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家賃は愛嬌じゃ払えません! 〜訳ありイケメンだらけのレトロアパート、今夜も大家(32)の胃袋と心が奪われそうです〜  作者: タカノ


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第9話:原稿用紙の隙間から

日曜日の正午というのは、本来であれば一週間の中で最も穏やかで、気の抜けた空気が流れるはずの時間帯だ。

夜にはアパート恒例の「全体夕食会」が控えているため、大家である私の午前中の仕事は、共用ダイニングのテーブルを拭き清め、日当たりのいい管理人室の縁側で洗濯物を干し終えれば、ひとまず一段落する。

金曜日に顧問税理士の矢吹先生から『あなたを取り巻く状況は、いつ爆発してもおかしくない火薬庫の上に座っているようなもの』などと冷徹な忠告を突きつけられ、背筋を凍らせたばかりの私だったが、秋晴れの心地よい日差しを浴びていると、あの警告すらどこか現実味のない夢だったのではないかと思えてくる。


「さてと……夕食会の買い出しは三時頃でいいし、お昼はお茶漬けでもサラサラッと食べて――」


自室のやかんがシュンシュンと小気味よい湯気を上げ始めた、まさにその瞬間だった。


――ドンドンドンドンッッッ!!!

――ガタガタガタッッッ!!!


「ひゃっ!?」


心臓が喉から飛び出るかと思うほどの轟音が、玄関エントランスから鳴り響いた。

ただのノックではない。木製の引き戸が蝶番ごと外れんばかりの勢いで揺さぶられ、まるで巨大な暴徒がアパートを襲撃してきたかのような激しい地鳴りが廊下を伝わってくる。


「ふ、深見先生ぇぇぇぇっ! お願いですから開けてください! 電話に出てくださぁぁぁい! もう印刷所が、印刷所の輪転機が手ぐすね引いて待ってるんですぅぅぅ!!」


引き戸の向こうから聞こえてきたのは、この世の終わりを告げるような、血を吐くような男の絶叫だった。


「な、何事……!?」


私は慌ててスリッパを引っ掛け、共用廊下を小走りで玄関へと向かった。

鍵を開けてガラリと引き戸を引いた瞬間、勢い余って前のめりに土間へ倒れ込んできた人影があった。


「うわっ、危ない!」

「ぎゃっ……! す、すみません……! あ、あれ……?」


倒れ込みそうになった体を寸前で踏みとどまらせたのは、二十代後半とおぼしきスーツ姿の青年だった。

仕立てのいい紺のスーツを着てはいるが、ネクタイは斜めに歪み、髪は鳥の巣のように乱れ、両目の下には濃い青紫色のクマが張り付いている。そして何より、右手で自分の胃のあたりを痛そうにギリギリと押さえつけていた。


「あの……どちら様でしょうか? ここは個人の賃貸住宅なんですが……」

「はっ……! し、失礼いたしました! わたくし、文誠館書店の月刊『文芸潮』編集部、小野寺徹(おのでらとおる・二十八歳)と申します……! 一〇二号室の深見怜先生の、担当編集をしております……っ!」


小野寺と名乗った青年は、ポケットからしわくちゃになった名刺を震える手で差し出すと、そのまま上がり框に両手をついて深々と頭を下げた。


「深見さんの……担当編集者さん?」

「はい! 大家さんですよね!? 文さんのお孫さんの! ああ神様、助かりました……! 実は、先生の連載サスペンスの最新話、今日の午後四時が、本当に、正真正銘、これ以上一分たりとも伸ばせない最終デッドラインなんです! 落としたら雑誌に数十ページの真っ白な大穴が空いて、僕は編集長と印刷所の両方から東京湾に沈められます……!」


小野寺の額からは滝のような脂汗が流れ落ちていた。

かつてブラック企業の営業事務として、納期の遅延で血相を変えて飛び込んできた営業マンたちの修羅場を嫌というほど見てきた私には、彼の胃の痛みが痛いほどよく分かってしまう。


