第8話:税理士・矢吹の冷徹な忠告
元・営業事務の血というのは、どれほど激務から離れてのんびり暮らそうとしても、簡単には薄れてくれないものらしい。
「よし……売掛金――じゃなくて家賃収入は四部屋分、入金消込完了。消耗品費は先週のLED電球二個と、排水溝用パイプクリーナー、中庭のゴミ袋で計四千六百二十円。水道光熱費の按分比率は、共用部が三割で管理人室が七割……」
金曜日の午後二時。
秋の穏やかな日差しが差し込む共用ダイニングの無垢材テーブルの上に、私は会計ソフトを立ち上げたノートパソコンと、電卓、そして領収書が綺麗にスクラップされた元帳を並べていた。
カチャカチャ、タンッ! とリズミカルに電卓を叩く音だけが、静かなダイニングに響く。
十年間、理不尽な営業マンたちから投げつけられる杜撰な伝票を電光石火の速さで仕分け、一円の狂いもなく月次決算を締めてきた私の指先は、キーボードの上を滑るように動いていた。数字と向き合っている時間だけは、誰かの顔色を窺う必要もなく、心がスーッと凪いでいくのを感じる。
「……うん、貸借対照表の数字は完璧。でも、問題はこっちよね」
私は画面を切り替え、画面に表示された「相続税申告書(控)」のPDFファイルを開いて、深いため息をついた。
先月、他界した祖母・文が私に遺してくれた、この築四十五年のレトロアパート「メゾン・サクラ」。
目黒区の一等地にある約百坪の土地と建物は、いくら古くて減価償却が進んでいるとはいえ、都心の不動産であることに変わりはない。小規模宅地等の特例や配偶者控除などを駆使しても、私のような三十代のしがない元会社員にとっては目玉が飛び出るような金額の納税通知が控えているのだ。
その複雑怪奇な手続きをすべて引き受け、私のような相続素人が路頭に迷わないよう完璧に道筋をつけてくれた人物が、今日、アパートを訪ねてくることになっていた。
――ピンポーン。
重厚なチャイムの音が鳴り響いた。
私は慌てて電卓を置き、カーディガンを整えてエントランスへと小走りで向かった。
「はーい、ただいま参ります!」
ガラガラと引き戸を開けると、そこに立っていたのは、秋の街並みからそのまま雑誌のグラビアを切り抜いてきたような、隙のない大人の男性だった。
「ご無沙汰しております、佐伯さん。お約束の時間に伺いました」
薄いシルバーフレームの銀縁眼鏡の奥から、知的で涼しげな瞳が私を見つめていた。
矢吹宗介(やぶきそうすけ・三十六歳)。
祖母の代からこのアパートの顧問税理士を務め、司法書士の資格も併せ持つ、銀座に個人事務所を構える敏腕士業だ。
チャコールグレーの三つ揃え(スリーピース)のスーツを完璧に着こなし、胸元には上品なシルバーのネクタイピン。革靴は鏡のように磨き上げられ、手には使い込まれた上質なダレスバッグが提げられている。三十代後半ならではの落ち着いた渋みと、洗練された都会的な色気が全身から漂っていた。
「矢吹先生、いらっしゃいませ! わざわざ足をお運びいただきありがとうございます。どうぞ、中へお上がりください」
「ええ、お邪魔します。……少し肌寒くなってきましたね。お元気そうで何よりです」
靴を揃えて上がる所作すらも流れるように優雅だ。
矢吹をダイニングへと案内し、椅子を引く。彼はテーブルの上に並べられた帳簿とパソコンを一瞥するなり、銀縁眼鏡の位置を人差し指でクイと押し上げ、薄い唇を微かにほころばせた。
