第5話:201号室の不器用な工具箱
土曜日の朝というのは、古い木造アパートにとって特別な静けさを纏う時間だ。
平日のように朝早くからスーツ姿の住人が慌ただしく出勤していくこともなく、目黒の閑静な住宅街には、遠くを走る電車の微かな走行音と、中庭のキンモクセイを揺らす秋風の囁きだけが漂っている。
木曜の深夜、換気扇の下で深見さんと分け合ったぬるいビールの苦味は、私の胸の奥にこびりついていた元上司への恐怖を、不思議なほど綺麗に洗い流してくれていた。
金曜日は久しぶりに悪夢を見ずにぐっすりと眠ることができ、迎えた土曜日の午前九時。
私は袖をまくり上げ、エプロンをきっちりと結び直して、一階の共用廊下に立っていた。
「よし! 今日は水回りの大掃除と、排水溝のパイプ洗浄を一気に終わらせるわよ!」
バケツにぬるま湯を張り、重曹とクエン酸、メラミンスポンジを携えて気合いを入れる。
築四十五年の「メゾン・サクラ」は、手入れさえ怠らなければ飴色の柱も磨かれた床も温かい味を出してくれるが、水回りだけは別だ。昭和の設計そのままの給排水設備は、日頃のこまめなメンテナンスが寿命を左右する。
大家としての平穏な不労所得ライフを守るためにも、予防保全こそが最大の節約なのだ。
鼻歌交じりに共用洗面所へと足を踏み入れる。
モザイクタイルがレトロで愛らしい洗面台。蛇口をひねってバケツに水を汲もうと、銀色のハンドルをキュッと回した。
――その時だった。
ゴボッ、ゴボゴボッ……!
「……え?」
配管の奥底から、まるで巨大な怪物が胃液を逆流させているかのような、不気味な地鳴りのような音が響いた。
蛇口から出る水が不規則に途切れ、パイプがガタガタと激しく震え出す。
異変を感じて慌てて蛇口を閉めようとした瞬間――。
バシィィィィィンッッッ!!!
「きゃあああっ!?」
鼓膜を劈くような破裂音とともに、洗面台の下、給水管のジョイント部分が派手に吹き飛んだ。
隙間から噴き出したのは、凄まじい水圧の冷水の噴水だった。
視界が真っ白になるほどの水飛沫が天井まで跳ね上がり、滝のような水が私の顔面と胸元を容赦なく直撃する。
「な、何これ!? ちょっと、嘘でしょ!? 止まって、止まりなさいよぉぉぉ!」
蛇口をいくら捻っても意味がない。割れたのは蛇口の手前、壁から伸びる本管との接続部だ。
あっという間に床一面に水が広がり、タイルの隙間から廊下の板張りに向かって冷たい濁流が流れ出していく。このままでは床下が浸水し、一階の畳が全滅してしまう!
「元栓……! 止水栓はどこ!?」
パニックになりながら、私はずぶ濡れのエプロンを引きずり、洗面台の下の暗がりに這いつくばった。
冷たい水が容赦なく頭から降り注ぎ、視界を奪う。眼鏡もかけていないのに前が見えない。
かじかむ手で壁際の配管を探るが、錆びついた真鍮のコックは固着してびくとも動かない。指先が氷のような水に晒され、感覚が急速に麻痺していく。
「動いてよ……お願いだから回って……! 誰か……誰か助けて……!」
悲鳴のような叫び声が、水音にかき消されそうになった、その時だった。
ドカドカドカッ! と、頭上の階段を乱暴に踏み鳴らす、地響きのような足音が響いた。
「おい、なんの騒ぎだ――」
洗面所の引き戸が、乱暴にガラリと開け放たれる。
水飛沫の向こうに現れたのは、二〇一号室の住人・野村創だった。
部屋着なのだろう、膝の抜けたボロボロの黒いデニムに、首元の詰まった黒のタンクトップ一枚という無防備すぎる姿。
短く刈り込まれた黒髪は寝癖で少し跳ねており、彫りの深い顔立ちには眠たげな気配が残っていた。しかし、百八十五センチを超える筋骨隆々とした巨躯が、洗面所の入り口を丸ごと塞ぐように立っている。
水浸しの床と、噴き上がる噴水。そして床に這いつくばって冷水に打たれている私の無様な姿を一目見るなり、創の鋭い三白眼が見開かれた。
「……っ、チッ!」
舌打ちを一つ、派手に落とす。
嫌悪感からではない。事態の深刻さを瞬時に悟った獣のような、鋭い舌打ち。
「創くん! 水が、水が止まらなく――」
「……どけ」
低く、短く命じられた。
返事をする間すらなかった。
濡れた床をものともせず大股で踏み込んできた創が、私の目の前に屈み込んだかと思うと、その逞しい両腕が、私の両脇の下へと躊躇なく差し入れられたのだ。
「え……っ!?」
フワリ、と視界が浮き上がった。
五十キロ近くある大人の女の体が、まるで羽毛のクッションでも持ち上げるかのような軽やかさで、いとも簡単に宙へと引き上げられる。
濡れて透けかけた私のTシャツ越しに、創の掌の圧倒的な熱と、岩のように硬い指の骨組みが直に食い込んできた。
「きゃっ、創く――」
「暴れるな、落とすぞ」
耳元で低く怒鳴られ、私は思わず口を噤んだ。
創は私を横抱きのように抱え上げると、水浸しの洗面所から大股で二歩後退し、まだ水が届いていない廊下の乾いたスノコの上へと、トン、と丁寧に足を着地させてくれた。
荒っぽい持ち上げ方の割に、下ろす時の手つきは信じられないほど慎重で、衝撃ひとつなかった。
「ここで待ってろ。動くな」
それだけ言い捨てると、創は濡れた床を蹴って階段へと駆け戻っていった。
取り残された私は、びしょ濡れの髪から滴る水滴を拭うことも忘れ、呆然とその背中を見送った。
脇の下に残る、熱い体温の残滓。
心臓が、恐怖とはまったく違う理由で激しく早鐘を打っている。
(な、何今の……軽々と持ち上げられた……!? 男の人って、あんな力あるの……?)