「あ、あと四時間……!? それ、本当にシャレにならない時間ですね……」

「そうなんです! なのに先生、昨日の夜からスマホの電源を切って、部屋のインターホンを鳴らしても完全無視で、内鍵をかけて立てこもっていらっしゃるんです! 文さんがご健在だった頃は、合鍵で突入して叩き起こしてくださっていたんですが……大家さん、どうか、どうか僕の命を救うと思って、部屋を開けていただけないでしょうか……!?」


小野寺は土間に額を擦り付けんばかりの勢いで懇願してくる。

だが、私の脳裏をよぎったのは、初日の夕食会で全員に宣言したあの鉄壁のルールだった。

――『住人の私生活への過剰な干渉・プライベートの詮索は禁止』。


「うっ……で、でも小野寺さん、うちはプライベート不干渉が原則でして……大家がみだりに店子の部屋に踏み込むのは、契約上ちょっと……」

「そこを何とか! 先生、女性の気配や足音には敏感に反応されるんです! 僕がいくら叫んでも『うるさい死ね』としか返してくれませんが、大家さんの差し入れなら絶対に隙が生まれますから! お茶でも何でもいいです、先生の好物の塩むすびでも握って持って行っていただければ……!」


好物の塩むすび。

その単語を聞いた瞬間、私の元社畜魂と、大家としての保護責任がチクリと疼いた。

深見さんは締め切り前になると飲まず食わずで部屋にこもり、行き倒れる常習犯だ。第一話の時も、万年床で脱水症状寸前になって倒れていた。

もし今、部屋の中で本当に意識を失っていたら?

原稿が落ちるどころか、人命に関わる事態かもしれない。


「……わかりました。五分だけ待ってください」

「ホ、本当ですか!? ありがとうございます、女神様……!」


私は共用キッチンへ駆け戻ると、炊飯器に残っていた炊きたての白米をボウルに取った。

余計な具材はいらない。掌を冷水で濡らし、天然の粗塩をたっぷりとなじませて、ふんわりと三角に結ぶ。祖母の管理ノートにも『一〇二号室は濃いめの塩むすびが好き』と書いてあったはずだ。パリッとした有明産の焼き海苔を巻き、大きめの塩むすびを二個。

急須には静岡産の深蒸し茶を濃いめに淹れ、湯呑みと一緒にお盆に乗せた。


「お待たせしました。行きましょう、小野寺さん」

「うおおっ、素晴らしい……! お米のいい匂いがします……!」


お盆を抱えた私を先頭に、胃を押さえた小野寺が忍び足で後に続く。

一階の共用廊下を奥へと進み、一〇二号室の重厚な木製ドアの前へ。

私は深呼吸を一つし、ドアノブの横をコンコンと軽く叩いた。


「深見さん。大家の佐伯です。お仕事中に申し訳ありません、差し入れをお持ちしました。炊きたてのご飯でおにぎりを握ったんですけど……いかがですか?」


しんと静まり返る廊下。

小野寺が息を呑み、胸の前で祈るように手を組んでいる。

十秒、二十秒。やはり無駄だったのか、と諦めかけたその時――。


カチャリ。


内鍵の外れる、乾いた金属音が響いた。


「開いた……!」

小野寺が歓喜の声を上げかけた、まさにその刹那だった。


バァンッ!


勢いよくドアが開いたかと思うと、薄暗い部屋の奥から、骨張った長い腕が電光石火の速さで伸びてきた。

そして、お盆を持っていた私の右手を、正確無比な力加減でガシィッと鷲掴みにしたのだ。


「きゃっ……!?」

「うわっ、先生!?」


叫ぶ暇もなかった。

引きずり込まれる強烈な慣性力。私の体はあっけなく一〇二号室の敷居を跨がされ、部屋の暗がりへと引っ張り込まれた。


「先生! 原稿は――」

「うるせえ。貴様はそこで待ってろ」


バタァァァンッッッ!!!

