第一章24 『其の名は』
「…………ゥルル」
――思考を断ち切るように背中から聞こえたその音の正体に、ケイは数秒間気づくことができなかった。
だがその正体は、振り返りざまにその獣と目が合ったことでイヤでも理解させられることになる。
「――――ッ!?」
それを見た瞬間、ケイは思わず思考もなにも投げ捨てて本能が指示するがままに全力でそこから後ずさった。
「――ガァァアアアアアッ!!」
ケイの真後ろで荒い息をもらしていたのは、一匹の狼だった。
――だが、その姿には部分的に、ケイの知る狼とは若干ながらもずれているところがある。
そもそも、そのサイズがちょっとおかしい。だいたい全長にして三メートル、高さでいってもちょっとした馬ぐらいかそれ以上はあるのではないか。
さらに加えて言うならケイは、今も威嚇行動であるかのようにやっている、火を噴く狼というものを見たことがなかった。
「なん、だ、こいつ……!?」
「典型的な狼型の魔物なのです」
冷静にそう答えたのは、ケイが魔物から逃げるようにして後ずさった結果、柔らかい感触とともに衝突した少女だった。
「ウォル……なんて!? いやつーか、待って、これ、死ぬっ!?」
少女の話に出てきた謎単語を確認しようとしたケイは、再び発せられた狼の声に情けなく首をすくめ、悲鳴を上げた。
だが、今まさに狼に命をねらわれているもう一人の連れは案外気丈なものだった。
「ますたー、ちょっと下がっていてもらいたいのです」
「……っえ?」
それだけ告げると少女は立ち上がり、背もたれをなくして倒れ込んだケイを放置して目を閉じる。
たったそれだけの所作のはずなのに、ケイにはえも言われぬ巨大な力が見えないところでうごめいている、そんな感覚を得た。
そしてその勘が正しかったことを、ケイはすぐに思い知ることになる。
「――――ッ!?」
発生したのは、指先ほどの大きさしかない風の玉。
最初はそよ風程度の規模だった風はすぐに小規模なつむじ風に、嵐に変化し、可視化できる次元まで圧縮された。
その見た感じからしてどうみてもあのハンザが使っていたものと同等かそれ以上の密度を誇るとわかるものが、五個。
名もなき少女はそれを掲げ、目の前の狼に向かって投げつけて見せた。
「――――ッガアアァアッ!?」
風の玉はそれなりのスピードで直進し、鋭利さを纏う球という不思議な物体になりながら狼の腹を貫いた。
しかも、それだけでは終わらない。
腹から抜け出さない風の玉をいぶかしんだケイが眉をひそめるとほぼ同時、その風の玉が――元の風になって|暴れ狂った。
体内に極限にまで圧縮された空気を入れてから、その圧縮を解いたらどうなるか。
「――――――ッ!」
――答えは、ケイの目の前に展開した血の雨だった。
だが、その血は一滴たりともケイに降り懸かることはない。いつのまにか手元に生成されていた風の盾によって吹き散らされたからである。
その血の雨が晴れた後に残っていたもので、元々がその狼のものだと判別できるものはまず残ってはいなかった。
ある意味リアルなスプラッタ映像を見せられたような状態のために愕然としたままのケイに、なんの苦もなく狼を爆発四散させたかのように見える少女が振り返ってくる。
その感情の伺えないまなざしに見つめられて、ケイはさきのショックも併せてただただ沈黙するしかなかった。
「――ますたー」
そして、あれだけの方法で狼を殺害したのに返り血もついていない少女が、口を開く。
「な、なんだよ」
その髪と同じ色の、すべてを透徹したような薄桃色の目にじっと見られてケイは思わずたじろいだ。
なにを要求されるのかと内心ビクビクしていたケイは、だが次の少女の言葉をまったく予想できなかった。
「誰だって、友達に死なれたらさみしいのです」
「――――――ッ!」
その純粋な言葉が、ケイの胸を深くえぐる。
サクラは言わずもがな、あれほど恨みを持っていたコウタですら、その死の瞬間には言いいようもない悲しみを覚えたことが、ケイの心によみがえる。
そしてその少女の言葉でケイは、この少女が自分の動向を監視していたということを思い出した。
「見てた、のか……」
その言葉に、静かにうなずく少女。どこか呆然としたままのケイに対して、その少女はさらに言葉を続ける。
「――でも、死んだ人は残った人が死んだらもっと悲しいのです」
「そんなこと、わかるわけ――――ッ!」
ケイは少女の悲しそうなものいいに、噛みつくように言葉を返す。死人に口無し。そういう言葉がケイの頭をよぎる。
だが少女は悲壮な顔をして首を振り、ケイの言葉を否定した。
「わかるのです。当機もまた、そうだったのです」
「――――ッ!」
そうだった。つまりそれは、この不思議な少女がかつて命を落とし、さらにその状態で親しい人間が命を落とした瞬間を目撃したことがあると言っているに等しい。
