第41話:揺れる現実主義者の心
銀座の超高層オフィスビルを出た瞬間、乾いた冬の突風が容赦なく私のコートの裾を煽った。
交差点を急ぎ足で行き交う人々、高級ブランドのショーウィンドウに反射する無機質な夕暮れの光、アスファルトを滑るタクシーの群れ。
すべてが普段と変わらない大都会の日常風景のはずなのに、私の両足はまるで底なし沼に沈んでいるかのように重たく、頭の中は濁流のような思考に支配されてショート寸前だった。
コートのポケットに突っ込んだ右手が、握りしめた革の手提げバッグの中で、あの分厚い書類の束に触れる。
――『金 三億八千万円整』。
そして、先ほど事務所の応接室で、矢吹先生が平然とペンを走らせて書き殴った試算の数字。
――『手取り純キャッシュ 約二億九千万円』。
――『彼らは、いつかはあのアパートを出ていく「他人」なんです』。
――『私のそばにいればいい』。
「……無理。一人じゃ抱えきれない……頭が爆発しちゃう……!」
私は震える指先でスマートフォンを取り出し、画面をタップした。
呼び出し音は、わずか三コールで途切れた。
『もしもし、栞? どうしたのよ、こんな時間に。私、ちょうど有楽町のクライアント先から直帰するところなんだけど』
受話器の向こうから聞こえてきた、ハキハキとした張りのある声。
前職のブラックIT企業で、地獄のようなデスマーチを共に生き抜いた唯一の同期であり、現在の私の最大の相談相手――松永朋世だった。
「朋世……今、有楽町にいるの……!? 私、今、銀座四丁目……お願い、今すぐ付き合って! 奢るから、何でも奢るから、今すぐお酒を飲ませて……!」
『はあ!? ちょっと、あんた声が完全にパニクってるじゃない! 分かったわよ、ガード下のいつもの焼き鳥屋、五分で着くから席取ってなさい!』
有楽町の高架下。
数分おきに頭上を山手線と京浜東北線がゴトゴトと轟音を立てて通過し、赤提灯の煤けた灯りが赤茶色のレンガ壁を照らす、大衆焼き鳥居酒屋『鳥八』。
銀座の洗練された静謐さとは真逆の、油煙とニンニクと焦がし醤油の匂いが充満する雑多な空間の片隅で、私たちは向かい合ってビールジョッキをぶつけ合った。
「はい、お疲れ! ……で、何があったのよ」
ジョッキを置くなり、朋世は仕立てのいいカシミア混のパンツスーツの袖をまくり、鋭い目を光らせて私を睨んできた。
短めのボブヘアをかき上げ、バリキャリ特有の怜悧な観察眼で私の顔色を上から下までスキャンしてくる。
「顔色が土気色よ、栞。またあの工藤のクソ元上司が嫌がらせに来たわけ? もしそうなら、今度こそ私の会社の人事ネットワーク総動員して、あいつの息の根を社会的に止めてやるけど」
「違うの、工藤部長の話じゃないの……いや、先週は本当に大変だったんだけど、それは住人のみんなが完璧に撃退してくれて……」
「あいつら、本当に強いわよね。で、工藤じゃないなら何なのよ。アパートの水道管が全滅でもした?」
「……これ」
私は周囲の客が酔っ払って大声で笑い合っているのを確認し、バッグからあの純白の大型封筒を取り出した。
そして、帝都都市開発の箔押しロゴが入った提案書を、テーブルの端の油汚れを紙ナプキンで拭ってから、朋世の前へと滑らせた。
「……何これ。帝都都市開発? 不動産最大手の……え、再開発……?」
朋世は怪訝そうに眉をひそめながら、表紙をめくった。
パース図を一瞥し、法的な文面をサッと斜め読みしていく。
そして――三ページ目。
『買収条件提示書』の金額欄に目が留まった、まさにその瞬間だった。
「…………」
朋世の手が、ピタリと止まった。
ジョッキに伸ばしかけていた左手が宙で固まり、見開かれた両目が、まるで漫画のように真ん丸に固定される。
「……し、栞」
「……うん」
「これ、印字ミスじゃないわよね? コンマの位置、見間違えじゃないわよね?」
「矢吹先生に事務所で見てもらった。本物だって。周辺の土地はもう八割買収済みで、うちが最後のピースなんだって……」
「…………」
朋世は深呼吸を一つした。
そして、手元のビールジョッキを両手で掴むと、残っていた黄金色の液体を一気に喉の奥へと流し込んだ。
ゴク、ゴク、ゴク……プハァッ!
