第7話:大家の特権、店子の反撃
病み上がりの身体に、秋の夕暮れの空気は驚くほど澄んで感じられた。
「よしっ! 体温は三十六度二分、喉の痛みもゼロ! 完全復活!」
水曜日の午後四時半。
私は管理人室の鏡の前で、両手で自分の頬を軽くパチンと叩いた。
月曜日の朝に三十八度四分まで跳ね上がったあの酷い高熱は、二〇二号室の柴崎さんが作ってくれた特製の生姜葛餡粥と、神がかった手際の看病のおかげで、火曜日の午後には綺麗さっぱり引き下がってくれたのだ。
もちろん、柴崎さんには深々と頭を下げてお礼を言った。その際、「またいつでも呼んでくださいね。次は何を作ってあげようかな」と目を細められ、逃げ場のない甘い圧に心臓を縮めさせられたのは記憶に新しいが、何はともあれ健康を取り戻せたのは純然たる事実である。
「丸二日も寝込んじゃったんだから、溜まった大家仕事を一気に片付けなきゃ!」
人間、十年間もブラック企業で「休んだ分は残業で取り戻す」という歪んだ労働観を叩き込まれていると、風邪が治った瞬間に謎の焦燥感が湧き上がってくるらしい。
元社畜の悲しい習性を自嘲しつつ、私は作業用の薄手のチノパンに長袖のボーダーシャツを合わせ、髪を後頭部でひとまとめにお団子にした。
今日の任務は、中庭に設置されている掲示板の更新だ。
昨日の夕方、近所の民生委員を兼ねている町内会長さんから「新大家さん、これアパートの皆さんにも回覧しといてね」と手渡された、一枚の大きなポスターがある。
そこには、太いゴシック体でこう書かれていた。
『目黒区秋の地域合同防災訓練のおしらせ 〜いざという時の避難経路と初期消火〜』
「築四十五年の木造アパートなんだから、防災意識は誰よりも高く持たなきゃダメよね。火事や地震が起きたら、私の不労所得どころか住人の命に関わるんだから」
うん、と力強く頷いた私は、事務机の引き出しから新しいステンレス製の画鋲のケースを取り出し、勝手口から中庭へと出た。
メゾン・サクラの中庭は、都心とは思えないほど静かで、どこか昭和の空気をそのまま残したような情緒がある。
中央には樹齢数十年はあろうかという大きな山桜の木が一本。その根元を囲むように、かつて祖母が手入れしていたツツジの植え込みがあり、敷地の北側のモルタル壁に、屋根付きの木製掲示板がどっしりと打ち付けられていた。
だが、その掲示板は私の背丈よりもかなり高い位置に設置されている。
一番上のコルク部分に手が届くはずもなく、私は中庭の隅にある木造の古い道具小屋へと向かった。
「ええと……脚立、脚立……あった」
埃っぽい小屋の奥から引っ張り出してきたのは、二段ステップのついた木製の脚立だった。
アルミ製のピカピカした現代の脚立ではなく、厚みのある杉板を金具で留めた、いかにも祖母の代から使い古されてきた年季の入った代物だ。木肌は飴色を通り越して少し黒ずみ、角は丸く削れている。
「よいしょっと……」
掲示板の真下に脚立を広げ、金具の開き止めをしっかりと押し下げる。
試しに片足を乗せて体重をかけてみると、ギシリ、と古い木特有の鈍い音が鳴った。
「うーん……ちょっとガタついてるかな? まあ、画鋲を四隅に留めるだけだし、二分で終わるわよね」
その時の私は、「ちょっとした作業だから」と完全に油断していたのだ。
これこそが、数分後に訪れる大惨事の引き金になるとも知らずに。
口に画鋲を一つ咥え、両手にポスターを広げて、私は一段、二段と脚立を登った。
目線がぐっと高くなり、中庭の景色が一望できる。
西に傾きかけた秋の太陽が、街並みを柔らかな茜色に染め上げていた。どこかの家から漂ってくる夕飯の支度の匂いと、ひんやりとした秋風が心地いい。
「よし、まずは上の角から――」
ポスターの上端を掲示板のコルクに押し当て、咥えていた画鋲を右手でつまんで、ギュッと押し込む。
パチン、と小気味よい音がして左上が留まった。
続いて、右上の角だ。
掲示板の横幅は思いのほか広く、右上に手を伸ばすには、少し身体を右に傾けなければならなかった。
「んんっ……あと、ちょっと……!」
私は脚立の天板に右足を乗せ、つま先立ちになって背伸びをした。
指先がコルクに届く。もう一つの画鋲をポケットから取り出し、押し込もうとした――その刹那だった。
――メキョッ……バキィンッ!
