第46話:1年目の契約更新通知
障子を白く染め上げる十二月の冷涼な朝光の中、私は管理人室の文机の前で、正座をしたまま金縛りに遭っていた。
木造モルタル二階建て、築四十五年のレトロアパート「メゾン・サクラ」。
先週末、大手不動産ディベロッパー・帝都都市開発による三億八千万円の買収提案を住人一丸となって完全に撃退し、立ち退きの危機が去ってから数日が過ぎていた。本来であれば、肩の荷を下ろして「これでようやく平穏な大家生活を満喫できる」と歓喜の美酒に酔いしれているはずの朝だった。
それなのに、私の胃の腑は鉛を呑み込んだかのように重く沈み、額にはじわりと冷や汗が滲んでいた。
「……うう、どうしてこうなったの……」
文机の上に並べられた、四通の角二サイズの上質な純白封筒。
表書きには、顧問税理士兼司法書士である矢吹宗介の端正な万年筆の文字で、こう記されていた。
『定期建物賃貸借契約更新合意書(控・正)一〇一号室〜二〇二号室』
前話――あの中庭での祝勝会のあと、暖房の効いたリビングで住人たちから突きつけられた、あの息も止まるような包囲網の記憶が鮮明に蘇る。
――『アパートの存続という共通の課題はクリアしました。となれば大家さん、次は僕たち個人の問題に進んでもいいですよね?』
宮原陸の怜悧な宣告。
――『俺、子ども扱いされるのもう我慢しねえから』
野村創の魂を絞り出すような重低音。
――『いつまでも大家と店子の仮面で逃げられると思うなよ』
深見怜の煙草の煙越しの低音囁き。
――『栞さん。僕たちの中で誰を一番近くに置くのか……そろそろ決めてもらわないと困ります』
柴崎晴人の狂気を孕んだ極上の微笑み。
アパートという共通の巣を守るための「共同戦線」は終わったのだ。
外敵がいなくなった今、四人の男たちの狂おしいほどの情熱と独占欲の矛先は、逃げ場を失った私という「たった一人の獲物」へと、完全に牙を剥いて向けられていた。
「入居から、丸一年……」
私は震える指先で、封筒から書類を引き抜いた。
パリッとした厚手の公用紙。
祖母の文さんが遺言によって定めた、メゾン・サクラの絶対ルール。都心で破格の月額家賃六万円台、日曜夜の全体夕食会への出席義務、共用部の環境整備、そして――定期建物賃貸借契約に基づく「一年ごとの契約更新」。
日本の不動産取引において、契約更新とは極めて事務的な手続きに過ぎない。貸主と借主が双方合意のもとで更新合意書に記名押印し、更新料を納めれば、何事もなく次の契約期間へと移行する。元・営業事務の私にとって、契約書の取り交わしなど朝飯前の日常業務のはずだった。
けれど――今のこの状況において、この四通の契約書は、ただの書類ではなかった。
男たちが私に突きつけてきた「誰を選ぶのか」という最終審判のタイムリミットであり、逃げ道をすべて塞ぐための、法的なカウントダウンの引き金だったのだ。
「事務手続きよ、ただの事務手続き……! 私はアパートの大家で、四人は店子! ビジネスライクに割り切って配ればいいだけの話じゃないの……!」
私は自分にそう言い聞かせ、パジャマからいつもの動きやすい細身のデニムと、襟元の詰まったチャコールグレーのタートルネックニットに着替えた。
髪を後ろで一つにきっちりと束ね、眼鏡をかけ、四通の封筒と「契約更新手続きのお知らせ」と書かれた手作りの案内用紙をバインダーに挟む。
深呼吸を三回。
よし、と気合いを入れて、私は管理人室の引き戸をガラリと開けた。
朝の八時半。
共用廊下には、まだ底冷えする真冬の冷気が薄く漂っていた。
足音を忍ばせながら、私は一階中央の十二畳の共用ダイニング・リビングへと足を進めた。
ダイニングの壁には、第七話で私がポスターを貼ろうとして脚立から落ち、陸に抱き止められたあの懐かしい木製の掲示板が据え付けられている。
私はバインダーから押しピンを取り出し、震える手で『賃貸借契約更新手続きのご案内』と題した一枚の用紙を、掲示板の中央へと留めようとした。
