第3話:101号室のネクタイを解く音
木造アパートの夜というのは、思いのほか賑やかだ。
賑やか、と言っても宴会騒ぎが起きているわけではない。
築四十五年という歳月を重ねた柱や梁が、昼夜の気温差で「ピシッ」と小さく鳴る音。どこかの部屋で蛇口をひねった時に響く微かな水道管の水音。夜風が中庭の桜の古木を揺らし、さやさやと葉を擦り合わせる気配。
コンクリートで固められた都心の高層マンションでは決して聞こえない、まるで建物自体が呼吸をしているかのような有機的な物音が、そこかしこに満ちていた。
火曜日の深夜一時。
世間一般が寝静まるこの深い時間、私はといえば、ジャージの上に薄手のカーディガンを羽織り、脚立を小脇に抱えて一階の共用廊下に立っていた。
「よい、しょっと……」
二段ほどの小さなアルミ脚立に乗り、天井のソケットに新しいLED電球をねじ込む。キュキュッと心地よい摩擦音が鳴り、壁のスイッチをパチリと倒すと、薄暗かった廊下が柔らかい電球色の光でパッと照らされた。
「よし、点いた! やっぱりPanasonicの温白色にして正解だったわね。前の白熱灯より明るいし、省エネだし」
誰もいない廊下で、一人満足げに頷く。
会社員時代、深夜一時といえば終わらないデータ入力に追われ、冷めたエナジードリンクを胃に流し込みながら、死んだ魚のような目でディスプレイを睨みつけていた時間だ。それに比べれば、自分の管理するアパートのために電球を替え、夜の静寂を味わうこの時間の方が、何倍も人間らしい生活と言える。
脚立を畳んで管理人室の脇に置き、続いて勝手口の外にあるゴミ置き場へと向かう。
明日の水曜日は「プラスチック資源ゴミ」の回収日だ。入居者たちがルールを守って出してくれたゴミ袋を点検するのも、新米大家の大切な日課である。
「一〇二号室の深見さんは……相変わらず珈琲の空きボトルが多めだけど、ちゃんとラベルとキャップは剥がしてあるわね。偏屈な割にゴミ出しは几帳面なの、ちょっと意外。二〇一号室の創くんは……これ、彫刻用の梱包材かな? 小さく縛ってあって偉い。二〇二号室の柴崎さんは言わずもがな、完璧」
問題なし、と満足して立ち上がったその時だった。
――カラカラ、ピシャン。
アパートの玄関エントランスの木製引き戸が、静かに開いて閉まる音が響いた。
こんな深夜に帰宅するのは、あの人しかいない。
私は軍手を外してポケットに突っ込み、共用廊下を通って玄関へと小走りで向かった。
「お帰りなさ――」
出迎えの言葉を口にしかけて、私の声は喉の奥で止まった。
土間に立っていたのは、一〇一号室の宮原陸だった。
だが、日曜日や今朝見送った時の、仕立ての良いチャコールグレーのスーツを纏い、背筋をピンと伸ばした「完璧なエリート」の姿とは、あまりにもかけ離れていた。
肩はこれ以上ないほど重そうに落ち、いつもは涼しげな光を宿している目元には濃い影が落ちている。手にした黒い本革のブリーフケースは、まるで鉛の塊を引きずるように力なくぶら下げられていた。
足元が覚束ない。靴を脱ぐことすら億劫なようで、上がり框に片手をついて、深く頭を垂れている。
「……宮原さん?」
私が恐る恐る声をかけると、陸の肩がピクリと跳ね上がった。
顔を上げた陸は、私の姿を認めた瞬間、条件反射のように口角を引き上げ、いつもの完璧な笑顔を作ろうとした。
「あ……大家、さん。こんばんは。こんな時間まで、起きていらしたんです……ね……」
しかし、その作り笑いは痛々しいほど引きつり、途中でふっと力なく崩れ落ちてしまった。
瞳の奥に張り巡らされた、限界ギリギリの疲労と、今にも零れ落ちそうな感情の澱。
その顔を見た瞬間、私の胸がキュッと締め付けられた。
(あ、この顔……知ってる)
かつて、深夜のオフィスのトイレの鏡で、毎晩のように自分が見ていた顔だ。
理不尽に耐え、感情を殺し、誰にも弱音を吐けずに擦り切れて、それでも「大丈夫です」と笑うしかなくなった人間の、張り詰めた糸が切れそうな限界の表情。
「宮原さん……大丈夫ですか? 顔色がものすごく悪いですけど……」
私が無意識に一歩踏み出し、労うように声をかけた、その時だった。
――スルスルッ、と絹が擦れ合う微かな音が、静まり返った玄関に落ちた。
陸が、無言のまま右手を自分の首元へと伸ばし、完璧に結ばれていたネクタイの結び目を乱暴に引き下げたのだ。
喉元を締め付けていた第一ボタンがプチリと外れ、露わになる白い首筋と喉仏。
いつも隙のないエリートが、人前で見せるはずのない、あまりにも無防備で生々しい「武装解除」の瞬間。
「……栞さん」
掠れた、熱っぽい声が私の名前を呼んだ。
宮原さん、ではなく、下の名前。
驚いて目を丸くした私の隙を突くように、長い影が視界を覆った。
