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家賃は愛嬌じゃ払えません! 〜訳ありイケメンだらけのレトロアパート、今夜も大家(32)の胃袋と心が奪われそうです〜  作者: タカノ


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第3話:101号室のネクタイを解く音

木造アパートの夜というのは、思いのほか賑やかだ。

賑やか、と言っても宴会騒ぎが起きているわけではない。

築四十五年という歳月を重ねた柱や梁が、昼夜の気温差で「ピシッ」と小さく鳴る音。どこかの部屋で蛇口をひねった時に響く微かな水道管の水音。夜風が中庭の桜の古木を揺らし、さやさやと葉を擦り合わせる気配。

コンクリートで固められた都心の高層マンションでは決して聞こえない、まるで建物自体が呼吸をしているかのような有機的な物音が、そこかしこに満ちていた。


火曜日の深夜一時。

世間一般が寝静まるこの深い時間、私はといえば、ジャージの上に薄手のカーディガンを羽織り、脚立を小脇に抱えて一階の共用廊下に立っていた。


「よい、しょっと……」


二段ほどの小さなアルミ脚立に乗り、天井のソケットに新しいLED電球をねじ込む。キュキュッと心地よい摩擦音が鳴り、壁のスイッチをパチリと倒すと、薄暗かった廊下が柔らかい電球色の光でパッと照らされた。


「よし、点いた! やっぱりPanasonicの温白色にして正解だったわね。前の白熱灯より明るいし、省エネだし」


誰もいない廊下で、一人満足げに頷く。

会社員時代、深夜一時といえば終わらないデータ入力に追われ、冷めたエナジードリンクを胃に流し込みながら、死んだ魚のような目でディスプレイを睨みつけていた時間だ。それに比べれば、自分の管理するアパートのために電球を替え、夜の静寂を味わうこの時間の方が、何倍も人間らしい生活と言える。


脚立を畳んで管理人室の脇に置き、続いて勝手口の外にあるゴミ置き場へと向かう。

明日の水曜日は「プラスチック資源ゴミ」の回収日だ。入居者たちがルールを守って出してくれたゴミ袋を点検するのも、新米大家の大切な日課である。


「一〇二号室の深見さんは……相変わらず珈琲の空きボトルが多めだけど、ちゃんとラベルとキャップは剥がしてあるわね。偏屈な割にゴミ出しは几帳面なの、ちょっと意外。二〇一号室の創くんは……これ、彫刻用の梱包材かな? 小さく縛ってあって偉い。二〇二号室の柴崎さんは言わずもがな、完璧」


問題なし、と満足して立ち上がったその時だった。


――カラカラ、ピシャン。


アパートの玄関エントランスの木製引き戸が、静かに開いて閉まる音が響いた。

こんな深夜に帰宅するのは、あの人しかいない。

私は軍手を外してポケットに突っ込み、共用廊下を通って玄関へと小走りで向かった。


「お帰りなさ――」


出迎えの言葉を口にしかけて、私の声は喉の奥で止まった。


土間に立っていたのは、一〇一号室の宮原陸だった。

だが、日曜日や今朝見送った時の、仕立ての良いチャコールグレーのスーツを纏い、背筋をピンと伸ばした「完璧なエリート」の姿とは、あまりにもかけ離れていた。


肩はこれ以上ないほど重そうに落ち、いつもは涼しげな光を宿している目元には濃い影が落ちている。手にした黒い本革のブリーフケースは、まるで鉛の塊を引きずるように力なくぶら下げられていた。

足元が覚束ない。靴を脱ぐことすら億劫なようで、上がり框に片手をついて、深く頭を垂れている。


「……宮原さん?」


私が恐る恐る声をかけると、陸の肩がピクリと跳ね上がった。

顔を上げた陸は、私の姿を認めた瞬間、条件反射のように口角を引き上げ、いつもの完璧な笑顔を作ろうとした。


「あ……大家、さん。こんばんは。こんな時間まで、起きていらしたんです……ね……」


しかし、その作り笑いは痛々しいほど引きつり、途中でふっと力なく崩れ落ちてしまった。

瞳の奥に張り巡らされた、限界ギリギリの疲労と、今にも零れ落ちそうな感情の澱。

その顔を見た瞬間、私の胸がキュッと締め付けられた。


(あ、この顔……知ってる)