ドンッ!
ジョッキをテーブルに力任せに叩きつける。
次の瞬間、朋世の口から放たれたのは、居酒屋の喧騒を突き破るような怒涛の咆哮だった。
「――売りなさいよぉぉぉぉぉぉッッッ!!!!!!」
「ひゃっ……!?」
あまりの音量に、隣の席のサラリーマン二人組がビクッと肩を跳ね上げてこちらを振り返った。
朋世は立ち上がりそうな勢いで身を乗り出し、私の両肩をガシッと掴んで激しく前後に揺さぶった。
「あんた正気!? 三億八千万よ!? 手取りで三億弱よ!? 億超えどころの騒ぎじゃないじゃない! 売りなさいよ即決で! 明日の朝一番で印鑑証明持ってディベロッパーの本社に飛び込みなさいよ!!」
「ちょ、ちょっと朋世、揺らさないで、酔いが回る……っ!」
「酔ってる場合じゃないでしょ! あんた、自分がどれだけのプラチナチケットを握らされてるか分かってんの!? 一生遊んで暮らせるのよ!? 年利三パーで運用するだけで年収九百万の不労所得! 働かなくていいの! 満員電車に乗らなくていいの! 理不尽な上司に頭下げなくていいの! 誰の顔色も窺わずに、都心のオートロック付き高級タワマンで優雅にエステ通いしながら暮らせるのよ!?」
朋世の言葉は、機関銃のように正確無比に私の急所を抉ってきた。
先ほど矢吹先生が言っていたことと、寸分違わぬ現実のメリット。
「ブラック企業で擦り切れたあんたの青春の慰謝料だと思いなさい! あんたが二十代のすべてをドブに捨てて、過労で倒れて、吐血寸前まで働かされたあの地獄のカルマが、今、天文学的な札束になって返ってきたのよ! これを受け取らないで何を人生の救済と呼ぶのよ!!」
「うぐっ……ご、もっともです……正論すぎて耳が痛い……」
私はテーブルに突っ伏し、額を腕に押し当てて唸り声を上げた。
本当に、その通りなのだ。
朋世の言うことは、一言一句、すべて正しい。
世間の九十九・九パーセントの人間が、この書類を見せられれば一秒の躊躇もなく実印を押すだろう。
元・社畜で、平穏と安定だけを渇望してアパートを相続したはずの私が、この話に飛びつかない理由なんて、論理的にはどこにも存在しないはずだった。
「……そうだよね」
私は顔を上げ、冷たい生搾りレモンサワーのグラスに手を伸ばした。
表面についた細かな水滴を、人差し指でそっと拭い取る。
冷たい滴が、指先を湿らせていく。
「私、大家業なんてずぶの素人だし……。建物だって築四十五年のボロアパートで、先月だって配管が破裂したり、ウッドデッキが腐ってたり……。矢吹先生の言う通り、あと何年かしたら大規模修繕で何千万円も飛んでいっちゃうかもしれないし、将来の保証なんてどこにもないんだもんね……」
力なく呟く私に、朋世は運ばれてきた焼き鳥のタレ盛り合わせからネギ間を一本引き抜き、七味唐辛子を豪快に振りかけながら、フッと目を細めた。
「そうよ。素人が一人でボロアパート抱えて大家業なんて、リスクの塊なんだから。……で?」
「……え?」
朋世は串をくわえ、肉を一口噛みちぎると、モグモグと咀嚼しながら、グラスを傾ける私の顔をジッと見つめてきた。
その瞳の奥には、先ほどまでの興奮とツッコミの色は綺麗に消え去り、十年来の親友の心のひだを透視するような、静かで深い光が宿っていた。
「『そうだよね』って言いながら……なんであんた、そんな今にも泣き出しそうな顔してんのよ」
「っ……」
息が詰まった。
図星を突かれ、サワーの炭酸が喉の奥でチクリと痛む。
「あんた、前の会社にいた頃からそうよ。頭で『これが合理的だ』って計算して納得してるフリをしながら、心が絶対に納得してない時……必ずそうやって、グラスの水滴をいじりながら視線を泳がせるの」
朋世は串を皿に置き、腕組みをして小さくため息を吐いた。