「素晴らしいですね。元・営業事務とお聞きしていましたが、仕訳の正確さはプロ顔負けです。領収書の整理も日付順にインデックスが振られていて、私の方で手直しする箇所はほとんど見当たりません」
「本当ですか!? よかった……! 前の会社で叩き込まれた唯一の遺産が、こんなところで役に立つなんて思ってもみませんでした」
「ご自身を卑下する必要はありませんよ。真面目で几帳面なあなたの気質は、不動産オーナーとして最も価値のある才能です」
さらりと、嫌味のないトーンで的確に褒めてくれる大人の余裕。
前の会社で工藤元部長から「誰でもできる雑用」と罵倒され続けていた私にとって、矢吹の冷静で客観的な評価は、じんわりと胸に染み入る温かさを持っていた。
矢吹はダレスバッグから分厚い革張りのファイルを取り出すと、テーブルの上に手際よく申告書類と納税スケジュールの試算表を広げた。
「さて、本題の相続税の件ですが。結論から申し上げますと、佐伯文様が生前に綿密な生前贈与と修繕費の計上を行ってくださっていたおかげで、納税額は当初のシミュレーションよりも二割ほど圧縮できそうです」
「えっ……本当ですか!?」
「ええ。納税資金の口座振替手続きも、すべてこちらで段取りを組みました。この通り、今月末の振替期日に指定口座へ残高をご用意いただくだけで、法的な手続きはすべて滞りなく完了します」
ペン先で示された数字は、私の退職金とアパートの予備預金で十分に賄える現実的な額だった。
肩の荷がどっと降りて、思わず胸を押さえて息を吐き出す。
「よかった……! 一時はどうなることかと思って、夜も眠れなかったんです……本当にありがとうございます、矢吹先生!」
「お祖母様の大切な遺産ですから。私が責任を持ってお守りするのは当然の責務ですよ」
矢吹が柔らかな笑みを浮かべた、まさにその時だった。
――カチャリ。
勝手口のドアが開き、エプロン姿の男が足音もなくダイニングへと入ってきた。
二〇二号室の柴崎晴人だった。
手には、白い陶器のティーポットと、ガラスのティーカップが二つ乗った小さなトレイが抱えられている。
「お仕事中、失礼します。お邪魔じゃありませんか?」
「あ、柴崎さん」
柴崎は普段通りの穏やかな笑顔を浮かべながら、すっとテーブルへと歩み寄ってきた。
しかし、その視線は、テーブルを挟んで私と並んで座る矢吹を、値踏みするように一瞬だけ鋭く射抜いていた。
「矢吹先生、いつも大家さんがお世話になっています。頭を使う作業の合間にどうぞ。カモミールとレモングラスをブレンドしたハーブティーです。神経を落ち着かせる効果がありますから」
「……これはご丁寧に、恐れ入ります」
矢吹が軽く会釈を返すと、柴崎はカップに黄金色の透き通ったお茶をトクトクと注いだ。
ふわりと立ち上る爽やかな柑橘系の香り。
そして柴崎は、私の前にお茶を置く際――ごく自然な動作で、私の肩口へと身をかがめた。
「栞さん、体調はもう完全にいいんですか? 一昨日の熱が下がったばかりなんですから、あまり根を詰めちゃダメですよ。何か甘いものでもつまみますか? 厨房にフィナンシェの焼き立てがありますけど」
「ひゃっ……だ、大丈夫です! お茶だけで十分です!」
耳元にかかる柴崎の吐息と、甘やかな声音。
しかも、矢吹の目の前で平然と「栞さん」と下の名前で呼んでくる距離感の近さに、私の心臓が跳ね上がる。
柴崎は私の耳元でふふっと満足そうに喉を鳴らすと、「ごゆっくりどうぞ」と柔らかく一礼し、キッチンの奥へと引っ込んでいった。
(ち、近いってば……! 矢吹先生がいる前で、なんなのもう……!)
