第45話:契約更新のプレッシャー
中庭のウッドデッキで開かれた盛大な祝勝会の熱気が、夜空の冷気に触れて少しずつ落ち着きを見せた頃。
吹き抜ける十二月の夜風がいよいよ肌を刺すような冷たさを帯びてきたため、私たちは大皿やグラスを協力して片付け、一階中央の十二畳の共用リビング・ダイニングへと場所を移していた。
暖房の効いたリビングは、真冬の寒さを忘れさせるほど心地よい温もりに満ちていた。
天井のペンダントライトが、飴色に艶めく無垢材のダイニングテーブルを柔らかく照らし出している。
テーブルの上には、柴崎晴人が胃を労るために淹れてくれた湯気を立てるカモミールとレモングラスのハーブティーのポットと、深見怜が戸棚の奥から引っ張り出してきた年代物のスコッチウイスキーのボトル、そして宮原陸が手土産に持ち帰ってきた高級ショコラの詰め合わせが広げられていた。
「……ふうぅぅ……」
私はダイニングチェアに深く腰掛け、両手で包み込んだティーカップの縁から立ち上るハーブの香りを吸い込みながら、長いため息を吐き出した。
頬はまだ、先ほど中庭で飲んだ最高級シャンパンと赤ワインのせいで、ほんのりと赤く火照っている。
頭の芯がふわふわとして、心地よい疲労感と安堵感が、手足の先までじんわりと溶け出していく感覚。
(……終わったんだ。本当に、全部解決したんだ……)
思い返せば、この数週間は息つく暇もない怒涛の激動だった。
元上司である工藤の突然の襲来。あの暴力的な恐怖から私を守るために、住人たちが敷いた二十四時間の過保護体制。
そして、大手不動産ディベロッパー・帝都都市開発による、三億八千万円という天文学的な買収提案。
一度は「合理的に売却して一生遊んで暮らすべきか」と現実主義者の心が激しく揺れ動いた。けれど、日曜日の夕食会で笑い合う男たちの顔を見た瞬間、私は自分の魂の叫びに従って「ここはみんなの家だから、絶対に売らない!」と啖呵を切ったのだ。
そして、その私の覚悟に応えるように、四人の男たちが自らの才能、人脈、資金力、技術を総動員して『メゾン・サクラ再生プロジェクト』を成し遂げ、巨大企業を完膚なきまでに撤退させた。
今日、顧問税理士の矢吹先生からも「完敗です。名誉ある撤退をします」と告げられ、アパート存続の確固たる防壁は完成した。
将来の修繕費も、耐震強度も、法的なリスクも、すべてクリアされたのだ。
「……よかったぁ……。これで明日から、またいつもの平和でのんびりした大家生活に戻れるわ……」
私が誰に聞かせるでもなく、安堵に満ちた呟きを零した、まさにその刹那だった。
――コトリ。
無垢材のテーブルの上に、手元のロックグラスが静かに置かれた。
氷がカランと澄んだ音を立てる。
私の斜め向かいの席に座っていた一〇一号室の住人、宮原陸だった。
「……栞さん」
滑らかで、低く、一切の揺らぎのない声。
陸は緩めていたネクタイの結び目を指先でわずかに引き上げると、スッと背筋を伸ばし、居住まいを正した。
先ほどまでワインを飲んで上機嫌に笑っていた「人懐っこい後輩」の気配は、綺麗に消え去っていた。
仕立てのいいストライプシャツの胸元。腕まくりされた引き締まった前腕。
冷徹で、怜悧で、数々の百戦錬磨の役員たちを逃げ場のない論理で追い詰めてきた、外資系戦略コンサルタントの完全なる覚醒。
その切れ長の涼しげな瞳が、まっすぐに、射抜くように私を捉えた。
「さて。……アパートの存続という共通の課題は、完璧にクリアしました」
「え……? あ、うん。宮原くんたちのおかげで、本当に――」
「となれば、大家さん」
陸は私の言葉を遮るように、薄い唇を微かに吊り上げた。
その笑みは美しい。けれど、その奥に潜む肉食の光に、私の背筋をチクリと甘い悪寒が走る。
「次は……『契約』の話をしなければなりませんよね?」
「……け、契約……?」
私が小首を傾げると、陸は立ち上がり、静かな足取りでダイニングの壁際へと歩み寄った。
壁に掛けられた、木製の大きなカレンダー。
陸の長く手入れの行き届いた人差し指が、来月――一月のページの一角を、トントンと軽く叩いた。
「忘れてはいませんよね、栞さん。……来月で、僕たちの入居からちょうど丸一年です」
――ッッッ。
息が止まった。
一年前の冬。
祖母の文さんが他界し、私がブラック企業を辞めてこのアパートを相続したあの日。
祖母の遺言ノートに従い、破格の月額家賃六万円台と引き換えに交わされた、一年定期の賃貸借契約。
「……来月で……満期……更新……」
「ええ。定期建物賃貸借契約の、一年目の更新期日です」
陸がカレンダーから振り返り、ゆっくりとテーブルへと戻ってきた。
その瞳の奥には、獲物を追い詰めた狩人の、ギラギラとした熱狂が宿っていた。
「これまで僕たちは、工藤という外敵の排除や、ディベロッパーによる買収阻止という『アパート全体の危機』を最優先にして、休戦協定を結んでいました。大家さんの心身の平穏を守ることが、最優先課題でしたからね」
陸は私のすぐ隣の席へと歩み寄り、椅子の背もたれに手を置いて、上から見下ろすように身をかがめてきた。
至近距離で漂う、シトラスとサンダルウッドの芳醇な香水の匂い。
「ですが……外敵がいなくなり、アパートの恒久的な存続が確定した今。……僕たち個人の問題に進んでも、いいですよね?」
「個人の……問題……!?」
私の喉が引き攣れた。
その時だった。
――ガタッッッ!
