第42話:壊したくない日常
十二月最初の日曜日。
午後六時を回ると、目黒の空はすっかり濃紺の夜の帳に包まれ、中庭の木々を揺らす風は本格的な冬の冷たさを運んでいた。
けれど、メゾン・サクラの一階中央にある十二畳の共用ダイニングは、まるで外の寒波など嘘のように、熱気と湯気、そして暴力的なまでに芳醇なご馳走の香りで満たされていた。
――ジュウゥゥゥ……。
アイランドキッチンから響く、澄んだ肉の焼ける音。
ペンダントライトの温かなオレンジ色の光が、無垢材の大きなダイニングテーブルを照らし出している。
その食卓の中央に、大皿に乗った主菜が恭しく鎮座した瞬間、周囲を取り囲んでいた男たちの喉が同時に大きく鳴った。
「お待たせしました。今夜のメイン、特製ローストビーフです」
二〇二号室の住人であり、徒歩三分の隠れ家ビストロ『シェ・シバ』のオーナーシェフ・柴崎晴人が、清潔な麻のエプロンを翻して微笑んだ。
大皿の上に広げられていたのは、息を呑むほど美しい薔薇色の肉の芸術だった。
低温調理でじっくりと時間をかけて火を入れられ、表面だけを焦がしバターとタイムで香ばしく焼き固められた和牛モモ肉の塊。しっとりと肉汁を湛えた断面は、鮮やかなルビー色に輝き、薄くスライスされた一枚一枚から艶やかな肉のエキスが滲み出している。
肉の上には、フォンドヴォーを赤ワインとポルト酒で極限まで煮詰めた艶やかなグレイビーソースが贅沢に回しかけられ、傍らにはマッシュポテトとクレソン、そしてすりおろしたての西洋ワサビが美しく添えられていた。
さらに、テーブルの端のブレッドバスケットからは、柴崎が夕食会のために店で焼いてきたばかりの自家製カンパーニュとミルクパンが、香ばしい小麦の湯気をふわりと立ち上らせている。
「わあ……っ! すごい……! 今夜は一段と豪華ですね、晴人さん!」
私が思わず両手を合わせて感嘆の声を上げると、柴崎さんはふわりと目尻を下げ、私の隣の席へ滑らかに赤ワインのグラスを置いた。
「ええ。今日は一段と冷え込みましたからね。栞さんにたっぷり上質なタンパク質を摂ってもらって、身体の芯から温まってもらおうと思ったんです。……ほら、一番柔らかい芯の部分を取り分けましたよ」
「あ、ありがとうございます……!」
皿に乗せられた大ぶりのローストビーフをフォークで巻き取り、口の中へ運ぶ。
噛み締めた瞬間――ジュワッ、と。
驚くほど柔らかな繊維が解け、凝縮された赤身肉の濃厚な旨味と、赤ワインソースの甘酸っぱく深いコクが口いっぱいに広がった。
重厚なのに後味は驚くほど軽やかで、思わず目を丸くしてしまう。
「……んんっ! おいしい……! お肉がとろけるみたい……!」
「ふふ、よく噛んで味わってくださいね。栞さんが美味しそうに食べてくれる顔が、僕にとって一番の報酬ですから」
柴崎さんは満足そうに目を細め、私のグラスにワインを少し注ぎ足してくれた。
その至近距離の甘やかな気配に、向かいの席からチッと鋭い舌打ちが飛んでくる。
「柴崎さん、大家さんにばかり構ってないで、こっちにも肉を回してくださいよ。僕、今日のプレゼンを成功させて腹ペコなんです」
一〇一号室の宮原陸が、ストライプシャツの腕をまくりながらワイングラスを掲げた。
日曜日だというのに、午前中はクライアントへの緊急提案資料を仕上げていたという若き外資コンサルタント。けれど、その顔には疲労の色など微塵もなく、むしろ達成感に満ちた眩しい笑顔を私に向けてくる。
「栞さん、聞いてください。先週僕が徹夜で組んだ新規事業のフレームワーク、クライアントの専務会で満場一致で可決されましたよ。来期から十億円規模のプロジェクトとして始動することが決まりました」
「えっ、十億円!? すごいじゃない宮原くん! おめでとう!」
「ありがとうございます。……まあ、僕にとって十億のプロジェクトなんて、朝のゴミ出しであなたと手を繋ぐ時間の価値に比べたら、大したことありませんけどね」
「ぶふっ……!?」