私が真っ赤になってハーブティーのカップを両手で包み込んでいると、今度は――。
ドサリ。
一階の廊下側から、気怠げなスリッパの音が近づいてきた。
引き戸がガラリと開き、現れたのは一〇二号室の深見怜だった。
黒のスタンドカラーシャツの袖をまくり、手には空になった珈琲のマグカップと、散らかった原稿用紙の束。
無精髭に丸眼鏡、そして酷く寝癖のついた黒髪。
深見はダイニングに座る矢吹を見るなり、あからさまに億劫そうな表情を浮かべた。
「……チッ。客かよ」
「深見さん! 顧問税理士の矢吹先生です、ご挨拶くらいしてください!」
「知ってるよ。文さんの葬式の時にも見かけた顔だ」
深見は鼻を鳴らすと、キッチンの流し台へと向かい、無造作にマグカップを置いた。
そして、備え付けのウォーターサーバーで冷水を勢いよく注ぎ、一気に喉を鳴らしてあおると、踵を返して私の真後ろを通り過ぎようとする。
その瞬間。
――トン。
通りすがりに、深見の骨張った大きな手が、私の頭の上に無造作に置かれた。
木曜の深夜、キッチンの換気扇の下でされたのとまったく同じ、乱暴で、けれど不器用な温もりを持った手の重み。
「おい、大家。原稿の用紙が切れたから、管理人室のストックから一箱出しとけ。あとで取りに行く」
「えっ、あ、はい……わかりましたけど、頭を小突かないでください!」
「返事は一回。……根詰めて知恵熱出すなよ、馬鹿」
深見は眼鏡の奥の切れ長の瞳で、私の隣に座る矢吹を冷ややかな光で見下ろすと、それ以上は何も言わず、紫煙の匂いを微かに残して一〇二号室へと戻っていった。
バタン、と閉まるドアの音。
静まり返ったダイニング。
私はいまだに頭頂部に残る深見の手の感触と、首筋に残る柴崎の吐息の熱に挟まれ、いたたまれなくなってペコペコと矢吹に頭を下げた。
「す、すみません、矢吹先生……! 住人の皆さん、個性が強くて……お見苦しいところをお見せしてしまって……!」
しかし。
矢吹宗介は、ハーブティーのカップに口をつけたまま、微動だにしていなかった。
銀縁眼鏡の奥の瞳は、感情を完全に消し去った氷のように冷徹な光を湛え、深見が去っていった廊下の暗がりと、キッチンで洗い物をしている柴崎の背中を、じっと観察していた。
「……佐伯さん」
低く、抑揚のない声が落ちてきた。
先ほどまでの穏やかな税理士のトーンとは、明らかに違う重み。
「は、はい……?」
矢吹はカップをソーサーの上へと静かに戻した。カチャリ、と硬質な磁器の音が、静かな部屋に鋭く響く。
そして、手元に広げられていた書類を手際よくまとめ、黒いダレスバッグの中へと滑り込ませた。
ジッパーが閉まる。
パチン、と金具が噛み合う乾いた音がした。
キッチンからは、柴崎がシンクを磨くシャカシャカという水音だけが微かに聞こえている。
矢吹は椅子をわずかに引き、私の方へと身を乗り出した。
「経営状態は健全です。帳簿の数字にも、法的な手続きにも、何一つ瑕疵はありません。……ですが」
矢吹の声音が、さらに一段低くなった。
銀縁眼鏡のブリッジを押し上げ、射抜くような視線が私の瞳を捉える。
「あなた、自分が今、どんな『檻』の中にいるか自覚していますか?」
「え……? お、檻……ですか?」
唐突な単語に、私は目を丸くした。
檻? どういうことだろう。ここは都内のレトロアパートで、私はそこの大家で、住人たちは少し距離感がバグっているけれど親切な人たちばかりで――。
「ええ。猛獣の檻ですよ」
矢吹の口元に、冷笑めいた苦い歪みが浮かんだ。
「あの二〇二号室のシェフも、一〇二号室の作家も。……そして今日は姿を見かけませんが、外資系コンサルタントの青年と、美大生の少年もいるとお聞きしていますね」
「は、はい……宮原くんと、創くんですけれど……」
「あの男たち、あなたをただの『家主』として見てなどいませんよ」
――ドクン。
心臓が、嫌な音を立てて跳ね上がった。
矢吹の冷徹な言葉が、私が無意識に見ないように蓋をしてきた核心のど真ん中に、鋭利なメスのように突き刺さる。
「そんな……っ、考えすぎですよ、矢吹先生! 皆さん、ただ祖母の代からのルールで食事会をしたり、壊れたところを直してくれたり、体調を気遣ってくれているだけで……!」
「気遣う、ですか」
矢吹はふっと小さく息を漏らし、首を横に振った。
「女性の自宅の鍵が開いているからといって、躊躇なく上がり込んで食事を口元まで運ぶ男がどこにいますか? 仕事の打ち合わせの最中に、わざわざ下の名前を呼んで親密さを誇示し、牽制してくる男がどこの世界にいますか? 通りすがりに女性の頭に触れて、無言の圧力をかけていく男が、ただの『店子』なわけがないでしょう」