ガチャリ。


無慈悲な重低音とともにドアが叩きつけられ、内鍵が再び施錠された。

ドアの向こうから「ぎゃあああ! 先生ぇぇぇ! 大家さぁぁぁん! 締め切りあと三時間半ですぅぅぅ!!」という小野寺の悲痛な叫び声が虚しく木霊する。


「……ちょっと、深見さん!? 何するんですか、小野寺さんを締め出すなんて!」


暗闇の中で真っ赤になって抗議した私だったが、手元のお盆を落とさずに済んだのは奇跡に近かった。

部屋の中は、昼間だというのに遮光カーテンがぴっちりと閉ざされ、夜のように薄暗い。

灯っているのは、ライティングデスクの上の青白いLEDスタンドライトだけだ。

空気中には、濃く煮詰まった珈琲の苦い匂いと、吸い殻の山から漂う煙草の灰の薫香、そして印刷されたばかりの紙とインクの匂いが充満していた。


私の手首を掴んだままの男――深見怜は、乱暴に息を吐き出しながら、私から視線を外さずに立っていた。

黒のスタンドカラーシャツのボタンは胸元までだらしなく外され、伸びた黒髪はボサボサ。顎には濃い無精髭。黒縁の丸眼鏡の奥の瞳は、極限の集中と睡眠不足によって異様な光を帯びてギラギラと輝いていた。

鬼気迫る作家の形相。

それなのに、喉仏の起伏や、鎖骨の鋭い陰影から漂う大人の男の色気は、第一話の時よりもさらに生々しく、危険な濃度を増していた。


「……あの男の甲高い声を聞くだけで、頭の血管が切れそうになるんだよ」


耳元に落ちてくる、低くしゃがれたハスキーボイス。

深見は私の手首を放すと、お盆の上の塩むすびを無造作に鷲掴みにした。

そして、大きな口でバクリと半分ほどかじりつく。


「むぐ……」


咀嚼する音が静かな部屋に響く。

深見は目を細め、喉仏を大きく上下させて飲み込むと、ぼそりと呟いた。


「……塩気がちょうどいい。海苔もパリッとしてる」


「あ……そ、それは良かったですけど……。小野寺さん、本当に困ってましたよ? あと四時間で締め切りなんですよね?」


「分かってる。あと十枚だ」


深見はおにぎりの残りを口に放り込むと、机の上のノートパソコンへと向き直った。

そして、私が「じゃあ私はこれで失礼します」と踵を返そうとした瞬間――。


ガシッ。


再び、私の左手首が強い力で捕らえられた。


「ひゃっ……!? な、何ですか!?」


「逃げるな。ちょっとこれを見ろ」


深見の長い腕が、私の体をデスクのすぐ真横へと強引に引き寄せた。

肩と肩が触れ合うほどの至近距離。

深見の体温と、煙草の苦い匂いがふわりと私を包み込む。

彼の人差し指が、ノートパソコンの液晶画面をトントンと鋭く叩いた。


「これだ。この部分のプロットの動機付けが、どうしても腑に落ちねえ」


「え……? プロット……?」


画面には、ワープロソフトの画面の横に、最新作のミステリ小説のキャラクター設定シートと人物相関図が表示されていた。

文字を目で追った私の視線が、ある一箇所でピタリと凍りついた。


『主要登場人物設定』

【ヒロイン:志織(しおり・三十二歳)】

立場:昭和レトロな下宿の若き女主人。元・一般企業の事務職。

性格:世間知らずで警戒心が薄く、自分がどんな男たちに囲まれているかの自覚が致命的に欠落している。無自覚なお人好しさと、ふとした瞬間に見せる図太い生活感で、周囲の男たちの独占欲と庇護欲を狂わせる年上の女。


「…………」


一秒、二秒の沈黙の後、私の頭の中で何かがブチリと音を立てて弾け飛んだ。


「……深見さん」


「なんだ」


「これ、完全に私じゃないですかぁぁぁッッッ!!!!」


狭い部屋の中に、私の絶叫が木霊した。

名前の漢字を「栞」から「志織」に変えただけ!