「言ってみなさいよ。何が引っかかってんの。……あのイケメン四人組でしょ?」
――住人たちの顔。
朋世の口からその単語が出た瞬間、私の胸の奥でせき止められていた熱い感情の蓋が、音を立てて外れてしまった。
「……あのね、朋世」
私はグラスを置き、膝の上でぎゅっと両手を組んだ。
「あそこを売ったら……あいつらの居場所が、なくなっちゃうの」
「居場所?」
「うん……」
私は、ポツリポツリと、溢れ出す言葉を止められなくなっていた。
「一〇一号室の宮原くん……外資のコンサルで、社内でもエリートって持て囃されてるけど……実家が代々官僚の名門でさ。『常に一番であれ』って完璧を強いられ続けて、失敗したら存在価値がないって怯えて育った子なの。外の世界では完璧なビジネスマンの仮面を被って、息をするのも苦しいくらい戦ってて……あのアパートに帰ってきた時だけ、ネクタイを緩めて、ただの二十五歳の男の子として息ができるんだよ」
先週の金曜日の朝、コートの袖越しにぎゅっと恋人繋ぎをしてくれた、あの熱い手の感触が蘇る。
「一〇二号室の深見さんも……累計三百万部のベストセラー作家だけど、三年前、身に覚えのない盗作疑惑の冤罪をかけられて、信じてた人たちから一斉に手のひらを返されて……言葉を紡ぐこと自体が怖くなって、人間不信になって、カーテンを閉め切った暗闇の中で一人でお酒飲んで魘されてたの。あのアパートで、私が廊下を掃除する音や、くだらない愚痴を聞いてる時だけ……現実の世界に足を着けていられるの」
日曜の深夜、アンティークランプの下でキーボードを叩き続け、私の前髪を指先で払ってくれた、あの切ない横顔。
「二〇一号室の創くんだって……長野の頑固なお父さんに『鉄クズ作って何になる、美大を辞めて地元に戻れ』って否定されて、自分の才能に自信が持てなくて……。それでも、あのアパートの納屋で、指先を血だらけにしながら、夜遅くまで一人で木を削って戦ってて……」
火曜日の夕暮れ、耳まで真っ赤にしてしゃがみ込み、「あんたのこと守るためなら何でもする」と木彫りの桜をくれた、あの真っ直ぐな瞳。
「二〇二号室の柴崎さんも……昔、親友だと思ってた共同経営者に店の開業資金を持ち逃げされて、莫大な借金を背負って一度店を潰して……人間を信じるのが怖くて、完璧な笑顔の防弾チョッキを着込んで生きてきた人なの。あのアパートを、失っちゃいけない自分の『命の港』にして……毎日、みんなのために温かいご飯を作ってくれてるの」
木曜日の定休日の厨房で、背後から抱きしめられながら「僕の手の中だけで愛してあげます」と耳元で囁いてきた、あの逃げ場のない愛の重さ。
「みんなね……外の世界で戦って、傷ついて、ボロボロになって……あのボロアパートに帰ってきてるんだよ」
気づけば、私の声は震えていた。
目の前に置かれた冷たいサワーの氷が、カランと小さく音を立てる。
「あそこは、ただの築四十五年のモルタル長屋じゃないの。外の世界に居場所がなくなった不器用な人間たちが、お互いの傷を隠しながら、それでも肩を寄せ合って、温かいご飯を食べて、明日も生きていこうって思える……世界でたった一つの、大切な居場所なんだよ」
私は胸元に手を当て、ぎゅっと自分のニットの胸元を握りしめた。
ポケットの中の、小さな木彫りの桜が、体温を吸い込んで熱く脈打っている。
「私が……三億八千万のお金のためにあそこを売り払ったら、あいつらはまた、あの冷たい外の世界に放り出されちゃう。……そんなの、絶対に嫌だよ。私、あいつらの居場所を奪うようなことだけは……天地が引っくり返っても、絶対にできないよ……!」
居酒屋の喧騒の中、私の口からこぼれ落ちた、魂の底からの叫び。
言い終えたあと、私はハッと我に返り、真っ赤になってうつむいた。
言ってしまった。
