第4話:深夜2時のキッチン、ぬるい缶ビール
呼吸が、うまく吸い込めなかった。
「佐伯、お前さあ。指示されたことすらまともにこなせないで、何のためにうちにぶら下がってんの? 給料泥棒って言葉、知ってるよな?」
薄暗いオフィス。耳をつんざく怒号。
机に叩きつけられたクリアファイルのプラスチック音が、鼓膜の奥で鋭く跳ね返る。
目の前に立つ男――営業部長の工藤秀樹は、見下すような歪んだ笑みを口元に浮かべながら、私の胸元をボールペンの先端で何度も小突いてきた。
「使えない女だな。拾ってやった恩も忘れてさ。誰のおかげでこの会社にいられると思ってんだよ。全部お前の落ち度だ。今夜中に全部やり直せ。終わるまで帰れると思うなよ」
すいません、申し訳ありません、私の確認不足です――。
喉がカラカラに張り付いて、声が出ない。
足元から冷たい泥水がせり上がってきて、膝を、腰を、胸を呑み込んでいく。息ができない。助けて、誰か、息をさせて――。
「――っ、はっ……!」
跳ね起きると同時に、肺の奥へ一気に冷たい空気が流れ込んできた。
ぜえぜえと乱れた呼吸が、暗闇の中に激しく響く。
額から顎へと、冷や汗が一筋つうっと伝い落ちた。
心臓が肋骨を内側から破らんばかりに早鐘を打っている。私は震える両手で敷布団の縁をぎゅっと握りしめ、自分が今どこにいるのかを必死に確かめた。
オフィスじゃない。
机の上の山積みの伝票もないし、工藤部長の罵声も聞こえない。
目の前にあるのは、月明かりに照らされた管理人室の砂壁と、祖母の遺品である小さな桐箪笥のシルエット。
「……夢、か……」
木曜日の深夜二時。
会社を辞めてからもう一ヶ月以上が経つのに、あの十年間で骨の髄まで刷り込まれた恐怖の記憶は、こうしてふとした夜に私を苛みにやってくる。
元上司の工藤部長。仕事を押し付け、手柄を奪い、精神的に追い詰めながら「お前には価値がない」と洗脳し続けた男。
あの会社を逃げ出したことは正しかったはずなのに、夢を見るたび、胸の奥深くに「自分は社会からドロップアウトした出来損ないなんじゃないか」という冷たい澱が沈殿していく。
「……喉、カラカラ……」
張り付いた喉を潤そうと、枕元の水筒に手を伸ばしたが、中身は空だった。
寝間着のオーバーサイズなスウェットの袖をまくり、私は音を立てないようにそっと管理人室の引き戸を開けた。
深夜のアパートは、水を打ったように静まり返っていた。
一階の共用廊下を、忍び足で歩く。
目指すのは、共用ダイニングの奥にある大型冷蔵庫だ。冷たい麦茶でも一杯飲んで、胃の腑を落ち着かせよう。そう思ってダイニングの入り口に差しかかった瞬間――。
かすかな、換気扇の回転音が耳に届いた。
ブーン、と低く唸る規則的なモーター音。
そして、薄暗い廊下の先、キッチンの換気フードのあたりから、オレンジ色の鈍い白熱灯の光が漏れ出していた。
(……え? 誰か起きてるの……?)
泥棒か、あるいは住人の誰かが電気を消し忘れたのか。
恐る恐る引き戸の隙間から中を覗き込んだ私は、思わず息を呑んだ。
キッチンのカウンター。
丸椅子を逆向きに跨ぎ、背もたれに長い腕をだらしなく乗せて座っている人影があった。
黒いスタンドカラーのシャツの襟元を無造作に寛げ、指先に一本の細い煙草を挟んでいる。
薄いオレンジ色の光に照らし出された横顔。彫りの深い鼻梁と、伏せられた長い睫毛。顎のラインにうっすらと浮かぶ無精髭が、夜の深い闇の中で退廃的な陰影を作っていた。
ふう、と紫煙が細く天井の換気扇へと吸い込まれていく。
一〇二号室の住人、深見怜だった。
(うわ……絵になりすぎでしょ、この深夜枠……)
思わず見惚れそうになった自分を慌てて戒める。
いけない、作家先生の神聖な深夜のサボり時間……もとい、思考の時間に水を差しては申し訳ない。ここは足音を忍ばせて引き返すべきだ。
そう思って後ずさりしかけた瞬間、ギシッと床板が小さく鳴った。
「……おい。隠れてないで入ってこいよ、大家」
煙草をくわえたままの、低く掠れた声が静寂を切り裂いた。
振り返りもしないのに、完璧に気配を察知されていた。
「ひっ……あ、あの、すみません! 喉が渇いてお水を飲みに来ただけなんです! すぐ戻りますので!」
ペコペコと頭を下げて逃げようとする私に、深見は椅子ごとくるりとこちらを向き直した。
丸眼鏡の奥の切れ長の瞳が、寝起きのすっぴんでボサボサ頭の私をじっと捉える。
「水飲むなら、ついでに冷蔵庫開けてくれ。ちょうど喉が渇いてたところだ」