「だから、先に死んだ人を悲しませないで欲しいのです――」
そうケイを説得する少女に、いつしかケイは自分の中にわだかまっていた自殺願望や少女への恨みと言ったものが薄れていくのを実感していた。
「それに。当機も、せっかくできた友達が死んだら悲しいのです……」
「――っ、あ、っは……」
その少女の言葉に、ケイは思わず笑いを浮かべた。
――ここまで悲哀を浮かべて自分のことを説得してくれる少女を殴った挙げ句にその言葉を無視して自殺しようと言うものなら、罰当たりにもほどがあろう。
「なんだ。お前、ボッチなのかぁ……」
「ボッチで悪かったのです。こんな辺境に遊びに来てくれる友人なんていなかったのです」
そうむくれたような表情を見せる少女にケイは苦笑し、ついで空を見上げる。
――唐突に奴隷身分で召還されて、ここまでやってきた。友達から裏切られそお友達も二人死に、とんだ異世界ライフだと吐き捨てたくなった。
でも、知り合いでもないのに自分の身を案じてくれるこの少女がいて、必死にこじつけまでつかって自分が死ぬのを止めてくれている。
それなら、こんな血にまみれた自分の異世界ライフも救われるものがあったのではないか。
「――まぁ、なんだ。このまま死んだらお前、ぼっちになっちゃうみたいだしさ。そりゃかわいそうだし、もうちょっと生きてみてもいいかな」
「当然なのです。当機のますたーなら、当機より先に死なれるのは恥になるのです」
そうケイが告げると少女は柔和な笑みを浮かべた。春に咲く、花のような優しい笑みだった。
「さし当たって、ますたー。さっきの質問に答えたいのです」
「質問?」
「ますたーが、契約者になるための条件。当機に、友達の証が欲しいのです」
「なんだ、そりゃ」
「当機を、人間にしてください。――名前を、下さい。それが、ますたーへの、お願いなのです」
そう告げた少女の目は、真剣極まりない色を宿していた。
「名前だ……?」
「当機にはこの通り、呼称がないのです。契約者から名前をもらって初めて、私たちは契約者を正式に認証できるのです」
その言葉に首を傾げつつも、なれない思考回路を必死に動かしてこの少女に良さそうな名前を考え始めるケイ。
だがいかんせんやったこともない作業なため、最初は興味深そうに沈思黙考しているケイの眉根には次第に縦皺が刻まれ始めた。
「――もう、ハナコってんじゃだめ?」
「なんだか耳慣れない名前なのですが、ますたーから投げやりに決めたと思われるような雰囲気がひしひしと伝わってくるのです。もっとちゃんと考えてほしいのです」
そう少女からつっぱねられ、ケイは渋面になりながらも再び思考の海に潜っていく。
(もし名付けるなら、外見的特徴から呼ぶ、とかか……? こいつ、桃色の珍しい髪してるし……)
別にありふれてないわけではないが、『ハナコ』よりはマシだろう。そう考えて『モモ』と口に出そうとしたケイの思考に、ふと閃くものがあった。
「……あ」
その脳裏をよぎるのは、夭逝してしまった自分の一人の親友。この少女の髪の色とぴったりの名前を持っていた、勝ち気で積極的だった少女。
――名前を借りても、いいだろうか。
ケイはしばし、逡巡する。もしここで『あの名前』を借りたとして、自分はおそらくその名前を呼ぶにつけてこの少女にあの親友の姿を重ねてしまうのではないか、と。
――でも。それでもケイは、あの少女が生きていたという、その証が欲しかった。自分の中で永遠に忘れられない思い出になるのであれば、逆に好都合と言える。
(――――名前、借りるぞ)
目を瞑り胸中で囁いたケイは顔を上げ、真剣な表情のままで待機している少女に向かって口を開いた。
「――――なぁ、お前の名前、決まっ――」
――ギシリ、と。
その声を、遮るように、何かが軋む音が響いた。
「――――なんだ、この音」
確信を抱くには、いささか小さすぎる音。かと言って見過ごすことのできないほどには大きすぎるその音を聞いたケイは、思わず言いたかったことも忘れてそうつぶやいていた。
「――――、――――」
その声に呼応するようにして、もう一度、軋みがあった。
その音は、ケイが気づいたときから明らかに音量を増しており、ケイがわざわざ耳を澄まさなくとも聞こえるようになっていた。
まるで、何かが壊れる予兆ともとれるその音にケイが自分の背中を嫌な予感が駆け登るのをひしひしと感じ取っているのとは対照的に、少女の方はずいぶんと落ち着いたものだった。
「――あぁ、もう、時間なのですね」
「――――時間? いったい、なに、が、」
「この建物は、まもなく崩落するのです。その自重を支えるものがなくなり、上からの地層に押しつぶされて」
「――――――――なん、て?」
ケイはたった今、自分の思考が停止したのをかるく眩んだ意識の中で感じ取っていた。
今、この少女は、なんて言った?
