第二章4 『竜の涙と女の涙』
「――ご、ごめんなさい! シャンの声がしたから、きっとシャンじゃないかって思ってたんだけど……まさか巻き込んじゃうだなんて……」
人の笑い声や叫び声でごったがえす酒場の中にあって、その謝罪の声はどこか小さく、それでいて今にも消えそうな雰囲気をともなっていた。
だがその声の持ち主からすれば、まさに今の心境は穴があったら入りたいというか、もう穴に入るどころか消えてしまいたいようなものかもしれない。
なにせその謝罪の声の主は、今しがた見ず知らずの他人の顔面ど真ん中目がけて大量の粉をぶっかけた少女なのだから。
「いや、大丈夫だって。別に害意があったわけでもなかったみたいだし……」
しゅんとした様子の少女に苦笑しながら首を振ってみせれば、かすかに残っていた粉が髪の隙間からこぼれ落ちるのが目に入る。
その粉を思わず目で追ってしまったケイの様子に、少女が気恥ずかしさからまた一回り小さくなってしまうのだった。
――ついさっきケイの顔面に白い粉をぶちまけるというドッキリもかくやの歓迎をしてくれたのは、シャンが経営する店、【竜の涙】の常連客であるディアンという少女だった。
謝罪ながらに説明してくれたところによれば、勝手に店を出ていったシャンにお仕置きの意味も込めてきついのを一発お見舞いしてやろうと猛っていたところに帰ってきたシャン――ではなくケイに、そのお仕置きという名の攻撃が命中する羽目になったらしい。
まさか町中で粉を頭からかぶるハプニングがあるとは思わなかったケイもそれを回避することなどできず、身体強化を発動するよりも早く粉を頭からかぶる流れとなったわけである。
ちなみに先だって入ったケイが盾になった形のシャンは、ケイほどの被害を被ってはいなかった。ルインにいたってはどういう理屈かケイの身に文字通り降りかかる災厄を事前に察知していたらしく、真っ白になる男二人を尻目にゆうゆうと傍観者を貫いていた。
そのルインに水魔法を出してもらい、通りを水浸しにしながらシャンと仲良く真っ正面から鉄砲水を浴びて粉を洗い落とした後、屋内で冷えた体を温めながらディアンの謝罪を受けている――というのが、ケイが置かれた現状である。
「いやまぁ、俺はいいんだけどさ……」
そう言ったケイはジト目を隣に送り、そこでスープの入った容器を手にしたままぼーっとしているシャンを指さした。
「……シャン、お前、よく考えたらこの子に何にも言わないで出かけてたんじゃないの?」
「――え? あー、まぁ、僕が【竜の涙】の噂を聞いて出かけようとしたときには、たまたまディアンがいなくってさ……痛っ!」
ケイがくるタイミングが遅ければ、謎の失踪事件扱いでこの世からオサラバしていたはずのシャンの笑いながらの弁明にケイが思わず頬をひきつらせていると、そのシャンの頭に一発拳骨が落ちる。
「そうよ、シャン! いっつも言ってるじゃない! どこかに遠出するなら、あたしがついていくから、シャンはちゃんとあたしを雇うか呼ぶかしてって! なんで勝手に出ていったあげく、他人様に迷惑をかけてくるの!?」
耳を切り裂かんばかりの声量で響きわたる声の出元は、さっきまでケイに平身低頭して謝罪をしていたはずの少女、ディアンだった。
「待ってディアン、ディアンの力は強いんだから、そんなに僕の頭を殴ったら痛いって……づぁ! 舌噛んだっ!」
「知らないわよ! もし死んだりしてたら、こんな会話もできなかったじゃないの! 心配させないでっ!」
「うわっ!?」
さっきまでの殊勝な態度とは全く似ても似つかない少女の気勢に身勝手なシャンへの恨みも吹き飛び思わずたじろぐケイをよそに、少女の糾弾はシャンの抵抗むなしくさらに続く。
「今回だって、そこの人がいてくれなかったら死んでたかもしれないんでしょ!? もし会えなくなっちゃったらどうするのよっ!」
「ちょっ、ディアンっ、くび、締まってるっ」
かなり小さいはずの身長のどこにそんな力があるのか、濃紫の髪を振り乱し、容赦なくシャンの襟首をつかみあげて前後左右に揺さぶる少女にシャンの抗議の声が上がった。
「今日という今日は、とことん命の大切さってものを教えてやるんだから……っ!」
「まぁまぁディアン、その辺にしとこうよ……」