「……え?」
足元から、聞きたくもない破壊音が響いた。
長年の雨風と経年劣化で脆くなっていた脚立の右側の支柱が、私の全体重に耐えかねて、斜めに裂けるようにへし折れたのだ。
支えを失った木組みが一気に崩壊する。
視界が、信じられないスピードで右斜め下へと回転した。
「きゃっ……あっ、嘘――っ!?」
手すりも何もない空中で、私の身体は完全に重力に放り出された。
ポスターが手から離れ、ヒラヒラと茜色の空へと舞い上がる。
眼下に見えるのは、剥き出しの砂利と、硬い敷石の角。
頭から落ちる。痛い、怪我をする、また救急車――恐怖で全身の血が逆流し、私は反射的にぎゅっと両目を固く瞑った。
――ガシィッッッ!!
「……っ!?」
地面の激痛が来るはずだった。
しかし、私の身体を捉えたのは、硬い敷石の冷たさではなかった。
風を切り裂いて飛び込んできた、分厚くて熱い、圧倒的な力を持った二本の腕。
ドンッ、と鈍い衝撃とともに、私の背中と膝の裏に、骨太で逞しい腕が滑り込んできたのだ。
フワリ、と衝撃が殺され、身体が宙でふわりと浮き上がる。
バサリと擦れ合う上質な布の音。
そして、私の顔面は、硬く引き締まった誰かの胸板のど真ん中へと、勢いよく埋め込まれていた。
「ぐっ……!」
頭の上で、低く息を呑む呻き声が響いた。
私を受け止めた衝撃で、その人の足元が砂利を強く踏みしめ、ザザッ、と鋭い摩擦音が鳴る。けれど、その腕は微動だにせず、私を抱え上げたまま完璧にバランスを保っていた。
いわゆる――完全無欠の「お姫様抱っこ」の体勢。
「は、え……?」
息が止まりそうになりながら、恐る恐る目を開けた。
鼻腔を直撃したのは、爽やかで気品のあるベルガモットとシトラスの香水。そして、最高級のイタリア製ウール生地の滑らかな肌触り。
胸元に押し当てられた私の耳に、トクン、トクン、と信じられないほど激しく波打つ心臓の鼓動が、ダイレクトに響いてくる。
「……あぶないですよ、栞さん」
降ってきたのは、低く、押し殺したような声だった。
私は息を呑み、ゆっくりと顔を上げた。
夕暮れの逆光の中に浮かび上がっていたのは、一〇一号室の住人――宮原陸の顔だった。
完璧に着こなされた、濃紺のストライプの三つ揃えスーツ。
微塵の乱れもないネクタイと、磨き抜かれた革靴。普段の深夜帰宅とは違い、今日は外出先のクライアントから直帰してきたのだろう。
だが、その整った秀麗な顔立ちは、いつも私の前で見せる「大型犬のような人懐っこい笑顔」ではなかった。
眉間に深い皺が刻まれ、涼しげな切れ長の瞳は、激しい怒りと、それ以上の切迫した焦燥感でギラギラと燃え上がっていた。
夕陽の赤い光に照らされたその表情は、あまりにも鋭く、息を呑むほどに冷徹で――そして、圧倒的な大人の「雄」の色気を放っていた。
「み、宮原……くん……?」
掠れた声で名前を呼ぶと、陸の腕にさらにギリッと強い力が込められた。
私の華奢な身体など羽毛のように軽いとばかりに、胸元へとさらに高く抱き上げられる。
至近距離で交錯する視線。
陸の荒い吐息が、私の前髪を揺らし、額を熱く撫でていく。
「なにしてるんですか、一体」
ドスの利いた、静かな怒声だった。
「あんなボロボロの木製の脚立、素人が見たって壊れかけてるって分かるでしょう。どうしてそんなものに乗ったんですか。……もし僕が今、中庭の門を開けて入ってこなかったら、どうなってたか分かってるんですか!?」
「え、あ……ご、ごめんなさい……でも、ちょっと掲示板のポスターを貼り替えようと……」
「怪我したらどうするんですか!」
胸を打たれるような鋭い叫びだった。
普段、声を荒らげることなど決してないエリートコンサルタントが、本気で取り乱して私を叱りつけている。