余韻に浸る暇もなく、三十秒も経たないうちに創が階段を駆け下りてきた。
その手には、黒く油染みした、無骨極まりないスチール製の巨大な工具箱が握られていた。
「創くん、それ……!」
「外の元栓、締めに行く暇ねえ。ここで止める」
創は再び激しい水飛沫の中へと迷いなく突入した。
ガチャン! と金属音を立てて工具箱を開くと、中から慣れた手つきで大型のウォーターポンププライヤーと、巨大なモンキーレンチを引っ張り出す。
タンクトップ一枚の背中が、一瞬で水飛沫に濡れそぼり、肌に張り付いた。
水を弾く褐色の肌。肩甲骨から背筋にかけて、彫刻刀で削り出したかのような見事な筋肉の筋が、蠢くように隆起する。
創は噴き出す冷水を顔面に浴びながらも、眉一つ動かさず、破損した配管にプライヤーの爪をガチリと噛ませた。
「ふ……んっ!」
低く呼気が漏らされる。
太い二の腕に、青い血管がボコボコと浮き上がった。
長年びくともしなかったであろう錆びついた金属のナットが、創の圧倒的な膂力によって、ギリギリと悲鳴を上げながら回り始める。
「す、すごい……」
私は思わず息を呑んで見惚れていた。
ただの力任せではない。金属の性質を知り尽くした、無駄のない流れるような手捌き。
美大の造形学部、金属工芸・立体彫刻専攻――。
巨大な鉄塊を熱し、叩き、削り出すことを日常としている彼にとって、家庭用の水道管の修理など、文字通り「朝飯前」の作業だったのだ。
創は割れた真鍮のソケットを一気に緩めて引き抜くと、工具箱の底から手探りで取り出した円形の黒いゴムパッキンとシールテープを、目にも留まらぬ速さで新しい配管に巻き付けた。
そして再びレンチを噛ませ、一気に締め上げる。
ギュッ、ギュッ……ガチリ。
最後のひと締めが決まった瞬間。
あれほど荒れ狂っていた水飛沫が、ピタリと止まった。
しゅうぅぅ……と、わずかな水滴が配管を伝い落ちる音だけを残して、洗面所に完全な静寂が戻ってきた。
「……止まった……?」
私が恐る恐る呟くと、膝をついていた創が、肩で大きく息をしながら立ち上がった。
作業開始から、わずか十分足らず。
タンクトップはびしょ濡れで肌に張り付き、胸板の逞しい起伏が露わになっている。前髪から滴る水滴を、創は無造作に腕で乱暴に拭った。
「……古いパッキンが腐って割れてただけだ。管自体は生きてる。応急処置はしたから、週明けにでもちゃんとした業者呼んで本締めしてもらえ」
工具をガチャガチャと箱に戻しながら、ぶっきらぼうに告げる創。
その横顔のあまりの頼もしさに、私の胸の奥から熱い感動がこみ上げてきた。
もし彼がいなかったら、今頃アパートの一階は水浸しになり、修繕費で数十万円が吹き飛んでいたところだ。私の城を、この男の子が救ってくれたのだ。
「創くん……っ!」
私は居ても立ってもいられず、駆け寄った。
そして、工具箱の蓋を閉めようとしていた創の右手を、両手でギュッと握りしめていた。
「本当に、本当にありがとう! 創くんがいなかったらどうなってたか分からないわ! すごいよ、本職の水道屋さんみたいだった! 本当にかっこよかった……!」
心からの感謝を込めて、顔を見上げて満面の笑みを向けた。
しかし――。
ビクゥゥゥッッッ!!!
