第二話 そう思った方が、楽だから
「何これ……」
昼下がりの日曜日。美沙は部屋を掃除しようとしたとき、自身の机の上に置いてあった謎の紙切れを見つけて思わず息をのんだ。
見覚えは無い。ざらついた手触りは、古い羊皮紙のようだ。黒々としたインクで記されていたのは、日本語でも英語でもない、自身にとって馴染みのない文字列であった。
『גַן עֶדֶן』
その紙は、まるで邪悪なものを封印していた紙の一部を切り取ったような、異様な気配を漂わせていた。ただ紙を見ているだけなのに、胸の奥がざわつく感覚が美沙を襲う。
気味の悪さを振り払うように、リビングでテレビを見ていた、美沙の祖母、佐藤早苗に声をかけてみた。
「おばあちゃん、これ何かわかる?」
「これって? ……何だいこれは」
「私の机の上。昨日までこんなのなかったはずなんだけど。本当に知らない?」
「えぇ。そんな気味が悪かもの、知らないわ」
早苗は訝し気な表情を浮かべる。
どうやら祖母も知らないようで、家族が関わったという点は消えた。そうなれば考えられる線は、出かけているさなか、何かの機会で持って帰ってしまったか、寝ぼけていたか何かで美沙本人が書いたという線という、極めて起こりえないような線のみが残されてしまった。
松岡美沙は、十六歳の女子高校生だ。
身長は同年代より少し低く、体型は特別太っているわけでも痩せているわけでもない。
黒いショートヘアに、成績は平均点、運動も苦手で、性格も引っ込み思案。
本当にどこにでもいる普通の女子高校生である。
――しかし、彼女には両親がいない。
正確に言えば、両親は十三年前から行方不明のままだ。
失踪事件は美沙がまだ幼いときに起こった。
♢♢♢
「ちょっと! あなた、美沙、もうこんな時間じゃない」
「な! また寝坊してしまった……美沙、早く起きないと!」
家族の中でもしょっちゅう寝坊をする父、松岡宗一郎は、慌ただしく髭を剃り、スーツに着替える。母、松岡理沙は朝ごはんと美沙の保育園へ連れていく準備に奔走しつつも、自分の化粧は怠らない。
「おかあさ~ん……まだねむい~」
「ハイハイハイすぐにパジャマ脱いで! 髪の毛くくるよ!」
「それじゃ、僕は先に行って資料まとめておくよ。行ってきます」
すると、まだ髪をくくっている途中にも関わらず、美沙は玄関まで走っていく。
「あ、おとおさん、行ってらっしゃい! はい、ハイタッチ!」
美沙はニコニコしながら宗一郎の目の前に手のひらを向ける。
「ほい、行ってきます」
宗一郎も笑顔で手のひらを向ける。お互いの手からパチンッと気持ちの良い音が鳴り響く。松岡家ではどんなに忙しくても行ってきますのハイタッチだけは欠かさなかった。
理沙は準備を終えた美沙を連れて保育園へ連れていく。美沙は毎日出発してすぐは帰りたいと駄々をこねるが、いざ到着すると、先に到着した幼馴染に手を振ってご機嫌になる。理沙は美沙の担当の先生に迎えの時間を伝え、これまたいつも通り、美沙に手のひらを向ける。そして美沙も。
美沙にとってハイタッチは「いってきます」「いってらっしゃい」の合図だった。
松岡家の朝は、いつも騒がしく、少し慌ただしくて
――それでも、美沙にとっては当たり前かつ楽しい日常。
そんな日常になるはずだった。
保育園の門の前で、いつものようにハイタッチ。
いってらっしゃいって笑ってくれた、あの笑顔を
美沙は今でも、はっきりと覚えている。
その朝から今日まで、美沙は両親を見ていない。
迎えの時間になっても、誰も来ない。所定の時間を大幅に超えたので、担当の職員が両親の携帯電話と自宅に電話をかけたが、どちらも応答はなかった。
保育園側もずっと美沙を預けるわけにはいかず、仕方なく、松岡家の近所に住んでいた母方の祖母――早苗に電話をかけ、美沙を迎えに来た。
「きょうはおばあちゃんがおむかえ?」
「そうだよ。今日はお父さんとお母さんはお仕事で忙しいみたいだから、いまからおばあちゃんのおうちに行こうか」
「やったー! おばあちゃんち~。今日のご飯カレーがいい!」
美沙は祖母の家に行くという、非日常的な出来事に心を躍らせながら早苗の隣を歩く。
「分かった。じゃあお料理のお手伝いしてくれる?」
