第6話:胃袋から始まる包囲網
頭の奥底で、ずん、ずんと重たい鐘が鳴り響いているようだった。
まぶたの裏側が異様に熱く、息を吐き出すたびに、鼻腔から喉にかけて熱風が通り抜けていく。身体の節々が、まるで錆びついた蝶番のようにギシギシと鈍い痛みを訴えていた。
「……う、そ……身体が、動かない……」
月曜日の朝。
薄暗い管理人室の万年床の上で、私は毛布を顎まで引き上げたまま、小さく呻いた。
枕元に転がっていた電子体温計に手を伸ばし、ぼやける視界を必死に凝らして液晶画面を覗き込む。
『38.4℃』
「……嘘でしょ。完全に、やっちゃった……」
原因には心当たりしかありすぎた。
一昨日の土曜日、共用洗面所で起きたあの凄まじい給水管の破裂事故だ。二〇一号室の創くんが駆けつけて驚異的なDIY技術で止めてくれるまで、私は十数分間にわたって、吹き出す氷のような冷水を頭から全身に浴び続け、這いつくばって格闘していたのだ。
その後も濡れそぼった廊下の雑巾がけや、湿ったマットの洗濯、そして引っ越し直後から張り詰めていた新米大家としての極度の緊張感。
十年間、ブラック企業で過労と睡眠不足に耐え抜いてきた私の身体は、自分が思っている以上に脆く、擦り切れていたらしい。
(会社員時代なら、ロキソニンを二錠一気飲みして、栄養ドリンクで胃を騙しながら満員電車に飛び込んでたところだけど……)
退職して大家になった今、出勤すべきオフィスはない。
けれど、一人暮らしの病気ほど心細く、そして恐ろしいものはないのだ。
立ち上がって台所に行き、スポーツドリンクを飲むことすら億劫だった。指先一本動かすのすら鉛のように重い。
「誰にも、迷惑かけちゃダメ……。私は大家なんだから、住人に心配なんてかけられない……」
元社畜の染み付いた呪縛が、熱で朦朧とする頭の中でぐるぐると空回りする。
寝ていれば治る。汗をかけば熱は下がる。誰にも気づかれないうちに、一人で耐え抜けばいい――。
そう自分に言い聞かせ、冷え切った爪先を縮めて毛布に潜り込もうとした、その時だった。
――トントン。
管理人室の引き戸を、遠慮がちにノックする音が聞こえた。
鼓膜を優しくノックするような、耳障りのいい三拍子。
「……っ!?」
息を呑む間もなく、ガチャリ、と金属の擦れ合う小さな音が響いた。
そして――。
スウッと、引き戸が何の抵抗もなく横へと開いたのだ。
「し、閉めたはずなのに……っ!?」
熱で掠れた声が、喉から引き千切れるように漏れる。
そう、土曜日の水漏れ騒ぎのあと、床を拭くための雑巾やバケツを持って廊下と部屋を何度も往復した私は、疲労困憊のあまり管理人室の鍵を閉め忘れていたのだ。防犯意識を持てと深見さんに偉そうに言った口の端も乾かぬうちに、この体たらくである。
「失礼しますよ、栞さん」
朝の澄んだ空気とともに部屋に滑り込んできたのは、柔らかく、けれどどこか逃げ場のない響きを持ったテノールボイスだった。
足音もなく畳を踏みしめて入ってきたのは、二〇二号室の住人・柴崎晴人だった。
いつもビストロ「シェ・シバ」の厨房で締めているソムリエエプロンは外され、私服の柔らかなオフホワイトのタートルネックニットを着ている。栗色のさらりとした前髪の隙間から覗く垂れ目は、一見すると菩薩のように優しく細められていた。
しかし、その手には――漆塗りの黒いお盆がしっかりと抱えられていた。
「は、晴人……さん……? どうして……」
「ゴミ出しの時間になっても姿が見えないし、中庭のカーテンも閉まったままでしたから。様子を見に来たら、ドアの鍵が開いていましたよ。……不用心ですね、大家さん」
柴崎は穏やかに微笑みながら、ベッドサイド――いや、私の万年床のすぐ脇まで歩み寄り、音もなく正座した。
お盆が畳の上にコトリと置かれる。
その瞬間、部屋中にふわっと広がったのは、胃の腑を直接鷲掴みにするような、途方もなく甘美で優しい香りだった。
「ひどい熱ですね。廊下の外まで、あなたの熱気が漏れていましたよ」
「あ、あの……大丈夫です、ただの風邪ですから! うつすと申し訳ないですし、すぐに出ていっていただいて……!」
私は慌てて布団から身を起こそうとした。
すっぴんで髪はボサボサ、熱で顔を真っ赤にした無様な姿を、こんな端正な男性に至近距離で見られるなんて耐えられない。
しかし――。
トン。
私の右肩に、温かくて大きな手のひらが、そっと添えられた。
乱暴な力ではない。けれど、私の全体重をやすやすと押し留めてしまうような、絶対的な力加減。
「寝ていてください」
柴崎の手が、私の肩を優しく敷布団へと押し戻す。
