第43話:男たちの逆襲プラン
「……ふふ。大家さんがそこまで腹を括ってくれたんです。今度は、僕たちの番ですね」
静まり返っていた共用ダイニングに、柴崎晴人の滑らかなバリトンボイスが落ちた。
ペンダントライトの温かなオレンジ色の光の下、無垢材のダイニングテーブルには、帝都都市開発からの分厚い『最終合意提案書』が置かれたままだ。表紙に燦然と刻まれた『金 三億八千万円整』という天文学的な買収額。
けれど、先ほどまで食卓を覆っていた絶望的な沈黙は、跡形もなく消え去っていた。
「栞さん、泣かないで。よく言ってくれました」
宮原陸がストライプシャツの袖口をキュッとまくり上げ、私の隣へとすっと歩み寄ってきた。
その切れ長の瞳には、先ほどまでの動揺は微塵もない。大企業の取締役会をその舌鋒一つでねじ伏せてきた、若きトップコンサルタントの獰猛なまでの勝負師の光がギラリと宿っていた。
「……大家さん。あんた、最高だ」
野村創が大きな掌で前髪をぐしゃりと掻きむしり、耳の先まで真っ赤に染め上げたまま、不器用に口角を吊り上げる。
「三億だか四億だか知らねえが、あんな紙切れ一枚で俺たちの家を潰されてたまるかよ。……あんたが売らねえって言ったんだ。誰が一歩だって敷地から出ていくかよ」
「まったく……とんでもねえ女傑大家だな、うちの管理人は」
深見怜がジッポライターの蓋をカチンと弾き、くわえ煙草の先端を赤く灯した。
紫煙を天井へと細く吐き出しながら、丸眼鏡の奥の目を細める。
「ただの過労死寸前の元社畜だと思ってりゃ、億単位の札束を目の前にして『ここはみんなの家だ』と啖呵を切りやがった。……小説のヒロインでも、そこまで気骨のある女はそうそう書けねえぞ」
「あ、あの……皆さん……?」
鼻をすすり、涙で濡れた頬を両手で押さえながら、私は恐る恐る見上げた。
私の胸中には、覚悟を口にした爽快感と同時に、現実主義者としての冷や汗がドッと噴き出していたのだ。
「言っちゃった……言っちゃったよ、私! 格好つけて『絶対に売りません!』って叫んじゃったけど……相手は日本最大手の不動産ディベロッパーだよ!? もし『売らないなら嫌がらせをしてやる』とか、強引な地上げ屋を送り込まれたらどうするの!? それに、あのアパート自体、築四十五年でボロボロだし……このまま持ち続けても、将来の修繕費や耐震補強で破綻しちゃうかも……!」
元・営業事務の悲しい性だった。
感情で啖呵を切ったコンマ数秒後には、冷たい現実の数字と法的リスクが脳内を駆け巡り、胃のあたりがきりきりと痛み始めてしまう。
そんな私の狼狽を見て、男たちが一斉に顔を見合わせた。
そして――クスリと、誰からともなく低く喉を鳴らして笑い出したのだ。
「心配いりませんよ、栞さん」
陸が爽やかに微笑み、スッと背筋を伸ばした。
「相手が最大手なら、こちらも各業界の一線級を総動員して対抗するまでのことです。ただ『売りません』と受動的に突っぱねるだけでは、相手の思う壺ですからね。……アパートを半永久的に存続させ、奴らに二度と手を出させないための完全なる防壁を築く。題して――『メゾン・サクラ再生プロジェクト』の始動です」
「め、メゾン・サクラ再生プロジェクト……!?」
「はい。今夜は徹底的にブレインストーミングを行いましょう。……柴崎さん、夜食と珈琲の用意をお願いできますか?」
「ええ、喜んで。長丁場になりそうですから、頭脳労働に最適な糖分と温かいスープを仕込んできますね」
柴崎が優雅にエプロンを締め直してキッチンへ向かうと、陸はダイニングの隅に置かれていた大型のホワイトボードを、ガラガラとキャスターを鳴らしてテーブルの横へと引きずり出してきた。
時計の針は、深夜零時を回っていた。
木造アパートの外では冬の冷たい北風がビュービューと吹き荒れているというのに、ダイニングの中は、まるでシリコンバレーのスタートアップ企業の作戦会議室のような、異様な熱気と知性の火花で満たされていた。
「――では、まず僕から、法務およびファイナンス面の防衛スキームを発表します」
キュッ、キュッ、と黒のマーカーがホワイトボードの上を滑る。
