第1話:家賃は愛嬌じゃ払えません
人間、本当に限界を迎えると、目覚まし時計の電子音すら「命を削る警告音」に聞こえるようになるらしい。
「佐伯、昨日のクライアント向けの修正案件、朝イチで差し替えておけって言ったよな? なんでまだ上がってないんだ?」
「すみません、工藤部長。昨夜の終電間際に仕様変更の指示をいただきまして、データの整合性を確認してから……」
「言い訳はいいから手動かせよ。お前、営業事務歴何年だよ。言われた通りに右から左へ流すだけの簡単な仕事だろうが」
天井の蛍光灯が、チカチカと不規則に瞬いていた。
深夜一時、誰もいなくなったオフィスの片隅。胃の奥底を冷たい鉄の棒で抉られるような鈍痛と、耳鳴り。カタカタと震える指先でマウスを握りしめ、キーボードを叩き続けたあの日々。
十年間勤め上げた中堅IT企業を辞めたのは、ある月曜の朝、オフィスのエントランスで足から崩れ落ち、そのまま救急車で運ばれたのがきっかけだった。
診断名は適応障害一歩手前の重度過労。
病室のベッドで点滴の管を見つめながら、私は自分の三十代が、理不尽な怒号とエナジードリンクの空き缶だけで埋め尽くされていたことにようやく気づいたのだった。
――そして、現在。
「……ふう。やっぱり、空気が違うわ」
秋晴れのやわらかな陽光が降り注ぐ中、私――佐伯栞(さえきしおり・三十二歳)は、両手に抱えた段ボール箱を玄関の土間に下ろし、腰をトントンと叩いた。
見上げるのは、飴色に変色した板張りの高い天井と、どこか懐かしい藺草の匂い。
ここは都内目黒区、駅から徒歩十分の閑静な住宅街に佇む、築四十五年の二階建て木造アパート「メゾン・サクラ」。
先月、八十八歳で大往生を遂げた私の祖母・佐伯文が遺した、たった一つの、そしてとてつもなく巨大な遺産だった。
両親はとっくに他界し、身寄りのない祖母を細々と気にかけていたのは私だけだった。
葬儀を終えた直後、顧問税理士から「お祖母様は、アパートの土地・建物すべてを栞様に遺贈するとの公正証書遺言を残されています」と告げられた時の衝撃たるや、腰が抜けるどころの話ではなかった。
敷地は約百坪。古いながらも手入れの行き届いた中庭があり、一階に二部屋、二階に二部屋。中央には住人が集える共用キッチンと広いダイニングが備わっている。
会社を辞め、退職金と失業保険で細々と食いつなぐつもりだった元社畜の独身女に、突如として転がり込んできた「不労所得」と「自分の城」。
「恋愛? 結婚? そんなハイリスクな賭け、二十代でとっくに閉店休業よ。これからの私の人生のテーマはただ一つ。『心穏やかに、健康に、家賃収入でのんびり生きる』。それだけ!」
拳を握りしめ、自分に言い聞かせるように宣言する。
祖母の使っていた一階奥の大家用管理人室に荷物を運び込み、ひと通りの荷解きを終えた私は、帳簿机の上に置かれたメガバンクの通帳を開いた。
祖母から引き継いだ、アパート管理用の口座である。
駅前のATMで記帳してきたばかりの印字を、人差し指で一行ずつなぞっていく。
「ええと……家賃は一部屋あたり月六万五千円。都心の一等地にしては破格の安さだけど、祖母の遺言で『食事会への参加と掃除の持ち回りを条件に、この金額を維持すること』ってなってるから、そこは据え置きね。満室なら月二十六万円……固定資産税や修繕積立金を引いても、私の質素な生活費くらいなら十分賄える」
一〇一号室、宮原陸。――振込あり。
二〇一号室、野村創。――振込あり。
二〇二号室、柴崎晴人。――振込あり。
「よしよし、みんな月末きっちりに振り込んでくれてる。やっぱり住人の質がいい物件は助か……ん?」
私の指先が、ピタリと止まった。
何度目をこすっても、通帳の該当行に印字がない。
「……一〇二号室の、深見怜さんの分がない?」
空白。完璧なるブランク。
振込期日は先月の二十五日。今日はすでに翌月の五日である。つまり、十日以上も家賃が滞納されている計算になる。