吹き出しそうになった私の横で、テーブルの端から煙草の箱を放り投げる乾いた音が響いた。
「けっ……相変わらず口から出任せばかり達者なエリート坊やだな。十億だかなんだか知らねえが、数字の自慢なら他所でやれ。飯が不味くなる」
一〇二号室の深見怜が、黒いスタンドカラーシャツの胸元を寛げ、気怠げにあくびを噛み殺しながら悪態をついた。
ボサボサの黒髪に、丸眼鏡。
無精髭を撫でながら、深見はテーブルの上のバスケットから、焼き立てのミルクパンを長くて骨張った指でひょいと奪い取った。
「……あ」
その瞬間、深見の隣に座っていた二〇一号室の野村創が、ガタッと椅子を鳴らして身を乗り出した。
「……おい、深見。それ、俺が狙ってたやつだぞ」
黒のスウェット姿の創が、鋭い三白眼で深見の手元を睨みつける。
美大の大型作業棟から帰ってきたばかりの創は、短く刈り上げた髪をタオルで無造作に拭いながら、山盛りのローストビーフをすでに半分平らげた皿を抱え込んでいた。
「ああん? 早い者勝ちだろ、小僧。年長者を敬えよ」
「……パンの耳が一番カリカリに焼けてる部分だったんだよ。返せ」
「嫌だね。作家の糖分補給に必要なんだよ」
「……力づくで奪い返すぞ」
「やってみろよ、原稿料で買い取ってやるから」
創が大きな身体を乗り出して手を伸ばし、深見がそれをヒョイと躱しながらパンにかぶりつく。
二十一歳の筋骨隆々とした美大生と、三十四歳のベストセラー作家による、小学生レベルのパンの奪い合い。
「もう二人とも! みっともないからやめなさい! パンならキッチンにまだおかわりがたくさんあるから!」
私が慌てて割って入ると、創は「……チッ」と舌打ちしてそっぽを向いたが、その耳の先はほんのり赤くなっていた。
そして、自分の皿に残っていた一番大きなローストビーフを、フォークで私の取り皿の上へと無言でヒョイと放り込んできたのだ。
「え……創くん、これ……」
「……やる。あんた、痩せすぎだ。もっと食え」
「ふふ、創くんありがとう。でも創くんこそ、コンクールの搬入で体力使ったでしょ?」
「……俺は白米おかわりするからいい」
ぶっきらぼうに呟きながら、創は炊飯器へ向かって大股で歩いていく。
背中を向けたその首筋は、私の笑顔を見たせいで真っ赤に染まっていた。
「まったく……相変わらず賑やかですね、うちは」
柴崎がローストビーフを切り分けながら、穏やかに目を細める。
「栞さん、パンのおかわりを持ってきましょうか? 今度はバターをたっぷり塗ってあげますね」
「あ、はい、ありがとうございます!」
笑い声が満ちる、メゾン・サクラのダイニング。
外では冷たい冬の風が吹き荒れているというのに、この部屋の中だけは、暖炉の火に包まれているかのように温かく、居心地が良くて、どこまでも幸せな空気に満たされていた。
――けれど。
(…………っ)
私の胸の奥に、チクリと冷たい痛みが走った。
フォークを持つ指先が、微かに強張る。
ポケットの中のスマートフォンと、管理人室の机の引き出しにしまってきた、あの重たい封筒の存在が、網膜の裏側に重くのしかかっていた。
月曜日の朝に届いた、帝都都市開発からの買収提案書。
三億八千万円という、人生を何回やり直しても使い切れないほどの巨額の富。
矢吹先生の冷徹な正論。
『彼らは、いつかはあのアパートを出ていく「他人」なんですよ』。
そして、金曜日の夜、有楽町の高架下の焼き鳥屋で、親友の朋世が言ってくれた言葉。
『すっかり惚れ込んでるわよ。あのアパートと……あの四人の男たちに』。
視線を上げれば、目の前には、それぞれのやり方で私に愛情と執着を注ぎ続けてくれている四人の男たちがいる。
外資コンサルとして完璧なエリートの顔を崩し、無防備に甘えてくる陸。
人間不信の暗闇から這い上がり、私の淹れるお茶と生活音を求めてくれる深見。
不器用で口下手で、血だらけの手で小さな桜を彫って守ろうとしてくれた創。
失う恐怖を笑顔の奥に隠しながら、極上の料理で私の胃袋と命を包み込んでくれる柴崎。
この人たちを、お金のために追い出す?