「えっ……ご自分で取ればいいじゃないですか……」
「立ち上がるのが面倒くさい。執筆で行き詰まって、今、一ミリも筋肉を使いたくないんだよ」
堂々とした怠惰宣言である。
呆れつつも、私は観念してスリッパを鳴らしながらキッチンへと足を踏み入れた。
換気扇の真下へ近づくにつれて、濃い珈琲の香りと、ハイライトの少し甘苦い煙草の匂いが鼻先を掠める。
「お水でいいんですか?」
「一番下の段に、酒が入ってるだろ。それ適当に取ってくれ」
大型冷蔵庫を開けると、確かにドアポケットと野菜室の間に、誰のものとも知れないビール缶が何本か無造作に転がっていた。
私は銀色の缶ビールを一本取り出し、冷蔵庫を閉めた。
そして振り返り、「はい、どうぞ」と深見に手渡そうとした、その時。
――コツン。
「ひゃっ!?」
私の額に、ひやりとしたアルミの感触が押し当てられた。
深見の手元を見ると、彼自身がいつの間にかもう一本の缶ビールを取り出しており、その底を私の額に軽く突きつけていたのだ。
「……何するんですか!? 冷たいです!」
「お前も飲め。真っ青な顔して、幽霊みたいだぞ」
深見はそう言うと、額から缶を離し、私の胸元へと無造作に放り投げてきた。
慌てて両手でキャッチする。手のひらに伝わる、冷え切らない中途半端な缶のぬるさ。
「あの、私、お酒を飲みに来たわけじゃ……」
「いいから座れ。真夜中に女に一人でウロウロされたら、気になって原稿が進まねえんだよ」
有無を言わさない作家の横暴。
だが、その強引さの裏側に、どこか放っておけない優しさが滲んでいるのを感じてしまい、私は抗うのをやめた。
キッチンのカウンターを挟んで、深見の斜め前の丸椅子に腰を下ろす。
プシュッ、と小気味よい音が二つ、深夜のキッチンに重なった。
深見は缶に直接口をつけ、喉仏を大きく上下させながら一気に三分の一ほどあおった。
私も恐る恐る口をつける。
喉を滑り落ちていく、少し気の抜けた、ぬるい苦味。
決して上等な味ではないけれど、胃の底に溜まっていた嫌な緊張感が、じわりと温かいアルコールによって解きほぐされていくような気がした。
「……深見さん、まだ原稿書いてたんですか?」
「ああ。プロットの辻褄が合わなくてな。密室で人を一人消す方法を三時間考えてたら、頭から煙が出そうになった」
「物騒なこと考えてるんですね……」
「ミステリ作家だからな。お前をこのキッチンから痕跡なく消し去る方法なら、今すぐ五通りくらい思いつくぞ」
「大家を消さないでください。来月の家賃回収できなくなりますよ」
私が即座にツッコミを入れると、深見は「くくっ」と喉を震わせて短く笑った。
煙草を携帯灰皿に押し付けて火を消し、肘をついて私を見る。
「で? 何があった。さっきの青い顔」
「え……?」
「汗だくで、過呼吸寸前の顔して部屋から出てきただろ。……悪夢でも見たか」
図星を指され、私は言葉を詰まらせた。
手の中の缶ビールを見つめ、爪先でアルミニウムの結露をそっとなぞる。
誰かに話すようなことじゃない。三十を過ぎた大人が、前の会社の夢を見て怯えていたなんて、情けなさすぎて口に出せるはずがない。
そう思って口を噤もうとしたのに、深夜二時という魔の時間と、ぬるいビールの酔い、そして目の前にいる男の醸し出す「どんな毒でも受け止めてくれそうな気怠い空気」が、私の固い防壁を溶かしてしまった。
「……前の会社の、上司の夢を見ました」
ぽつり、と零れ落ちた言葉。
深見は何も言わず、ただ静かに私の目を見つめている。
促されるように、私は胸の奥底に溜め込んでいた泥のような本音を吐き出していた。
「営業部長だった人なんですけど……毎日、怒鳴られてばかりで。『お前は無能だ』『代わりなんていくらでもいる』『何の役にも立たない給料泥棒』って、顔を合わせるたびに言われてて……」
缶を握る指先に、ぎゅっと力が入る。
「私、本当に頑張ってたんです。みんながやりたがらない雑務も、深夜の修正作業も、全部一人で引き受けて……でも、最後は過労で倒れて、逃げるように会社を辞めちゃって。祖母がこのアパートを遺してくれなかったら、今頃どうなってたか分からない」
息を吸い込むと、喉の奥がキュッと痛んだ。
「ふとした瞬間に、思っちゃうんですよね。あの部長の言う通り、私って本当に社会の役に立たない、ただの出来損ないだったんじゃないかって。このアパートでの生活も、現実から逃げ出して甘えてるだけなんじゃないかって……」
言ってしまった。
