第一章17 『Pity Clown』
その声が聞こえた瞬間にコウタを殴りとばすべく掲げた手が衝撃と共に空打ちされ、ケイはその感覚とついで感じた喪失感に思わずその方向を見やった。
その先にあるのは、さんざん見慣れた施設の壁。
「――――――ぇ?」
違う。それは、自分の手に空いた風穴から覗く、向こう側の景色だ。
「――――ッ」
文字通りに空いた風穴から覗く白い塊は、指の骨だろうか。その隙間をみっちりと埋めるのは、細く複雑に絡みあい折り重なる筋肉。ぶよぶよした半透明のものは、おそらく脂肪だろう。
ところどころに見える赤い点は多分、大動脈などの血管。数瞬後にはその中身をいっきにぶちまけ、その在処を眩ませるはずだ――
コンマ一秒にも満たない時間の間に駆け抜けたその感想は、いわば現実逃避のための状況分析。
――だが、そんなもので現実は、ケイを逃がしてはくれない。
「――っっぁああああああぁぁぁぁああああああっ!」
喉の奥から弾けた魂の慟哭が、次の瞬間には降り注ぐ血の雨にその悲惨さを彩られていく。
すでに今日だけで、何度悲鳴を上げただろうか。
拷問をされて、痛みにはとっくに慣れきったものだと思っていたのに、ケイの神経は今もまだ元気に『痛い』と悲鳴を上げてくれているのだ。
神経が擦り切れていないことが果たして幸か不幸か、それを判断できるだけの理性は今のケイにはない。
「っが――痛いっ、痛いぃあぁぁあああああ!」
どれだけ喉を枯らして地面を転がっても、それでケイの痛みが消えることはない。
どれだけ歯を食いしばり、どれだけ風穴の空いた手の手首を力を込めて握りしめても、それでケイの頬を伝う涙は消えることはない。
だけど、この痛みが、喪失感が、少しでも和らぐなら。
「ぁああああぁぁぁぁあああっ――――!」
ケイはその一念で、ひたすら獣のように吠え続けていたのだった。
「っはは、な、なんだよ……」
そして、あと一歩ケイへの魔法の行使が遅れていたらまた頬を全力で殴りとばされ、おそらくは意識すら飛んでいただろう、コウタは。
「遅いじゃねぇか……!」
その視線の先にある闇をじっと見据え。
風魔法を使ってケイを打ち抜いた、自分の『協力者』に声をかけた。
◆ ◆ ◆
「――――っ、――ぁ!」
おそらく、手の甲に衝撃を受けて反射的に手を開いたのはケイにとって救いだった。
だが、そのおかげで使いものにならないくせに動かせば尋常でない痛みを発するこの五指が、ケイには恨めしい。
「遅いじゃねぇか……!」
だからケイはコウタのどこか安堵したような声が聞こえたとき、せめてその相手を見据えてやろうとさっきまで自分が殴りとばそうとしていたコウタから視線を外してコウタの視線の先を見据えた。
その視線の先にあるのは、闇。そこだけ照明が点っていないようにねっとりとした暗がりがある、そんな場所。
ケイは痛みを訴える神経をねじ伏せて、その闇を睨みつける。
向こうが何人か。体格は。自分に対する構え方は。それらの情報を判断して、サクラの言葉通り『生き残る』ために。
――そして、闇の中からついにその『協力者』のゆっくりと姿を現し。
「――――『すみません……最速で駆けつけたんですが……追っ手を撒いて戦力を立て直すのに、時間がかかってしまって……』」
――――その声音に、ケイのすべてが凍り付いた。
「――『真藤政弘』なら、そう言うんじゃないか?」
攻撃されたらなんとしても避ける。追いかけられるようだったら逃げる。
そんな当たり前の対処法は、今のケイの中では何の意味も持たない言葉の羅列に成り下がっている。
「あぁ、『オッサン』ならそう言うんじゃねぇの?」
「まぁ今は『オレ』だからな。悪ぃ、ポッゼのヤツを黙らせるのに時間がかかった」
例えば。例えば、自分が信頼していた人間の知らない一面を見せつけられたとしたら?