立ち退き料を渡して、「明日から解体工事が始まります」と告げる?
そんなこと――絶対に、絶対にできるはずがない。
私の心は、朋世と飲んだあの夜に、すでに決まっていたのだ。
合理性なんてどうでもいい。
将来の修繕費がいくらかかろうと、どんなリスクが降りかかろうと、私が守るべきものは――この温かい日常であり、この四人の男たちと過ごす時間なのだと。
問題は、それをどう伝えるかだった。
彼らはただの店子ではない。それぞれの分野でトップを走る、プライドの高い、そして私に対して狂おしいほどの想いを寄せてくれている男たちだ。
中途半端な嘘やごまかしは通用しない。
大家として、そして一人の女として――真正面から、私の覚悟を叩きつけなければならない。
「……ふう」
私は膝の上で握りしめた拳に、ギュッと力を込めた。
爪が手のひらに食い込む。
逃げない。もう、誰の影にも隠れない。
元社畜の私が、人生で初めて、自分の意志で選んだ「戦い」なのだから。
やがて、賑やかな夕食の時間が終わりを迎えた。
大皿のローストビーフは綺麗に平らげられ、空になったワインボトルが二本、テーブルの隅に並んでいる。
柴崎が手際よく食器を片付け、キッチンからトレイを運んできた。
「お待たせしました。今夜のデザートです。洋梨のコンポートと、自家製のキャラメルアイスクリーム。それから、深見先生が淹れてくれた珈琲です」
「お、サンキュー柴崎。……おい大家、ゲイシャの深煎りだ。冷める前に飲めよ」
「僕が珈琲にミルクを入れてあげましょうか、栞さん」
「……アイス、溶けるぞ。早く食え」
四者四様の気遣いとともに、ガラスのデザート皿と、湯気を立てる珈琲カップが私の前に並べられた。
琥珀色の珈琲から、芳醇な大人の苦味が立ち上る。
男たちがそれぞれの椅子に深く腰掛け、満足そうに息を吐き出す。
この上なく穏やかで、満ち足りた、日曜日の夜の締めくくり。
――今だ。
私はデザートスプーンを手に取らず、テーブルの端に置いていた自分のトートバッグへと手を伸ばした。
ファスナーを開け、奥から引き抜いたのは――。
バサリ。
重厚な音を立てて、白木の一枚板のテーブルの中央へと置かれた、あの純白の大型封筒。
帝都都市開発の、濃紺の箔押しロゴが刻印された『最終合意提案書』だった。
「…………?」
男たちの視線が、一斉にテーブルの中央の書類へと集まった。
最初に眉をひそめたのは、外資コンサルとして日常的に企業買収や再開発の書類を目にしている宮原陸だった。
陸の切れ長の瞳が、表紙のタイトルを捉えた瞬間、スッと鋭く細められた。
「……帝都都市開発? 再開発事業に伴う……売却提案書……?」
「え……?」
柴崎が珈琲ポットを置く手を止めた。
創がスプーンを握ったまま硬直する。
深見が煙草に火をつけようとしたジッポライターの蓋を、カチンと閉じた。
「……栞さん」
陸の声音から、先ほどまでの甘えたトーンが完全に消え去っていた。
冷徹で、怜悧なビジネスマンの眼光。
陸は手を伸ばし、提案書をパラパラとめくった。
そして――『金 三億八千万円整』の文字を目にした瞬間、息を呑んだ。
「三億……八千万……!? 立ち退き加算金、一世帯あたり五百万……!?」
「な……んだと……!?」
深見が身を乗り出した。
創が目を見開き、柴崎の瞳の奥に、一瞬にして凍りつくような冷たい光が宿った。
ざわり、と。
ダイニングの空気が、真冬の氷点下へと叩き落とされたように凍りついた。
男たちの表情に走る、激しい動揺。
彼らは聡明だ。
この書類が意味するものを、一秒で理解したのだ。
築四十五年の、老朽化した木造アパート。
相場を遥かに上回る、三億八千万円という途方もない買収額。
過労で倒れ、平穏な不労所得だけを求めてこのアパートを相続した、元社畜の新米大家。
経済的合理性から見れば――この提案を断る理由など、この世のどこにも存在しないということを。
