第2話:日曜日の食卓と、四者四様の思惑
かつて会社員だった頃、日曜日の午後六時という時間帯は、私にとって一週間の中で最も憂鬱な魔の時間だった。
テレビから流れるアニメのテーマソングを聞くだけで胃の腑が雑巾のように絞られ、明日から始まる満員電車と、工藤部長からの理不尽な叱責と、終わりの見えないタスクの山を想像して息が浅くなる。いわゆる「サザエさん症候群」の末期症状だ。あの頃の私は、日曜の夜になると決まってコンビニの安い酎ハイをあおり、泥のように眠ることで現実から逃避していた。
しかし、会社を辞めて「メゾン・サクラ」の大家となった今、日曜日の夕暮れはまったく別の意味を持つ時間へと変貌していた。
「……いい匂い。コンソメっていうより、もっと澄んだ、鶏ガラと香味野菜の香り……?」
管理人室の引き戸を開け、一階の中央にある共用スペースへと足を踏み入れた瞬間、ふわりと鼻腔をくすぐった芳醇な湯気に、私の喉が思わずゴクリと鳴った。
十二畳ほどの共用ダイニング。
中央には、祖母が長年手入れしてきた厚みのある無垢材の大きなダイニングテーブルがどっしりと鎮座している。その奥のシステムキッチンには、すでに一人の男が立っていた。
「あ、大家さん。こんばんは。もうすぐ準備できますよ」
振り返って柔らかく目を細めたのは、二〇二号室の住人・柴崎晴人(しばさきはると・三十一歳)だった。
アパートから徒歩三分、裏路地にひっそりと店を構える隠れ家ビストロ「シェ・シバ」のオーナーシェフ。清潔感のある麻の白シャツの上に、ネイビーのソムリエエプロンをきっちりと胸元まで締めている。癖のない柔らかな栗色の髪と、目尻の下がった穏やかな笑顔。どこからどう見ても、絵に描いたような「優しくて包容力のある好青年」だ。
「こんばんは、柴崎さん。あの……本当に私が手伝わなくて大丈夫なんですか? 野菜の皮むきくらいならできますけど……」
「とんでもない。大家さんは今日引っ越してきたばかりで、荷解きで疲れているでしょう? それに、ここは僕の戦場ですから。素人さんに包丁を握らせて怪我でもされたら、僕のプライドに関わります」
柴崎は悪戯っぽく微笑みながら、煮込み鍋の蓋を少しだけずらした。
ボコボコと心地よい音を立てて煮立っているのは、黄金色に透き通ったスープ。大ぶりに切られたカブや人参、玉ねぎ、そして骨付きの鶏手羽が、静かに湯気を立ち上らせている。灰汁ひとつ浮いていないその鍋の中身を見るだけで、彼がどれほど途方もない手間暇をかけて仕込んだかが素人目にも分かった。
「祖母のノートに書いてあったんです。『日曜の夜は、全員で顔を合わせて夕食を共にすること』って。……正直、最初は驚きました。今の時代、アパートの住人同士で食事会なんて、ちょっと距離が近すぎるんじゃないかって」
私がダイニングテーブルの椅子を引きながら言うと、柴崎は大きな木製のお玉でスープの味見をしながら、静かに頷いた。
「文さんの強いこだわりでしたからね。ここの家賃、相場の半額以下でしょう? 目黒の一等地で月六万五千円なんて、普通なら事故物件でもあり得ない破格です。その代わりに入居条件として課されたのが、『週一回の全体夕食会への出席』と『共用スペースの持ち回り清掃』。要するに、安く住まわせる代わりに、住人同士で生存確認をして、アパートという小さなコミュニティを維持しろってことなんです」
「生存確認……」
「ええ。僕たち住人はみんな、外の世界でそれなりに擦り切れて、息が詰まりそうになってここに流れ着いた連中ばかりですから。週に一度、温かいものを誰かと一緒に食べる。それだけで救われる夜があるんですよ。……まあ、今日のメニューは新大家さんの就任祝いも兼ねてますから、気合いを入れて作りましたけどね」
柴崎は振り返り、私に向かってふわりと甘く微笑んだ。
その完璧なスパダリスマイルに、三十代独身の乾ききった心臓がトクンと不穏な音を立てる。いけない、相手は店子だ。私は大家。ビジネスライクに徹しなければ。