それが、今のケイの心境だろう。
「――――よぉ、『ケイさん』。こっちで会うのは、初めてか?」
ケイに向かって喋りかけた、マサヒロの姿をしたナニ《・》カが獰猛に微笑み。
「まぁなんだ、『真藤政弘』は死んだと思ってくれ。オレはただの、『協力者』なわけなんでな」
「どう、いう――――?
「――――早速で悪いけどよ。お前には、さよならしなきゃならねぇんだわ」
未だに思考が止まったままのケイに向かって、手をかざしたのだった。
◆ ◆ ◆
――例えば、自分が信頼していた人間の知らない一面を見せつけられたとしたら?
その時の感情というのは、その一面の『中身』によるだろう。
冷酷な人間の優しい一面は、その人の好感度をバネで打ち上げたように跳ね上げることがある。不良ぶった人間の一抹の心遣いに、その人への悪感情が薄れゆく瞬間がある。
そしてケイにとって、この場合とは。
「――――早速で悪いけどよ。お前には、さよならしなきゃならねぇんだわ」
まさにその逆を地で行く、ケイの全身に悪寒を走らせるたぐいのものだった。
「モーラ・バルツァー・ジャヴェラル」
『マサヒロの姿をした誰か』は残忍な笑みを浮かべ、ケイに向かって手を伸ばしたままそう言葉を紡ぐ。
それはケイがこの世界で幾度となく経験した、自分を死に一歩近づける文字通りの魔法の言葉。
魔法を発動するためのキーとなる、その起句だった。
「――――――ッ!」
その言葉を耳に入れた瞬間、ケイは『マサヒロの姿をしたものが自分をねらってくる』という事実に対する戸惑いの感情をねじ伏せ、手の痛みをこらえて横っ飛びに跳躍した。
直後、コウタが『協力者』と呼んだ男の手から見たこともないような紫電が迸る。
その光景を見たケイの頭に『雷魔法』という言葉が反射的に思い浮かび、男の手に一瞬まとわりついたその光がケイの方へと一瞬で襲いかかり。
「――っぁああああ!」
一瞬でケイの怒号を飲み込んで、閃光と爆音を引き連れて地面を駆けた。
逃げたはずのケイはおろか、一緒にいたコウタまで巻き添えにしたのではないかという次元の雷を放った、その男。
「………………チッ」
だが、その表情はどこか冴えない。細めた目でかすかに閃光につぶされた視界を見やり、あからさまに不満そうな様子で舌打ちをする。
「――――っは、ぁ、が……っ」
――果たしてケイは、その魔法をすんでのところで避けていた。
一瞬で無茶な体制から激しい運動を強いられた足が軽く悲鳴を上げ、それ以上に激痛をあげる手の痛みに脂汗を浮かべて歯を食いしばりながらも、ケイは気丈にその男の方をにらみつけている。
それもこれも、『魔法=ヤバいもの、最優先で避ける』という、この異世界にきてから培われた常識がすんでのところで反射神経にも等しい効果を発揮したお陰だろう。
「――っ、なん、だ、これ……!?」
だが、ケイはその魔法の効果から完全に逃げ切れたわけではなかった。完全に魔法の対象外にあったはずのケイの腕が、かすかに痙攣を起こしている。
それも運の悪いことに、穴が空いた側の手がより強くひきつっているのだ。腕がかすかに跳ねる度に神経をむしばむ激痛に歯を食いしばるケイは、自分の陥った状況を冷静に把握しようとする。
(俺は、もしかして感電してるのか……!?)