「うそでしょ……初月から家賃滞納!?」
血の気が引いた。
元・営業事務の職業病が猛烈に疼き出す。未収金の発生は、業務上の重大インシデントだ。放置すれば焦げ付き、資金繰りを圧迫する。
慌てて引き出しをひっくり返し、祖母が遺したボロボロの大学ノート『メゾン・サクラ管理日誌』をめくった。
そこには、祖母の達筆で力強い文字が躍っていた。
『一〇二号室 深見怜(ふかみれい・三十四歳)
職業:物書き。
備考:普段は大人しいが、締め切り前になると飲まず食わずで部屋に籠もり、生きているか死んでいるか分からなくなる。家賃の振込を忘れる常習犯。期日を過ぎていたら、合鍵を使って遠慮なく踏み込み、叩き起こして現金で回収すること。情けは無用』
「踏み込んで叩き起こして回収って……おばあちゃん、昭和の借金取りじゃないんだから!」
思わずノートにツッコミを入れたが、背に腹は代えられない。
家賃収入が途絶えれば、私の「のんびり隠居生活計画」は初手から破綻するのだ。
私は日誌に挟まれていた「一〇二」と刻印された真鍮の合鍵を握りしめ、意を決して管理人室を出た。
薄暗い一階の共用廊下。ギシ、ギシと私の足音に合わせて木床が鳴る。
一〇二号室の重厚な木製ドアの前に立ち、深呼吸を一つ。
胸を張り、営業時代に培った「丁寧だが一切の反論を許さないビジネスボイス」を喉の奥でセットした。
――トントン。
「失礼いたします。一〇二号室の深見さん。新しく大家を引き継ぎました、佐伯です。お取り込み中恐れ入りますが、少々よろしいでしょうか?」
返事はない。
しんと静まり返った廊下に、自分の心臓の音だけが響く。
――トントントン!
「深見さん? 先月分の家賃のお振込みについて、確認させていただきたいのですが……」
やはり、物音ひとつしない。居留守だろうか。
いや、祖母のノートにあった『飲まず食わずで生きているか死んでいるか分からなくなる』という不穏な一節が頭をよぎる。まさか、部屋の中で行き倒れて意識を失っているのでは……?
不安が急速に膨らみ、私は合鍵を鍵穴に差し込もうとドアノブに手をかけた。
その瞬間。
――ガチャリ。
「……えっ?」
鍵が、開いていた。
鍵穴に鍵を差し込むまでもなく、ノブはあっさりと回り、ドアがすうっと数センチばかり内側に開いたのだ。
「ちょ、ちょっと不用心すぎませんか……!?」
都内のアパートで無施錠。泥棒に入ってくださいと言わんばかりの無防備さに呆れつつ、隙間から恐る恐る声をかける。
「深見さん? 入りますよ? 大丈夫ですか……?」
そっとドアを押し開け、足を踏み入れた瞬間、鼻腔をくすぐったのは独特の匂いだった。
濃いブラック珈琲の苦い薫香と、微かな紙の匂い、そしてハイライトとおぼしき煙草の煙の残り香。
遮光カーテンがぴっちりと閉め切られた部屋は、昼間だというのに深夜のように薄暗い。
六畳ほどの洋室の壁は、天井まで届く本棚で埋め尽くされ、ミステリ小説や専門書、犯罪心理学の資料がぎっしりと詰まっている。そして床には、足の踏み場もないほど散乱したプリントアウトの原稿用紙、コンビニのサンドイッチの空き袋、吸い殻で山盛りになった灰皿。
「うわ……まさに絵に描いたような修羅場……」
思わず息を呑んだ私の視界の端に、部屋の奥の万年床が映った。
薄汚れた敷布団の上に、何かが横たわっている。
目を凝らすと、それは長身の男だった。
黒いスウェットパンツに、首元がだらしなく伸びきったグレーのVネックシャツ。うつ伏せのまま、ピクリとも動かない。
「深見さん!?」
本当に孤独死か急性アルコール中毒で倒れているのではないか。
背筋に冷や汗が走り、私は散らかった原稿用紙を踏まないよう慌てて駆け寄った。
万年床の脇に膝をつき、男の広い背中に恐る恐る手を伸ばす。
「大丈夫ですか!? 深見さん! 息してますか!? 救急車呼びますよ――」
男の肩を揺すろうとした、その刹那だった。
――バシィッ!