そう自分を戒めていると、エントランスの引き戸がガラガラと音を立てて開いた。
「ただいま戻りました――あ、大家さん! いらっしゃったんですね」
爽やかな声とともにダイニングに現れたのは、一〇一号室の宮原陸(みやはらりく・二十五歳)だった。
仕立ての良いチャコールグレーのスーツに、完璧に結ばれたシルクのネクタイ。手には有名百貨店の紙袋を提げている。外資系コンサルティングファーム勤務の若きエリート。整った顔立ちに涼しげな目元、社内では「氷のプリンス」などと呼ばれて恐れられているらしいが、私を見るなりパッと顔を輝かせた。
「こんばんは、宮原さん。お仕事帰りですか?」
「はい、クライアントへのプレゼンが終わって直帰してきました。これ、駅前のパティスリーで買ってきたマカロンです。栞さん……あ、すみません、大家さんのお引越し祝いにと思って。甘いもの、お好きでしたよね?」
「えっ、わざわざすみません! ありがとうございます」
屈託のない笑顔で紙袋を差し出してくる宮原。二十五歳という若さ特有の弾けるような清潔感と、高級スーツを着こなす大人の男のスマートさが同居していて、思わず目が眩みそうになる。
「陸くん、相変わらず抜け目がないねえ。女の子が喜ぶ手土産をサラッと出してくるあたり、さすが外資系」
キッチンから柴崎がクスクスと笑いながら冷やかすと、宮原は少しだけ頬を緩めて肩をすくめた。
「下心じゃありませんよ、純粋なお祝いです。……まあ、大家さんに気に入ってもらえたら嬉しいのは事実ですけど」
さらりと口にされた台詞に、私の喉がまた鳴る。最近の二十代男子はこんな破壊力のある言葉を平気で吐くのか。恐ろしい。
そこへ、ギシ、ギシと重たい足音が階段から降りてきた。
ダイニングの引き戸を無言で開けて入ってきたのは、二〇一号室の野村創(のむらそう・二十一歳)だった。
「…………」
「あ、創くん。こんばんは」
声をかけると、創はピクリと肩を揺らし、私の方をチラリと見た。
……が、視線が合ったコンマ一秒後、プイッとあからさまに顔を背けて、壁際の丸椅子へと向かってしまった。
黒いオーバーサイズの無地Tシャツに、穿き古したデニム。身長は百八十センチを優に超え、筋骨隆々とした逞しい体躯をしている。彫刻科の美大生と聞いているが、鋭い三白眼と無口さも相まって、道ですれ違ったら誰もが道を譲りそうな威圧感だ。
(うっ……完全に嫌われてる? 昼間、廊下ですれ違った時も挨拶返してくれなかったし……)
私が内心で冷や汗を流していると、創は持ってきた自分の大きな陶器のどんぶりを、ドカッとテーブルの上に置いた。
「……飯。大盛りで」
柴崎に向かって短くそう呟く。柴崎は慣れた様子で「はいはい、白米は炊飯器に山ほどあるから自分でよそってね」と微笑んでいた。ぶっきらぼうだが、どうやらこれが彼の標準仕様らしい。
そして――最後に現れたのは。
「……あー、うるせえ。階下が騒がしいと思ったら、もうそんな時間か」
気怠げなあくびとともに、スリッパを引きずって入ってきた男。
一〇二号室、深見怜(三十四歳)。
昼間の伸びきったVネックから、黒いスタンドカラーのシャツに着替えてはいたが、髪は相変わらず無造作で、目元には薄いクマが張り付いている。丸眼鏡の奥から、私を値踏みするようにジロリと見下ろしてきた。
手には、栓の抜かれた高級そうな赤ワインのボトルが一本。
「深見さん。先ほどはどうも」
私が昼間の「万年床での密着事件」を思い出して思わず身構えると、深見は鼻を鳴らし、ポケットから無造作に二つ折りの紙片を取り出した。
それは、私が昼間にドアの郵便受けにねじ込んでおいた「お釣りの五千円札」と「領収書」だった。
「おい大家。五千円くらいチップで取っとけと言っただろ。わざわざ領収書まで律儀に書きやがって」
「家賃の過不足は帳簿が狂いますから、一円たりとも余計には受け取りません。それが大家の仕事です」