結果、その結論にたどり着くまでにケイが要した時間は、それほど長いものでもなかった。
「――――オレとしちゃ、一発で意識刈り取ってやろうっていうつもりいだったんだけどな。しぶとい雑魚だ」
そう冷酷な声で返した協力者に、ケイの全身の血がすっと引いていく。
さっきのあの魔法を避けられたのは、ケイに言わせればただの偶然にすぎない。かすかに魔法が当たって足が使いにくくなっている今では、次の攻撃を避けるのはもう不可能だろう。
(逃げるか――!? こっちには『力』がある、けど……)
使い方がわからない。発動のためのキーがわからない。その事実に気がついてしまったケイは、喉の奥まで出かかった『詰んだ』という言葉を飲み込むのに必死だった。
それに。
「なんで……マサヒロさんが……っ!?」
口調は違えども、その瞳に宿る獰猛さがあろうと、その見た目は間違いなくケイが全幅の信頼を寄せ、たくさんの仲間を従えてこの脱走計画をずっと指揮してきた、『真藤政弘』だったから。
ケイはフリーズ寸前の思考をたたきなおして、そう『マサヒロの姿をした何か』に問いただす。
「――――ぁあ?」
だがそのケイの血を吐くような問いかけに対する男の答えは、不機嫌そうに首を傾げ、粗野極まり無い口調でそう唸ることだった。
「俺は『協力者』だ。その『マサヒロ』とやらは、俺の演技だっての。そんなこともまだ分かんないのか、お前?」
その声には、一切の身内に対する容赦や温情というものが欠け落ちている。
「――ぁあ」
それでケイはようやく、理解した。自分はおそらく、ハメられたのだと。
この『真藤政弘』という日本人を騙った男に、おそらくはルージェスの側の人間なのだろう、この男に、騙された。
その事実がケイの頭の中で静かに染み込み、ついでケイの中にどろりとした黒い感情がわきだしてくる。
「さぁ、お前はここで退場だ。じゃあな、少年」
凶悪な声音とともに、その声に勝るとも劣らない恐ろしさを放つ雷が協力者の腕に顕現し、その狙いをケイに定める。
「――――」
いやな汗がケイの頬を伝う。あれが直撃したら最後、すべてが『終わる』と直感に怒鳴られたのがわかった。
だが、ケイは動かない。
――濁った感情が浮かんでいるなら、それは原動力に変えてやる。
――その感情を余すところ無くくみ取って、この命を燃やし尽くしてやろうじゃないか。
(――なぁ、誰かさん。『力』を、また、貸せ――)
胸中でそう暗くつぶやくケイの本音に従うまま、ケイはそう強く強く念じ――
「――なぁ協力者、俺はいつになったらサクラをもらえんだよ?」
その声に、男の魔法が、ケイの心の声が、解き放たれる寸前で大気に溶けて消えた。
「――――あぁ?」
「コウタっ!?」
ある意味ケイを救ったその張本人――コウタを、ケイは信じ難いものを見るような目で見た。
「ケイなんか後回しでいいからさ。俺にサクラを早く、くれよ――っ!」
その瞳に宿るのは、まさに驚喜であり、狂喜でもある色。
コウタがずいぶんと前から口にしていた『サクラをもらう』という言葉と、今しがたコウタが口にした『サクラは生き返る』という二つの言葉。
それがひとまずの『詰み』を一瞬でも回避したために冷静な思考を得たケイの中で合致し、ケイに一つの結論をもたらす。
(――死魂操作とか、そういう魔法があるのか)
その答えはひどく感情を欠いていて、それを胸中でつぶやく自分の声もまた、とても冷めたものだった。
(サクラを殺して、自分に隷属するように生き返らせて。そういうことだろ、コウタ?)
――もし、今ケイが自分の感情を露わにしたら。
ケイは一片の勝算も求めることなく、コウタに殴りかかっていただろうから。
『それだけの理由で、お前はサクラを殺したのか』と、その頬をなんとしても殴りとばそうとしただろうから。
(――クソッ、考えろケイ! この状況を脱出して生き抜くんだ、サクラに約束したろ!?)
