第44話:強固になった絆、そして…
十二月も半ばを過ぎ、目黒の街には本格的な真冬の澄み切った空気が満ちていた。
木造モルタル二階建てのメゾン・サクラの中庭では、葉をすっかり落とした山桜の古木が、群青色の冬空に向かって力強く枝を伸ばしている。
あの日――日曜日の夜、ダイニングテーブルに置かれた三億八千万円の買収提案書を前に、私が「絶対に売りません!」と涙ながらに啖呵を切り、男たちが腕をまくって『メゾン・サクラ再生プロジェクト』を立ち上げてから、ちょうど一ヶ月の月日が流れていた。
その一ヶ月間に起きた出来事は、元・営業事務の私の平凡な人生経験を遥かに超え、まるで痛快な企業サスペンス小説を特等席で目撃しているかのようだった。
口火を切ったのは、一〇一号室の宮原陸だった。
陸は所属するグローバル戦略ファームの法務チームと、親会社の巨大な法曹ネットワークを電撃的に稼働させた。帝都都市開発が過去に関わった首都圏再開発プロジェクトにおける「境界画定の強要」や「住民説明会の開催基準違反」の疑義を洗いざらいリスト化し、ディベロッパーの背後にいる主幹事メガバンクの融資監査役、ならびに国土交通省の担当課へ向けて、寸分の隙もない告発事前通知書を突きつけたのだ。
『事業主体のコンプライアンス上の不法行為が是正されない場合、協調融資枠の妥当性について金融庁への報告を含めた法的措置を講じる』――その冷徹な最後通牒は、数百億円のプロジェクトの資金調達を人質に取られた帝都都市開発の役員会を震撼させた。
追撃を放ったのは、一〇二号室の深見怜だった。
文壇のトップを走るベストセラー作家が、大手版元の記者会見で次回作の連載を発表した瞬間、カルチャー界とメディアは蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
『舞台は、目黒の昭和モダン建築アパート・メゾン・サクラ』。
しかも、来春クールのゴールデン帯での連続ドラマ化の内定と、国民的トップ俳優の主演決定が同時にスポーツ紙の一面とネットニュースのトップをジャックしたのだ。
深見の親交のある文化庁の審議委員や建築史の重鎮たちの推薦状が添えられ、目黒区教育委員会には『国登録有形文化財(建造物)』の登録申請書が正式に受理された。
全国のファンから「目黒のレトロアパートを守れ」「歴史的建築を金儲けのために壊すな」という世論の声がSNS上で爆発し、大手ディベロッパーの公式アカウントは連日大炎上を記録した。
そして、物理的なトドメを刺したのが、二〇一号室の野村創だった。
美大の大型作業棟に泊まり込み、自らの手で鉄を切り、溶接し、組み上げた特注の制振ダンパー付き『外付け耐震フレーム』。
創が教授や美大の屈強な仲間たちを引き連れてアパートの敷地に乗り込み、わずか二週間で母屋の外周と中庭の壁面に頑強な鉄骨フレームを組み上げてしまったのだ。
ゼネコン見積もり千五百万円の工事を、資材費実費の三百数十万円だけで完工。
耐震基準適合証明書が発行され、アパートは「耐震強度不足の老朽危険建築物」という地上げ側の最後の攻撃カードを完全に無力化された。
さらに、二〇二号室の柴崎晴人が主導した中庭の週末限定『ガーデンカフェ』のプレオープンは、深見のニュースを見た熱心なファンと近隣住民で溢れ返り、わずか二日間の営業で数十万円の純利益をアパートの修繕口座へと叩き出した。
結果――。
今週の火曜日の朝。
アパートのエントランスの郵便受けに、帝都都市開発の代表取締役社長名義による、速達の公文書が届いたのだ。
『目黒一丁目地区市街地再開発事業における、貴殿所有物件の買収計画の正式な取り下げ、ならびに計画区域からの除外に関する通知書』
完全なる、白旗。
大手不動産ディベロッパーは、メゾン・サクラの敷地を丸ごと迂回する形での計画変更を余儀なくされ、立ち退きの危機は、塵一つ残さず完全に消滅したのだった。
「……完敗ですね、佐伯さん」