スーツのジャケットを脱ぎ捨て、ワイシャツの腕をまくり、ネクタイを少し緩めた宮原陸。
その姿は、息を呑むほどに男らしく、理知的な色香に満ちていた。
ホワイトボードには、複雑な組織図と三十年スパンのキャッシュフロー試算表が、寸分の狂いもなく描き出されていく。
「相手方の帝都都市開発ですが、現在進めている目黒一丁目再開発計画は、金融機関からの大規模シンジケートローン(協調融資)に依存しています。彼らの最大の弱点は『スケジュールの遅延』と『コンプライアンス上の傷』です」
陸は赤ペンに持ち替え、ホワイトボードの中央に力強く丸を描いた。
「僕の所属するファームの法務チーム、および親会社の顧問弁護士ネットワークを通じて、帝都都市開発のこれまでの地上げ手法における違法すれすれの行為――境界確定の強要や不当な立ち退き要求の判例をすべてデータベース化しました。もし彼らがアパートに対して一ミリでも嫌がらせや強硬手段に出た瞬間、主幹事銀行であるメガバンクの融資審査部、ならびに国土交通省の不動産業課へ、コンプライアンス違反の申告書を一斉に提出します」
「国土交通省……!?」
「ええ。融資枠が凍結されれば、あちらは数百億円のプロジェクト全体が吹き飛びますからね。彼らにとって、メゾン・サクラに強引な手を出すことは、自爆ボタンを押すのと同義です。法的な包囲網は、僕がすべて完璧にブロックします」
淀みない論理。
大企業の急所を的確に把握し、相手の息の根を止めるカードを平然と手札に揃えているエリートの手腕。
さらに陸は、マーカーを走らせて長期修繕計画の数字を書き加えた。
「そして、アパートの老朽化リスクについてですが、矢吹先生の長期修繕計画をベースに、僕の方でキャッシュフローの最適化を行いました。節税スキームの組み直しと、敷地内の未利用容積率を活用した資産価値の向上により、向こう三十年間の大規模修繕引当金は、外部借入を起こすことなく完全に手元の留保資金だけで賄える事業計画書を完成させました。明日、矢吹先生の事務所にこの修正案を突きつけて、合意を取り付けてきます」
「す、すごすぎる……! 宮原くん、たった数時間でそこまで……!?」
「言ったでしょう、栞さん。僕の持っている知識も人脈も、すべてあなたのためにあるんです」
陸はフッと切れ長の瞳を細め、悪戯っぽくウインクを投げてきた。
「お待たせしました。夜食の差し入れですよ」
そこへ、柴崎が両手に大皿を抱えて戻ってきた。
テーブルの上に置かれたのは、湯気をもうもうと立ち上らせる、特製の夜食だった。
「わあ……! これって……!」
「自家製の厚切りブリオッシュを使った、アールグレイ風味のベイクド・フレンチトーストです。仕上げに焦がしキャラメルソースと無塩バターを乗せました。それから、カリフラワーとポロネギの温かいポタージュです」
甘く香ばしい紅茶とバターの香りが、深夜のダイニングを満たす。
スプーンですくったフレンチトーストを口に運ぶと、プリンのようにトロトロに溶け、濃厚なコクと優しい甘みが、酷使した脳の隅々まで染み渡っていく。
「美味しい……! 身体の芯まで解けていくみたい……」
「ふふ、良かったです。……さて、僕からは、アパートの恒常的な収益モデルの提案です」
柴崎はエプロンを外し、手元のスケッチブックを広げてテーブルの中央に置いた。
そこに描かれていたのは、息を呑むほどお洒落な中庭の完成予想図だった。
「先日、みんなで張り替えたあの中庭のウッドデッキ……あれを活用しない手はありません。毎週土曜日と日曜日の日中限定で、アパートの中庭を『ガーデンカフェ』として一般開放します」
「ガーデンカフェ!?」
「ええ。うちのビストロの仕込みルートを使えば、極上のガレットやキッシュ、季節のタルトやスペシャルティコーヒーを、原価を抑えつつ最高のクオリティで提供できます。目黒の住宅街にある隠れ家レトロカフェとしてブランディングすれば、SNSを中心に集客は間違いなく跳ね上がりますよ」
柴崎は穏やかに目を細め、細い指先で売上予測のシミュレーションを指し示した。