そう自分に言い聞かせ、どうにかしてここから逃げ出す方法を考えたくても、その感情は理性のくびきを壊してでも『コウタを殴りとばす』という一点の結論に飛び込んでいこうとする。
「はやくやってくれよっ! あの、魂魄魔法っていうのでさっ!」
そしてコウタは、ケイの神経を逆なでするような言葉を再び並べあげた。
「――――ぁあ、あの魔法か」
コウタがそのケイの予想を裏打ちするように告げた言葉で、協力者はやっと合点が行ったように納得した表情を浮かべて。
「俺に、サクラを――っ! 早く――っ!」
淀んだ瞳で協力者を見据え、そう催促するコウタをみやった協力者は、どこか面倒くさそうな仕草で頭をがしがしと掻き。
「――いや、そんな魔法、始めっからないんだが?」
「――――――――――ぁ、ぇ?」
そう、嘲笑紛れに吐き捨てたのだった。
◆ ◆ ◆
魂魄魔法。
読んで字のごとく死者の魂を意のままに操り、自分の思ったままの人形を作り上げる、コウタにとってはまさに福音と呼ぶべき魔法。
ルージェスの提案に乗ることを決めた日から、コウタは『この魔法さえあれば』という妄想をどれだけ広げてきただろう。
だからこそ、この魔法は欠かせない存在。サクラの入手という、自分の悲願成就のために、この魔法はコウタにとって欠かせないファクターだった。
実際にその『効果』を見せてもらったときから、コウタはその魔法の虜になっていた。
これさえあればサクラを手中に収められるという、その一点のみに思考を集約して、文字通り『恋は盲目』を歪んだ形で体現して、自分がルージェスの駒になる可能性に気づこうともしなかった。
だから。
「いや、そんな魔法、はじめっからないんだが?」
「――――――――――ぁ、ぇ?」
思考が止まる。
「魂魄魔法――いや、実在はする。だけどあれは、ごく一部の限られた家の人間しか使えない、秘術中の秘術だ」
そんな嘘みたいな、冗談みたいな、でも淡々と告げられる言葉で。
「ルージェスさんだって、あんな反則じみた魔法が使えるけど、あれ以下のオレたちじゃ、絶対に使えない魔法なんだわ――」
世界が壊れる様子を、ありありとコウタは幻視した。
――――あの魔法は使えない?
あれほど期待していたのに? そのためにわざわざ慣れない演技を打ってまで、この状況を作り上げたのに?
『違う、論点はそこじゃないだろ』
不意に脳裏に響く、良心の声。ひどく落ち着き払っていたその声が指摘したことは、ぁあ、忌々しいながらも全くもって正しい。
『その事実から逃げるな。すげ替えるな。お前ならとっくに気がついてんだろ?』
協力者の言葉を聞いた瞬間からコウタの中に芽生えていた、ある一つの疑問。単純にして致命的故に、コウタがそれを自覚した瞬間に思わず蓋をしてしまったもの。
「じゃ、じゃぁ――――」
もはや意味をなさないコウタの思考回路が良心の声に従い、静かにその疑問を、事実上の死刑宣告を、コウタの口から吐き出させる。
「――――なんのために俺は、サクラを殺したんだ」
そう口にした瞬間、コウタは自分が全身を震わせているのに気がついた。
自分の意志と関係なく勝手に打ちならされる歯の音が、痛いくらいにコウタの脳に突き刺さる。早鐘を打つ心臓の鼓動が、コウタの思考を断絶させる。
「ぁあ? 魂魄魔法だかなんだかをアテにしてたのかは知らないけどよ」
そしてコウタがその震えのなんたるかを理解するよりも早く、『協力者』の甲高い声が響きわたった。
嘲笑が混じる。それは親友を裏切ってまで女を欲した男への、たった一人仕えもしない魔法を追い求めて道化を演じきった男の滑稽さを笑う、『観客』の声。
「だったらそりゃ飛んだ見当違いの、ただの殺人だったわけじゃないのか?」
他人から突きつけられたその厳然たる事実に、コウタの思考が崩壊する。
「――――ぁ、ぁ」
生き返らない死を、やりなおせない不可逆の道を進んでしまったコウタの思考が音を立てて崩れゆく中、その良心が口にした声が聞こえた気がした。
『――ほら、だから言ったじゃねぇか。”そもそも、その魔法は本当にあるって言い切れるのか?”ってな』
と。