そのディアンを止めたのは、もはや何が何やらとばかりにポカーンと間抜け面をさらして状況を静観することしかできなかったケイではなかった。
「離して、リナっ! いくらアンタが止めても、今回ばっかりは……っ!」
「違うって! ディアンがいきなり騒ぐから、お客さんがびっくりしてるじゃない!」
「…………あ」
目を丸くしたままのケイを指してディアンを黙らせたのは、ツーサイドでくくった薄金色の髪が特徴的な一人の少女だった。
「えーと、こんな感じで、私の友達ってほんとは結構やんちゃなとこがあって……驚かせてしまってごめんなさい」
今にも噛みつかんばかりに暴れていたディアンを羽交い締めにしていた少女はやっと硬直が解けたケイに向き直り、そうほほえんで見せる。
「……あ、あぁ。俺もこういうのには慣れてるし、気ぃ使わなくても大丈夫だよ」
「そう言っていただけるとありがたいです……あ、私、リナって言います。このディアンって子の友達で、冒険者やってます」
「冒険者……?」
「あれ? ご存じないんですか?」
リナと名乗った少女の口から飛び出た単語に思わず反応したケイに、リナが不思議そうに首を傾げる。
「や、合ってるか知らないけどさ。冒険者っつったら、俺の中だといろんな人からの依頼を受けて報酬を稼いでる、何でも屋ってイメージなんだけど……」
「それで合ってますよ? というか、結構誰でも知ってそうなことだと思ったんですけど……」
「あー、なんつーか俺、この世界の常識に疎いみたいなんだわ。だから合ってるのか、ちょい不安でさ」
異世界おきまりの冒険者の存在があったことへの驚きと、リナの質問への対処で軽く言葉に詰まりながらも苦笑するケイ。だが幸いリナはそのケイの言葉を気にとめることはなかったらしい。
「でも冒険者を普通に知ってるなら、あんまり常識知らずってことにはならないと思うんですけど……」
「……あの、ちょっと、リナ、そろそろ肩が痛いかなって」
そこへ若干重たい口調で割り込む声。
「えっ!? あ、ごめんディアン、忘れてたっ!」
「忘れてた、じゃないわよっ!」
見ればさっきからリナに拘束され続けていたらしいディアンが軽く怒ったような表情を浮かべ、リナに詰め寄っているところだった。
リナが慌てて腕を放すとディアンは肩をぐるぐると回し、伸びを一つしてからため息をついてから椅子に腰掛ける。
「ったく、うっかりで肩がはずれたりしたら、私の唯一の強みがなくなっちゃうじゃない。それこそ商売上がったりだって……」
「ごめんってば」
そんなやりとりをしている二人を見ていたケイだったが、その椅子の前に置かれていたテーブルにふと、湯気を上げる木製の大皿が置かれた。
「野鳥と野菜の炒め物です。どうぞ」
そう言いながらケイのテーブルに給仕をしてくれたのは、金色の髪を自然に流した美青年。口振りからして、どうやらこの店の従業員らしかった。が、
「あれ……? 俺、まだ注文とかしてなかったよ? テーブルを間違えたとかじゃないか?」
「いえ、どうやらお客様には、店長を助けていただいたようなので。せめてものお礼として、無料で食事を提供させていただきたく」
「うぉ、何このイケメン!? 眩しすぎるっ!?」
そう言って眩しい笑みを浮かべるイケメン従業員にケイが思わずといった感じで目を覆う仕草を見せるも、従業員は「ごゆっくりどうぞ」と残したきり、もう一つの皿を今度はルインのところに届けにいったようだった。
後に残されたのは、ケイの前に横たわる大振りな肉と野菜が湯気を上げる木皿のみ。
「うっわ、美味そうだな……さすが、人の手が入った料理」
シャンの馬車に乗ってからはあまり動くことはなかったとはいえ、それでも今は普段であればすでに夕食を終えていてしかるべき時間であり、ケイの腹はすでに燃料不足を訴えている。
「じゃ、お言葉に甘えて」
そう言うや否や、手元に置かれたフォークとスプーンの中間のような食器で肉を掬い取り、一口目を口に含む。
ちょうどいい火加減で炒められた肉は硬すぎるということもなく、かと言って決して生焼けではないその肉からは、素材そのままだけでない味がしっかりと染み込んでおり、一度噛むごとに舌へ味が溶けだしてきた。
「ん、美味い!」