重厚な木の軋み音とともに、テーブルの向かい側から、巨大な影が身を乗り出してきた。
二〇一号室の野村創だった。
黒のパーカーの袖を肘までまくり、筋骨隆々とした太い腕をテーブルの上にドスンと叩きつける。
百八十五センチを超える体躯。
短く刈り上げられた黒髪の隙間から覗く三白眼は、爛々と熱い炎を滾らせていた。
短く息を吐き出すたびに、分厚い胸板が上下する。
「……陸の言う通りだ」
地割れのような重低音が、リビングの空気を震わせた。
創の顔面は、襟足から耳の先まで、夕焼け空のように真っ赤に染まり上がっている。
けれど、いつものように照れてそっぽを向くことなど、微塵もしていなかった。
剥き出しの敵意と覚悟を宿した瞳が、私を逃がさないように正面から縫い止める。
「俺……子ども扱いされるの、もう我慢しねえから」
「創、くん……?」
「コンクールの大賞の審査も、もう最終選考まで残った。俺は学生だけど、卒業したらプロとして自立して稼げる。……あんたに木彫りの桜を渡した時、言っただろ。『何でもする』って」
創の大きな拳が、テーブルの上でギリギリと音を立てて握りしめられた。
太い前腕に、ボコボコと青筋が浮き上がる。
「年下の店子だからって、頭撫でられて安心してるだけのガキだと思うなよ。……俺は、あんたの隣に立つ『男』になりに来てんだ。契約更新の書類にハンコ押す前に……俺を男として選べ」
「っ……!」
心臓が肋骨を突き破りそうなほど強く跳ね上がる。
あの不器用で、目を合わせるだけで逃げ出していた純情な少年が、大人の男として私の前に立ちはだかり、退路を断つような言葉を叩きつけてきているのだ。
すると――。
――スゥゥゥ……。
――ふぅぅぅぅ……。
紫煙が、リビングの天井へと細く、長く吐き出された。
ソファに深く身体を沈めていた一〇二号室の深見怜が、ジッポライターを指先で弄びながら、ゆっくりと顔を上げた。
丸眼鏡の奥の切れ長の瞳。
ボサボサの黒髪に、無精髭。
普段の自堕落で気怠げな態度はそのままに見えた。
けれど――その瞳の奥底に淀んでいたのは、夜明け前の原稿部屋で私の前髪を払いのけた時と同じ、息を呑むほどに鋭く、熱く濁った、大人の男の危険な色気だった。
「……おいおい、若い連中が威勢がいいこったな」
深見は灰皿に煙草の灰をトントンと落とすと、長い足を組み替え、肘掛けに頬杖をついて私をじっと見据えた。
低く、耳の奥を直接くすぐるような、しゃがれたハスキーボイス。
「だがな、大家。陸の言うことも、創の青臭い吠え面も、全部正論だぞ」
「深見、さん……」
「アパートの危機だの、地上げ屋の撃退だの、ドラマ化だの……そんな大義名分は、今日で綺麗さっぱり全部片付いたんだよ」
深見の薄い唇が、意地の悪い、けれど狂おしいほど切実な弧を描く。
「もう、盾はねえぞ。……いつまでも『大家と店子』の仮面被って、安全圏から逃げ回れると思うなよ」
「っ……!」
「あんたが無自覚に撒き散らした好意と飯と笑顔のせいで、俺たちの頭の中はとっくに焼き切れてんだよ。……俺の専属担当になって、残りの人生、俺の言葉の一番近くにいろ。契約を更新するなら……俺の女になるのが条件だ」
逃げ場のない、言葉を武器にする男の絶対的な求愛。
耳元をかすめるような低音の響きに、私の頭の芯がクラクラと麻痺しそうになる。
そこへ――。
カチャリ。
磁器のカップがソーサーに触れ合う澄んだ音が、静寂の隙間へと滑り込んできた。
二〇二号室の柴崎晴人だった。
エプロンを外し、上質なカシミアのオフホワイトのニットを着こなした柴崎は、私の目の前の席へと、音もなく腰を下ろした。
その口元には、花が咲くような、極上の、完璧な微笑み。
穏やかで、優雅で、まるで聖母のように優しい表情。
けれど――。
その切れ長の瞳の奥底を覗き込んだ瞬間、私の背筋に、氷の刃を直接突き立てられたかのような強烈な戦慄が走った。
笑っているのに、瞳孔が完全に開いている。
光をすべて呑み込む、底なしの暗黒の沼。
木曜日の定休日の厨房で、背後から私を抱きすくめ、包丁を握る手を包み込みながら囁いてきた――あの「二度と失わないために、逃げ道をすべて塗りつぶす」という、狂気すれすれの絶対的な独占欲が、全身から黒いオーラとなって立ち上っていた。