――パチン。
ピンがコルクボードに刺さる乾いた音が響いた、その瞬間だった。
「……おはようございます、栞さん。朝早くから熱心にお仕事ですね」
「ひゃっ……!?」
背筋を電撃が駆け抜けた。
振り返ると、私のすぐ真後ろ――ほんの数十センチの至近距離に、一〇一号室の宮原陸が音もなく立っていた。
出勤前の完璧な装い。
チャコールグレーの英国調スリーピーススーツに、寸分の狂いもなく締め上げられたボルドーのシルクネクタイ。肩には上質なカシミアのチェスターコートを羽織り、革のブリーフケースを手にしたその姿は、雑誌の表紙から抜け出してきたエリートそのものだった。
けれど、その切れ長の瞳に宿っていたのは、爽やかなビジネスマンの光ではなかった。
獲物をじっくりと値踏みし、逃げ場を完全に塞ごうとする、飢えた肉食獣のギラギラとした熱狂。
「み、宮原くん……! 足音も立てずに、いつからそこに……」
「あなたが管理人室から出てきた時からですよ」
陸はフッと口角を吊り上げると、長い足を一歩踏み出し、私の逃げ場を塞ぐように掲示板の木枠へと右手をドンと突いてきた。
壁ドン。
至近距離で降り注ぐ、洗練されたシトラスとサンダルウッドの芳醇な香水の香り。
「掲示板を見るまでもありません。……栞さん、更新書類、もう手元に届いているんでしょう?」
「え……あ、うん。矢吹先生から今朝、届いたばかりで……」
「僕の分、今ここで受け取りますよ」
陸は私の腕の中にあったバインダーの上から、自分の部屋番号が書かれた封筒を、迷うことなく長い指先でスッと抜き取った。
そして、封筒の重みを確かめるように手のひらで弄びながら、私の耳元へと顔を寄せてきたのだ。
触れ合いそうな距離。熱い吐息が耳たぶをかすめる。
「言っておきますが、栞さん。僕がこの書類にサインして捺印するのは、あなたへの『忠誠の誓約』と同じ意味ですからね」
「な……っ!?」
「ただの店子として契約を延長するつもりなんて、毛頭ありません。来年、僕がこの部屋に住み続ける理由は――あなたを完全に僕のものにして、このアパートごと僕たちの愛の城にするためです。……逃がしませんよ」
耳元で低く囁かれた、有無を言わさない独占欲の宣告。
陸は満足そうに目を細めると、私の頬を指先でそっと撫で、「夜、部屋でじっくり書類を見せてもらいますね」と言い残し、革靴をカツンと鳴らしてエントランスへと去っていった。
「はぁっ……はぁっ……」
心臓が破裂しそうだ。
陸の足音が遠ざかり、ようやく息を吐き出した私の背中に――今度は、別の気配がぬらりと滑り込んできた。
「……おいおい、朝っぱらからエリート坊やの盛りのついた鳴き声を聞かせるんじゃねえよ」
「……っ!?」
ガラガラと音を立てて開いた一〇二号室の木製ドアの前に、深見怜が寄りかかっていた。
黒いスタンドカラーシャツのボタンを胸元まで寛げ、鎖骨を露わにした着崩し姿。
ボサボサの黒髪に、黒縁の丸眼鏡。
手には湯気を立てるマグカップを持ち、薄い唇には火のついていない煙草が一本、気怠げにくわえられている。
徹夜の執筆明け特有の、大人の男の生々しい疲労とフェロモンが、廊下の冷気を濃厚に塗りつぶしていた。
「ふ、深見さん……起きてたんですね」
「うるさくて目が覚めたんだよ。……で? そこの掲示板に貼ってある紙切れが、例の契約更新の通知か」
深見はスリッパを引きずりながら、音もなく私へと近づいてきた。
見上げる位置。
深見の長い影が、私の全身をすっぽりと覆い隠す。
漂ってくる、苦い煙草のヤニと、濃い珈琲の香り。
深見は私の胸元に抱えられた残りの封筒を見下ろすと、鼻で小さく笑った。
「矢吹の野郎、律儀に書類を送りつけてきやがったな」
「深見さん、これ……一〇二号室の分です。期日までに記名捺印をして、私に提出してくれれば……」
私が恐る恐る差し出した封筒を、深見は受け取ろうとはしなかった。
代わりに――。
