胸が、熱くなる。
美沙はそっと手を伸ばした。
ゆっくりと。
びっくりさせないように、ゆっくりと。
少女の冷たい手に、触れようとする。
少女も、睨みながら手を動かす。
拒むためか。
払うためか。
それとも――
指先が、触れる。
――その瞬間。
洞窟の奥から、轟音が響いた。
美沙はとっさに少女を抱え込む。
すると、世界が真っ白になった。
全身を揺るがすほどの爆音と衝撃が美沙と少女を吹き飛ばし。
――二人は宙に飛ばされた。
何かにぶつかった感触。
石が砕ける音。
転がる。
視界がぐるぐると回る。
ドサリ、と鈍い音を立てて地面に叩きつけられた。
「……っ」
声にならない息が漏れる。
肺の空気が一気に押し出された。
全身が痛い。
どこを打ったのか分からない。
けれど、かろうじて意識はある。
ぼやけた視界の中で、隣に誰かが倒れているのが見えた。
さっきまで隣にいた、あの少女。
胸の奥に、わずかな安堵が広がった。
体は動かない。
腕も、足も、重い。
呼吸だけが、かすかに続いている。
美沙は仰向けのまま、ゆっくりと視線を上げた。
あの天使たちが大量にこちらを見下げている。
――その光は、美沙にとって絶望だった。
それでも、美沙は隣の少女に視線を向ける。
極限の状態にも関わらず、少女に対して抱く印象は変わらなかった。
(やっぱり、綺麗だなぁ)
こんな地獄に似合わないくらいに。