「……っ!?」
創の全身が、まるで高圧電流でも流されたかのように硬直した。
見開かれた瞳。呼吸が喉の奥で詰まるような音。
そして次の瞬間、創は激しい勢いで私の手をパアァンと振り払ったのだ。
「……っ触るな!!」
鋭く乾いた拒絶の叫びが、狭い廊下に木霊した。
振り払われた私の右手が、空中で泳ぐ。
「え……?」
凍りついたように動けなくなる私。
痛かったわけではない。けれど、「触るな」というあまりにも拒絶に満ちた言葉が、胸のど真ん中に冷たい棘のように突き刺さった。
(嫌……だったんだ……)
そうだ、私は三十を過ぎた年上の女で、しかも相手から見ればただの口うるさい大家だ。
泥水で汚れ、濡れそぼった手でいきなり触られたら、誰だって不快に決まっている。
私は年下男子のパーソナルスペースを考えもせず、調子に乗って馴れ馴れしく触れてしまったのだ。
穴があったら入りたいほどの恥ずかしさと、申し訳なさが込み上げてきて、私の視線が足元の濡れた床へと落ちる。
「……ごめん、なさい。嬉しくて、つい……汚い手で触っちゃって、ごめんなさい……」
消え入りそうな声で謝罪した、その時だった。
創が、息を呑むような気配がした。
顔を上げると、創は青ざめたような、それでいてひどく取り乱したような表情で、私の顔を凝視していた。
何かを言いかけようと唇を激しく震わせ、拳を握りしめ――だが、言葉は出てこない。
「……クソッ!」
創は頭を乱暴に掻きむしると、濡れた工具箱を床に放り出したまま、再び階段をドカドカと駆け上がっていってしまった。
二階の201号室のドアが、バタン! と乱暴に閉まる音が響く。
一人取り残された、冷たい廊下。
濡れたエプロンが肌に張り付いて、寒気が背中を這い上がってくる。
(やっぱり、嫌われちゃったのかな……。初日の夕食会の時も、目を合わせてくれなかったし……)
情けなくて、鼻の奥がツンとしてくる。
せっかく助けてもらったのに、不快な思いをさせてしまった。大家失格だ。
溜め息をつきながら、散乱したバケツと雑巾を片付けようと腰をかがめた、その時だった。
タタタタッ! と、再び階段を駆け下りてくる足音がした。
「え……?」
振り返ると、そこには息を切らした創が立っていた。
手には、何か青い小さなプラスチックのチューブが握られている。
創は大股で私に近づくと、私の目の前でピタリと足を止めた。
そして、目を絶対に合わせようとしないまま、そのチューブを私の胸元へと乱暴に突き出してきた。
「……っ、これ!」
「え? これって……」
突きつけられたパッケージを見ると、薬局で売っている中でも一番高価な、高濃度尿素配合の医療用ハンドクリームだった。
「……持っとけ」
創はそっぽを向いたまま、怒ったような低い声で吐き捨てた。
「さっき……あんたの手、触った時……氷みたいに冷たかったし、真っ赤だっただろ。……冷水に突っ込んで、配管のサビで擦りむいてんじゃねえか」
「え……?」
言われて初めて、自分の両手を見た。
寒さと泥水で感覚が麻痺していたが、私の指先は真っ赤に腫れ上がり、掌の皮が少し擦りむけて血が滲んでいた。
さっき、創が手を振り払ったのは――汚いから拒絶したのではなく。
「……あんたが、怪我してんのに……ヘラヘラ笑って礼なんて言うから……っ」
創の声が、微かに上擦っていた。
恐る恐る見上げると、創は首をすくめるようにして、顔を真横に背けていた。
だが、その短く刈り上げられた襟足から、耳の先、そして首筋にかけてが――まるで熟れすぎたトマトのように、真っ赤に染まり上がっていた。
「……アトリエで、彫刻の作業した後に使うやつだ。……買いすぎて余ってたから、持ってきてやっただけだ。勘違いすんな」
「創、くん……」
「……早く塗れよ! 風邪ひくぞ!」
創はハンドクリームを私の濡れた手のひらに無理やり押し付けると、二度と私の顔を見ようとせず、脱兎の如き勢いで二階へと駆け戻っていった。
バタン! カチャリ!
今度は、自室の鍵を二重にかける音までしっかりと響いてきた。
静まり返った廊下。
私の手の中には、まだ新品同様の、ずっしりと重いハンドクリーム。
チューブをぎゅっと握りしめると、創の部屋の暖かい空気が残っているかのように、ほんのりと温もりを感じた。
「……『触るな』って、そういうことだったの……?」
ポツリと呟いた言葉が、胸の奥で甘い波紋を広げていく。
不器用で、口下手で、目つきが悪くて怖がられがちで。
だけどその実、誰よりも繊細に人の傷を見ていて、異性に触れられただけで耳まで茹でダコにしてしまう、ピュアすぎる男の子。
「……ふふっ」
思わず、唇から小さな笑みが零れ落ちた。
私はチューブのキャップを開け、白い濃厚なクリームを指先に取った。
擦りむけた掌に塗り広げると、じんわりとした温かさが、冷え切っていた皮膚を優しく包み込んでいく。
「痛くない……全然、痛くないや」
頭から水をかぶって、全身びしょ濡れで、掃除はちっとも進んでいないというのに。
私の心臓の奥底は、まるで淹れたての紅茶を飲み干した後のように、ぽかぽかと温かい熱で満たされていたのだった。