(仕事が長引いているだけだろう。私の家で預かっておくと連絡しなくちゃ)
早苗はそう思っていた。
しかし、二十時を回っても帰ってこない。早苗は少し心配になり携帯電話に連絡を入れるが、帰ってきたのは無機質な電子アナウンスだけだった。
二十一時を回っても状況は変わらず、不審に感じたが、美沙はもう早苗の膝の上で眠っていた。起こすわけにもいかないので、早苗は一晩泊めることにする。
もちろん、両親の携帯電話にも伝言機能で伝えた。
二十三時を超えたが、電話が鳴る様子もない。さすがにおかしいと感じた早苗は、翌日の朝、すぐに理沙と総一郎の職場である、某国立大学に電話をかけることを決意し、床に就いた。
翌朝、早苗は大学に連絡を入れた。
念のため、美沙はその日、保育園を休ませることにした。
本人は「おやすみだ!」とはしゃいで、すぐに二度寝してしまったが、早苗は気が気でなかった。
そして、大学に事情を説明しようとしたが、信じられない答えが返ってきた。
二人は、前日の夕方には退勤済みと記録されており、現在も出勤していないという報告だった。
早苗はすぐに親族に連絡を取り、警察に行方不明届を出した。近所の人たちも一緒になって探した。
警察も事件性ありと判断して、大規模な捜索が始まった。
――手掛かりは何も見つからなかった。
時間だけが過ぎていった。希望は、少しずつ、音もなく削れていった。
初めは捜索に協力していた親族も、あまり関わらなくなった。
それでも、早苗は諦めなかった。探偵を雇い、時には裏の世界にまで足を踏み入れて、情報を集めようとした。
結果は変わらなかった。
ある日、早苗は気づいた。
自分が立ち止まれば、この子は壊れてしまう、と。
娘と娘の旦那を失ったかもしれないと思うと、今にも胸が張り裂けそうであったが、一番つらいのは誰だろうか。
親族との関係も薄れてしまった今、この子は何を思っているのだろうか。
ある日突然、家族と一緒に暮らす日常を奪われた女の子は、何を考えているのだろうか。
早苗は、せめて孫である美沙だけは無事に育て上げてみせると、腹を括った。
仕事を増やし、眠る時間を削り、泣きたい夜も歯を食いしばった。
美沙の前では、決して弱音を吐かなかった。
早苗は、神にも仏にも縋りたかった。
何かに祈れば、奇跡が起きるかもしれない。
そう思わなかったわけではない。
だが、結局、早苗が縋れたのは、祈りではなく――
目の前にいる、小さな孫の手だけだった。
――それから、十三年が経った。
美沙の笑顔は少なくなっていった。
小学生になったあたりでもう察しがついていた。私の両親は、もういなくなったのだと。
それでも、早苗の懸命な育児の甲斐があったのか、順調に育ち、普通に高校へ通うことができる。
友達と過ごすことができる。お腹いっぱいご飯を食べられる。安心して眠ることができる。
美沙にとって本当に平和な日常が流れていた。
♢♢♢
朝日が昇る。今日からまた新しい一週間が始まる。
引き出しを開けてみる。
そこには昨日見た不気味な紙が押し込まれていた。
その下に、もう一枚、色あせた写真が挟まっていることに美沙は気づく。
三人で並んで笑っている写真。
一面に色とりどりの花畑が広がっており、薄くなってもなお、目を奪われるほど輝いていた……ように見える。
指先が止まる。
――もう帰ってこない。
――そう思った方が、楽だから。
ほんの一瞬、目を伏せてすぐ紙の方へ視線を戻した。
例の紙は、一晩すれば消えるかと思っていたが、そうはいかないらしい。
処分するのも気が引けて、そのまま放置していた。
美沙はそれを引き出しの奥へ押し込み、制服の上着を羽織った。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。気を付けてね」
早苗の声が返ってくる。
そしてお互いに手のひらを向けて、ハイタッチをした。無事に帰ってこられるようにと。
――いつも通りの朝。
――いつも通りの日常。
――いつも通りに学校に行き、いつも通りに帰ってくる。
しかし、引き出しの隙間から、黒い光が漏れだしていた。
その光は、十三年前に起こった「何か」が動き出した証だった。




