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家賃は愛嬌じゃ払えません! 〜訳ありイケメンだらけのレトロアパート、今夜も大家(32)の胃袋と心が奪われそうです〜  作者: タカノ


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第40話:アパート買収の影

十二月を間近に控えた、月曜日の午前十時。

先週まで吹き荒れていた嵐のような熱気――宮原陸による朝の手繋ぎエスコート、深見怜の原稿部屋での至近距離の囁き、野村創から手渡された木彫りの桜、そして柴崎晴人の厨房での逃げ場のないバックハグ――それら過保護すぎる男たちの猛攻が嘘のように、メゾン・サクラの午前中は静まり返っていた。


週の始まり。

一〇一号室の陸は丸の内のオフィスへ朝早くから出勤し、一〇二号室の深見は小野寺さんに連れ出されて版元でのサイン本作り、二〇一号室の創は今週末に迫ったコンクールの最終搬入で美大へ直行し、二〇二号室の柴崎は今夜のディナーに向けた築地・豊洲の仕入れへと出払っていた。


「……ふう。久しぶりに、一人で静かに息ができるわ」


私は厚手のフリースジャケットの前を合わせ、共用廊下のモップ掛けを終えたあと、エントランスの木製引き戸をガラガラと開けた。

晩秋の冷たい風が、中庭の山桜の枝を揺らしながら吹き抜けていく。

ポケットの中では、創からもらった桜の花びらのキーホルダーが、マスターキーと触れ合ってチリと澄んだ音を立てた。指先でその滑らかな木肌に触れるだけで、胸の奥に灯った小さな火が、冷えた身体を温めてくれるような気がする。


「さて、今日の郵便物は何がきているかしら」


私は上がり框を下り、エントランスの壁に据え付けられた木製の集合郵便受けの前へ立った。

回覧板、水道局の検針票、近所のスーパーの特売チラシ。

それらを仕分けしながら、一番下にある「管理人室」の投函口に手を差し入れた瞬間――指先に、異質な重みと厚みが触れた。


「……ん? これ、何……?」


引き抜いたのは、一般的な定形封筒の三倍はある、ずっしりと重たい角二サイズの大型封筒だった。

郵便ポストを塞ぐように押し込まれていたその封筒は、上質な純白の和紙調の紙質で、中央には濃紺の箔押しで威厳のあるロゴマークが刻印されていた。


『帝都都市開発株式会社 首都圏再開発推進本部』

『親展:メゾン・サクラ所有者 佐伯 栞 様』


日本を代表する総合不動産ディベロッパーの最大手。テレビCMでも頻繁に見かける、あの超巨大企業の名前だった。

ペーパーナイフを部屋から取ってくるのももどかしく、私は封筒の裏蓋に貼られた厳重な封緘シールを指先で慎重に剥がした。

中から滑り出てきたのは、数十ページに及ぶフルカラーの重厚なパンフレットと、弁護士印の押された分厚い契約書類の束。


表紙に躍っていたタイトルを目にした瞬間、私の視界がスッと凍りついた。


『目黒一丁目地区市街地再開発事業に伴う、土地建物売却および立ち退きに関する最終合意提案書』


「……え……? 再開発……立ち退き……?」


喉が、小さく鳴った。

ページをめくると、目に飛び込んできたのは息を呑むような未来予想図(パース図)だった。

現在、メゾン・サクラが建っているこの静閑な住宅街の一角――周辺の古い木造家屋や空き地をすべて更地にし、地上三十八階建ての超高層タワーマンションと、低層階の商業複合施設を建設するという、総事業費数百億円規模の巨大プロジェクト。


そして、別紙に記されていた「買収条件提示書」。

そこに印字されていた、目黒区の土地約八十坪と築四十五年の古アパートに対する、立ち退き補償料を含めた買取提示金額の数字。


『金 三億八千万円整』


「…………っ!?」


声にならなかった。

三億、八千万。

一、十、百、千、万……指で桁を数え直しても、ゼロの数は減らなかった。

相場を遥かに上回る、文字通りの破格。土地の坪単価にして相場の約一・八倍。さらに、既存入居者全員分の立ち退き慰謝料および転居費用として、一世帯あたり五百万円の特別加算金がディベロッパー側から全額拠出される旨が、極めて整然とした法的な書式で明記されていた。


