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第四話 地獄で出会った少女

 回っている。

 そう感じた瞬間、美沙の喉から息が抜けた。

 声を出そうとしても、空気が無い。体は前後左右の概念を失い、上に落ちているのか、下に上っているのか、ぐるぐると白黒の世界は回る。しかし、何かに引きずられているという感覚だけはあった。

 

 声を出そうとしても、空気が無い。体は前後左右の概念を失い、上に落ちているのか、下に上っているのか、ぐるぐると白黒の世界は回る。しかし、何かに引きずられているという感覚だけはあった。

 

 繋いだ手のひらから、(そら)の体温が伝わってくる。それだけが唯一の、美沙の命綱だった。


(離しちゃだめだ――!)


 必死に指先に力を込める。しかし、二人を襲う重力とも暴風ともつかない超自然的な力が、無慈悲にその手を引き裂こうと割り込んでくる。


「美沙――ッ!」

 

 天が叫ぼうとしたのが分かった。しかし、その声は形になる前に、闇の渦へと掻き消される。

 ずるり、と摩擦の音を立てて、互いの指先が滑った。


「天ちゃ――」

 

 伸ばした美沙の手は、虚空を掴んだ。

 一瞬にして、天の姿が見えなくなる。ただの暗闇ではない。色も、音も、距離感すらも奪われた、完全な虚無のなかに、美沙はたった一人で放り出された。


 孤独と恐怖に脳が焼き切れそうになったその時、聞こえてきたのは、女性のコーラスのような、耳障りな音が。


 次の瞬間、美沙の体は、硬い地面に叩きつけられた。


「――っ」


 声は出せなかった。ただ肺の空気が押し出され、うまく息が吸えなかった。

 視界が揺れ、若干涙が出てくる。


 感覚が戻ってきたかと思えば。


 その後、体全体にじんわりと熱がこもった痛みが襲ってきた。

 

 地面に伏せたまま、荒い呼吸を繰り返す。

 息を吸うたびに熱い空気を吸い込んでいるような錯覚にみまわれる。

 

 (痛い……それにこの匂いは何?)


 倒れてからずっと、辺りに異様な匂いが漂っていることに気が付き、眉をひそめる。思わず鼻をつまみたくなるような、言葉にできないがとてつもなく不快な匂い。

 

 美沙は震える腕に力を込めて、ゆっくりと上半身を上げる。

 

 ――そして顔を上げた瞬間。


 視界いっぱいに逆さまの顔と目が合った。


「……っうわああ!」


 驚きのあまり叫んでしまった。

 目の前で人が倒れている。

 体格的に女性だろう。

 岩肌がむき出しの地面の上で、仰向けになったまま微動だにしない。


 が、その額には黒く湾曲した小さな角が生えていた。

 背中からは、びりびりに破けた、コウモリのような羽が見える。


 そしてその人の腹は大きく開かれ、赤黒い液体を垂れ流していた。


 本能に突き動かされるまま、美沙は一歩引きさがる。

 背筋に冷たいものが走る。



 ぐちゅ。



 靴底がぬるりと滑る。

 慌てて後ろを見ると、そこには異様な光景が広がっていた。


 いくつもの倒れている人々の姿。

 胴体と首が離れ離れになっている者。

 四肢がもげ、骨がむき出しになっている者。


 皆共通して、赤黒い液体が垂れ流しの状態であった。


 それがこの鼻に衝く異様な匂いの正体だと理解した瞬間――




「……ぅ……」




 胃の奥が強く締め付けられた。

 足元は揺れ、視界が滲む。

 呼吸が浅くなる。


 美沙はとっさに口を押えたが、間に合わなかった。

 

 スカートとローファーを汚していく。

 酸っぱい匂いが混ざり、さらに気分が悪くなる。


 なんとか呼吸を整えようにも肺に入ってくる空気は腐ったような匂いばかりで、まともに呼吸をしている気がしなかった。


(いや……無理……ここ、無理……)


 頭の奥がじんじんと痺れる。

 ここにいたら駄目だ。

 理由なんて考える余裕もない。


 美沙はふらつく足で立ち上がると、そのまま前へと駆け出した。


 走る。


 見たくないものから逃げるように。


 足元に転がる肉を避けて、蹴って、踏んで。


 どこを見ても死体。

 常に死が付きまとう景色。

 赤色に染まった岩肌を駆け続けた。


「はぁ……っ、はぁ……っ……」


 足の痛みに耐えられなくなり、速度を落としていく。

 喉が焼けるように痛い。

 視界の端が段々と暗くなっていくような感覚に襲われた。


 (……何、あれ?)