かつて、深夜のオフィスのトイレの鏡で、毎晩のように自分が見ていた顔だ。

理不尽に耐え、感情を殺し、誰にも弱音を吐けずに擦り切れて、それでも「大丈夫です」と笑うしかなくなった人間の、張り詰めた糸が切れそうな限界の表情。


「宮原さん……大丈夫ですか? 顔色がものすごく悪いですけど……」


私が無意識に一歩踏み出し、労うように声をかけた、その時だった。


――スルスルッ、と絹が擦れ合う微かな音が、静まり返った玄関に落ちた。


陸が、無言のまま右手を自分の首元へと伸ばし、完璧に結ばれていたネクタイの結び目を乱暴に引き下げたのだ。

喉元を締め付けていた第一ボタンがプチリと外れ、露わになる白い首筋と喉仏。

いつも隙のないエリートが、人前で見せるはずのない、あまりにも無防備で生々しい「武装解除」の瞬間。


「……栞さん」


掠れた、熱っぽい声が私の名前を呼んだ。

宮原さん、ではなく、下の名前。

驚いて目を丸くした私の隙を突くように、長い影が視界を覆った。


陸が、上がり框を一段上がり、無言で私との距離を詰めてきたのだ。

革靴を脱ぎ捨てることも忘れ、ストッキング越しの私の足元のすぐそこまで、長い足が歩み寄る。


「え、ちょっ……宮原く――」


――トン。


言葉は、それ以上続かなかった。


目の前で、百八十センチを超える長身がふわりと折れ曲がった。

次の瞬間、私の右肩の上に、こてん、と重たいものが預けられた。

陸の額だった。


「……っ!?」


息が止まった。

あまりの密着に、全身の毛穴がキュッと引き締まる。

私の華奢な肩口に、陸が頭をすっぽりと埋めるようにして、全体重を預けてきているのだ。

高級スーツのイタリア製ウールの滑らかな手触りと、微かに冷え切った夜風の冷気。そして、陸の首筋からふわりと立ち上る、ベルガモットとシトラスがブレンドされた上品な香水の匂い。

さらりとした黒髪が私の頬をかすめ、くすぐったいような、甘い熱が肌を撫でる。


「……五分だけ」


私の耳のすぐ真横で、低く、押し殺したような吐息混じりの声が響いた。

鼓膜を直接震わせるような、切実な響き。


「五分だけでいいので……このまま、充電させてください……」


「じ、充電って……宮原くん、あの、ここは玄関で……!」


私が動揺のあまり腕をバタつかせようとすると、背中に回された腕に、ぎゅう、と強い力が込められた。


「動かないで……お願いですから」


その声の震えに、私の動きがピタリと止まった。

肩口に押し当てられた陸の額から、熱い体温が衣服越しにじんわりと伝わってくる。

呼吸が荒い。まるで、激しい嵐の中を命からがら泳ぎ切って、ようやく見つけた流木にしがみついているかのような、必死のすがりつき方だった。


「……今日、海外本社のディレクターと、大口のクライアントの板挟みに遭って……朝から今まで、十三時間ぶっ続けで詰められました」


ポツリ、ポツリと、陸の口から零れ落ちる言葉。

昼間のスマートな外資系コンサルの彼からは、想像もつかない弱音。


「僕が作った分析データは『数字の羅列に魂がない』って突き返されて……相手の理不尽な要求を全部飲まされて……社内では『氷のプリンスなんだから感情的になるな』って笑われて。……もう、人間辞めたいです。全部投げ出して、どこか消えてしまいたい……」


震える吐息が、私の首筋に吹きかかる。

大型犬が、雨の中でびしょ濡れになって震えながら、飼い主の胸に鼻先を押し付けているような、あまりにも痛々しい甘え方。


本来なら、「住人同士のプライベートへの過剰な干渉は禁止」というルールを盾に、彼を押し退けるべきだった。

私は大家で、彼は店子。

真夜中の玄関で、三十代の独身女性が、二十代の若い男性に抱きつかれているなど、どう考えても一線を越えている。


だけど――。


(……わかるよ。痛いほど、わかる)


どんなに理不尽なことを言われても、「申し訳ありません」と頭を下げ続けなければならなかった日々。

周囲からは「できて当たり前」と思われ、ミスをすれば徹底的に叩かれ、どれだけ心が血を流していても、誰の前でも泣くことすら許されなかったあの孤独。

他人の痛みに共感しすぎて自滅した元社畜の私の心臓が、痛むように脈打った。


「……宮原くん」


私は拒絶する代わりに、そっと息を吐き出した。

そして、宙で彷徨っていた自分の右手を、おずおずと陸の広い背中へと添えた。

薄いスーツの生地越しに伝わってくる、強張った肩甲骨の緊張。


「大変だったね。……よく頑張って、帰ってきたね」


かつて、誰にも言ってもらえなかった言葉を、私は陸の背中に向けて優しく落とした。

私の手のひらで、ポン、ポン、と赤ん坊をあやすようにゆっくりと背中を叩く。


「理不尽に怒られるのって、本当に削られるよね。自分が世界で一番無能なんじゃないかって思えてきて、消えたくなるよね。……でもね、宮原くんはちゃんと今日一日を生き延びて、このアパートに帰ってきたじゃない。それだけで百点満点だよ」