めまいがした。

手の中の書類が、まるで高圧電流を帯びているかのように震える。

元・営業事務の私に、こんな天文学的な数字の契約の妥当性など判断できるはずがなかった。

パニックに陥り、心臓が耳の奥でドクドクと警鐘を鳴らす中、私の脳裏に真っ先に浮かんだのは――スーツを着崩さず、常に冷徹な数字と法律でこのアパートの防壁を築いてくれていた、あの大人の男の顔だった。


「や、矢吹先生……!」


私は震える手でスマートフォンを取り出し、アドレス帳の最上段にある番号をタップした。


午後一時。

目黒のレトロな木造長屋の風景から一転、私は銀座四丁目の交差点を見下ろす、全面ガラス張りの超高層オフィスビルの最上階にいた。


『矢吹総合法律・税務会計事務所』


自動ドアをくぐると、静謐なクラシック音楽が微かに流れ、磨き抜かれた大理石の床と、重厚なウォールナットのカウンターが出迎えてくれる。

案内されたのは、東京タワーとレインボーブリッジを一望できる、完全防音の特別応接室だった。

革張りのハイバックチェアに腰掛け、出された冷たい日本茶にも口をつけられずに待っていると、カチリと静かにドアが開いた。


「お待たせしました、佐伯さん。電話の声が酷く切迫していましたが……事故や怪我ではありませんね?」


入ってきたのは、顧問税理士兼司法書士の矢吹宗介(三十六歳)だった。

チャコールグレーの寸分の隙もないスリーピーススーツ。シルバーフレームの銀縁眼鏡の奥から、知的で落ち着いた大人の眼差しが私を柔らかく包み込む。

アパートの住人たちの、あの剥き出しの熱情や激しい独占欲とは対極にある、絶対的な理性と安定の象徴。

その姿を見ただけで、張り詰めていた私の呼吸が少しだけ解けた。


「矢吹先生、突然押しかけて申し訳ありません! これ……今朝、アパートのポストに届いていて……!」


私は鞄から、あの分厚い『最終合意提案書』を取り出し、ガラステーブルの上へと両手で差し出した。

矢吹は眉をわずかに動かし、無言で書類を受け取ると、テーブルの上のペーパーウェイトで書類の端を抑え、指先でページをめくり始めた。


応接室に満ちる、紙をめくる乾いた音。

矢吹の表情からは、一切の感情が消え失せていた。

一ページ、一ページ、契約条項の細かな注釈や、都市計画法の根拠条文、そして提示金額の積算内訳を、冷徹なメスのような視線で精査していく。

十分。十五分。

沈黙の時間が、まるで針の筵のように私の胃を締め付ける。


やがて――矢吹は最後のページを閉じると、ふうと短く息を吐いた。

そして、人差し指で銀縁眼鏡のブリッジを押し上げ、私へと視線を向けた。


「……佐伯さん。結論から申し上げます」


「は、はい……」


「これは、極めて本物の、そしてこれ以上ないほど破格のディール(取引)です」


矢吹の声は、どこまでも平坦で、揺らぎがなかった。


「帝都都市開発は、目黒駅西口一帯の再開発に向けて、すでに周辺の土地の八割の買収を終えています。あなたのメゾン・サクラが建っているあの敷地は、計画道路とタワー棟のメインエントランスの導線上に位置する、いわゆる『最後のピース』です。だからこその、この提示額……相場の約一・八倍。立ち退き料の特別加算を含めれば、ほぼ二倍に近いプレミアムが乗せられています」


「に、二倍……」


「ええ」矢吹は胸ポケットから万年筆を取り出し、手元のメモ用紙にサラサラと数字を走らせた。

「譲渡所得税の特別控除を適用し、手元に残る純キャッシュを試算すると、約二億九千万円。これだけの資金があれば、佐伯さん――あなたは今後、一生涯、一切の労働をする必要がなくなります」


