第百五話 逃走
ゴロツキの最後の生き残りに群がる味方をかき分けて、俺は上階への階段を目指した。
階段は、広間の扉を蹴破り廊下に出るとすぐに見つかった。
螺旋状のそれの途中に、見覚えのある賊が立ち塞がった。
あの時にとっ捕まえた口の堅い賊である。
そいつは俺を見るなり素早く突きを放ってきた。
俺は左半身を前に出しつつ、盾でそれを受ける。
奴は剣を引きつつ俺の攻撃に対応すべく盾を高めに構えた。
その動作を見て俺は確信した。こいつは武術の心得がある手強い奴だ。
俺の得物が斧であるのを見て、縦振り以外はないと見たのだろう。
狭い階段では得物を迂闊に振りまわすと引っかかってしまうんである。
だがそれは普通の斧の話だ。
俺は横に倒した戦斧で横から切り上げた。
魔法の金斧は壁を切り裂き、無防備な横っ腹から胸にかけて両断。
崩れ落ちるそいつを踏み越えて階段を駆け上る。
目指すは最上階。
特に根拠はないが、賊の頭領がいるとしたらそこだという直感が働いた。
この城の一番上は屋根のない屋上になっていた。
薄暗い城の階段を上がってきた目を、太陽の光が刺す。
その隙を逃さず伐りかかってきた敵の刃をかろうじて躱し、すかさず斬り伏せる。
ざっと周囲を確認。
一撃で真っ二つになった仲間を見て腰を抜かしている若い兵士が二人。
こいつらは捨ておいていい。
それから屋上の胸壁から下に向かって矢を放っている弓兵が六人。
すぐには脅威にならない。
最後に、こちらを見て唖然としている、頭領らしき風格の男が一人。
その顔に見覚えがあった。
あったなんてもんじゃない。
「〈犬〉!」
俺が叫ぶと、そいつは明らかに狼狽えた。
やはり他人の空似じゃない。
「てめえ、こんなところで何してんだ!」
俺が問うと、〈犬〉の奴は答えもせずに逃げ出した。
が、逃げると言ってもここは四階建ての屋上であるから三歩もいかないうちに端に行き当たってしまう。
奴らしくない。
俺は再度呼びかけた。
「大人しく降参しろ。悪いようにはしねえ」
が、俺の言葉が耳に入らないのか、奴は今にも泣きだしそうな顔でこっちと、それから城壁の下を交互に見るばかりだ。
「やめとけ。この高さじゃいくらお前でもどうなるか分からんぞ。
いいから武器を捨てろ。大丈夫だ」
ようやくこちらの声が耳に届いたか、〈犬〉の手から武器が落ちた。
よし、いいぞ。
そう思ってこちらが一歩踏み出した途端、〈犬〉は身を翻して胸壁の向こうに消えた。
大慌てで胸壁に駆け寄り下をのぞき込むと、同時にドボンという水音が響く。
〈犬〉の奴が、ザブザブと濠を泳いで向こう側に這い上がろうとしているのが見えた。
城の周りで待機していた兄弟たちが矢を射かけ始める。
「やめろ!」
と叫んでも遠すぎて聞こえず、放たれた矢が次々と〈犬〉の周囲に降り注ぎ、水面をじゃぶじゃぶと揺らす。
〈犬〉の方は濠の淵に這いつくばってかろうじて矢を避けていた。
仕方ねえ。
俺は〈犬〉を追って飛び降りた。
落下時特有の、ブワリと内臓が持ち上がるような感覚に思わず悲鳴を上げそうになるのをぐっとこらえる。
ざぶんと水の中に沈み込む。鎧を着たままなので体が浮かない。
濠の底のぬるりと柔らかい泥の中を掻くようにしながら這い進む。
肺が張り裂けそうに痛む。ゆっくりと鼻から息を吐いてごまかし、空気を吸おうと本能的に口を開きかけるのを気合で抑えながら前に手を伸ばす。
目がチカチカとして意識を失いかけたところで、伸ばした手が濠の反対側をつかんだ。
最後の力を振り絞って体を持ち上げる。
水面。
大きく息を吸い込む。水が入ってむせた。
呼吸を整えながら横を見ると、〈犬〉の奴が信じられないとでも言いたげに目をかっぴらいてこちらを見ていた。
信じられないのはこちらの方だ。
そんなに俺に捕まるのが嫌か?
文句の一つも言ってやろうと口を開きかけたところで、〈犬〉はザブンと水から上がって駆けだした。
まだ兄弟たちからの矢が降り注いでいるのにだ!