「でしょ? 彼、僕んとこの自慢の弟子なんだよ」
思わずそう言ったケイのテーブルの向かい側に、さっきまで伸びていたはずのシャンが座り込んでくる。
「一口だけ失礼…………お、結構腕をあげたね」
そういうや否やシャンはケイの返答を待つこともなく皿の上から食事を摘み、ひょいっと口に放り込んでしまう。
「え……いくら俺がずっと野生味あふれる食事を食べてたのをさっ引いても、これ結構美味いぞ。それで『腕を上げたね』って、シャンって実は結構な料理人?」
「僕? いや、そんな大したことはないけど。一応まあ、料理を指導できる立場にはいるとだけ言っとこうかな」
「店長、謙遜はやめてくださいよ……」
含みのある言い方をするシャンに苦笑したのは、さっきケイに料理を出したあのイケメン従業員だった。
「領主の継承式で腕を振るったことのある料理人なんて、そうそういないんですから。もっと堂々としていてください」
「そんなこと言われてもねぇ……」
「まぁ、見た目からじゃ絶対に想像できないですよねぇ」
「これだからシャンは……はぁ」
堂々とした、なんて言葉とはかけ離れたイメージがたつシャンの女々しい言葉に、周りからは呆れたような言葉が返ってくる。
領主の継承式に料理を出した、と言われても、ケイからすればどれくらいの名誉と腕があるのかはぱっと想像がつかない。だが、他の人の会話から察するに、並大抵のことではないのだろう。
「領地……日本だったら、都知事の引き継ぎとかで料理を出すって感じか?」
なんて想像を膨らませてみるも、当然のように小市民だったケイには都知事の引き継ぎの会食的なものに参加したこともないし、そもそも論で今の都知事が誰かと聞かれても若干答えに窮するようなタイプの残念な学生だったため、なんとも言いがたい。
「もう、シャンがこんなんだし、お兄ちゃんも変な風に謙遜したりしなくてもいいのに……」
だがその思考は、リナが口にした言葉がケイの思考の端に引っかかったことであっけなく霧散する。
「お兄ちゃん?」
「はい。さっきケイさんに食事を運んできた人、私のお兄ちゃんなんですよ……」
リナがそうどこか苦笑いしながら告げた言葉に、ケイはまじまじと目を見開いた。
「え? あのイケメンが?」
「そうなんです。でも血はつながってないんですけどね」
「イケメンな兄と、美少女の義妹……!? さすが異世界、なんでもありか」
日本にいた頃は絶対に幻想だとばかり思っていた事実に、ケイが思わず小さな声で反応を返す。だが幸いケイの戯れ言はリナの耳には届かなかったみたいで、
「前は私と同じで冒険者をやってたんですけど、数年前からは料理の方に走ってっちゃって。シャンの店にお邪魔して、ずっと料理の腕を磨いてるんです」
「なるほどね……」
とケイ、そこでがしがしと頭をかき、リナに向かってどこかきまずそうな様子で言葉を紡いだ。
「……あー、それはそうと、敬語、はずしてもらってもいい? 俺も疲れちゃうし」
実はさっきから、ぱっと見同年代の少女に敬語を使われていて結構な気持ち悪さがあったのだ。だが当のリナは首肯ではなく首を傾げて返答を返し、どこか期待すらこもった目線を向けてきた。
「でも、魔物の群れを殱滅できちゃうくらいの実力の持ち主なんですよね!? だったら自然に敬語になっちゃうような気もするんですけどっ!」
「いや、そもそも倒したのは俺じゃないって。そこの桃色の髪の女の子なんだし、変に気を使われても俺が困っちゃうっての」
そう言って苦笑したケイに反応したのは、さっきまでシャンの手伝いとして店の中を駆け回っていたディアンだ。両手に持った皿を置き、ケイに驚いたような目を向けている。
「え? そうなの? 魔物の集団を倒したって聞いたから、二人とも戦ったのかって早とちりしちゃったんだけど……」
「そりゃ誤解だって。俺がそんなに戦闘力高そうに見える? ちゃんと戦えるような人だったら、そもそも最初のあれ、避けてたと思うし」
「うっ……それはホントにごめんなさい……」
思わずといった感じで言いよどみ頬をひきつらせるディアンに、ケイはいらないことをしたかと苦笑。
「ってわけで、俺には敬語とか、いらないよ。っつか、俺たちには、かな? あっちの女の子も、別に敬語とかつけてほしがるヤツでもないしね……ぅぉ、いつの間にあんなに食ってんだ……」