――ここが崩落? そりゃ大変だ、ここから逃げ出さないとな。
「――――違うだろ」
この施設には、決してケイやコウタ、サクラだけが居たわけではない。労働力として収容されていた、おそらくは何千人にも及ぶ人間が、まだ中で生きている。
これからあの大量に積もった地盤が崩落し、この施設は文字通り大地に還ることとなるということは。
「つまり、その人たちが、これから生き埋めになるってことだろ――――――――っ!?」
「そうとも、言えるのです」
「――――――ッ!」
その少女の言葉に、ケイの視界がブラックアウトしそうになる。
「……っ、な、なら、残ってる人を脱出させないと――!
それを防ぐために、ケイは必死に思考回路を回転させ始めた。
こうしないと何かよくないことが起きてしまうのではないかという、既視感のある感覚を覚えて。
「ここには何人ぐらいの人がいる? 残り時間は何分だっ!? 早く動かないと、避難誘導が――――」
そのケイを見下ろす、少女の目。
そこに諦観の念が宿っていることに、ケイは気が付いてしまった。
「――――無理なのです」
静かに放たれた言葉に、頭を殴られたかと思った。
無理なわけがあるか、とはとても言い返せなかった。
だって、もう、
「――――――ぁ」
崩壊は、始まっているのだから。
「ぁ、ぁあ、あ……」
ケイが声にならない声を上げるその目の前で、さっきケイがこの部屋に来るときには全力全開でようやく壊せたあの頑丈な壁が、みしり、と嫌な音をあげて亀裂を一つ入れた。
それは瞬く間に円周状の部屋の壁すべてに伝播し、一瞬の均衡を経て轟音と共に崩れていく。
「やめろ……やめてくれ…………っ」
首を振り、掠れた声で懇願するケイの呟きは、圧壊していく壁から吹き出した粉塵にかきけされ、誰にも届くことはなかった。
「――――やめろおおぉぉォォォォッ!」
そう叫んだ瞬間に耳がちぎれるような轟音が辺り一帯に響き、壁が完全に崩壊していく。
――あの瞬間に、どれだけの人間が死んだだろう。中に残された人は、なにを思って死んでいったのだろう。ほら、今もまた、あの中から怨嗟の声が聞こえてくるようじゃないか――ッ!
「――脱出、するのです」
地面にへたりこんだまま感情を隠しもせずに慟哭するケイに少女は痛ましい視線を投げかけ、そのケイの肩をそっと抱きすくめる。
数秒後には少女の意志によって球状の風の壁がケイたちを包むように形成され、頭上から落ちてくる瓦礫を静かに粉砕してケイと少女の身を守り始めた。
降り注ぐ礫砂の中でケイは一人、その光景を安全地帯から見守りながら暗い笑いをこぼす。
その表情の中にある瞳は、もはや何の感情も映し出していない。
「――――――なぁ、」
それでも防ぎようのない地を揺らす振動と轟音がまき散らされる中、ケイの感情が死んだ声が静かに響いた。
「――――お前の名前、決まったよ」
一部が崩れるしていくごとにさらに加速していく崩壊に虚ろな目を投げかけたケイは、のどをつぶして掠れた声のまま、その名前を口にする。
その思考にあるのは、さっきまでの輝かしい記憶ではない。
代わりに脳を席巻するドス黒い感情の赴くままに、ケイは目の前の景色を眺めてこう呟いた。
「――――――――――破滅、だ」
――直後に一際大きな崩落が起き、頭上から降り注ぐ大量の土砂や岩石がそこにいたケイ達の姿を完全に覆い隠したのだった。