年齢も職業も境遇も、何から何まで私そのまんまではないか!


「なんなんですか『警戒心が薄く無自覚に狂わせる』って! 悪口ですか!? 私は狂わせてなんかいません、ただ普通に平穏に暮らしたいだけのしがない元社畜です!」


私が顔を真っ赤にして猛抗議すると、深見は眼鏡の位置を中指でクイと押し上げ、ふっと意地の悪い笑みを口元に浮かべた。


「悪口じゃねえよ、取材に基づいた極めて正確な人物描写だ」


「どこが正確なんですか!」


「鍵を開けっ放しにして寝込み、脚立から落ちて男の胸に飛び込み、男の部屋にホイホイおにぎり持って入ってくる女のどこが警戒心あるんだよ。……ほら見ろ、現実のあんたそのものだろ」


「うぐっ……!」


痛いところを全部突かれ、言葉に詰まる私。

深見は冷ややかな目を細め、私の顔をじっと見つめてきた。


「作中の探偵役も、犯人役も、このヒロインの無防備な笑顔ひとつで捜査方針を狂わされていくんだよ。……男ってのはな、こういう『自分にだけ気を許してるんじゃないか』と錯覚させる女に、一番理性を狂わされるんだ」


金曜日に矢吹先生が言っていた言葉と、まったく同じ論理。

ゾクッと背筋が粟立つ。

この男は、作家特有の冷徹な観察眼で、私とアパートの住人たちの関係性を、すべて見透かしていたのだ。


「ネタを提供したのはあんただ。文句があるなら、書き終わってから聞く」

「なっ……」

「そこに座ってろ。……それと、コーヒー淹れろ。濃いやつだ」


深見は私の返事も待たずに、キーボードの上に両手を置いた。

そして――。


タタタタタタタタタッッッ!

タンッ! タタタタタタタッ!


凄まじい打鍵音が、部屋の空気を一変させた。

目にも留まらぬ速さで画面を埋め尽くしていく日本語の奔流。

先ほどまでの気怠げで意地悪な態度は跡形もなく消え去り、深見の横顔は、刃物のように研ぎ澄まされた冷徹な集中の中に没入していた。


鬼気迫るプロの凄み。

累計三百万部を超えるベストセラー作家の、言葉を紡ぎ出す圧倒的な熱量。

文句を言って部屋を飛び出そうとしていた私の足は、その圧倒的な空気に縫い止められたように、動かなくなってしまった。


(……すごい。本当に、この人……本物の作家なんだ……)


私は息を殺し、邪魔にならないよう静かに部屋の隅へと移動した。

流し台の横にあった珈琲メーカーとミルを見つけ、手際よく豆を量る。深煎りのマンデリンの豆をガリガリと手挽きし、ペーパーフィルターをセットしてお湯を沸かす。

ポタ、ポタと落ちる黒い雫。

カタカタカタッ、というリズミカルなキーボードの音と、珈琲のアロマが、狭い密室の中で重なり合っていく。


外からは、時折「先生ぇぇ……! あと三時間です……!」という小野寺の悲痛な声が聞こえてくるが、深見の耳には届いていないようだった。


「深見さん……珈琲、淹れましたよ」


マグカップに並々と注いだブラック珈琲を、机の右隅、マウスの邪魔にならない位置にそっと置く。

深見は画面から一切目を離さないまま、左手でカップを手探りで引き寄せ、熱い珈琲を一気に口に含んだ。


「……ん。美味い」


短くそれだけ呟くと、深見はタイピングを止めずに、空いた左手を無造作に私の頭へと伸ばした。

そして、デスクの脇の畳の上にちょこんと正座していた私の頭頂部を、ポン、と軽く叩いたのだ。


「そこにいろ」


「え……?」


「足元にいろ。あんたがそこにいると……不思議と筆が進む」


低く、掠れた、けれど酷く真剣な声音。

丸眼鏡の奥の横顔は画面を見据えたままで、私の顔は見ようともしない。

けれど、頭の上に残る手のひらの熱と、耳元をくすぐる吐息の近さに、私の心臓がトクン、と大きく跳ね上がった。


(足元にいろって……私、ペットじゃないんだから……!)