逆らおうにも、高熱の身体には踏ん張る力など一ミリも残っていなかった。バフッと枕に沈み込んだ私の額に、柴崎の冷たい左手の甲が、すっと当てられた。
「ひゃっ……!」
「……三十八度は優に超えていますね。やっぱりだ。一昨日の水漏れの時、冷水を頭からかぶっていたでしょう。あんな真似をして、無事で済むはずがありません」
額に触れる柴崎の指先は、料理人特有の引き締まった骨太さを持ちながら、熱を帯びた私の皮膚からじわりと熱を吸い取っていくように心地よかった。
至近距離で見下ろしてくる柴崎の瞳。
笑っている。口元はいつもの穏やかな孤を描いている。
だが、その瞳の奥底には、ぞっとするほど冷たく、鋭い光が宿っていた。
「晴人、さん……怒って……ます?」
「怒っていませんよ。……ただ、少し傷ついているだけです」
柴崎は私の額から手を離すと、お盆の上から白い湯気を立ち上らせる深皿を持ち上げた。
「僕という料理人が同じ屋根の下に住んでいるのに。体調が悪いことを誰にも言わず、一人でこんな冷たい部屋で毛布にくるまって、我慢して倒れているなんて。……僕のこと、そんなに信用できませんか?」
「そ、そんなわけないです! ただ、皆さんに迷惑をかけたくなくて……!」
「迷惑?」
柴崎の口元が、わずかに吊り上がった。
「僕があなたのために食事を作るのが、迷惑だと? ……僕がいるのに、無理して倒れるなんて許しませんよ」
声のトーンはどこまでも甘く、囁くように滑らかだった。
けれど、その言葉の裏側に張り巡らされた「逃がさない」という強固な意志に、私の背筋を心地よい悪寒が駆け抜けた。
「さあ、冷めないうちに召し上がってください」
柴崎が、深皿に添えられていた木製のスプーンで、料理を一口すくい上げた。
ふわ、と立ち上る湯気。
それは、ただの白粥ではなかった。
「……これ、お粥……ですか?」
「『焼きネギと鶏ささみの生姜葛餡粥』です。丸鶏を弱火でじっくり煮出した澄んだ清湯スープでお米を炊き上げました。具材の鶏ささみは低温調理でしっとり柔らかくほぐしてあります。香ばしく焼き目をつけた千住ネギと、たっぷりのすりおろし生姜を入れた吉野葛の餡をかけてありますから、冷めにくく、喉越しもいいはずです」
さらに、お盆の脇には、透明なガラスの小鉢が置かれていた。
透き通るような薄紅色に染まった、角切りの果実。
「熱で口の中が苦いでしょうから、デザートに『シナモン風味のリンゴのコンポート』も作ってきました。紅玉の皮と一緒に白ワインと蜂蜜で煮込んであります。アルコールは完全に飛ばしてあるので安心してください」
なんという手間の掛け方だろう。
病人のための即席の看病食に、どれだけの技術と時間が注ぎ込まれているのか。
香ばしいネギの香りと、生姜の爽やかな刺激、そして鶏出汁の重厚な旨味が混ざり合い、熱で麻痺していた私の胃袋が、ぎゅるりと情けない音を立てて空腹を訴えかけた。
「す、すごく美味しそうです……! 自分で食べますから、スプーンを――」
私が手を伸ばそうとした瞬間、柴崎はスッとスプーンを引いた。
そして、自分の唇の前にスプーンを運び、ふう、ふう、と息を吹きかけて丁寧に温度を冷まし始めたのだ。
「え……?」
「手、震えているでしょう。こぼしたら火傷します」
「で、でも、三十を過ぎた大人が人に食べさせてもらうなんて恥ずかしすぎます! 自分で持てますから!」
顔から火が出るどころの話ではない。熱の赤さなのか羞恥の赤さなのか分からないほど茹で上がり、後ずさりしようとする私。
だが、柴崎はスプーンを持ったまま、ふわりと目を細めて微笑んだ。
その微笑みは、絵画のように美しく、そして完璧に私の逃げ道を塞ぐ形をしていた。
「大家さん。僕の料理、美味しくないですか?」
「えっ!? そんなわけないです! 世界一美味しいです!」
「なら、口を開けてください」
一切の反論を許さない、絶対的なスパダリの笑顔。
逃げ場はない。
私は観念して、ぎゅっと目を瞑りながら、小さく口を開けた。
「……あ、ん……」
滑り込んできた木のスプーン。
舌の上に触れた瞬間、あまりの美味しさに、カッと見開かれた私の両目から涙が滲みそうになった。
――あたたかい。
そして、信じられないほど、滋味深い。
葛餡の滑らかなとろみが、荒れていた喉を優しく滑り落ちていく。
生姜のピリッとした刺激が身体の芯をじんわりと温め、焼きネギの甘みと香ばしさが鼻腔を満たす。そして何より、鶏出汁の深いコクが、疲れ果てた五臓六腑へと染み渡っていくのが分かった。
噛まなくても解けていくお米と、絹のように柔らかい鶏ささみ。
「……んん……っ、おい、しい……」
「ふふ、良かった。咀嚼する力も落ちていると思って、葛餡のとろみは少し強めにしておいたんです」