「……栞、さん……」


「ここでは、エリートコンサルタントの宮原陸じゃなくていいの。クライアントもディレクターも、ここには入ってこられないんだから。……ただの、一〇一号室の陸くんでいていいんだよ」


私がそう告げた瞬間だった。


――ギシッ。


私の肩口に埋められていた陸の顔が、さらに深く、強く押し付けられた。

そして、私の背中に回されていた腕の力が、跳ね上がるように強くなる。


「っ……!?」


みぞおちが苦しくなるほどの抱擁。

驚いて息を呑んだ私の体に、陸の胸板が隙間なく密着する。

先ほどまでの「甘える大型犬」の頼りなさはどこへ行ったのか。私の体を軽々と包み込み、決して逃がさないとばかりに締め上げる腕の力は、骨太で、分厚く、紛れもなく「力のある若い男」のそれだった。


(えっ……力、強すぎない……!?)


心臓がトクン、と大きく跳ねる。

甘えん坊の年下男子を慰めているつもりだったのに、肌を突き抜けてくるのは生々しい雄の体温と筋力だ。

肩口に触れる陸の唇が、布越しに動くのが分かる。


「……ずるいですよ、栞さん」


耳元に落ちてきたのは、先ほどの泣き言とはまったく違う色の声だった。

低く、艶を帯びた、熱い響き。


「そんなこと言われたら……僕、本気であなたに甘えたくなっちゃうじゃないですか。……このまま部屋に連れ込んで、朝まで離したくなくなります」


「ひゃっ……!?」


背筋を甘い電流が駆け抜け、私の口から変な悲鳴が漏れた。

慌てて陸の胸板を両手で押し返そうとするが、岩のように硬い胸筋はビクともしない。


「み、宮原くん! 五分経ちました! 充電完了! 強制終了です!!」


私が顔から火が出そうなほど真っ赤になって叫ぶと、陸はクスクスと喉を鳴らして笑った。

そして、未練配(たらたら)といった様子で、ゆっくりと私の肩から顔を離した。


目の前に現れた陸の顔を見て、私は息を呑んだ。

先ほどまでの死にそうな疲労感は綺麗に消え去り、その瞳は夜の湖のように澄み渡り、妖しい光を宿していた。

首元のネクタイは緩み、乱れた前髪の隙間から覗く濡れた瞳。そして、ほんのりと赤く染まった頬。

反則的なまでのギャップ。三十代の錆びついた乙女心が、直撃を受けて粉々に砕け散りそうになる。


「……ふう。本当に、充電できました」


陸は私の目を見つめたまま、自分の緩んだネクタイを指先で弄び、満足そうに微笑んだ。

その笑顔は、いつもの作り物の営業スマイルではなく、年下の男が好きな女性の前でだけ見せる、甘く危険な笑顔だった。


「栞さんの言う通りですね。僕、明日もなんとか戦えそうです。……あなたのおかげで」


「そ、それは良かったですね……! じゃあ、もう遅いのでお部屋に戻って早く寝てください!」


私がパニックのあまり早口でまくし立てると、陸はふっと悪戯っぽく目を細め、私の顔のすぐ横――上がり框の柱に手をトンとついた。

いわゆる、夜の玄関先での斜め壁ドン状態。


「栞さん」


「な、なんですか……!」


「今夜のこと、他の住人たちには内緒ですよ?」


至近距離で囁かれる、秘密の共有。

陸の人差し指が、そっと私の唇の前に立てられる。

触れそうで触れない距離。シトラスの香りが、夜の空気に甘く溶けていく。


「僕だけの特権にしてくれないと……僕、嫉妬で何するかわかりませんから」


それだけ言い残すと、陸はようやく柱から手を離し、革靴を脱いで綺麗に揃えた。

そして、「おやすみなさい、僕の大家さん」と爽やかに手を振って、一〇一号室のドアの向こうへと消えていったのだった。


――カチャリ、と鍵の閉まる音。


静まり返った玄関に、一人取り残された私。

冷たい板の間に膝からへたり込み、両手で火照った頬を覆う。


「……なんなのよ、あの子……っ!」


大型犬の顔をして甘えてきたくせに、最後のあの男の顔は一体何だ。

心臓が、肋骨の内側で激しいドラムを叩き続けている。

電球を替えて明るくなったはずの廊下が、どういうわけか、途方もなく眩しく、そして熱を帯びて見えた。


大家と店子の境界線。

自分で引いたはずのその線は、今夜、解かれたネクタイの音とともに、あっけなく踏み越えられてしまったのだった。

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