そういうとケイは途中から食事に夢中で存在感が空気だったルインの方を指し示し、そのルインが周りの屈強な男たちから食事を勧められているのを見て思わず素で愕然としていた。
「うー、一度敬語を使っちゃうと直すときの違和感があるんですけどね……えと、これでいい?」
「ん? ……ああ、そんな感じでよろしく」
だがその驚愕をかみしめる暇もなく、リナのどこか戸惑いの見え隠れしたタメ口調が耳に入ってきたので、桃色の少女に周りの筋骨隆々の人間が食事を貢いでいるという奇怪な光景を見ていることはかなわなかった。
「――ってことは、結局ケイってどんな人なの?」
ディアンの口からでてくる、当然の疑問。その疑問に対して、ケイは実によどみない答えで言葉を返した。
「ちょっとした没落貴族の三男坊なんだよ。家名はまぁ、俺のかすかな名誉も考えて聞かないでもらえると助かるかなーって。で、そこの少女は一種の用心棒みたいなヤツね。めちゃくちゃ強いぜ」
「あー……なんか、聞いちゃまずい感じの内容だった……?」
「いや、ぜんぜん」
かすかな苦笑いを浮かべつつも、ケイは手を振ってディアンの懸念を払拭してみせる。
――没落した貴族の、三男。ルインはその従者、兼用心棒。それがケイがシャンに頼み込んで聞いてもらった、ケイの偽りの身分だった。
人里に入れるのはいいが、もしケイたちが指名手配されているようなことがあれば困る。どれだけケイやルインの容姿が広められているのかも定かでない以上、即時遁走を計ることも一考したのだが、酒場に入るなりつまみ出されることがなかった以上、そこは安心していいらしい。
「にしても、貴族の人だったんだね。道理で、髪がきれいだと思った」
「え? そうなの?」
リナの口から飛び出してきた予想外の角度からの誉め言葉に、ケイが思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
「いつ頃家を出されたかは知らないけど、それまでちゃんと管理されてたんでしょ? 黒い髪も珍しいけど、きれいな髪質も珍しくはあると思うよ?」
「へー、そうなんだ。いやでも、ケイはぱっと見貴族には見えないかなぁ」
リナの言葉を感心したそぶりで聞いていたケイの耳にディアンが口にした言葉がひっかかり、内容を理解した瞬間にケイの全身がかすかに強ばる。
「もう、ディアンったら、そんな失礼なこと言わないのっ!」
「……あはは、まぁよく言われるよ」
そんな一幕を見ていたケイは、返事をしながらも静かに安堵のため息をもらしていた。
当然といえば当然の話だが、ケイはどこぞの没落貴族でもないし、そもそも元をただせばこの世界の住人ですらない。
だがそれを言えば相手を混乱させる可能性があるし、その希有な個人情報が元であの施設の関係者をおびき寄せてしまうかもしれない。それ故に、ケイは『没落した貴族の三男』という設定を身にまとうことを決意したのだった。
人に嘘をつくことにかすかなりとも良心がうずくのを感じるケイだが、もしバカ正直に異世界からきたなんて言おうものならシャンたちに迷惑がかかるかもしれない以上、仕方のない措置である。
「――ん?」
「ますたー……眠いのです」
こてん、と何かが肩にもたれ掛かる感覚に思考を乱されたケイがその犯人を見やれば、目が半分閉じたルインがケイに身をあずけているところだった。
「あー……そっか、もう結構夜も遅いんだな」
時計があるほどに技術革新が起きていないらしいこの世界では、時間を判断する基準は日の傾きや体内時計といった原始的なものしかない。
この一週間ほどの原始的な生活のおかげで勝手に研ぎすまされた体内時計によれば、どうやら今は普段ならそろそろ眠りにつくような時間帯
のようだった。
「なぁシャン、盛り上がってるとこ悪いんだけど、俺達そろそろお暇しなきゃならないんだけど、さ……」
『おすすめの宿とかってある?』と聞こうとしたケイの声が、そこで不自然に停止した。
それは別に、部屋の隅で丸まっているシャンの奇態を見て思わずぎょっとしたからというわけではない。
もっと根本的なところ、大事な疑問に思考が行き着いてしまったからだ。