陸の瞳の奥が、恐怖でわずかに揺れていた。
この人は、私が落ちて怪我をするかもしれないという事実に、本気で肝を冷やしてくれたのだ。
その真摯な心配が胸に突き刺さり、申し訳なさと気恥ずかしさで、私の顔は一気に沸騰した。
しかも、体勢がまずすぎる。
三十を超えた大人の女が、二十五歳の年下男子に、まるで絵本のお姫様のように抱き上げられたまま、中庭の真ん中で見つめ合っているのだ。
「あ、あの……! 宮原くん、本当にごめんなさい! 助けてくれてありがとう! もう大丈夫だから、下ろして……! 重いでしょ!?」
私が真っ赤になって身悶え、腕の中から抜け出そうと足をバタつかせた、その瞬間だった。
――グイッ。
「ひゃっ……!?」
下ろされるどころか、私の腰に回されていた陸の大きな左手が、力任せに私の腰骨を引き寄せた。
逃げ場を失った私の下半身が、陸の引き締まった腹筋と太ももに、隙間なくピッタリと密着させられる。
抱きしめる、という生易しい力加減ではない。
逃がさない。絶対に離さない。そう言わんばかりの、強烈なホールド。
「お、重くなんてありません。……あと、暴れないでください。落ちますよ」
「で、でも、立てるから! 靴も履いてるし、足は痛めてないから!」
「ダメです」
ピシャリと、冷徹に拒絶された。
見上げると、陸の口元に、いつもの人当たりのいい笑顔とは違う、歪で挑発的な笑みが浮かんでいた。
瞳の奥の光が、獲物を捕らえた肉食獣のそれへと完全に切り替わっている。
スウッと、陸の顔が近づいてきた。
夕暮れの風が二人の間を吹き抜け、山桜の枯葉をカサリと揺らす。
陸の整った唇が、私の耳たぶのすぐ数ミリ手前へと滑り込んできた。
「……大家さんって、たまに放っておけないくらい無防備ですよね」
鼓膜を直撃する、甘く掠れた低音ボイス。
火が出るほど熱い吐息が、首筋の産毛を撫でていく。
背筋を、ゾクゾクとするような甘い悪寒が駆け抜けた。
「鍵は閉め忘れるし、熱が出ても一人で我慢して倒れかけるし……今度は、壊れかけの脚立から飛び降りてみせるんですか?」
「と、飛び降りてなんてないよ! 足が滑っただけで……!」
「同じことです」
耳元で、フッと小さく鼻で笑う気配。
そして、陸の右手が、私の背中から肩口へとゆっくりと滑り上がり、後頭部の髪をふわりと引き寄せるように包み込んだ。
「僕以外が受け止めてたら、どうするつもりだったんですか?」
言葉のトーンが、一段低くなった。
嫉妬と独占欲を隠そうともしない、危険すぎる問いかけ。
「もし、創くんだったら? 柴崎さんだったら? 深見先生だったら……? あなた、誰に抱きとめられても、そんな風に真っ赤になって、胸に顔を埋めて……無防備にすがりついてたんですか?」
「そ、そんなわけないでしょ!? 私、誰が助けてくれたかすら分かってなかったんだから……!」
「それが嫌なんです」
陸の唇が、私の耳たぶを掠める寸前の距離で動く。
「誰でも良かったなんて、一番嫌だ。……僕が助けたんです。僕の腕の中にいるんです。……栞さん、僕以外の前で、二度とこんな隙を見せないでください」
「み、宮原くん……っ」
「陸、って呼んでって言いましたよね?」
甘い脅迫。
至近距離で囁かれるその言葉の一つ一つが、頭の中の思考回路を焼き切っていく。
火曜日の深夜に見せた「疲れて甘えてくる大型犬」の姿は、一体どこへ消えたのか。
目の前にいるのは、社内で「氷のプリンス」と呼ばれ、数々の修羅場を冷静沈着にねじ伏せてきた、若きエリートの真の姿だ。
欲しいものを手に入れるためなら、どんな手段も厭わない、傲慢で強引な大人の男。
(な、なんなのよこれ……! 立場、完全に逆転してない!?)