三十二歳にもなって、元社畜のくせに、三億円という莫大な現実の富を前にして、こんな青臭い、感情論丸出しの戯言を口にしてしまった。
朋世に呆れられるに決まっている。
「あんた何甘ったれたこと言ってんのよ!」「他人の心配より自分の将来でしょ!」と怒鳴りつけられるに決まっている――。
そう身を縮こまらせ、叱責を待っていた私の耳に。
「……ふっ」
小さく、鼻を鳴らすような笑い声が降ってきた。
「え……?」
恐る恐る顔を上げると、向かいの席の朋世は、腕組みをしたまま、呆れ果てたような、けれどどこまでも温かく、愛おしそうな眼差しで私を見つめていた。
口元に浮かぶのは、現役バリキャリ女子の意地の悪い笑み。
「あんたねえ……」
朋世はジョッキの底に残った泡を揺らし、深く、深く息を吐き出した。
「何が『平穏な一人暮らしが最優先』よ。何が『家賃収入で誰にも邪魔されず隠居したい』よ。……ぜーんぶ、大嘘じゃないの」
「うぐっ……だ、だって……」
「見てみなさいよ、今のあんたの顔」
朋世は手鏡をバッグから取り出すと、私の目の前へとピタリと突きつけてきた。
「え……?」
鏡の中に映っていたのは――。
頬をほんのりと赤く染め、瞳を潤ませながらも、信じられないほど柔らかく、優しく、慈愛に満ちた表情で微笑んでいる、自分自身の顔だった。
会社員時代、毎朝鏡を見るたびに死人のように青白く、眉間に深い縦皺を刻んでいたあの佐伯栞の面影は、どこにもなかった。
誰かを守りたいと願い、誰かの体温を愛おしみ、誰かの存在によって自分自身の輪郭を鮮やかに取り戻した――一人の、生き生きとした女性の顔。
「あんたね、あいつらのこと話してる間、ずっとそんな顔してたわよ」
朋世は手鏡をパチンと閉じると、優しく目を細めた。
「もう……ただの『大家』の顔じゃないじゃないの」
「朋世……」
「すっかり惚れ込んでるわよ。あのアパートと……あの四人の男たちに」
――惚れ込んでる。
その言葉が、私の心臓の最深部に、すとんと落ちてきた。
痛いほどに、腑に落ちた。
逃げようとしていた。
「大家と店子」「プライベート不干渉」という看板を掲げて、彼らの過剰な愛と執着から目を背け、自分の心に鍵をかけようとしていた。
けれど、本当は――。
私自身が、誰よりもあのアパートを愛していたのだ。
あの騒がしい食卓を、あの不器用な男たちを、彼らが私に向けてくれる不器用で狂おしいほどの情熱を、誰よりも失いたくなかったのだ。
「……うん」
私の唇から、迷いのない言葉が零れ落ちた。
「そうかも、しれない。……私、あそこが大好きなんだ。あいつらと一緒にいる時間が、たまらなく大切なんだ」
「……バカね」
朋世は悪態をつきながらも、フッと笑って新しい生ビールを二つ、店員に注文した。
「三億円をドブに捨てるなんて、資本主義社会への反逆よ。前代未聞の愚行よ。……でもね、栞」
朋世は届いたばかりのキンキンに冷えたジョッキを持ち上げ、私の目の前へと突き出した。
「あんたがそのバカな決断を下すなら、私は親友として全力で乾杯してあげるわ。……その代わり、あいつらに一生分の愛と家賃を搾り取りなさいよね!」
「あはは……! うん、そうする!」
カチンッ!
高架下に、二つのジョッキがぶつかり合う澄んだ音が響き渡った。
迷いは、消え去っていた。
三億八千万円の売却益よりも。
都心の安全な高級タワーマンションよりも。
矢吹先生が差し出してくれた、穏やかで誰にも脅かされない大人の庇護よりも。
私には――守るべき場所がある。
傷ついた男たちが待つ、あの古くて温かい、私の大切な城があるのだ。
胸の中の霧が完全に晴れ渡るのを感じながら、私は冷たいビールを一気に喉へと流し込んだ。
今週末の日曜夕食会。
愛する住人たちへ向けて、私の人生で一番大きな「決断」を告げるために――。




