第一章11 『境界線上で踊る』
――光が、降り懸かる。
「ぐ……っ、ぁあああっ……!」
ケイには、自分の体の内側を浸食していた『死』がその光に追いやられるようにして、激しい頭痛と倦怠感を伴って体外へ出ていくのがありありと実感できた。
同時に微塵も力が入らなくなっていた手に活力が戻り、全身に火がともるような熱を残して体力が回復していく。
これで、この体が痛めつけられて直されるのは何回目になるのか。
火や氷、雷など、実に多彩な魔法の数々を味わいながら暮らすこの時間がどれくらいたったのか、ケイはもう把握できていない。
だが、少なくともケイにわかっていたことが一つある。
「……っ、あ、っは、はぁ……」
それは、自分は負った傷のすべてを回復魔法で癒されつつも、その根底にある何かが確実にすり減っていっているということだった。
火傷に凍傷、麻痺に毒に効果を発揮する回復魔法が癒してくれるのは、だが肉体的な傷だけだ。
自分が傷を負ったときの痛み、そして傷を負っていたことによる精神的なダメージ、さらには傷を回復するときの痛みまでもは打ち消してくれない。
(まだだ……コウタか……マサヒロさんが……助けにきてくれるはずだ……)
体の内側をかきむしるような痛みに耐えるケイの脳裏では、決して口には出さないながらもそういう考えがさっきから延々と渦巻いている。
それは、希望というにはあまりにも儚いものだった。
そもそも自分が捕まっている状況から考えて、コウタやマサヒロが同じように捕まっていないとも思えなかったのだから。
(来てくれ……早く……!)
だが、その一念にもはや藁にもすがる勢いでしっかりとしがみついているからこそ、ケイはことここにいたるまで口を割らずにいられた。
「……ここまでやって口を割らないとは、若干賞賛するような次元だな」
「だったらそろそろ、ボクらに渡す?」
「……いや。まだやりようはある」
そんなハンザと書記の男のやりとりをぼーっとしながら聞いていたケイだったが、
「ひとまず、腕の一本でもとばしてみようか」
「――――ッ!?」
その言葉に、無音の悲鳴を上げた。
「まずは――」
そしてハンザが懐から何か細く鋭いものをいくつも取り出し――
「――うっぐっぁあああああっ!?」
「動けないようにしないとならんな」
それをケイの全身に、くまなく突き立てた。
「なんだ、叫ぶ気力はまだあるのか」
「あ、ぁああっ、なんだ、これ……っ!?」
ケイが一番直近の部位――腕の付け根を貫通しているらしい、黒い棘のようなものに視線を移す。
それはどうやらケイが磔にされている台にまで貫通しているようで、ケイに断続的な肉の裂ける痛みとともに、ケイが体を動かそうとすると激痛と突っ張るような感触を与えてきたのだった。
それが、全身の腕やらその付け根やらに、まるで昆虫の標本のごとく何カ所も刺さっている。
これで叫ばずにいたら、もうケイはこの痛みと不快感に狂死してしまいそうだった。
「おお、軽く投擲するだけで台までざっくり行くのか。さすが遠方からわざわざ仕入れた魔物の棘はひと味違う」
「魔物の、棘だと……? あ、ぐっ……」
どこか感心した様子ですらあるハンザは、ふっと目を細めてケイを底冷えする様子で眺め、腰に差していたものを抜き放った。
「おいおいまだくたばるなよ脱走者。――ここからが本番だぞ?」
声と共に、暗い部屋を切り裂く一閃。
「――――ぇ?」
それだけだった。
痛みもなにも、ない。
思わず目をつむったケイがおそるおそる目を開くと、その視界の中では肉厚の両手剣を振りおろした体勢のままで固まるハンザがいて。
その剣が通ったであろう道筋には、別になにも異常はない、ほら、痛みもないんだから異常なんてあるわけ――
「――――――ッぎゃああああああああッ!!」
それは、現実に撲殺された虚構の音。
腕が肘の半ばから断ち切られ、その痛みを全身に刺さった棘によって増幅されたケイの、喉を焼ききる絶叫だった。
「どうだ? 効くだろ? こういう痛みを増長するようなものってのは、やっぱ体罰に使うのが一番なんだよな」
そう満足げに口にするハンザの声など、ケイの耳には入っていない。
(痛いっ、痛い、痛い痛い痛いいたいい痛いイタい痛い痛いっ――!)
そのケイ本人は、文字通り地獄の苦しみを現在味わっていてハンザの声を聞く余裕などありはしないのだから。
(効けよ脳内麻薬っ! なんで仕事しないんだっ!?)