「…………俺、お金持ってないんだったよな」
これまでの一週間、生存本能と生存本能がぶつかりあうワイルドかつ単純な生活をしてきたケイの懐には、現在大寒波が猛威を振るっているところである。
たとえ木賃宿であったとしても、泊まり込むのには少々土下座をせねばならない状況で、『おすすめの宿ある?』なんていう金を持つものがするべき質問は、とてもではないがケイに投げかけられるものではなかった。
「ん? ケイ、どしたの?」
突然挙動が硬直したケイを疑問に思ったのか、それまでリナとわやくちゃともみ合っていたディアンが顔を上げてそんなことを聞いてきた。
「いや……実は、今日寝る場所というか、そのためのお金というか、その持ち合わせがないんだよね……」
ケイが恥ずかしそうに若干萎縮しながらもそう告げると、ディアンとリナは二人で顔を見合わせ、ついで小さく吹き出した。
「――っな!? 笑うこたないでしょ!?」
「いや、ごめんって。貴族貴族っていう割に、お金持ってないなんて、言ってることが駆け出しの冒険者と変わらないからさ、おかしくって……」
顔を赤くしながらも抗議するケイだが、二人は笑うのをやめるどころかより声を大きくして笑い始め、この世界に倫理や道徳はないのかとケイが憮然とした表情になるまでひとしきり笑ったリナとディアンは、いくぶん緊張のとれた声でこう提案をしてきた。
「まぁ、ケイがいなかったらシャンの命なんてなかったわけだし。命の恩人なんだし、一泊分くらいなら宿の代金は奢ってあげるよ、貴族サマ?」
からかいの感情を多分に含むその提案であってもそれ以外に状況をどうにかする選択肢を持たないケイは、渋々であれ無言で頷かざるを得なかったのだった。
◆ ◆ ◆
木張りの床をきしませながら、二人の男女が建物の中を歩いている。
一人はやはり憮然とした表情を浮かべて口をへの字に曲げたケイで、もう一人は歩きながらにして半分以上目が閉じかけているルインだ。
どうやら人をいじるのが好きらしいディアンでも、さすがにここで一級の宿を紹介して『元貴族』ということになっているケイをおちょくるような真似はしなかったらしい。
向かった先の宿屋がボロくもなく、かといって装飾過多でもない、いわゆる普通の宿だったというのが、ありがたいといえばありがたい配慮だった。
「それでおちょくったのが許されるかどうかってのは、また別問題だけどな」
意識を向ければ頭に響くような気すらする二人の笑い声を意識から閉め出し、ケイは宿の受付で指示された部屋の前に立っていた。
「…………まぁ、距離をとられるよりは絶対いいよ、うん」
意識から閉め出しきれなかった二人との会話を思い出し、必死にいいこと探しをすること数秒、何かをあきらめたようにため息をついたケイは部屋の引き戸に手をかけた。
「……じゃ、ちゃちゃっと着替えて寝ま……す……か……?」
そして扉を開け放ち、部屋の違和感に語尾が消える。
部屋の中には、野外生活の時には望むべくもなかったベッドに、小物を置くためだと思われる棚を筆頭に、生活感のある小物がこまごまと並んでいる。
問題なのは、部屋の最奥に鎮座するそのベッドそのものだった。
「……おいちょっと待て、俺は確かに従者と貴族って言ったよな」
そこにあるのは、一人で使うには広すぎるベッドがたった一台。つまり二人用のベッド以外に、寝具として使えるものはなかった。
つまりこの部屋、いわゆる二人部屋なのである。それもベッドが一個しかないような。
「ますたー、ルインはもう、寝るのです……」
「え? あ、ちょっ、待っ……」
ディアンの思惑が透けて見えるようなチョイスの部屋にケイが思わず黙って立ち尽くしていると、その横をすっと抜けたルインが有無をいわさぬ勢いでベッドに倒れ込み、しばらくしないうちに寝息をたて始めてしまった。
「…………はぁ」
ケイのことをマスターなどと呼ぶくせに、その行動はどこまでも自分勝手なルインにため息を一つついたケイは、改めて部屋の中を見やる。
やっぱり部屋の中に隠し寝具があるなんていう異世界オリジナルな展開は存在せず、ケイの目の前にあるのはルインが寝転がったままのベッドが一つ。