「……っ!?」
空気を切り裂くような鋭い音とともに、私の右手首に強い衝撃が走った。
骨張った、驚くほど冷たくて大きな掌。それが万力のような力加減で、私の手首をがっしりと鷲掴みにしていたのだ。
「えっ、ちょっ――」
驚愕して声を上げる間もなかった。
男の長い腕が、信じられない力で私の手首をぐいと引き寄せた。
視界がぐるりと反転する。
足元のバランスを完全に失った私の体は、畳の上の煎餅布団へとあっけなく引きずり倒された。
「きゃっ……!?」
バフッ、と埃っぽい布団に沈み込む感覚。
悲鳴を上げた私の視界を、覆いかぶさるようにして巨大な影が遮った。
男が、私の上にのしかかっていた。
すぐ目の前に、男の顔がある。
目にかかるほど伸びた無造作な黒髪の隙間から、薄く開かれた瞳が私を射抜いていた。
色素の薄い、鋭い光を宿した瞳。鼻梁は高く通り、顎のラインには無精髭がうっすらと青く残っている。伸びきったVネックの襟ぐりからは、深く浮き出た無骨な鎖骨と、男らしい胸板が惜しげもなく覗いていた。
至近距離で浴びせられる、煙草と珈琲、そして微かな体温の混ざり合った大人の男の匂い。
心臓が、肋骨を突き破りそうなほど激しくドクンと跳ね上がった。
「……うるさい」
耳元に落ちてきたのは、鼓膜を低く震わせるような、酷く掠れたハスキーボイスだった。
寝起きの熱を帯びた吐息が、私の首筋を容赦なく撫でていく。
「あと三枚書くまで起こすなと言ったろ……文さん。締め切り前の作家にちょっかい出すな……」
男はまだ半分夢の中にいるらしく、焦点の定まらない瞳で私の顔をぼんやりと見下ろしていた。
そして、私の手首を掴んだままの大きな手で、今度は私の腰をぐっと引き寄せ、自分の胸元へと抱き込もうとしてくる。
重い。熱い。そして、あり得ないほど距離が近い。
(な、ななな……なにこの色気ダダ漏れの生き物は!? っていうか、誰が文さんよ!!)
三十代になって久しく忘れていた、異性に対する警報ブザーが脳内でけたたましく鳴り響く。
普通の女性なら、ここで恐怖か恥ずかしさで固まって泣き出すか、されるがままになっていたかもしれない。
だが、悲しいかな。私には、理不尽なトラブルを十年間力業でねじ伏せ続けてきた「元社畜営業事務」の図太い魂が染み付いていたのだ。
ここで怯んだら、契約関係の力関係が崩れる。
未収金は絶対に回収しなければならない。
何より――私の平穏なアパート経営ライフを、初日から脅かされてたまるか!