そう胸中で叫ぶケイだが、腕からやってくる脳を苛む痛みが消える様子はありはしない。
実はこの棘を持つ魔物は、自らの防衛の為、棘の中に刺した相手の痛覚を倍増し、脳内麻薬の効果を鈍らせる効能を持つ物質を注入する特性を持っているのだ。
その魔物の何倍サイズを持つ獰猛な魔物ですら、迂闊におそって棘の一本でも刺さろうものならばその後数時間は痛みにのたうち回るということをよく知っているため、その魔物にはほとんど手を出さないのだ。
『魔物』という生物の存在を知る由もなかった、この時のケイには理解することもできなかったことだったが。
「あ、ぁああ、――――ぁ」
そして、ケイの精神があまりの痛みに意識をシャットアウトする。
――だが、意識を失ったぐらいでは地獄は終わらない。
「はぁ……また回復魔法か。腕の一本を再生するとなると時間がかかりそうだが…………仕方ないか。モーラ・ブリット」
ハンザがそう告げるとその手から目映い光が迸り、ケイの意識をつかみ上げるべくケイの全身に降り懸かった。
「がぁ――――――、――――――ッ!!!」
もはや悲鳴は声にならない。あまりに短時間で繰り返される破壊と再生に脆くなっていたケイの声帯が、その負荷に負けて潰れたせいだった。
だがそれでも、悲鳴は声なき怨嗟となって部屋に響きわたる。
「――――っ、――――――ッッ!?」
ケイの体に今し方埋め込まれたばかりの棘が、回復魔法の作用によって全身から抜け出そうとしているのだ。しかも現在、ケイは痛覚を倍増されている状態。
そんなところで回復魔法の痛みと棘が押し出される痛みが平行して襲ってくるなど、悪夢もいいところだろう。
「ん? 棘が抜けそうになっているのか……仕方ない、魔法で押し戻すか」
そしてその様子を見たハンザがさも面倒そうだという声でそう呟き、
「ウォーラ・ウィッド・ミルガ」
手元に一瞬で量産した風の玉を、片っ端からその棘の尻に叩きつけてケイの体内へ押し戻していった。
「――――――――!」
声なき悲鳴が部屋の中で反響し、ケイの精神と肉体が削られていく様を無音にして如実に物語る。
激痛のあまり意識が途絶えたかと思うと、直後には盛り上がる肉を引き裂いて体に浸食してくる棘がその意識を絡め取り、ケイの意識を喪失と存在の狭間で揺さぶり続ける。
「――――っぁ、ぅ、がっ……」
いったいどれほどの間、その地獄は続いただろうか。
「ここまで精密な魔法を打ったのは久しぶりだな……いい練習になったぞ」
ハンザがそう言ったのを最後に、ケイの全身を走る激痛は消え去った。
――いや、それはあくまでケイの主観だ。
ただしい言い方をするならば、ようやく痛みが平均値まで戻ってきた、だ。
(……はっ、なんてこと考えてんだよ、俺……)
冷静になってみれば、普通にそれだけで絶叫せずにはいられない次元の痛みがケイの全身を走っているのだ。
――回復魔法の恩恵を引き裂いてケイの体を固定したままの何本もの棘は、一瞬でも気を抜けばそれだけで体が四散するのではないかという痛みを与え続けている。
――さっき切り落とされて再生したばかりの腕は、お湯でもかけられたかのように熱を持って疼いているし、もともとの体と結合しようとしているのかさっきから断裂した部分から突き刺すような感触がある。
それらすべてを包括して『痛みが収まった』と一瞬であっても言い切れてしまう程度には、ケイの精神は壊れかけていた。
(コウタ……マサヒロさん……)
朦朧とした思考回路が思うのは、意識を失う寸前に自分のすぐ側にいた二人の仲間の名前。
(………………なんで、来ない……!)
――だが、ケイのその言葉に込められた思いは、その相手を思いやってのものとは真逆のベクトルにあるものだった。
(何でだ……? 俺を助けてくれよ……!)
瞬間、激痛を激痛と思えなくなっている狂った精神がかすかに軋みを上げる。
それは、ある意味理不尽といってもいい怒り。
合理性をそこそこ重視する冷静な普段のケイならば、まず浮かびもしない考え。
(俺はここだっ。ここにいるんだよっ!)
激痛を感じなくなったことでできた思考の余裕から、わずかににじみ出てきた黒い感情。
(――なぜ来ない、友達だろっ!?)
もはやその言葉には、一片もの理性は籠もっていなかった。
代わりに、その言葉は感情でできていた。
『痛い、辛い、助けて』と泣き叫ぶ無力な一人の子供の叫びによって、その言葉は彩られていた。
(助けて、よ――っ!)
