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第三話 日常の終わりに、門が開く

 朝の空気は冷たく、美沙の肺の奥は澄んでいた。

 いつもと変わらない通学路。いつもと変わらない制服。

 しかし、美沙の胸の奥はざわついたままだ。


 もちろん、考えるのは謎の紙について。


 引き出しの奥に確かにしまったはずなのに、そこにある気配だけが残っているような違和感を持ち続けていた。

(はぁ……)

 美沙は小さな溜息を吐き、歩調を少しだけ早める。

 朝の住宅街は静かで、遠くで聞こえる車の音と小鳥のさえずりのみ聞こえる。


「おっはー! 美沙」

 聞きなれた声に、足を止める。

 振り返ると、背後から濃いブラウンのロングヘアーをなびかせて走ってくる少女の姿があった。

(そら)ちゃん。おはよう」


 気さくに話しかける少女は崇宮天(たかみやそら)。美沙と同じ高校に通っているが、クラスは別で、最近は朝に顔を合わせることも少なくなっていた。


「珍しいじゃん。美沙がこんな朝早くなんて」

「私、今日日直だから……」

「なるほどなるほど」

 天はそう言いながら、美沙の顔をじっと覗き込む。

 吸い込まれそうな髪色と同じ色の瞳に、美沙は一瞬後ずさる。

「……どうしたの?」

「ねぇ美沙。体調悪い? 顔色悪いよ」

「いや、全然! そんなことないよ」


 美沙は慌ててごまかす。天とは幼稚園から高校までずっと一緒に過ごしてきた。いわゆる幼馴染だ。

 幼馴染かつ、ずっと美沙を見てきた天だからこそ、美沙の些細な変化を見逃さない。

 その視線から逃れるようにそっぽを向いた。

「本当に何でもないよ……」

「そっか、美沙がそういうならそういうことで」


 しばらく気まずい雰囲気が辺りを覆う。校門を通り、各々の教室に入るときに、天の口が開いた。

「本当に、いつでも相談していいからね。私は美沙の味方だから」




 ♢♢♢




 学校は驚くほどいつも通りだった。

 日直の仕事である教室の掃除。それが終わればホームルーム。

 授業中もノートを取り、昼休みは購買で買った総菜パンを天と共にかじる。

 少し眠くなるはずの午後。


 しかしやはり常に頭にはあの紙のことがこびりついているようで、とても集中していたとはいえなかった。

 黒板に書かれた数式を目で追っているはずなのに、気づけば視線は窓の外へと逸れている。


 風に揺れる木の葉。空を横切る雲。

 どれもいつもと同じはずなのに、どこか現実味が薄かった。



 ホームルームが終わり、教室が一気に騒がしくなる。美沙は日直なので教室の掃除を担当する班の人とともに机を運ぶ。そして日直日誌に本日の学校生活に関することを記入して終了だ。


「美沙ー! 一緒に帰ろ!」

「天ちゃん。ちょっと待ってね。日誌書くから」


 綺麗になった自分の席にもう一度座り、ペンを走らせる。

 

 日誌に書く内容はほとんど変わらない。


『本日も特に問題なく学校生活を送れました』


  少しだけペンを止める。

 ――問題なく。


 本当にそうなのだろうかと考え直す。

 一日中美沙の頭の中を支配していた、引き出しの奥に眠っているであろうあのメモ。

 そんなことを日誌に書くわけでもないので、最後にサインを書いてそのまま日誌を閉じる。


「お待たせ。帰ろっか」

「おっけー!」


 天は待ちくたびれた様子もなく、いつも通りの笑顔を向けてくれる。

 

 グラウンドには運動部員のランニングの掛け声、向かいの教室の廊下からは金管楽器の音色が聞こえる。部活動に勤しむ生徒が多い中、二人だけで学校を歩くことは、言葉にできない特別感があった。