「大家さん……」
柴崎の声が、微かに掠れていた。
いつもの完璧な笑顔はどこにもない。
第二十二話で真壁が語っていた、親友に裏切られ、すべてを奪われた過去を持つ男の――二度と居場所を失いたくないという、痛々しいまでの恐怖がその瞳に浮かんでいた。
「これ……僕たちを、追い出す……ということですか?」
「…………っ」
創がテーブルを両手で力任せに掴んだ。
太い前腕の血管がボコボコと浮き上がり、唇が悔しそうに震えている。
深見は無言で煙草の箱を握り潰しそうになり、陸は青ざめた顔で私を凝視していた。
男たちの顔に、絶望の色が走りかけた――その、まさに瞬間だった。
――スッ。
私は静かに、椅子の背もたれから身体を離した。
そして、テーブルの上に両手をドンと突き、全員を見下ろすようにして、スッと立ち上がったのだ。
「栞……さん……?」
見上げる四人の視線が、私の一点へと突き刺さる。
私は深く、深く息を吸い込んだ。
肺の底まで、冷たい決意の空気を取り込む。
震えそうになる膝を力でねじ伏せ、背筋をピンと伸ばす。
「皆さん」
私の声は、静かだった。
けれど、ダイニングの隅々まで、凛と響き渡る芯の強さを持っていた。
「先週の月曜日、この書類がポストに届きました。……内容の通りです。大手ディベロッパーが、このアパートの土地を買い取って、タワーマンションを建てる計画です。提示額は、三億八千万円。税金を引いても、手元に三億円近くの現金が残ります」
男たちの喉が鳴った。
誰も口を挟まない。ただ、祈るような、怯えるような瞳で私を見つめている。
「税理士の矢吹先生にも相談しました。先生は言いました。『これを受け入れれば、あなたは一生働かずに、都心の高級マンションで優雅に暮らせる。経済的には売却が最も合理的だ』って」
私は一呼吸置いた。
そして――四人の男たちの顔を、一人ずつ、まっすぐに、逃げずに見つめ返した。
陸の瞳。
深見の瞳。
創の瞳。
柴崎の瞳。
ポケットの中の、木彫りの桜の花びらを、指先でギュッと握りしめる。
私の魂の奥底から、熱い炎が込み上げてくるのを感じた。
「でもね……私は、売りません」
――え?
息を呑む音。
「断固として、断ります。一円たりとも受け取りません。売却の契約書には、絶対にサインしません」
キッパリと言い放った私の言葉に、男たちの目が大きく見開かれた。
私はテーブルの上の提案書を、片手でバサリと手前に引き寄せると、両手で胸元に抱きしめるようにして、さらに声を張り上げた。
「私は元社畜です! お金の大切さも、将来の不安も、誰よりも痛いほど分かっています! このお金があれば、一生遊んで暮らせることも知っています! ……でもね、お金なんかより……私には、絶対に手放したくないものがあるんです!」
私の目から、ポロポロと熱い涙が零れ落ちた。
けれど、それは先週のような恐怖の涙ではなかった。
自分の人生を、自分の大切な居場所を、自らの意志で守り抜くと決めた女の、誇り高き涙だった。
「ここは……祖母が命懸けで守り、私に遺してくれた大切な場所です。……そして何より!」
私は涙を手の甲で乱暴に拭うと、満面の、凛とした笑顔を四人へと向けた。
「皆さんが、外の世界で戦って、傷ついて、ボロボロになって……『ただいま』って帰ってくる、大切な家だからです!!」
――皆さんが帰ってくる、大切な家だから。
「誰がなんと言おうと、私にとっては、皆さんはただの店子じゃありません! 私の、かけがえのない家族で……私の、世界で一番大切な居場所なんです! それを、たかが三億円のお金のために売り払うなんて……そんなこと、死んでもできるわけがありません!!」
私の叫びが、静まり返るダイニングに木霊した。
胸を張って、仁王立ちで言い放つ新米大家。