俺は慌てて金の斧を出すと、ブンブンと振ってこちらを狙っていた兄弟たちに合図した。
「射つな! 射つんじゃない!」
矢が止まるのを待ってこちらも水から上がったが、すでに〈犬〉の奴はだいぶ先を走っている。
奴は鎧を着ていない身軽な体だ。
俺は〈犬〉を指しながら声の限りに叫んだ。
「捕まえろ! 生きたままだ!」
〈犬〉の近くにいた兄弟たちが、その場に弓を放り捨てて掴みかかる。
が、〈犬〉に手を伸ばすや否や逆にその手をつかまれてその場に転がされた。
強い。いや、強いのは知ってたがここまでとは。
俺も〈犬〉に追いつこうと全力で駆ける。
水を吸った羊毛の鎧下が重い。
足に向かって斧でも投げようかと思ったがやめておいた。
わずかな傷がきっかけで死ぬ奴は珍しくない。
話を聞くだけならそれでもかまわないが、そうじゃないのだ。
包囲隊に配置しておいた騎馬の兄弟が二人、〈犬〉の追跡に加わった。
一騎が後ろから、もう一騎は進路を塞ぐように前方に回り込む。
後ろの奴が、〈犬〉をぶん殴ろうと逆さに持ち替えた槍を振り上げた。
いいぞ!
ところが、〈犬〉の奴はひょいと振り返ると、振り下ろされたその槍をつかんでグイとひねった。
馬上の兄弟はバランスを崩して落馬。
そのまま〈犬〉に馬を奪われた。
前方に回り込んでいた奴は馬体をあてて止めようとしたが、〈犬〉に逆さに持った槍の石突に突かれてこれまた落馬。
兄弟を殺す気はないらしいが、それはつけ込めるような甘さや弱点ではない。
奴には手加減する余裕があるというだけの話だ。
〈犬〉が馬の腹をけって加速する。一気に距離が空いた。
俺もようやくの思いでもう一頭の馬のまで駆けついて飛び乗った。
前方には森。俺にはあの中で馬を駆けさせるような真似はできないが、奴にはできる。
このまま駆けこまれたら追跡は不可能だ。
やむを得ない。
俺は銀斧を馬の脚めがけて放り投げた。
魔法の斧は狙いたがわず命中し、哀れな馬がガクリと膝を折って転倒する。
が、〈犬〉は体勢を崩した馬からひらりと飛び降り、何事もなかったように駆けだした。
さすがに距離は詰まるがギリギリ間に合わず、追いつく前に〈犬〉は森に駆け込んでしまった。
森の縁で馬から飛び降り、追跡を続行する。
幸いにもまだ〈犬〉の背が見えた。
見失わなければ十分希望はある。
〈犬〉は倒木をヒョイと乗り越え、藪の下をスルリとくぐり、ちょっとした崖を軽々とよじ登って走破していく。
こちらの装備が重いのを見越してわざと悪路を選んでいる。
体力切れを狙う心算に違いない。
だが、俺は構わず追跡を続けた。
ここで諦めれば、こいつとは二度と会えないような気がしたからだ。
走りながらでも捨てられるものは片っ端から捨てた。
まずは斧。いつでも呼び出せる。盾は濠に飛び込む時に置いてきた。
剣を鞘から抜いて放り投げる。
兜もだ。
籠手と剣帯は走りながらでは手間取ったがどうにか外せた。
鎧はさすがに無理。ずっしりと濡れた鎧下が蒸れてひどく不快だ。
とにかくきついが、ローズポート伯と戦った時に比べればどうということはない。
命の危険はないのだ。
何より、〈犬〉だって相応にきついはずだ。
伊達にあの師匠に鍛えられてないってところを見せてやる。
〈犬〉が振り返って、まだ俺がついてきているのを認めてその目をかっぴらいた。
余程驚いたのか、乗り越えようと足をかけていた倒木を踏み外してつんのめる。
これが最後の機会だ!
残された体力、その全てを使い切る勢いで距離を詰める。
〈犬〉も必死だが、今この一瞬だけなら俺の方が速い。
あと一歩。最後の力を振り絞って跳躍。
ついに届いた。
指先が捕らえた襟首を逃さず掴み、引き倒す。
〈犬〉がうげぇと悲鳴を上げながら仰向けにひっくり返った。
揉み合いになるかと思ったが、〈犬〉の奴はもうすっかり諦めてしまった様子で、ゼイゼイ言いながら空を眺めている。
やがて何か言いたげに、恨みがましい目をこちらに向けてきた。喋るどころじゃないらしい。
こっちにだって言いたいことはあるが、息をするのに精いっぱいで、口を開いても何の言葉も出て来やしない。
先に声を発したのは〈犬〉の方だった。
「な、なんで……はぁ、はぁ……なんで……追いかけてくるんですか……!」
こちらもようやくの思いで息を整えて答える。
「はぁ……はぁ……てめえが、逃げるからだろうが!」
「こ、こっちだって、あんな顔で追っかけられちゃ、そりゃ、逃げますよ……!」
このなんとも馬鹿げたやり取りに思わず笑いが込み上げてきたが、息が足りずに二人してむせた。
次回は9/25を予定しています