水曜日の午後。
冬の陽光が穏やかに差し込む一階の共用ダイニングで、深い、深いため息が落ちた。
無垢材のテーブルの上には、宮原陸が作成した三十年スパンの『メゾン・サクラ再生事業計画書』と、創が引いた耐震補強の構造計算書、柴崎のカフェ収益管理表、そして深見のドラマ化契約書と文化財申請の受領証が、整然と並べられていた。
それを一枚ずつ検分し終えた顧問税理士・矢吹宗介が、手元の万年筆をカチリとキャップに収めた。
「矢吹先生……」
私はダイニングテーブルの向かい側で、淹れたての温かい緑茶を両手で包み込みながら、少し緊張して座っていた。
一ヶ月前、銀座の事務所の応接室で『彼らはいつか出ていく他人です。この三億八千万円の売却を受け入れなさい』と冷徹に諭してくれた、あの大人の男。
矢吹はチャコールグレーの三つ揃えスーツの肩をわずかにすくめると、シルバーフレームの銀縁眼鏡を外した。
胸ポケットからクロスを取り出し、ゆっくりとレンズを拭う。
眼鏡を外した矢吹宗介の素顔。
切れ長の涼しげな目元、高い鼻梁、そして幾多の修羅場を乗り越えてきた者だけが持つ、三十代半ばの大人の色気。
その唇の端に浮かんでいたのは、かつての冷徹な現実主義者の表情ではなく、降参した男の、爽やかで苦い苦笑いだった。
「法務、ファイナンス、建築工学、メディア戦略……。各界の超一流が一堂に会し、資本力数百億の大手企業を完全に手玉に取って包囲網を築き上げた。……これほどの完璧な防衛シナリオ、私の長いキャリアの中でも一度もお目にかかったことがありませんよ」
矢吹は眼鏡を掛け直すと、テーブルの上の書類をトントンと指先で揃え、まっすぐに私を見つめてきた。
「佐伯さん。あなたには……これほど優秀で、そして狂気的なまでに忠誠を誓う味方がいたわけだ」
「忠誠……だなんて、そんな……」
私が真っ赤になって俯くと、矢吹はフッと口元を緩め、テーブル越しに身を乗り出してきた。
その声音は、どこまでも穏やかで、温かかった。
「先月、私はあなたに言いましたね。『彼らのような不安定な男たちに、あなたの将来を生涯支えられる保証はない』と」
「あ……はい……」
「前言を撤回しますよ。……彼らは確かに若く、感情的で、時に危うい。しかし、佐伯栞という一人の女性を守るためなら、自らの社会的地位も、才能も、人脈も、そのすべてを躊躇なく投げ打って盾になる覚悟を持っている。……それだけの男たちに囲まれているあなたに、私の出る幕など、最初からどこにもありませんでした」
矢吹は椅子から立ち上がり、手元のダレスバッグに自分の手帳を収めた。
そして、コートを羽織る前に、私の目の前へと歩み寄ってきたのだ。
スッ……。
矢吹の長く、手入れの行き届いた大人の手が、私の頭の上へとそっと伸びてきた。
触れるか触れないかの距離で、優しく、慈しむように私の髪の先を撫でる。
「佐伯さん。……見事でしたよ。お祖母様が遺してくださった城を、あなた自身の意志と、あなたの愛した男たちの力で守り抜いた。文様も、天国でさぞ誇らしげに目を細めていらっしゃるでしょう」
「矢吹、先生……」
「私は、顧問税理士としての職務に戻ります。これからは、あの優秀な宮原さんたちが作ってくれた完璧な事業計画書の通りに、数字の処理を淡々と進めさせていただきますよ。……名誉ある撤退、というやつです」
矢吹はそう言って、悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。
大人の男の、潔く、美しい引き際。
失恋の痛手すら微塵も感じさせない完璧なエスコートのまま、矢吹はエントランスへと向かい、ドアノブに手をかけた。
「佐伯さん。……体に気をつけて。あなたが幸せであることを、心から祈っていますよ」
「……はい! 矢吹先生、本当に……今までありがとうございました!」
私が深々と頭を下げると、矢吹は背中越しに軽く手を挙げ、冬の陽光の中へと颯爽と歩み去っていった。