私がキッパリと言い放つと、深見は「へえ」と面白そうに口角を片方だけ持ち上げた。
「お堅いねえ。まあ、前の会社で散々こき使われてた割には、ちゃんと背筋が伸びてるようで何よりだ」
「な、なんでそれを……!」
「あんたの顔に『真面目すぎて損するタイプ』って書いてあるんだよ」
深見はワインボトルをテーブルの真ん中にドンと置くと、私の真正面の席にドサリと腰を下ろした。
昼間の、耳元で囁かれたハスキーな低音ボイスが脳裏をよぎり、私はいたたまれなくなって視線を泳がせる。
これで、役者は揃った。
エリートコンサル、美大生、ミステリ作家、そしてビストロのシェフ。
年齢も職業もバラバラだが、揃いも揃って雑誌のグラビアから抜け出してきたような、タイプの異なる極上の男たち四人。
その中心に、元社畜で三十代の干物女が一人。
……我ながら、胃が痛くなるような異常事態である。
「はい、お待たせしました。今夜のメインです」
柴崎が両手で抱えて運んできたのは、湯気をもうもうと立てる大きな土鍋だった。
蓋が開けられた瞬間、ダイニング全体に歓声のような匂いが満ちる。
「鶏手羽と秋野菜のビストロ風ポトフです。スープは丸鶏のガラと香味野菜を半日煮込んで澄ませました。カブは崩れる寸前まで柔らかくしてあります。粒マスタードと粗挽き黒胡椒はお好みでどうぞ」
テーブルの中央に並べられた大皿料理。
柴崎が、手際よく深皿にスープと具材を取り分け、最初に私の前へと置いてくれた。
「どうぞ、大家さん。召し上がってください」
「あ……ありがとうございます。いただきます……!」
私はスプーンを取り、澄んだスープをすくって口へと運んだ。
舌の上に触れた瞬間、じんわりと広がる暴力的なまでの旨味。
化学調味料のトゲトゲしさなど微塵もない、鶏肉の純粋なコクと、野菜の優しい甘み。それが五臓六腑へと染み渡っていく。
続いて、スプーンの重みだけでホロリと崩れるカブを口に入れる。ジュワッと溢れ出す熱い出汁。じっくり煮込まれた鶏手羽は、唇で挟むだけで骨から肉がするりと外れるほど柔らかい。
「……っ、おいしい……!」
思わず声が漏れた。
ここ数年、私の胃袋を満たしてきたのは、深夜のコンビニの底上げ弁当と、冷え切ったおにぎりと、エナジードリンクばかりだった。誰かが自分のために時間をかけ、丁寧に仕込んでくれた温かい料理なんて、いつ以来だろう。
喉の奥がツンとして、不覚にも目頭が熱くなりそうになるのを、私は慌てて瞬きをして押し戻した。
「ふふ、良かった。大家さん、すごく美味しそうに食べてくれるから作り甲斐があります」
柴崎が満足そうに目を細める。
向かいでは、創が言葉通り山盛りに盛った白米の上に鶏肉をバウンドさせ、凄まじい勢いでガツガツと平らげていた。無言だが、その耳が微かに赤くなっている。
「創くん、喉詰まらせないでね。お水飲む?」
私がコップを差し出すと、創はビクッと動きを止め、やはり目を合わせないままコップをひったくるように受け取った。
「……ん。……うまい」
ポツリと呟かれた一言に、柴崎が「素直でよろしい」と笑う。
隣の宮原は、上品な手つきでナイフとフォークを使い、ワイングラスを傾けていた。
「本当に柴崎さんの料理は素晴らしいですね。ミシュランの星付きレストランにも引けを取らない。……でも、今夜の食卓がこんなに華やかなのは、栞さんが来てくれたおかげですよ」
スッと向けられる、甘く熱を帯びた眼差し。
「私なんて、ただ座って食べてるだけですから!」
私が慌てて手を振ると、正面から深見の冷ややかな声が飛んできた。
「陸、あんまり大家をおだてるな。ただでさえ警戒心ゼロの女なんだから、調子に乗って部屋の鍵でも開けっ放しにされたら困る」
「ちょっ、深見さん! 開けっ放しにしてたのはあなたの方でしょ!?」
「俺はいいんだよ。男の一人暮らしなんだから」
「良くありません! 防犯意識を持ってください!」