思えばまともな寝具なんてここ数週間近く使っていないし、可能ならそのベッドに自分も潜り込んで寝てしまいたいが、それをすると漏れなくルインがついてくる。
そんな羞恥心と願望の狭間で揺れること、だいたい一分。
「………………床で寝るかな」
ケイはここへきて持ち前の日本人的思考でもって、久しぶりのベッドを断念したのだった。
◆ ◆ ◆
思えば、夜に交代で番をする必要なく二人ともしっかりと寝る、というのは初めてのことだった。
「………………」
その生活に慣れかけていたせいで、ルインのいるベッドから持ってきた布団にくるまって地面で寝るケイは未だに眠りにつくことができていなかった。
耳を澄ましても、たき火のはぜる音、木々が風にすれる音、獣のうなり声のどれもが聞こえない、痛いほどの静寂がある環境でじっとしていると、いっそ耳鳴りでも聞こえてきそうなほどでもある。
もう、こうしてどれくらいの時間がたっただろうか。
魔物を狩りながら暮らしていた頃にはあれほど屋根と安全のある寝床を望んでいたはずなのに、いざその場に置かれてみれば全く身体に睡魔が忍び寄ってきてはくれない。
かすかに意識を落としてはいるものの、それでも表層に薄い膜を張るような眠りともいえないもうろうとしたままの意識で、ケイは声を押し殺して床に寝転がっていた。
こうして寝ていると、全く動く気配のない空気に自分が縛られているような錯覚を覚えてしまう。何かが動けば肌がそれを感知できるような、どこか変に張りつめた空気には、どこか不気味なものすらあって――
「…………?」
そのとき、ケイの聴覚が何かがごそごそとうごめく音を捉えた。音の発生源は、ベッドの上。つまりは、ルインだ。
「うゅ…………」
寝言をつぶやいたルインはベッドの上で寝返りでも打っているのか、衣擦れの音が聞こえてくるようだった。
その様子に思わず苦笑したケイは、自分もそろそろ寝るかと本格的に意識を閉じようとする。
「…………って、え?」
だがその意識は、ケイの背中に何かが押しつけられる感覚で完全に浮上した。
暖かい熱を持った、どこか柔らかい何かの感触は、まるでケイのよく知る誰かのようで――
「……むにゃ…………ますたー……」
後半は完全に寝言と化して聞き取れないにしても、背中に当たる全体的に柔らかい感触、それに首筋にかかる吐息とともに聞こえる規則的な呼吸音、どう見てもルインのそれだった。
さっき聞こえた衣擦れの音は、ルインがケイの寝ている隣に転がってくるものだったというわけだ。
「ルインお前……っ、ベッドで寝てたはずじゃあ……!?」
その正体を首を向けて確認したケイが、苦悶と恥じらいの混じった声を漏らす。ルインと二人きりでベッドで寝るのが気恥ずかしいからわざわざ床で寝たというのに、これでは本末転倒ではないか。
などと口にできるはずもなく、ケイは仕方なく目を閉じる。
だが、視覚情報を遮断したせいで背中から聞こえる規則的な寝息がさらに耳につく結果となり、ケイは思わず無言の悲鳴とともに頭をかきむしった。
ベッドが空いたのだから今度は自分の番だとケイが立ち上がり移動しようとするも、その胴体にいつのまにかルインの細く白い腕が回されており、抱き枕でも抱えるようにがっちりホールドされている。
「なん…………っ!?」
旅の途中に意識することは少なかったが、これでもルインは相当な美貌を持つ少女だ。そんな少女に実質抱きすくめられる状況に陥ったケイの心臓が一気に早鐘を打ち始め、薄もやがかかっていたはずの意識が一気に覚醒してしまった。
そうなればよりクリアに聞こえる呼吸音や、果てはどこか柔らかい匂い、首筋にかかる吐息の感覚が感じられて余計に寝ているどころではなくなってしまう。
「――――――ッ!」
なぜかベッドではなく地面に寝そべって無音の悲鳴を上げながらも必死に意識を落ち着けようとするケイの様子は、どこか滑稽ですらあった。
(なんでこんなことに――ッ!? いや、待て落ち着け、落ち着け俺――――!)
だが当のケイにはそんな客観的状況を判断できる余裕などあるはずもなく、勝手にヒートアップし始める心臓の鼓動を押さえるのに必死だったのだった。
――結局その日、耳につく呼吸音と背中に感じる暖かい人肌を意識からカットできることはなく、ケイは全く眠ることができなかったのである。