 校門を出た瞬間、夕日が美沙の顔をカッと照らす。もうすぐに夏休みが始まろうという予感を感じさせる、蒸し暑い湿気を含んだ風が肌をかすめた。

「今日は」

 天は少し間を置いて、また口を開く。

「……久しぶりだね。一緒に帰るって」

「いきなりだね」

「まぁね」

 天は少しはにかむ。

 天は家の用事で忙しいらしく、最近は先に帰ってしまうことがあった。本人曰く、少し落ち着いたから一緒に帰りたいと言ってきたのだ。

「ねぇ美沙」

 天は改まった様子で美沙に問いかける。


「いい加減に私に話してよ」

「……何のこと?」

「今日の美沙、やっぱりおかしい。登校するときも、お昼ごはんの時もずっと不安そうな顔だったよ。……何か嫌なことに巻き込まれていない?」

「いや、そんな大したことじゃないから……」

「……ねぇ、私ってそんなに頼りないかな……」


 問い詰めた様子から一変、天の声色は弱々しいものになっていた。


「覚えてる?保育園の頃さ、私が悪ガキたちにちょっかいかけられた時に美沙が助けてくれたよね。天ちゃんをいじめるなーって。あの時からさ、私たち仲良くなったよね」

 天は少し早く歩き、美沙の目の前で、回れ右をした。

 そして屈託のない笑顔を美沙に向ける。

「そこからさ、私、美沙に守られるだけじゃなくて、守れるような人になりたいと思ったんだ。ね、だから」


 美沙の目の前に来て、そっと手を握る。


「お願い。私に話して」


 温かい。昔と変わらない、天の手だった。

 美沙は揺らいでいた。もし何か大変なことが起きた時に、天が巻き込まれないかと。そう思わせるほど、あの紙には底知れない何かを持っていたように感じた。


 しかし、その恐怖は、美沙一人で耐えられるようなものではなかった。


「……実は、変なのが部屋にあったの」

「変なの?」

「なんというか、紙とかメモみたいな……あ、今見せるね」


 そう言って美沙がスマホを操作しようとしたとき、サッと風が吹いた。

 冷たく、異様な気配を纏ったまと風が肌をかすめた。


 そして、2人の間に()()()が落ちてきた。


 『גַן עֶדֶן』


 そこには寸分違わずあの文字が書かれてあった。


「ヒッ……」

 美沙の顔が青くなる。

「何でこの紙が落ちてきたの。引き出しの奥にしまったはずなのに……」

「美沙? もしかして、これが変なの?」

 天がその紙をつまんで拾う。そしてひどく顔を歪めた。

「……何これ。イタズラ?」

「天ちゃん、大丈夫?」

「うん別に。でも何でヘブライ語の紙?」

「天ちゃん、何語かわかるの!」

「あ、いや、ちょっとだけだけどね。うーんと、なんか趣味とかでそういうの調べたり……ともかく、これが美沙が言ってた変なのってやつ?」

「うん、全く同じだよ」


 天はその紙を夕日透かすように眺める。白いはずの紙なのに、光を受けても反射も透過もせず、どこか淀んだ色のままだった。

「昨日、いつのまにか机の上にあったの。最初は誰かの悪戯だと思ったけど……触った瞬間、変な感じがして」

「変な感じ?」

「胸の奥が、きゅって掴まれるみたいな……」


 美沙は胸元を抑える。

「それで引き出しにしまったはずなのに、なんかずっと見られているっていうか、常に付きまとわれているっていうか」


 天の顔は一層真剣なものになる。

「何それ……ストーカーとかされてんじゃないの?」

「そう……なのかな……そういえばヘブライ語だっけ、天ちゃん」

「あ、うん」

「もしかして何書いてあるか分かるの?」

 

 美沙は天を見つめる。

「うん、分かるけど……えっと、読み方は『レガン・エデン』。意味は『楽園へ』みたいな?」

「楽園?」

「いや、ほんと意味わかんないよね。本当に何か事件とかに巻き込まれていない?警察とかに行った方がいいかも」

 天の顔がますます真剣なものになっている。もはやその紙を睨んでいると言ってもよいほどであった。

 事件に巻き込まれる。その言葉を聞いて、美沙の脳裏に浮かぶのは両親の顔だった。

「とにかく、美沙の家までついていくから。変な人が追いかけてきたら私のことなんて構わずに逃げてね!」

「いや、もしそうなったら天ちゃんが……」

「今は美沙のことが大事!」

 天は美沙の手をつなぎ、早足で美沙の家の方向へ進む。


 夕暮れの街を2人の少女が駆け抜けていく。まるで何かから逃げるように。


「天ちゃん……ちょっと休憩……」


 ゼェゼェと息を切らす。天はあっと気づくとすぐに立ち止まり美沙の顔を覗いた。

「ごめん……つい」

「ううん、天ちゃんが必死に引っ張ってくれて嬉しかった。ありがとう」」

 

 美沙は天に笑顔を見せる。その顔を見た天は思わず顔を赤らめてしまった。


「あ、ありがとう?」

「何で天ちゃんがお礼を言うの?」

 二人は向かい合って笑い合う。ずっと張りつめていた美沙にとって、何も考えずに笑える時間はとても尊いものであった。ひとしきりしたら落ち着き、また無言で歩き始める。少し早足ではあるが、今までのような焦りはない。


「そういえば、あの文字なんて言うんだっけ?」


 美沙は素朴な疑問を投げかけた。


「えっと……レガン・エデン。レが『どこどこへ』っていう意味で、ガンが『庭』。そしてエデンは『楽園』」

「あ、世界史の橋本先生が言ってた神話のやつじゃなかったっけ」

「そうそう。橋本はそういう話したら、授業ほっぽって一生授業が進まなくてさぁ!」

「確かに!」


  笑い声がしばらく続いたあと、ふたりはふと黙り込んだ。夕暮れの空は、さっきよりも赤みを増している。まるで、何かが燃えているかのように。


「……でもさ」

 天がぽつりと呟く。


「楽園ってなんかおかしくない?」

「え?」

「いや、やっぱり変だよ。わざわざヘブライ語で書くなんて。一応今ポケットに入れてるけど、もうポイ捨てしちゃおっか」

「えぇ、さすがにポイ捨ては……」

「だって美沙はもう見たくないでしょ。ならもう捨てちゃお」


 しばらく迷ったが、美沙はコクリと頷いた。道徳的には問題があるが、一刻も早く気味の悪い存在から距離を置きたかったのは事実だったからだ。

 

 その様子を見た天は、例の紙切れをポケットから取り出し、そのまま後ろに投げ捨てた。


 風が吹き紙は宙に巻き上げられる。

 

 二人はひらりと空を飛ぶ紙を眺める。そして美沙は誰にも聞こえないような声で呟いた。


「本当に変なの。楽園……()()()()()()()


 その瞬間、宙に舞っている紙切れが突如、()()した。


「「え?」」


 同時にリアクションしたかと思えば、いきなり辺りが暗くなった。


 すぐに全身が闇に包まれ、お互いの顔もよく見えない。


 少し上空に白い門が現れたかと思うと、


 ――バアンッ!


 その門は勢いよく開いた。


 そして美沙の体が宙に浮く。

 白い門に向かって。


「美沙!」

「天ちゃん!」


 突然のことで混乱していたにもかかわらず、天がとっさに手を伸ばす。

 美沙も懸命に伸ばし、その手をしっかりと握る。


 しかし、美沙を吸い込む力はどんどん強くなり、やがて二人は門の中へ吸い込まれていった。

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