こんな重苦しい愚痴、ただの店子に聞かせるなんて最低だ。
引かれるに決まっている。「そんなの自己責任だろ」と笑われるかもしれない。
私は身を縮め、深見の反応を恐れて俯いた。
換気扇の回転音だけが、静かに二人の間に響く。
深見は新しい煙草を一本箱から抜き取ると、ライターのカチリという金属音とともに火をつけた。
紫煙が、二人の間の空間を淡く揺らす。
「……役に立つとか立たないとか、誰の基準だ?」
低く、乾いた声が落ちてきた。
冷笑でも、同情でもない。ただ客観的に事実を突きつけるような、作家の冷静な声。
「あん?」と顔を上げた私を見下ろしながら、深見は煙を天井へ細く吐き出した。
「社会の役に立つ人間が偉くて、そうじゃない奴は生きる価値がないってか? くだらねえ。そんなものはな、都合よく人間をこき使いたい資本主義の豚どもが作った、ただの洗脳ルールだよ」
「で、でも……」
「大体な、お前が何の役にも立ってないわけないだろ」
深見は缶ビールを一口飲み、視線をキッチンから廊下の暗がりへと向けた。
「俺は毎日、原稿用紙の隙間から見てるんだよ。あんたが朝の六時から共用の廊下をピカピカに磨いてるのも。中庭の落ち葉を腰を痛めそうになりながら掃いてるのも。昨夜だって、電球が切れたのを誰よりも早く見つけて、脚立に乗って替えてただろ」
心臓が、トクンと音を立てた。
(見て……たの……?)
「住人が快適に暮らせるように、文句も言わずに毎日細々とした面倒を引き受けてる。……それが『役に立ってない』だと? 笑わせるな」
深見は煙草をくわえ直すと、ふっと口角を意地悪そうに持ち上げた。
「あんたの前の会社の上司とやらが、ただのド節穴だっただけだ。優秀で真面目な歯車を使い潰して、自分の無能を棚に上げてただけの三流野郎だろ。そんな奴の言葉を、いつまで大事そうに抱え込んで悪夢見てんだ、馬鹿」
――節穴。
――三流野郎。
あまりにも辛辣で、あまりにも容赦のない、元上司への切り捨て。
そして、それと同時に突きつけられた、不意打ちのような「全肯定」。
胸の奥で固く凍りついていた冷たい塊が、音を立てて崩れ落ちていくのが分かった。
誰も見てくれていないと思っていた。
誰も褒めてくれない、当たり前の雑用。元社畜の習性で、誰にも迷惑をかけないようにと必死にこなしていた日々の些細な営みを、この男は、暗い部屋の窓の隙間から、ずっと見ていてくれたのだ。
「……深見さん……」
視界が、じわりと滲んだ。
涙が零れそうになるのを悟られないよう、慌てて俯いて缶ビールに顔を埋める。
「な、なんか……言い草はトゲだらけですけど……ありがとうございます……」
「礼を言われる筋合いはねえよ。事実を言っただけだ」
深見は鼻を鳴らし、立ち上がった。
そして、私の横を通り過ぎようとした瞬間――。
――トン。
大きな、骨張った手のひらが、私の頭の上に軽く置かれた。
乱暴に髪を小突くような、けれど決して痛くはない、ぎこちない力加減。
煙草の匂いと、微かな体温が、頭頂部からじんわりと染み込んでくる。
「……っ」
見上げると、深見は横を向いたまま、煙草を灰皿にもみ消していた。
眼鏡の奥の横顔は相変わらず不機嫌そうだったが、その耳たぶが、薄暗いオレンジ色の光の中でほんの少しだけ赤く染まっているように見えた。
「早く飲んで寝ろ。……泣き腫らしたブサイクな顔で朝の掃除されたら、こっちの創作意欲が減退する」
「ブサイクって言わないでください!」
「事実だろ」
深見は私の頭から手を離すと、空になったビール缶を指先で弾いてゴミ箱へ放り込んだ。
カラン、と乾いた音が深夜のキッチンに響く。
「じゃあな、大家。……鍵は、閉めて寝ろよ」
ひらひらと片手を振って、スリッパを引きずりながらダイニングを出ていく背中。
一〇二号室のドアが静かに閉まり、カチャリと鍵の回る音が聞こえた。
一人残されたキッチン。
換気扇の回る音の中、私は手の中のぬるいビールを、最後の一滴まで飲み干した。
胸の奥の冷たい痛みは、いつの間にか綺麗に消え去っていた。
代わりに残ったのは、頭の上に残る手のひらの熱と、甘苦いアルコールの余韻。
「……三流野郎、か」
小さく呟いて、私はふっと笑った。
工藤部長の呪縛が、十年の時を経て、ようやく少しだけ解けたような気がした。
偏屈で、気怠げで、言葉遣いも最悪なミステリ作家。
けれどその男がくれたぬるいビールと不器用な肯定は、どんな高級な特効薬よりも深く、私の擦り切れた心に染み渡っていたのだった。