スッ……。
深見の冷たく骨張った長い指先が伸びてきて、私の顎のラインを、第二十一話や第二十九話の時と同じように、クイと持ち上げたのだ。
「ひゃっ……!?」
至近距離で交錯する視線。
丸眼鏡の奥の切れ長の瞳が、獲物を解剖台の上に乗せるように、鋭く、熱く、私の瞳の奥底を射抜いていた。
親指の腹が、私の下唇をじわりとなぞる。
「言ったはずだぞ、大家。……ハンコを押してほしけりゃ、俺の部屋まで一人で取りに来い」
「ふ、深見……さん……」
「廊下の立ち話で済ませるような安い契約じゃねえんだよ。……あんたが俺の部屋に入ってきて、俺のベッドの横で、俺の目を見つめながら『更新してください』って頭を下げたら……考えてやらんこともない」
「な、なんでそんな上から目線なんですか!?」
「俺を本気にさせたのは、あんただからだ」
深見は顔をさらに数ミリ近づけ、煙草の苦い呼気を私の唇へと吹きかけてきた。
「覚悟して部屋に来いよ。……ドアを閉めたら、簡単には帰してやらねえからな」
顎から指が離れる。
深見は意地悪そうに口角を吊り上げると、自分の封筒を私の手元からサッと奪い取り、ひらひらと手を振りながら一〇二号室の暗がりへと戻っていった。
バタン、と閉まる重いドア。
唇に残る指先の冷たさと、心臓の激しい早鐘に、私の膝からすうっと力が抜けそうになる。
――だが、試練はそれだけで終わらなかった。
ドスン、ドスン、ドスン……。
二階へと続く木製階段から、床板を軋ませる重厚な足音が響いてきた。
見上げると、階段の踊り場を曲がって降りてきたのは、二〇一号室の野村創だった。
「……創、くん……」
黒の厚手のパーカーに、色褪せたワークパンツ。
首には手ぬぐいを巻き、手には美大へ持っていくのであろう重たい工具バッグ。
百八十五センチを超える筋骨隆々とした体躯が、階段を一段降りるごとに、圧倒的な威圧感を持って迫ってくる。
創は階段を降りきると、掲示板の前に立ち尽くす私の目の前で、ピタリと足を止めた。
無言。
言葉は、何ひとつ発しない。
けれど――その鋭い三白眼は、先週までのあの「耳を赤くしてそっぽを向く照れ屋な少年」のそれとは、完全に別物だった。
獲物を決して逃がさないと決めた雄の、獰猛で、切実で、燃え盛るような眼光。
「創くん……おはよう。あの、これ……創くんの更新書類……」
私が恐る恐る三通目の封筒を差し出すと、創はやはり、受け取ろうとしなかった。
ただじっと、射抜くような視線で、私の顔を見つめ続けている。
「創……くん……?」
沈黙の重圧に耐えかねて声を漏らした瞬間、創の大きな手が、無言で私のポケットへと伸びてきた。
ビクッと肩を跳ね上げる私。
創のゴツゴツとした、傷だらけの指先が触れたのは――私のカーディガンのポケットの中に入っていた、あの真鍮のキーリングだった。
チリ、と澄んだ金属音。
創の指先が、キーリングに結ばれた「小さな木彫りの桜」を、ポケット越しにそっと握りしめた。
第三十八話の夕暮れ、指先を血だらけにして創が削り出してくれた、世界でたった一つの魔除けの花びら。
「……っ」
「……持ってるな」
創の唇から、低く掠れた声が零れ落ちた。
吐息が、冬の冷気の中で白く抜ける。
創は私から目を逸らさないまま、ポケットの中の桜を指先で強く、熱く確かめるように握り締めた。
「俺……コンクール、大賞獲るから」
「え……?」
「今週の金曜……授賞式だ。……あんたも、来い。招待状、後で渡す」
創の三白眼が、痛ましいほど真っ直ぐに私を射抜いた。
耳の先は、隠しようもなく鮮やかな朱色に染まっている。
けれど、その視線は一ミリも揺らいでいなかった。
「大賞獲って……プロになって……あんたを養える男になるって、証明してやる。……更新の返事は、そのあとだ」
創はポケットから手を離すと、私の手元から三通目の封筒を無造作にひったくった。
そして、一度だけ私の頭の上に大きな掌をポンと重たく置き、振り返ることもせずに玄関へと大股で歩み去っていった。