「カフェの週末営業による純利益は、すべてメゾン・サクラの専用修繕口座へとプールします。試算では、月額で約三十万から四十万円の純利益。年間で四百万円近い新たな収益が生まれます。これがあれば、アパートの維持管理費どころか、栞さんの日々の生活費まで十分に賄えますよ」
「よ、四百万……!? アパートの中庭でお茶を出すだけで……!?」
「僕が厨房に立ちますから、味とオペレーションは保証します。……それに、アパートが地域の人々に愛される開かれた場所になれば、ディベロッパーも容易に取り壊しなんて言い出せなくなりますからね」
柴崎は私のカップに温かいポタージュを注ぎ足しながら、耳元にふわりと甘い吐息を落としてきた。
「栞さんは、特等席で僕の焼いたケーキを食べていてくれればいいんですよ」
「ひゃぅ……っ」
胃袋と収益源を同時に掌握してくるスパダリの提案に、私の心臓がトクンと跳ね上がる。
すると、テーブルの向かいから、ドンッと重たい足音が響いた。
「……次は、俺だ」
野村創だった。
黒のスウェットの袖をまくり、逞しい前腕をテーブルの上にドスンと置くと、巨大な建築用トレース紙を勢いよく広げてみせた。
そこには、メゾン・サクラの建物の断面図と、複雑なトラス構造の骨組みが、青いインクで緻密に書き込まれていた。
「創くん、これって……!」
「……美大の建築学科の連中と、俺の立体造形の担当教授に、さっき電話で図面送って相談した」
創はぶっきらぼうに言い捨てると、図面の一角を太い指先でトントンと叩いた。
「このアパートが古いのは事実だ。基礎の耐震基準は昭和の旧耐震のままだからな。ディベロッパーに『耐震強度不足で危険建築物だ』って突っ込まれたら法的に不利になる。……だから、俺が補強する」
「創くんが……補強!?」
「ああ。既存の柱や梁を壊す必要はねえ。建物の外周と中庭に面した壁面に、鉄骨の制振ダンパーを組み込んだ『外付け耐震フレーム』を増設する。……フレームの鋼材の溶接と加工は、俺の美大の大型アトリエの工作機械を全部使って、俺自身が作る。仲間の美大生にもバイト代出して手伝わせる」
創の三白眼が、熱い光を宿して私を射抜いた。
「プロのゼネコンに頼めば千五百万はかかる耐震補強工事だ。だが、俺が設計して、材料を直で仕入れて、施工を自分たちでやれば……資材費だけの四百万以下に抑えられる。コストは三分の一以下だ」
「よ、四百万以下……!?」
「……俺を誰だと思ってんだよ。金属工芸専攻だぞ。鉄を溶かして組むのなんざ、日常茶飯事だ」
創はそっぽを向くと、耳の先をほんのり赤く染めながら、小さく呟いた。
「俺が……この手で、頑丈な鉄の骨組みを作ってやる。震度七の地震が来ようが、大型台風が直撃しようが、ビクともしねえ城にしてやるよ。……あんたの頭の上に、瓦一枚落とさせねえ」
――あんたの頭の上に、瓦一枚落とさせねえ。
その不器用で、圧倒的なフィジカルと技術に裏打ちされた庇護の言葉に、私の胸の奥がキュッと熱く締め付けられた。
コンクールの直前だというのに、この男の子は自分の睡眠時間を削ってまで、私の住むアパートの骨組みを自分の手で作り直そうとしてくれているのだ。
そして――。
パチンッ。
静寂を破り、乾いたタイピングのエンターキーが叩かれた。
テーブルの端、煙草の煙の向こうでノートパソコンの画面を見つめていた深見怜が、丸眼鏡を指先でクイと押し上げ、不敵な笑みを浮かべた。
「おい、小僧ども。地味な足元固めばかりやってんじゃねえよ。……一番派手なトドメの一撃は、この俺の領分だ」
「深見さん……?」
深見はノートパソコンの画面をクルリと回転させ、私たちの方へと向けた。
画面に映し出されていたのは、大手出版社の文芸編集部から届いたばかりの、極秘の企画書と契約書のPDFファイルだった。
『深見怜 最新長編ミステリ連載企画書:仮題「桜の檻の殺人」』
『※来春クール、キー局ゴールデン帯にて連続ドラマ化内定(主演:国民的トップ俳優)』
「……は!?」
私の喉から、裏返った悲鳴が漏れた。
「れ、連続ドラマ化内定……!?」
「ああ。小野寺の野郎にさっき電話して、プロットの舞台設定を正式に変更させた」