柴崎は満足そうに目を細めると、迷いのない手つきで二口目をすくい、再びふうふうと息を吹きかけて差し出してきた。
「はい、もう一口どうぞ」
「は、晴人さん、もう本当に自分で……」
「ダメです。全部食べ終わるまで、僕が食べさせます」
抗う術などなかった。
スプーンが運ばれてくるたびに、口を開け、咀嚼し、飲み込む。
一口ごとに、冷え切っていた手足の先までポカポカとした温かい血が巡り始める。
そして何より――至近距離で私を見つめ、一口食べるごとに「偉いですね」「いい子です」と囁くように褒めてくる柴崎の眼差しが、熱病よりも強烈に私の理性を溶かしていく。
まるで、手負いの小動物が、逃げ場のない檻の中でじっくりと餌付けされているような感覚。
胃袋を直接掴まれ、喉元を撫でられ、生活の主導権を完全に明け渡していくような、甘くて危険な降伏感。
「はい、お粥は完食ですね。素晴らしいです」
空になった深皿を置いた柴崎は、続いてガラス小鉢からリンゴのコンポートをすくい上げた。
薄紅色の透き通った果実が、スプーンの上でぷるぷると震えている。
「デザートです。お口直しにどうぞ」
差し出されたリンゴを口に含むと、ひんやりとした優しい甘酸っぱさと、上品なシナモンの香りが口いっぱいに広がった。熱でパサついていた口内が、一瞬で潤っていく。
「……おいしい。リンゴって、こんなに美味しかったんだ……」
「あなたのために、皮の赤い色素をじっくり煮出してシロップに移したんですから。美味しくないはずがありませんよ」
柴崎はコンポートを最後の一口まで食べさせ終えると、持参していた小さな紙袋から、解熱鎮痛剤とペットボトルの経口補水液を取り出した。
「お薬です。胃に食べ物が入った今なら、胃壁を荒らす心配もありません。飲んでください」
言われるがままに錠剤を水で飲み込む私。
手際が良すぎる。完璧すぎる。
私が一人で耐え忍ぼうとしていた苦痛を、この男は、現れてからわずか二十分足らずで、すべて綺麗に消し去ってしまったのだ。
「……晴人さん」
空になったペットボトルを置き、私は布団の中から上目遣いに見上げた。
「本当に……ありがとうございました。私、一人でどうしようかと思ってて……すごく、助かりました」
心からの感謝を伝えると、柴崎の表情がふっと緩んだ。
だが、その緩み方は、ただの「親切な店子」のそれとは明らかに違っていた。
柴崎は片付け終えたお盆を横に押しやると、両膝をさらに進め、私の顔の真横に手をついた。
布団の上に覆いかぶさるような体勢。
影が落ち、柴崎の顔が私の鼻先数センチの距離まで近づく。
「……っ、晴人さん!?」
「栞さん」
耳元に落ちてきたのは、低く、甘く、そして抗えないほど重い響きを持った声だった。
首筋をかすめる吐息が、熱い。
「これで、よく分かりましたよね? あなたは、一人じゃ何もできないんです」
「え……?」
「僕がいるのに、我慢して倒れるなんて……そんなこと、二度と許しませんよ。あなたの食事も、健康も、体調管理も……全部、僕が面倒を見てあげます」
柴崎の長い指先が、私の頬の横にかかる後れ毛を、優しく耳の後ろへと払い除けた。
皮膚をなぞる指の腹の熱。
瞳の奥に宿る、底知れぬ独占欲の炎が、至近距離で私を射抜いていた。
「僕以外の誰かに、こんな姿見せないでくださいね。……僕が作ったものだけを食べて、僕の手からだけ栄養を受け取っていればいいんです」
「そ、それって……どういう……」
「どういう意味か、熱が下がったらゆっくり教えてあげますよ」
柴崎はクスクスと喉を鳴らして笑うと、私の額の上にポンと軽く手のひらを乗せた。
そして、名残惜しそうに身を起こし、お盆を抱えて立ち上がる。
「薬が効いてきたら、しっかり眠ってください。お昼には、消化の良い鶏団子のスープを持ってまた来ますから」
「えっ、お昼も!? お店の仕込みは――」
「定休日ですから、時間はいくらでもあります。……鍵は、閉めないでおいてくださいね? 僕がいつでも入れるように」
極上のスパダリスマイルを残して、柴崎は音もなく管理人室を出ていった。
ピシャン、と静かに閉まる引き戸の音。
一人取り残された部屋の中で、私は毛布を頭からすっぽりと被り、激しく跳ね上がる心臓を両手で押さえつけた。
「なんなの……なんなのよ、あの人……っ!」
お粥の温かさと、薬の効き目、そして耳元で囁かれた危険すぎる独占欲の言葉。
身体中の細胞が、柴崎の作った味覚に完全に支配されていくような、甘い恐怖。
大家と店子の境界線。
そんなものはとっくに溶かされ、私は胃袋から、そして心の奥底から、逃げ場のない甘い包囲網に呑み込まれ始めていたのだった。