「文さんじゃありません!!」
私は男の広い胸板を、両手で思い切り押し返した。
びくともしないが、至近距離から腹の底から絞り出したビジネスボイスを叩きつける。
「新大家の、佐伯栞です! 祖母の文は先月他界しました! ここは私の管理物件です!」
「……あ?」
男――深見怜が、怪訝そうに眉をひそめた。
至近距離の瞳が、ようやく焦点を結び、私の顔をじっと見つめる。
「新大家……? 女……?」
「そうです女です! 三十代の立派な大人です! いいから早く手を離して、上からどいてください! それと――先月分の家賃六万五千円、今すぐ払ってください!!」
私が顔を真っ赤にしながら叫ぶと、深見は数秒間、停止した。
そして、ふっと表情を緩めたかと思うと、喉の奥を鳴らして低く笑い出したのだ。
「くくっ……なんだ。文さんの孫か」
「笑ってないでどいてください!」
「威勢がいいな、新大家さん。……人の部屋に勝手に入り込んできて、いきなり添い寝を要求してきたのはあんたの方だろ?」
「添い寝なんて要求してません! 鍵が開いてたから安否確認に入っただけです! あと、これは不法侵入じゃなくて正当な管理業務です!」
深見は気怠げに息を吐き出すと、ようやく私の手首を解放し、のっそりと体を起こした。
重圧から解放され、私は慌てて布団から這い出し、壁際まで後ずさって乱れた服と髪を整える。心臓の鼓動が早すぎて、耳の奥が熱い。
深見は床に散らばっていた黒縁の丸眼鏡を拾い上げ、無造作に顔にかけると、ぼさぼさの髪を乱暴にかき上げた。
眼鏡をかけた瞬間、先ほどの獣のような気怠い色気から一変し、どこか理知的で、同時に世間を小馬鹿にしたような皮肉屋の作家の顔が現れる。
「鍵が開いてたのは……まあ、昨日の夜、担当編集を追い出した時に閉め忘れたんだろ。記憶にないが」
「物騒すぎます! 東京ですよここ!」
「盗られるような金目のあるものなんてねえよ。あるのは締め切りに追われた原稿の残骸だけだ」
深見は床に転がっていた革の長財布を足先で手繰り寄せると、ジッパーを開けて無造作に一万円札を数枚引っ張り出した。
そして、壁際にへたり込んでいる私の目の前へ、すっと差し出してくる。
「ほらよ。七万。釣りは取っとけ、迷惑料だ」
「お釣りはきっちり五千円、領収書と一緒にお返しします! 家賃は愛嬌じゃ払えませんが、余計な施しを受ける筋合いもありません!」
私が意地になって手帳から領収書を取り出そうとすると、深見は眼鏡の奥の目を細め、面白そうに私を上から下まで値踏みするように眺めた。
「佐伯、栞……だっけか」
「はい。大家の佐伯です」
「ふうん。……あんた、三十代の割には隙だらけだな」
「は?」
深見は長い足を投げ出し、床の灰皿からライターを拾い上げてカチリと火をつけた。
細く吐き出された紫煙の向こうで、低い声が紡がれる。
「男の一人暮らしの部屋に、鍵が開いてるからって無防備に入ってくる神経が信じられん。……さっきのだって、俺がもう少し本気配で寝ぼけてたら、今頃布団から出られなくなってたぞ?」
「なっ……!」
からかうような、だが芯の部分に確かな男の毒を含んだ響き。
私の顔が一気に沸騰する。
言い返そうと口を開きかけたが、深見は紫煙をくゆらせながら、ひらひらと大きな手を振って私を追い払う仕草をした。
「家賃は払っただろ。さっさと出ていけ、新大家。俺はあと三枚、この世の終わりのようなトリックを仕上げなきゃならん」
「言われなくても出ていきます! 次は振込期日を一日でも過ぎたら、容赦なく督促状をドアに貼り付けますからね!」
七万円の新札をひったくるように受け取り、私は一〇二号室のドアをバタンと音を立てて閉めた。
廊下に出た瞬間、冷たい秋の空気が火照った頬を撫でる。
私はその場にへたり込みそうになる膝を必死に叱咤し、胸元を押さえた。
トクン、トクン、と異常なスピードで鳴り続ける心音。
(なんなのよ、あの男……! 色気ダダ漏れにも程があるでしょ……!)
手首に残る、冷たくて力強い指の感触。
耳元をかすめたハスキーな声と、煙草の苦い匂い。
これが、私の「平穏で誰にも邪魔されないアパート経営生活」の記念すべき一日目だった。
だが、この時の私はまだ知る由もなかったのだ。
一〇二号室の偏屈な作家だけでなく、このアパートには、私の胃袋と心の境界線を容赦なく踏み越えてくる「訳ありの極上男子たち」が、あと三人ものさばっているという事実を――。