陸が、上がり框を一段上がり、無言で私との距離を詰めてきたのだ。
革靴を脱ぎ捨てることも忘れ、ストッキング越しの私の足元のすぐそこまで、長い足が歩み寄る。
「え、ちょっ……宮原く――」
――トン。
言葉は、それ以上続かなかった。
目の前で、百八十センチを超える長身がふわりと折れ曲がった。
次の瞬間、私の右肩の上に、こてん、と重たいものが預けられた。
陸の額だった。
「……っ!?」
息が止まった。
あまりの密着に、全身の毛穴がキュッと引き締まる。
私の華奢な肩口に、陸が頭をすっぽりと埋めるようにして、全体重を預けてきているのだ。
高級スーツのイタリア製ウールの滑らかな手触りと、微かに冷え切った夜風の冷気。そして、陸の首筋からふわりと立ち上る、ベルガモットとシトラスがブレンドされた上品な香水の匂い。
さらりとした黒髪が私の頬をかすめ、くすぐったいような、甘い熱が肌を撫でる。
「……五分だけ」
私の耳のすぐ真横で、低く、押し殺したような吐息混じりの声が響いた。
鼓膜を直接震わせるような、切実な響き。
「五分だけでいいので……このまま、充電させてください……」
「じ、充電って……宮原くん、あの、ここは玄関で……!」
私が動揺のあまり腕をバタつかせようとすると、背中に回された腕に、ぎゅう、と強い力が込められた。
「動かないで……お願いですから」
その声の震えに、私の動きがピタリと止まった。
肩口に押し当てられた陸の額から、熱い体温が衣服越しにじんわりと伝わってくる。
呼吸が荒い。まるで、激しい嵐の中を命からがら泳ぎ切って、ようやく見つけた流木にしがみついているかのような、必死のすがりつき方だった。
「……今日、海外本社のディレクターと、大口のクライアントの板挟みに遭って……朝から今まで、十三時間ぶっ続けで詰められました」
ポツリ、ポツリと、陸の口から零れ落ちる言葉。
昼間のスマートな外資系コンサルの彼からは、想像もつかない弱音。
「僕が作った分析データは『数字の羅列に魂がない』って突き返されて……相手の理不尽な要求を全部飲まされて……社内では『氷のプリンスなんだから感情的になるな』って笑われて。……もう、人間辞めたいです。全部投げ出して、どこか消えてしまいたい……」
震える吐息が、私の首筋に吹きかかる。
大型犬が、雨の中でびしょ濡れになって震えながら、飼い主の胸に鼻先を押し付けているような、あまりにも痛々しい甘え方。
本来なら、「住人同士のプライベートへの過剰な干渉は禁止」というルールを盾に、彼を押し退けるべきだった。
私は大家で、彼は店子。
真夜中の玄関で、三十代の独身女性が、二十代の若い男性に抱きつかれているなど、どう考えても一線を越えている。
だけど――。
(……わかるよ。痛いほど、わかる)
どんなに理不尽なことを言われても、「申し訳ありません」と頭を下げ続けなければならなかった日々。
周囲からは「できて当たり前」と思われ、ミスをすれば徹底的に叩かれ、どれだけ心が血を流していても、誰の前でも泣くことすら許されなかったあの孤独。
他人の痛みに共感しすぎて自滅した元社畜の私の心臓が、痛むように脈打った。
「……宮原くん」
私は拒絶する代わりに、そっと息を吐き出した。
そして、宙で彷徨っていた自分の右手を、おずおずと陸の広い背中へと添えた。
薄いスーツの生地越しに伝わってくる、強張った肩甲骨の緊張。
「大変だったね。……よく頑張って、帰ってきたね」
かつて、誰にも言ってもらえなかった言葉を、私は陸の背中に向けて優しく落とした。
私の手のひらで、ポン、ポン、と赤ん坊をあやすようにゆっくりと背中を叩く。
「理不尽に怒られるのって、本当に削られるよね。自分が世界で一番無能なんじゃないかって思えてきて、消えたくなるよね。……でもね、宮原くんはちゃんと今日一日を生き延びて、このアパートに帰ってきたじゃない。それだけで百点満点だよ」
「……栞、さん……」
「ここでは、エリートコンサルタントの宮原陸じゃなくていいの。クライアントもディレクターも、ここには入ってこられないんだから。……ただの、一〇一号室の陸くんでいていいんだよ」
私がそう告げた瞬間だった。
――ギシッ。
私の肩口に埋められていた陸の顔が、さらに深く、強く押し付けられた。
そして、私の背中に回されていた腕の力が、跳ね上がるように強くなる。
「っ……!?」
みぞおちが苦しくなるほどの抱擁。
驚いて息を呑んだ私の体に、陸の胸板が隙間なく密着する。
先ほどまでの「甘える大型犬」の頼りなさはどこへ行ったのか。私の体を軽々と包み込み、決して逃がさないとばかりに締め上げる腕の力は、骨太で、分厚く、紛れもなく「力のある若い男」のそれだった。
(えっ……力、強すぎない……!?)