深見は紫煙を細く吐き出しながら、意地の悪い笑みを口元に深めた。
「物語の舞台となる洋館……築四十五年の昭和モダン建築、目黒の閑静な住宅街に佇む、手入れされた中庭を持つレトロアパート。……完全に、このメゾン・サクラをモデルにして書き下ろす。ドラマのロケ地としても、この中庭とエントランスをそのまま使う契約を取り付けた」
「ちょ、ちょっと待ってください深見先生!」
陸が目を丸くして身を乗り出した。
「キー局のゴールデンでドラマのメインロケ地になったら、放送開始と同時に全国からファンが殺到しますよ!?」
「その通りだ、コンサル坊や」
深見は鼻を鳴らし、画面を指差した。
「世論を味方につけるんだよ。ドラマが始まれば、ここは全国のファンにとっての『聖地』になる。柴崎のカフェも大繁盛間違いなしだ。……それだけじゃねえぞ。俺の文壇の人脈と、文化庁の審議委員をやってる大御所作家の推薦を使って、目黒区の教育委員会に『国登録有形文化財(建造物)』の申請書類をねじ込む手はずを整えた」
「とう、登録有形文化財……!?」
「そうだ」
深見は椅子を回し、私の目の前へと長い足を組み替えて身を乗り出してきた。
大人の男の、冷徹で、そして底知れぬ凄みを湛えた眼光。
「国民的人気ドラマのロケ地で、文化財指定の申請が出されている歴史的建造物を、大手ディベロッパーが金に飽かせて強引に取り壊してみろ。……ネットニュース、週刊誌、ワイドショー、SNSで大炎上だ。『金儲けのために文化遺産を破壊する悪徳地上げ企業』として、帝都都市開発の株価は暴落、ブランドイメージは地に堕ちる。……そんなリスクを冒してまで、奴らがここを取り壊せると思うか?」
「「「「…………」」」」
絶句。
息ができなかった。
完璧すぎる。
恐ろしいほどに、完璧なパズルだった。
法務とファイナンスの鉄壁のブロック(宮原陸)。
中庭を活用した継続的な高収益カフェモデル(柴崎晴人)。
美大の技術と人脈を駆使した超低コストの耐震補強(野村創)。
そして、メディアと世論、文化財指定を盾にした無敵の社会的バリア(深見怜)。
外資系コンサルタント、一流フレンチシェフ、新進気鋭の造形美大生、累計三百万部のベストセラー作家。
彼らが入居した当初、私は「なんてバラバラで訳ありな男たちなんだろう」と思っていた。
けれど今――それぞれの分野の頂点を走るハイスペック男子たちの才能、人脈、資金力、そして狂気的なまでの情熱が、一つの目的に向かって完全に噛み合っていた。
ただ一つ。
この築四十五年の古いアパートと――。
目の前にいる、佐伯栞という女の居場所を、絶対に守り抜くという、その一点のためだけに。
「……な、なにこれ……」
私は口をあんぐりと開けたまま、ホワイトボードと図面とパソコンの画面を交互に見つめた。
「私……ただの、ボロアパートの大家なんだけど……!? なんでこんな、国家プロジェクトみたいな規模になってるの……!?」
私の情けないツッコミに、男たちの表情がふっと緩んだ。
深夜二時のダイニング。
張り詰めていた緊張感が解け、柔らかな笑い声が静かに広がる。
「言ったでしょう、栞さん」
陸がテーブル越しに私の手元を見つめ、甘く深いトーンで声を落とした。
「あなたが命懸けで守ってくれた居場所です。僕たちが全力で報いるのは、当然ですよ」
「そうですよ。僕たちの城なんですから、誰にも指一本触れさせません」(柴崎)
「……あんたが笑って暮らせるなら、鉄骨だろうが何だろうがいくらでも組んでやる」(創)
「観念しろ、大家。あんたが逃げ場をなくしたのは、俺たち全員の才能を本気にさせたあんた自身の責任だからな」(深見)
四者四様の、熱く、甘く、逃げ場のない眼差し。
深夜のオレンジ色の光の下で、男たちの瞳には、アパートを守り抜くという絶対的な自信と――そして、この戦いの先にある「次の段階」を見据えた、ギラギラとした熱狂が宿っていた。
外敵を叩き潰すための、完璧な逆襲プラン。
守られるだけのヒロインから、共に戦う仲間へ。
メゾン・サクラの絆は、今、いかなる巨大企業の手をも跳ね除ける、鉄壁の要塞へと生まれ変わろうとしていたのだった。