 ふと、前方に違和感を覚えた。


 白い何かが三つ、浮遊していた。


 分厚い雲に覆われ、暗い色をした空だからこそ、よく目立つ物体。


 その下。


 一人の少女が、岩壁を背に這うように歩いていた。


 小柄な体。


 ぼさぼさな灰色のロングヘアー。


  (綺麗な子……)

 

 血と死に染まったこの世界で、


 そこだけ切り取られたかのように。


 風がなびき、暗い赤色の瞳が見えるたびに、この地獄が遠のいていく。


 こんな世界にいていい存在じゃない。


 そう思ってしまうほどに。


 しかし、少女は腕を抑えながら白い飛行物体たちを見つめていた。

 まるで、追い詰める敵に向かって反抗するように。


 今まで見てきた惨状。


 追い詰められた少女。


 謎の白い飛行物体。


 血の気が引いた。


 (……あの子が、殺されちゃう……)


 飛行物体がゆっくりと降下してくる。

 最悪の光景が浮かんだ。


 あの子が、無数の死体の一部になってしまう光景を。


「や……やめてぇぇぇぇぇ!」


 考えるより先に体が動いた。


 叫びながら、ふらつく足で駆けていった。


 声は裏返り、喉に激痛が走るが、どうでもよかった。

 死体を見ただけでも壊れそうなのに、もし目の前で少女の命が終わる瞬間を見てしまったら……


 今度こそ正気を保てなくなるだろう。

 十六歳の少女一人で何か事態が好転するわけないと分かり切っている。

 それでも助けてあげるんだという正義感だけが、美沙が人間であるということを守っていた。


 少女と飛行物体の間に無理やり割って入る。

 腕を大きく広げて、少女に背を向けた。

 飛行物体を睨みつける。


 が、そのあまりにも現実離れした外見に、美沙は怯んだ。


 その姿は、【花瓶】だ。

 全体的に丸まった、白磁のような胴体。

 継ぎ目のない陶器の表面が、鈍く光を反射している。


 その腹部には、人の笑顔が張り付いていた。

 黒目のない、白一色の瞳。

 わずかに吊り上がった口元――古い彫像のような、冷たい笑み。

 瞳孔があるわけでもない。


 しかし、確かにこちらを見ている。


 取っ手のような部分には、光り輝く剣が片方に1本ずつ、キーホルダーのように取り付けられていた。

 背中には鳥を思わせる白い羽が生えているが、無骨な金属のフレームが、天然のものではないと知らしめている。


 上部には、目をつぶりたくなるほどまばゆい、輪っかが宙に浮いていた。

 ――天使のような輪っか。


 その輝きは綺麗で、荘厳で、そして残酷に。

 花瓶の腹部に張り付けられた笑顔がむけられた途端。


 耳をつんざくような金属音が響き渡った。


 取っ手にぶら下がった剣先がひとりでに持ち上がる。


 ――こちらに向けて。


「……っ!」

 

 本能が叫んだ。

 逃げろ。と


 反射的に美沙は振り返った。

 背後の少女は、膝をついて、とても自力で立ち上がることはできない様子だった。

 また、体が勝手に動いた。


「逃げるよっ!」

 美沙は少女の手首を無理やり引っ張り立ち上がらせる。

 素早く辺りを見渡すと、人が入り込めるような洞窟があった。


 少女は一瞬抵抗したが、美沙のされるがままに引っ張られていく。


 背後で甲高い金属音が響いたかと思うと、閃光が走った。

 美沙は本能的に少女の頭を地面に押さえつけ、自身もかがむ。


 直後、目の前の岩肌がするりと滑り、崩れ落ちた。


「嘘っ……急いで!」


 美沙は少女の手をグンとさらに強く引き、走る。

 洞窟の入口までまだ距離はある。


 もしこのまま走れば、二人共真っ二つになってしまう。


 振り返ると、一体の天使が表情を一つ変えずに近づきながら剣先を向けてくる。

 剣先が淡く光り始めた。


 ――間に合わない。


 ふと、足元の、両手で持ち上がりそうな岩があった。


 考えるよりも先に手が動いた。


「うわああぁぁ!」


 叫びながら投げつける。

 

 投球フォームはめちゃくちゃで、岩も早く飛んでいない。


 しかし、岩は回転しながら一直線に飛んでいき、天使の顔に直撃する。


 コンっと乾いた音が響いた。

 もちろん、壊れない。

 傷一つついていない。


 それでも、岩の衝撃で、ほんのわずか、天使はのけぞった。


 ほんの一瞬。

 

 本当に、一瞬。


 美沙はその隙を逃さなかった。


「いま!」


 美沙は少女と共に全力で走る。

 閃光が走り。


 岩肌が崩れるが、もう止まらない。

 止まることはできない。


 美沙は洞窟の入り口へ滑り込み、少女を抱き込むように中へ押し込んだ。

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