外敵の襲来。
元上司・工藤の暴力と、大手ディベロッパーによる買収の影。
私の平穏を脅かそうとしたすべての外部の脅威が、今、完全に、跡形もなく消え去った瞬間だった。
そして、その日の夜。
空には満天の冬の星々が瞬き、凛とした夜風が吹き抜ける中庭の中央。
そこには、真新しいウッドデッキの上に特設のローテーブルが据えられ、四隅に灯されたランタンの琥珀色の灯りが、湯気を上げるご馳走を幻想的に照らし出していた。
新生『メゾン・サクラ』――買収撃退祝勝会の宴。
「さあ皆さん、メインディッシュが焼き上がりましたよ!」
二〇二号室の柴崎晴人が、分厚い耐熱ミトンを両手にはめて運んできたのは、息を呑むほど豪快な大皿料理だった。
「うわあぁぁぁぁ……っ! すごい……! これ、何ですか晴人さん!?」
私が歓声を上げると、デッキを囲んでいた男たちからもどよめきが起きた。
「蝦夷鹿のロース肉のパイ包み焼き(トゥルト)です」
柴崎が胸を張って微笑む。
「冬のジビエの王様ですよ。臭みのない柔らかな鹿肉を、フォアグラと黒トリュフ、そしてセップ茸のペーストと一緒に、発酵バターたっぷりのパイ生地で包んでじっくり焼き上げました。ソースは、赤ワインとカシスを煮詰めたグラン・ヴヌールソースです」
黄金色に焼き上がったパイにナイフを入れると、サクッ、と小気味よい音が響き、中からロゼ色に輝く肉厚な鹿肉と、トリュフの官能的な芳香が湯気とともに一気に溢れ出した。
さらにテーブルには、北海道産の生ウニと帆立貝のタルタル、根セロリの冷製ポタージュ、焼き立ての自家製フォカッチャ、そして氷水でキンキンに冷やされた最高級シャンパンのボトルが誇らしげに鎮座している。
「柴崎シェフ、完全に採算度外視ですね」
一〇一号室の宮原陸が、ワークシャツの袖をまくりながらグラスを掲げて笑った。
「今夜のディナー、銀座の三つ星レストランで食べたら一人三万円は下りませんよ」
「いいんですよ、今夜はアパートの存続を祝う特別な夜ですから。……それに、栞さんに一番美味しい笑顔を見せてもらいたいですからね」
「けっ……相変わらず胃袋の囲い込みに余念がねえな、あざとい料理人め」
一〇二号室の深見怜が、ツナギの胸元を寛げて煙草をもみ消しながら、嬉しそうにワイングラスに手を伸ばす。
「……おい深見。パイの端っこ、フォアグラが多いところばっかりフォークで削るな」
二〇一号室の野村創が、タンクトップの上に厚手のパーカーを羽織り、皿を抱え込みながら三白眼を尖らせた。
創の太い腕には、先週までの耐震補強工事でついた細かな鉄粉の擦り傷がまだ残っていたが、その顔には、自分の手で城を守り抜いた男の誇らしげな笑みが浮かんでいた。
「減るもんじゃねえだろ、筋肉小僧。ほら、大家の皿にも乗せてやれ」
「言われなくても乗せるよ! ……ほら、大家さん。トリュフの一番香りが強いところ、食え」
「あ、ありがとう創くん! ふふっ、みんな喧嘩しないで!」
私がパイ包み焼きを一口頬張ると、口の中でサクサクのパイ生地が崩れ、濃厚なフォアグラとジューシーな鹿肉の旨味が、カシスソースの甘酸っぱさと完璧に溶け合った。
目を瞑ってしまうほどの美味しさ。
冷えたシャンパンを喉に流し込むと、心地よい炭酸が胃の腑を駆け抜け、身体の隅々にまで幸福な熱が染み渡っていく。
「美味しい……! 本当に、世界で一番美味しいよ……!」
ランタンの温かな光に照らされて、男たちの笑顔が夜の闇に浮かび上がる。
エリートの仮面を脱ぎ捨てて屈託なく笑う陸。
煙草をくわえながら気怠げにワインを煽る深見。
耳の先を赤く染めながら大口で肉を頬張る創。
そして、満足そうに目を細めて私に料理を取り分けてくれる柴崎。
一ヶ月前、あの絶望的な買収提案書を前にして、私は震えていた。
けれど、あの時、損得勘定を捨てて「ここはみんなの家だ」と叫んだ私の選択は――間違っていなかったのだ。