激痛に耐えた。いずれくる助けを信じて待ち続けた。
それでもこない助けを待ち続けて、最後は神経が麻痺した。
そんな状態の自分を客観視するだけの心の余裕ができてしまったケイを、誰が責められるというのか。
(助けて、助けて、たすけて――――っ!)
声には出さない。出したくても出せない。
だがケイは、心の内で叫び続けた。
『――――助かりたいのですか?』
そして、その心の声に反響するように。
『それなら、力を貸すのです』
確かに響く救いの声が、あった。
◆ ◆ ◆
「――なに、これ」
そう口を開いたのは、異世界人への人体実験を行っていると言った書記の男だった。感情の薄いはずの目は大きく見開かれ、声には明らかな動揺が見て取れる。
その視線の先にいるのは、ハンザに先ほどからいたぶられ続けている脱走者の男。
はじめは哀れだとも感じなかったその少年に対して、今その書記の男は激しく自分の中で荒れ狂う感情を抱いていた。
それは、恐怖。
実験のためにと切り捨てたはずの感性が、全力で警戒信号を出している。長年感じたことのない冷や汗が、半端ではない量で背筋を伝った。
◆ ◆ ◆
「――――っ」
醜い実験の結果、声を一つ上げるのにも激痛を伴うような体になってしまった、キメラの男。
今回も『ハンザを魔法で補助する』という建前の元、自分たちに対する教育という名の洗脳のためハンザに引っ張り出され、ここに立っていた男だったが。
(なんだ、これ……)
奇しくもこのとき真っ先に思った感情は、普段は憎悪を抱く研究所の男と等しいものだった。
(体に――魔力が流れ込んでいる?)
蛇型の魔物と融合された今なら、その男にはケイの身に起きている現象が理解できる。
男の半分を司る魔物の感性は、ケイの体にもの凄い勢いで見えざる力がながれこみ、膨れ上がる様をひしひしと感じ取っていた。
(いや、それはあり得ないっ! この脱走者は異世界人のハズ――!)
――だが残り半分であるヒトの理性は、魔物が感知したその現象をあり得ないと切って捨てた。
それも仕方ないことだろう。この世界の常識では、『異世界から召還された人間は魔力を吸収できず、魔法が使えない』のだから。
(何者だ、この少年は――!?)
乾く唾を飲み込むことすら、目の前に突如として君臨した『死』を前にしては気軽に行えはしなかったのだった。
◆ ◆ ◆
「――む?」
ハンザが体中を走る違和感に気がついたのは、後ろに控える男たちが全身から警戒信号を発するよりも少しばかり早かった。
元々、戦場で人間のなんたるかを学んできた身だ。自分の身に降り懸かる災難の一つや二つを感知できない程度では、到底この歳まで生きてはこれなかっただろう。
「――――」
その直感が、今自分が目の前でいたぶっている少年を『危険だ』とはっきりと告げていた。
自分が数秒後には命の危険にさらされていることを教えるその感覚に、ハンザは一瞬目を瞑って自分の上司の言葉を思いだし――
「――――――フンッ!」
――目を見開くと、手元の剣を少年の首に向かって一閃した。
◆ ◆ ◆
直後。迸る閃光が目を焼き、響く轟音が耳を潰す。
肉を叩き潰す耳慣れない音がそれに混じって鼓膜をひっかく。
それらの音を一瞬で聞き分けたキメラの男は、同時に閃光で潰されながらも機能を果たした自分の目で今しがた見た光景に、思わず声を出していた。
「信じられん――――!」
久々に声を発したことで喉に走る痛みも無視して、男は自分の見た光景を思い出す。
――起きたことは、実に単純だった。
さっきまで瀕死の体で拘束されていたはずの少年から、一瞬にしてとてつもない魔力が膨れ上がった。
そして全身を拘束していた棘が吹き飛び、両手剣を振り上げようとしていたハンザを刹那のうちに部屋の隅まで殴りとばしたのだ。
ただし、それらの出来事はすべて半秒にも満たない時間で行われていたが。
(なんなのだ、あれは…………っ!)
確かに数瞬前、自分が感じた『死』の気配は正しかった。
もしあれが自分に振るわれたらと思うと、蛇としての本能とヒトとしての理性が総じて青ざめる。
だが、それ以上に男の思考を占めていたのは、疑問だった。
――再度言うが、異世界人であるケイには魔法が使えないハズだ。
しかしながらケイは、自分でも軽々と吹き飛ばせるかが怪しいハンザの肉体を一瞬で壁に埋めた。
(いったいその技が魔法でないというのなら、なんだというんだ――!?)
そう男が脳裏で叫んだ瞬間、目の前に少年が現れる。
黒髪黒目の少年の、どこか戸惑ったような、それでいて決意を秘めた視線に射抜かれ――
直後、男の意識は暗闇の中に沈んでいった。