逃げ場のない、完璧な事実の羅列。
元社畜として「論理的な正論」に慣れている私だからこそ、矢吹の指摘が百パーセント的を射ていることが痛いほど分かってしまう。
「あ、あれは……その、みんなちょっと距離感が近くて……」
「違います。彼らは全員、あなたという獲物を巡って、水面下で爪を研ぎ合っているんですよ」
矢吹の瞳が、至近距離で私を見据えた。
感情を殺したビジネスマンの仮面の下から、大人の男としての冷たく、けれど確固たる熱が滲み出していた。
「あなたは真面目で、責任感が強く、そして驚くほど他人の悪意や情熱に対して無防備だ。十年間、理不尽な環境で耐え忍んできた反動で、他者からの好意にどう対処していいか分かっていない。……違いますか?」
「っ……」
息が詰まった。
見透かされている。
私が「大家と店子」という建前を必死に盾にして、彼らの甘い侵食から目を逸らそうとしていた臆病さを、この男は完全に暴き立てているのだ。
「佐伯さん。男という生き物はね、手に入りそうで入らない、無防備で献身的な女性を前にした時、もっとも残忍な独占欲を露わにするものなんです。……今のあなたを取り巻く状況は、いつ爆発してもおかしくない火薬庫の上に座っているようなものですよ」
静かな語り口。けれど、その言葉の重みに、私は背筋が凍りつくような戦慄を覚えた。
矢吹は立ち上がった。
長身のスリーピーススーツが、すっと影を落とす。
そして、内ポケットから漆黒の本革の名刺入れを取り出すと、一枚の純白の名刺を抜き取った。
テーブルの上に置くのではない。
矢吹は、呆然と膝の上で固まっていた私の右手を、ためらいなく自分の両手でそっと包み込んできたのだ。
「……っ!? 矢吹、先生……?」
驚いて顔を上げると、至近距離に矢吹の端正な顔があった。
冷たいと思っていた指先は、驚くほど温かく、そして乾燥していて、大人の男特有の確かな力強さを持っていた。
彼の手が私の指をそっと開き、その掌の真ん中に、名刺をすっと滑り込ませる。
「私の、個人の携帯番号と直通の連絡先です。裏面に書いてあります」
耳元に落ちてくる、落ち着いた、低く艶のあるバリトンボイス。
「大家として、賃貸借契約上のトラブルや、住人間の諍いがあれば、いつでも私を呼んでください。法的な盾として、私があなたを守ります」
矢吹の親指の腹が、私の手の甲を、名残惜しそうに一度だけ優しく撫でた。
「……そして。もし、あの男たちの過剰な熱気から逃げ出したくなった時も、私に連絡を。……もちろん、プライベートな相談でも構いませんよ。私なら、あなたをそんな危険な檻の中に閉じ込めたりはしません」
明確な、一線を越えた大人のアプローチ。
冷徹な税理士が見せた、底知れぬ好意の片鱗。
「や、矢吹……せんせ……」
声が震えた私の視界の端で――キッチンの気配が、急激に凍りついた。
振り返ると、シンクの前に立つ柴崎が、洗っていた皿をピタリと止め、こちらを振り返っていた。
エプロンをつけた柴崎の顔。
口元には、いつもの完璧な笑みが張り付いている。
だが――その瞳の奥には、光が一切宿っていなかった。
漆黒の闇のように淀んだ冷たい眼光が、矢吹が私の手を包み込んでいるその一点を、逃さず、瞬きもせずに睨み殺すように射抜いていた。
――ヒュッ、と喉の奥が鳴る。
矢吹は柴崎の殺気配に気づいているはずなのに、眉一つ動かさず、むしろ挑発するように私の手をもう一度だけギュッと握り締めてから、静かに解放した。
「それでは、本日はこれで失礼します。来週、税務署への提出が完了したら、またご連絡差し上げますね、佐伯さん」
矢吹はダレスバッグを手に取ると、優雅に一礼し、長い足でエントランスへと向かっていった。
引き戸が開き、静かに閉まる音。
嵐のような大人の男が去った後、ダイニングに残されたのは――。
手の中に残る、矢吹の名刺の硬い感触と。
そして、キッチンから背中に突き刺さる、柴崎の氷点下を遥かに下回る、甘く危険な無言の視線だった。
「……あ、あの、晴人さん……?」
私が恐る恐る振り返ると、柴崎はお皿を拭く布巾をギュッと絞りながら、ふわりと目を細めて微笑んだ。
「ハーブティー、冷めちゃいましたね。……淹れ直してあげますよ、栞さん」
その声の甘さと、瞳の底の暗さに、私の背筋に再び激しい悪寒が走った。
檻の中にいる自覚――。
矢吹の冷徹な忠告が、頭の中で何度も、何度も警鐘のように鳴り響いていたのだった。