お金なんかじゃ買えない。
どんな高級タワーマンションでも手に入らない。
互いの傷を受け止め合い、互いの才能を注ぎ込み、命懸けで守り抜いた、奇跡のような温かい居場所が、今、ここにある。
アルコールの心地よい巡りと、満たされた胃袋の温もりによって、私の頬は林檎のように赤く染まり、目頭にはじんわりと熱い涙が滲んでいた。
私はシャンパングラスを両手でしっかりと掲げ、夜風に後れ毛を揺らせながら、四人の男たちを順番に見つめた。
「……みんな」
私の呼びかけに、肉を突いていた創の手が止まり、陸が視線を上げ、深見と柴崎が静かにグラスを置いた。
ランタンの光を反射して、私の潤んだ瞳がキラキラと星のように輝く。
「……本当に、ありがとう。……私一人じゃ、板一枚だって守れなかったのに。みんなが……みんながいてくれたから、このアパートを守ることができたよ」
心からの、偽らざる感謝。
ほろ酔いで、無防備で、全幅の信頼を寄せて花のように微笑む私の姿。
「ここは……祖母の家だけど、私の家で……何より、みんなの家だから。……私、この場所を絶対に手放さないよ。みんなと一緒に、ずっとここで暮らしていきたい。……みんな、本当に、本当に大好きだよ!」
――みんな、本当に大好きだよ。
お酒の勢いに任せて口から零れ落ちた、屈託のない告白。
家族としての、かけがえのない仲間としての、純粋な愛の言葉。
その瞬間――。
ピタリ、と。
中庭の空気が、完全に静止した。
「…………」
炭火の爆ぜる音も、夜風の音も、一瞬にして遠ざかったような錯覚。
男たちの視線が、まるで強力な磁石に吸い寄せられたかのように、一点――デッキの中央で赤く染まった頬をして無邪気に笑う私へと、釘付けになっていた。
陸の呼吸が、喉の奥で詰まる。
グラスを持つ指先が、カチリと小さく音を立てた。その切れ長の瞳には、先ほどまでの爽やかな笑顔は消え去り、獲物を今すぐ奪い去りたいという「雄」の熱い光がギラリと灯っていた。
創はフォークを握りしめたまま、彫刻のように硬直していた。
短く刈り上げられた襟足から耳の先までが一瞬にして真っ赤に沸騰し、見開かれた三白眼が、飢えたように私を見つめている。
深見は煙草の煙を吐き出すことも忘れ、丸眼鏡の奥の目を鋭く細めていた。大人の男の、理性の防壁が決壊する寸前の、艶めかしく危険な眼光。
そして――。
スッ……。
柴崎晴人が、手元のクリスタルグラスを、細い指先でゆっくりと揺らした。
黄金色のシャンパンの泡が、ランタンの灯りを浴びてチリチリと螺旋を描いて立ち上る。
その口元には、花が咲くような、極上の、完璧な微笑み。
けれど――その切れ長の瞳の奥底にあったのは、底知れぬ狂気を孕んだ、逃げ場のない絶対的な捕食者の輝きだった。
「…………」
柴崎はグラスを口元へ運び、一口だけ含んで喉を鳴らした。
そして、グラスの縁を指先でそっと撫でながら――夜の静寂を震わせるような、甘く、低く、掠れた声を、独り言のように小さく零したのだ。
「……これで」
全員の息が止まった。
柴崎の視線が、ゆっくりと私を捉える。
「これで……アパートがなくなる心配も、僕たちが出ていく理由も……完全になくなりましたね」
――ッッッ。
背筋を、甘い戦慄が駆け抜けた。
アパート買収という、最大の外部の危機は去った。
立ち退きの恐怖も、住まいを奪われる脅威も、完全に撃退された。
しかし――それは同時に。
男たちを繋ぎ止めていた「共同戦線」という建前が、完全に終了したことを意味していた。
外部の敵がいなくなった今。
四人のハイスペック男子たちの視線の矛先は――すべて、逃げ場を失った私という「たった一つの獲物」へと、剥き出しの牙を剥いて向けられようとしていたのだ。
星空の下、揺れるランタンの明かり。
四者四様の、熱く、重く、ギラギラとした本気の男たちの視線に包囲され、私のほろ酔いの頭は、急激に別の意味での甘いパニックへと呑み込まれていくのだった。