大家は私だ。部屋を貸しているのも、ルールを決める権利があるのも私のはずなのに。
今、私はこの男の腕の中で、完全に主導権を奪われ、されるがままになっている。
「だ、大家の特権……!」
私は最後の気力を振り絞って、陸の胸板を両手で押し返そうとしながら叫んだ。
「大家の特権として命じます! 店子の宮原陸さん、今すぐ私を地面に下ろしなさい! 契約違反で追い出しますよ!」
必死の抵抗。
だが、陸は眉一つ動かさず、むしろ面白そうに口角をキュッと吊り上げた。
「へえ……追い出す、ですか」
陸の左手が、私の腰をさらにギュッと引き寄せる。
「いいですよ、追い出せるものなら追い出してみてください。……でも、違約金を払ってでも、僕はここを出ていきませんけどね。こんなに目が離せない大家さんを一人にしておけるわけがない」
「うぐっ……!」
「それに、契約書に『大家を抱きしめてはいけない』なんて条文、どこにもありませんでしたよ?」
悪魔のように美しい笑み。
完璧なロジックで論破され、私はぐうの音も出なくなってしまった。
「……参りましたか?」
「ま、参りました……降伏です……だからお願い、下ろしてください……恥ずかしくて死んじゃう……」
私が両手で真っ赤になった顔を覆って小さく懇願すると、陸はようやく満足したように、ふっと喉を鳴らして笑った。
そして、その笑顔は、いつもの人懐っこい二十五歳の表情へと、鮮やかに戻っていた。
「はい、よくできました」
陸はゆっくりと膝を折り、私の足を砂利の上へと着地させてくれた。
ふわりと腕が解かれる。
足が地面についた瞬間、膝から力が抜けそうになり、私は思わず掲示板の柱に手をついた。
解放されたはずなのに、腰のあたりには、まだ陸の大きな手のひらの熱い感触が、焼き印のように生々しく残っている。
心臓が、肋骨の内側で激しい警報を鳴らし続けていた。
「大丈夫ですか? 足、捻ってないですか?」
立ち上がった陸は、何食わぬ顔で私の顔を覗き込んできた。
さっきまでの危険な色気はどこへやら、心配そうに眉を下げる姿は、完全にいつもの「宮原くん」だ。この切り替えの早さこそが、彼の最も恐ろしいところかもしれない。
「だ、大丈夫……怪我はないわ……」
「良かった。……あ、ポスター、拾ってきますね」
陸は中庭の隅に落ちていた防災訓練のポスターを拾い上げると、泥を払って私の元へと戻ってきた。
そして、折れて無残に転がっている木製の脚立を、長身の足先で軽く突いた。
「これ、完全に軸木が割れてますね。二度と使っちゃダメですよ。……粗大ゴミに出してください。僕が今度、安全なアルミの脚立を買ってきますから」
「そ、そんなの自分で買うからいいよ!」
「ダメです。僕が選びます。大家さんがまた落ちたら困りますからね」
さらりと過保護な決定を下すと、陸は私の手から画鋲を受け取った。
そして、背伸びもせず、百八十センチを超える長身をすっと伸ばすだけで、掲示板の一番高い位置へと、いとも簡単に画鋲をパチンと押し込んでしまった。
「はい、終わりです」
私が苦労して背伸びしていた作業が、わずか五秒で完了する。
見上げるスーツの後ろ姿の頼もしさに、私の胸の奥が、またしても不規則に跳ね上がった。
「……ありがとう、宮原くん」
小さくお礼を言うと、陸は振り返り、夕陽を背にして眩しそうに目を細めた。
そして、私の耳元に近づき、誰にも聞こえないような小声で、悪戯っぽく囁いた。
「どういたしまして。……でも、次落ちてきた時は、ただ抱きとめるだけじゃ済まないかもしれませんから。気をつけてくださいね、栞さん」
翻るスーツの裾。
陸はブリーフケースを手に取ると、「着替えてきますね」と爽やかに手を振って、一階のエントランスへと歩いていった。
カチャリ、と一〇一号室のドアが閉まる音。
一人取り残された、茜色の中庭。
冷たい秋風が吹き抜けていくというのに、私の身体は、頭から爪先まで熱病にかかったように火照り続けていた。
「なんなのよ……本当に、なんなの……っ!」
壊れた木製の脚立を見つめながら、私は両手で顔を覆ってしゃがみ込んだ。
大家の特権を振りかざして牽制したはずなのに、あっさりとひっくり返され、男の腕の中に閉じ込められた夕暮れ。
年下の大型犬が見せた、剥き出しの「雄」の牙。
私が引いたはずの境界線は、またしても跡形もなく踏み荒らされ、胸の奥の鼓動だけが、いつまでも静まることを知らなかった。