ドアがバタンと閉まり、残されたのは、頭頂部に残る創の熱い体温と、ポケットの中の桜の存在感だけだった。
「ふふ、皆さん、朝からずいぶん積極的ですね」
逃げ場を失い、完全に魂が抜けかけていた私の耳に、最後のとどめを刺すような、甘く滑らかな声が響いた。
共用キッチンのカウンター。
湯気をもうもうと立ち上らせる小鍋の前で、二〇二号室の柴崎晴人が、木べらをゆっくりと動かしていた。
清潔なリネンエプロンに、腕まくりされた白シャツ。
小鍋の中でコトコトと音を立てているのは、朝食用の特製クラムチャウダーだろうか。アサリとベーコン、香味野菜の濃厚な出汁と生クリームの芳醇な香りが、リビングいっぱいに満ちている。
柴崎は火を弱めると、木べらを置いて振り返り、私へと優雅に歩み寄ってきた。
「晴人……さん……」
「お疲れ様です、栞さん。朝から三人に囲まれて、息が上がっていますよ。……はい、温かいチャウダーです。まずはこれを飲んで落ち着いてください」
柴崎が差し出してきたスープボウル。
受け取ろうと私が手を伸ばした、その瞬間――。
スッ……。
柴崎の空いていた左手が、私の腰の後ろへと、音もなく滑り込んできた。
逃げる間もなかった。
グッと引き寄せられる身体。
掲示板の前に立っていた私の背中は、柴崎の腕によって軽々と引き寄せられ、キッチンの作業台の角へと優しく押し当てられた。
「ひゃっ……!?」
至近距離で見下ろしてくる、彫刻のように整った柴崎の美貌。
口元には、いつもの完璧な菩薩の微笑み。
けれど――その瞳の奥底にあったのは、光をすべて吸い込む絶対零度の漆黒。
真壁くんが言っていた「二度と失わないために、逃げ道をすべて塗りつぶす男」の、狂気的なまでの独占欲の炎。
「栞さん。最後の一通は……僕の分ですね?」
柴崎の指先が、私の胸元に残っていた最後の一通の封筒を、そっと撫でた。
紙の擦れる音。
柴崎の顔が、私の耳元へとゆっくりと傾けられる。
バニラとスパイス、そして朝のバターの甘い香りが、逃げ場のない檻のように私を包み込む。
「更新の条件……僕たちからも提示していいんですよね?」
「え……? 晴人さん、条件って……」
「家賃を二倍払ってもいい。アパートの修繕積立金を全額僕が負担してもいい。……その代わり、栞さんの胃袋と生活のすべてを、僕に差し出してください」
「っ……!」
「陸くんの若さも、深見先生の言葉も、創くんの情熱も……僕にとっては邪魔でしかないんです。……僕の料理だけを食べて、僕の腕の中だけで生きていくと約束してくれるなら、喜んでこの契約書にサインしますよ」
柴崎の大きな手が、私のタートルネックの上から首筋をそっと包み込み、親指で脈打つ頸動脈を優しくなぞった。
「僕以外の男を選ぶなんて……絶対に許しませんからね」
「「「「…………」」」」
息が、完全に止まった。
出社前に完璧なエリートの仮面を脱ぎ捨て、忠誠の誓約を迫ってきた宮原陸。
自室の密室へと誘い込み、上から目線の傲慢な色気で迫ってきた深見怜。
木彫りの桜を確かめ、大賞を獲って養う男になると宣言した野村創。
そして、キッチンの壁際で逃げ道を塞ぎ、狂気すれすれの独占欲を囁いてきた柴崎晴人。
手元に残された、空っぽになったバインダー。
掲示板に貼られたばかりの、白い更新通知の紙。
そして――四方八方から突きつけられた、男たちの本気の刃。
これまで私を守ってくれていた「大家と店子」という形式上の盾は、今、完全に期限切れを迎え、木っ端微塵に粉砕されていた。
誰か一人を選ばなければならない。
誰か一人の想いに応えなければ、この奇跡のようなメゾン・サクラの共同生活は、破滅へと向かってしまう。
掲示板の前で、青ざめて立ち尽くす私。
逃げ場のない恋の最終局面――運命の契約更新を巡る、男たちの熾烈極まる告白ラッシュの嵐が、いよいよ本格的に吹き荒れようとしていたのだった。