「晴人……さん……」
「ふふ、皆さん、ずいぶん焦っていますね」
柴崎は首をわずかに傾げ、整った指先で自分のティーカップの縁をなぞった。
声音はどこまでも柔らかく、耳障りがいい。
けれど、その言葉のナイフは、私の逃げ道を完全に根こそぎ断ち切る冷徹さを持っていた。
「でも、僕も同意見ですよ、栞さん」
「え……?」
「アパートが守られたのは喜ばしいことです。これで、誰にも邪魔されずに、僕たちの本番を始められますからね」
柴崎はテーブル越しに、すっと右手を伸ばしてきた。
そして――私の膝の上でギュッと握りしめられていた右手を、何のためらいもなく、上から包み込むようにそっと重ねてきたのだ。
料理人の、温かく、確固たる質量を持った大きな手のひら。
逃げようとする私の指先を、柴崎の長い指が、優しく、けれど絶対にほどけない力加減で絡め取っていく。
「栞さん。僕たちの中で、誰を一番近くに置くのか……そろそろ決めてもらわないと困ります」
「っ……!」
「僕が作った料理以外、何も喉を通らないようにしてあげると言いましたよね。……あなたの胃袋も、心も、生活のすべてを、僕が満たしてあげる。店を改装して、このアパートの一階を僕たちの愛の城にしてもいい。……僕以外の男を選ぶなんて、絶対に許しませんよ」
至近距離で囁かれる、甘い毒。
逃げ場のない、完璧な檻。
柴崎の親指の腹が、私の手の甲を、熱く、愛おしそうにゆっくりとなぞる。
「「「「…………」」」」
完全なる、包囲網。
息が、できなかった。
右隣から身をかがめ、完璧なエリートの仮面を脱ぎ捨ててギラギラとした肉食の瞳で見つめてくる、宮原陸。
正面からテーブルに両手を突き、耳まで真っ赤にしながら魂のすべてをぶつけてくる、野村創。
左手のソファから紫煙を燻らせ、大人の余裕をかなぐり捨てて専属の愛を迫ってくる、深見怜。
そして、私の手をしっかりと握り締め、底知れぬ独占欲と笑顔の裏の狂気で逃げ道を塞ぐ、柴崎晴人。
四人の極上男子たち。
外資コンサル、美大生、人気作家、一流シェフ。
それぞれが異なる武器を持ち、異なる色気を放ち、異なる情熱を剥き出しにした男たちが、私という一点を取り囲み、四方から至近距離で本気の男の顔を突きつけてきている。
空気の密度が、何十倍にも跳ね上がっていた。
暖房の熱気だけではない。
四人の男たちの身体から立ち上る、生々しい「雄」の熱気とフェロモンが、リビングの酸素を完全に焼き尽くしていた。
心臓が、耳の奥で狂ったように早鐘を打ち鳴らしている。
手足が震え、唇が乾き、視界がチカチカと熱く明滅する。
「あ……あの……皆さん……」
私の喉から、情けないほどに掠れた声が零れ落ちた。
椅子の上で縮こまり、両手を胸元に引き寄せて、必死に後ずさりしようとする。
けれど、背もたれがあるだけで、これ以上後ろへは下がれない。
「ま、待ってください……! 契約更新って、そういう意味じゃないでしょ!? 賃貸借契約の更新は、ただの事務手続きで……印鑑を押して、更新料を振り込んでもらうだけで……!」
「そんな建前が通用する段階は、とっくに終わっていますよ」(陸・耳元で低く囁く)
「……事務手続きなんかで誤魔化すな。俺は、あんたの返事を聞きに来てんだ」(創・鋭い眼光で射抜く)
「印鑑が欲しけりゃ、俺を男として選んでからにしろ」(深見・煙草をもみ消しながら嘲笑う)
「ふふ、更新の条件は、僕たちが提示する番ですからね」(柴崎・握った手を離さず微笑む)
「ひぃっ……!」
私の叫びなど、誰の耳にも届かない。
四者四様の、一切の妥協のない眼差し。
これまで「アパートの存続」という共通の敵に向いていたエネルギーのすべてが、今、完全に私という「たった一人の女性」へと収束していた。
逃げ道は、塞がれた。
守られたはずのメゾン・サクラの中で。
新米大家・佐伯栞(三十二歳)は、今度こそ完全に、一歩の退路すら残されていない絶体絶命の檻の中へと、閉じ込められていたのだ。
息を呑むリビング。
男たちの熱っぽく真剣な四つの眼差しが交錯する中――。
物語は、誰か一人を選ばなければならない、逃げ場のない恋の最終局面――最終章『選択と契約更新編』へと、最高潮のテンションで幕を上げようとしていたのだった。