心臓がトクン、と大きく跳ねる。
甘えん坊の年下男子を慰めているつもりだったのに、肌を突き抜けてくるのは生々しい雄の体温と筋力だ。
肩口に触れる陸の唇が、布越しに動くのが分かる。
「……ずるいですよ、栞さん」
耳元に落ちてきたのは、先ほどの泣き言とはまったく違う色の声だった。
低く、艶を帯びた、熱い響き。
「そんなこと言われたら……僕、本気であなたに甘えたくなっちゃうじゃないですか。……このまま部屋に連れ込んで、朝まで離したくなくなります」
「ひゃっ……!?」
背筋を甘い電流が駆け抜け、私の口から変な悲鳴が漏れた。
慌てて陸の胸板を両手で押し返そうとするが、岩のように硬い胸筋はビクともしない。
「み、宮原くん! 五分経ちました! 充電完了! 強制終了です!!」
私が顔から火が出そうなほど真っ赤になって叫ぶと、陸はクスクスと喉を鳴らして笑った。
そして、未練配といった様子で、ゆっくりと私の肩から顔を離した。
目の前に現れた陸の顔を見て、私は息を呑んだ。
先ほどまでの死にそうな疲労感は綺麗に消え去り、その瞳は夜の湖のように澄み渡り、妖しい光を宿していた。
首元のネクタイは緩み、乱れた前髪の隙間から覗く濡れた瞳。そして、ほんのりと赤く染まった頬。
反則的なまでのギャップ。三十代の錆びついた乙女心が、直撃を受けて粉々に砕け散りそうになる。
「……ふう。本当に、充電できました」
陸は私の目を見つめたまま、自分の緩んだネクタイを指先で弄び、満足そうに微笑んだ。
その笑顔は、いつもの作り物の営業スマイルではなく、年下の男が好きな女性の前でだけ見せる、甘く危険な笑顔だった。
「栞さんの言う通りですね。僕、明日もなんとか戦えそうです。……あなたのおかげで」
「そ、それは良かったですね……! じゃあ、もう遅いのでお部屋に戻って早く寝てください!」
私がパニックのあまり早口でまくし立てると、陸はふっと悪戯っぽく目を細め、私の顔のすぐ横――上がり框の柱に手をトンとついた。
いわゆる、夜の玄関先での斜め壁ドン状態。
「栞さん」
「な、なんですか……!」
「今夜のこと、他の住人たちには内緒ですよ?」
至近距離で囁かれる、秘密の共有。
陸の人差し指が、そっと私の唇の前に立てられる。
触れそうで触れない距離。シトラスの香りが、夜の空気に甘く溶けていく。
「僕だけの特権にしてくれないと……僕、嫉妬で何するかわかりませんから」
それだけ言い残すと、陸はようやく柱から手を離し、革靴を脱いで綺麗に揃えた。
そして、「おやすみなさい、僕の大家さん」と爽やかに手を振って、一〇一号室のドアの向こうへと消えていったのだった。
――カチャリ、と鍵の閉まる音。
静まり返った玄関に、一人取り残された私。
冷たい板の間に膝からへたり込み、両手で火照った頬を覆う。
「……なんなのよ、あの子……っ!」
大型犬の顔をして甘えてきたくせに、最後のあの男の顔は一体何だ。
心臓が、肋骨の内側で激しいドラムを叩き続けている。
電球を替えて明るくなったはずの廊下が、どういうわけか、途方もなく眩しく、そして熱を帯びて見えた。
大家と店子の境界線。
自分で引いたはずのその線は、今夜、解かれたネクタイの音とともに、あっけなく踏み越えられてしまったのだった。