文句を言いたかった。

けれど、締め切りという名の巨大な怪物と戦っている男の真剣な横顔を見ていると、その言葉を飲み込むしかなくなる。

私は観念して、畳の上に体育座りになり、深見のデスクの足元に小さく丸まった。


一時間。二時間。

時計の針が午後三時を回り、三時半を指す。

部屋の中には、ただカタカタと響くキーボードの音と、二人の呼吸音、そして時折深見が珈琲をすする音だけが満ちていた。

狭い暗がりの中、至近距離で呼吸を合わせるような濃密な時間。

時折、深見が椅子の向きを変えるたびに、彼のスウェットの裾が私の肩をかすめ、大人の男の体温が直に伝わってくる。そのたびに私の頬がカッと熱くなり、膝を抱える腕にギュッと力が入る。


そして――午後三時五十分。


タタタタタタタタタッ……ッターンッッッ!!!


ひときわ鋭く、エンターキーが強く叩きつけられた。


静寂。

画面の右下にスクロールバーがピタリと止まり、最後の行に『【完】』の二文字が浮かび上がっていた。


「……ふうぅぅぅぅ……」


深見が深く息を吐き出し、背もたれにドサリと全体重を預けた。

椅子がギシッと軋む。

丸眼鏡を外した深見は、両手で顔を覆い、天を仰いだ。


「終わった……。脱稿だ……」


「お、終わったんですか……!?」


私が弾かれたように顔を上げると、深見はマウスを掴み、小野寺のアドレス宛てに原稿ファイルをドラッグして送信ボタンをクリックした。


その五秒後。

ドアの外の廊下から、耳を劈くような歓喜の絶叫が轟いた。


「き、キタアアアアアアアッッッ! 原稿着信しましたァァァッ! 先生ぇぇぇ! 愛してますぅぅぅ! 印刷所に走りますぅぅぅぅぅ!!」


バタバタバタッ! と、猛烈な足音が玄関へと遠ざかり、引き戸がガラガラと開いて閉まる音が響いた。

嵐のような編集者が去り、アパートには再び完全な静寂が戻ってきた。


「……ふっ。騒がしい奴だ」


深見は気怠げに笑うと、デスクから身を乗り出し、足元に座っていた私を上からじっと見下ろしてきた。

眼鏡を外した素顔。

切れ長の涼しげな瞳が、熱っぽい光を湛えて私を捉える。


「おい、大家」


「は、はい……?」


深見の手が、私の顎のラインへとスッと伸びてきた。

骨張った冷たい指先が、私の顎先をクイと持ち上げる。

心臓が止まるかと思った。


「あんたのおにぎりと珈琲、悪くなかったぞ。……ヒロインの心理描写も、あんたの顔見てたら完璧に書けた」


「だ、だから、私の顔をモデルにしないでくださいって……!」


「ダメだ。もう連載は始まっちまったからな。最終回まで、あんたにはたっぷりネタを提供してもらう」


深見は私の唇のすぐ数センチ上で、低く、艶やかに囁いた。

煙草と珈琲の苦い息。

逃げ場のない密室で、作家の鋭い視線に絡め取られ、私の頭の中は真っ白に焼き切れていく。


「……今夜の日曜夕食会、楽しみにしとけよ。あんたの顔、じっくり観察してやるから」


耳元でそう言い残すと、深見はようやく指を離し、ベッドの上へとドサリと倒れ込んで目を閉じた。

三分も経たないうちに、静かな寝息が聞こえ始める。


一人取り残された、薄暗い部屋の中。

私は赤く茹で上がった自分の顔を両手で覆い、バクバクと暴れる心臓を抑えながら、静かに部屋を抜け出したのだった。


原稿用紙の隙間から向けられていた、あの熱すぎる視線。

大家と店子の境界線は、またしても物語のプロットの中に、甘く塗り込められてしまっていた。

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