経済的合理性をドブに捨て、現実主義者の仮面をかなぐり捨てて、ただひたすらに「感情」と「愛」を選び取った、元社畜の宣戦布告。
「だから……絶対に売りません! このメゾン・サクラは、私が守ります! 勝手に手放したりしませんから……皆さんも、覚悟してくださいね!!」
言い終えた瞬間、私は肩で息をしながら、少し照れくさくなって唇を尖らせた。
沈黙。
ダイニングの中は、水を打ったように静まり返っていた。
時計の秒針の「カチ、カチ」という音だけが響く。
「……あ、あれ? 皆さん……?」
あまりの静けさに、急激に不安が込み上げてきた。
もしかして、私、恥ずかしいことを叫びすぎただろうか。
「三億円をドブに捨てるなんてバカじゃないの」と呆れられているのだろうか。
私が真っ赤になってオロオロと視線を彷徨わせた――その時だった。
「…………っ」
ガタッ。
最初に動いたのは、宮原陸だった。
陸は両手で顔を覆い、深く、深く、震えるような息を吐き出した。
その指の隙間から覗く口元が、狂おしいほどの歓喜に歪んでいる。
「……参ったな」
陸の掠れた声が落ちた。
「本当に……敵わないな、あなたには」
「え……?」
「……くくっ」
続いて、深見怜が、肩を小刻みに震わせて笑い出した。
丸眼鏡を外し、机の上に置くと、手で乱暴に前髪をかき上げる。
その切れ長の瞳には、大人の余裕など跡形もなく、息を呑むほどに熱く、濁った、狂気的なまでの惚れ直しの光が宿っていた。
「……あっはははは! おいおい、とんでもねえ大家だな! 三億八千万を袖にして、俺たちのために啖呵を切りやがったぞ」
深見の喉仏が、ゴクリと大きく上下した。
「……最高だ。あんた、最高の女だよ、栞」
「……っ」
創が、無言で立ち上がった。
その顔は、短く刈り上げた襟足から耳の先まで、火傷しそうなほど真っ赤に染まり上がっていた。
見開かれた三白眼は潤み、拳を白くなるほど強く握りしめている。
胸板が激しく上下し、息が荒い。
言葉にならない感動と熱狂に打ち震えながら、創はただじっと、射抜くような眼差しで私を見つめ続けていた。
そして――。
スーッ……。
柴崎晴人が、音もなく私の目の前へと歩み寄ってきた。
その口元には、花が咲くような、極上の、完璧な笑みが湛えられていた。
けれど――その瞳の奥にあったのは、いつもの穏やかな笑顔ではなかった。
深淵の底から燃え盛るような、激しく、深く、もう二度とこの女を誰の手にも渡さないと魂に刻み込んだ、絶対的な忠誠と独占欲の炎。
「栞さん」
柴崎さんの温かい手が、私の震える右手を、そっと両手で包み込んだ。
祈るように、宝物を抱きしめるように。
「……ありがとう。本当に……ありがとう」
柴崎さんの声は、微かに震えていた。
至近距離で交錯する視線。
柴崎さんは私の手の甲に、自分の額をそっと押し当て、熱い吐息を落とした。
「あなたが、そこまで覚悟を決めて僕たちの居場所を守ってくれたんだ。……今度は、僕たちの番ですね」
「え……?」
顔を上げた柴崎の瞳の奥で、ギラリと黒い光が牙を剥いた。
同時に、背後から陸が立ち上がり、創が首の関節を鳴らし、深見が不敵な笑みを浮かべて立ち上がる。
四人のハイスペック男子たちの空気が、一瞬にして切り替わった。
守られるだけの店子から。
愛する女の城を、命を懸けて死守するための――最強の戦闘集団へと。
「大手ディベロッパーの地上げ屋風情が、誰の城に手を出そうとしているのか……たっぷりと、思い知らせてやりましょうか」(陸)
「俺の美大のコネと技術、全部注ぎ込んでやる」(創)
「俺のペンで、奴らの悪行を白日の下に晒してやるよ」(深見)
「僕たちの日常を壊そうとする者には……相応の報いを受けてもらわなければ困りますね」(柴崎)
息を呑む私を取り囲む、熱狂に満ちた四つの笑顔。
アパートを巡る戦いは、今――男たちの本気の逆襲へと、幕を開けようとしていたのだった。