思わず立ち上がって反論すると、男たちの間にドッと笑いが起きた。
……いけない。空気に流されかけていた。
私は咳払いを一つし、居住まいを正してテーブルを見渡した。今夜、私がこの場に出てきた一番の目的を果たさなければならない。
「あの……皆さん。美味しいお食事の途中で申し訳ありませんが、新大家として、改めてお願いがあります」
私の真剣な声色に、四人の視線がピタリと私に集まった。
宮原の穏やかな瞳。深見の気怠げな視線。創の鋭い三白眼。柴崎の柔和な笑み。
四者四様の強い眼差しに射抜かれ、背筋にピリッと心地よい緊張が走る。私は手帳を胸の前に構え、しっかりと口を開いた。
「祖母の遺言通り、このアパートの家賃と食事会のルールは引き継ぎます。皆さんには、これまで通り快適に暮らしていただきたいと思っています。……ただ、これだけは徹底してください。『住人同士、そして大家との私生活への過剰な干渉・プライベートの詮索は禁止』です」
私がそう告げると、ダイニングにわずかな沈黙が落ちた。
「皆さんがそれぞれ、世間の喧騒や複雑な人間関係から逃れて、このアパートに安らぎを求めて入居されたことは祖母の日誌から伺っています。だからこそ、お互いの領域には踏み込まない。私たちはあくまで『大家と店子』であり、共同生活のビジネスパートナーです。その境界線だけは、絶対に守ってください」
きっぱりと言い切った。
これ以上、人間関係で擦り減りたくない。誰かの感情に巻き込まれて、またあの暗いオフィスの底へ引きずり戻されるのは御免だ。
これが、私の平穏な生活を守るための絶対防壁――のはずだった。
「……境界線、ですか」
静寂を破ったのは、キッチンの片付けをしていた柴崎だった。
柴崎はお玉を持ったまま、音もなく私の背後へと歩み寄ってきた。
トツ、と私の椅子のすぐ後ろに立つ気配。
柴崎が、私の肩越しにすっと身をかがめた。
首筋に、柴崎の温かい吐息と、微かなバニラとスパイスの香りがふわりとかかる。近すぎる。心臓が跳ね上がる。
「大家さん。おかわり、ありますよ」
耳元に落とされる、どこまでも甘く、だが逆らうことを許さない低く滑らかな声。
柴崎の手が、私の目の前にある空になりかけたスープ皿へと伸びる。その長い指先が、わざとではないかと思うほど自然に、私の手の甲をかすめた。
「もっとお肉、食べてくれないと困ります。……こんなに華奢で、少し突いただけで折れそうな体をしてるんですから。僕がいるのに、栄養失調で倒れられたりしたら僕の料理人としてのプライドが許しません」
「え、あ、でも、もうお腹いっぱいで……」
「ダメですよ。僕が作ったものは、残さず綺麗に食べてくれないと」
柴崎は私の耳元で、目を細めてふわりと微笑んだ。
その笑顔は菩薩のように穏やかだったが、瞳の奥底には、獲物の逃げ道をじわじわと塞いでいく肉食獣のような、底知れぬ圧が潜んでいた。
「ちょ……柴崎さん、近い……!」
私が真っ赤になって身を縮めると、テーブルの反対側から鋭い声が飛んだ。
「おい柴崎。抜け駆けしてんじゃねえよ」
深見がワイングラスを乱暴にテーブルに置き、眉をひそめて柴崎を睨みつける。
「そうですよ、柴崎さん。大家さんが困ってるじゃないですか」
宮原が立ち上がり、爽やかな笑顔の裏に冷たい光を宿らせて柴崎の手首を牽制するように視線を向ける。
「…………」
創は無言のまま、手に持っていた箸をギリッと強く握りしめ、柴崎の背中を射殺さんばかりの目つきで見据えていた。
湯気の立ち上る食卓の真ん中で、四つの強烈な視線が私を取り囲むように交錯する。
「お、大家と店子の境界線……!」
私が消え入りそうな声で叫ぶと、柴崎はクスリと喉を鳴らし、私の手元におかわりたっぷりのポトフをコトリと置いた。
「はい、どうぞ。冷めないうちに召し上がってくださいね、僕たちの大家さん」
境界線を引いたはずのその場所で、すでに私の胃袋と日常は、彼らの甘い思惑の中に呑み込まれ始めていたのだった。