矢吹のペン先が、メモの数字をコツンと叩いた。


「港区や渋谷区のセキュリティ万全な超高級タワーマンションを一室キャッシュで購入し、残りの二億円を年利三パーセントの確定利回りで運用するだけで、税引き後でも年間六百万円以上の不労所得が毎月口座に振り込まれ続ける。築四十五年の木造アパートの老朽化に怯えることも、雨漏りや給排水管の破裂を心配することも、修繕積立金の残高に頭を抱えることもない。……完全なる、経済的自由の獲得です」


――完全なる、経済的自由。


その言葉が、私の鼓膜を激しく揺さぶった。

私の胸の奥で、かつてブラック企業の暗闇の中で泣いていた、元社畜の記憶が目を覚ます。


そもそも、私が祖母からあのアパートを相続した時の、唯一の目的は何だったか。

過労で倒れ、救急搬送され、自尊心を削り取られて会社を辞めたあの日。

『家賃収入で質素に、誰にも邪魔されず、静かに生きていきたい』

『平穏と健康だけを最優先にして、二度と誰の顔色も窺わずに暮らしたい』

ただ、それだけだったはずだ。


経済的・合理的な観点から見れば、矢吹の言う通り、この提案を受け入れることが絶対的な正解だった。

築四十五年のモルタルアパートなど、あと十年もすれば大規模修繕で何千万円もの金が飛んでいく。固定資産税もかかる。災害のリスクもある。

それを今、三億八千万円という途方もない現金に変えて、都心のピカピカの高級マンションで優雅に暮らす。

それこそが、ボロボロになって倒れた私が手に入れるべき、最高のハッピーエンドのはずだった。


それなのに。


「…………っ」


私の喉が、ぎゅっと締め付けられたように詰まった。

言葉が出てこない。

手元のメモに書かれた「二億九千万円」という数字を見つめているのに、私の心臓は歓喜に震えるどころか、冷たい鉛を飲み込んだかのように重く、苦しく沈み込んでいた。


「……佐伯さん?」

矢吹が小首を傾げ、訝しげに私を見つめてくる。


「あ……あの、矢吹先生」

私は膝の上で、自分のデニムの生地をぎゅっと指先で掴み直した。

「でも……あの場所には、今……みんなが、暮らしていて……」


「みんな?」

矢吹の眉が、ピクリと動いた。


「はい……一〇一号室の宮原くんも、一〇二号室の深見さんも、二〇一号室の創くんも、二〇二号室の柴崎さんも……。みんな、あそこを自分の家にして、毎日帰ってきてくれていて……。もし、あそこを売って取り壊しちゃったら……みんなの、居場所がなくなっちゃいます……」


私の声は、震えていた。

頭の中に、走馬灯のように住人たちの顔が浮かび上がってくる。


外資コンサルの激務で擦り切れ、肩に額を預けて「充電させてください」と甘えてきた宮原陸の体温。

深夜二時のキッチンで、ぬるいビールを分け合いながら「前の会社が節穴だっただけだろ」と私の傷を肯定してくれた深見怜の横顔。

指先を血だらけにしながら、「あんたのこと守るためなら何でもする」と耳まで真っ赤にして小さな桜を彫ってくれた野村創の不器用な手。

そして、熱を出した時に温かいお粥を運び、「僕がいるのに我慢しないで」と逃げ場のない愛で胃袋を満たしてくれた柴崎晴人の微笑み。


あのアパートは。

外の世界で戦い、傷つき、居場所を失いかけた男たちが、唯一、鎧を脱ぎ捨てて息を吸うことができる「帰る場所」なのだ。

そして私にとっても――彼らの体温と笑顔に囲まれることで、ようやく失われた自尊心を取り戻すことができた、かけがえのない「私の家」なのだ。


それを、お金のために手放す?

立ち退き料を渡して、「明日から出ていってください」と彼らを追い出す?

そんなこと――できるはずがない。


「……彼らの居場所、ですか」


静かな、けれど研ぎ澄まされた冷徹な声が、応接室の空気を切り裂いた。

見上げると、矢吹宗介の瞳の奥から、先ほどまでの穏やかさが綺麗に消え去っていた。

法律家としての、残酷なまでの現実論。


「佐伯さん。厳しいことを言いますが……目を覚ましなさい」


「え……?」


「彼らは、あくまで賃貸借契約を結んだ『店子(たなこ)』ですよ」


矢吹は万年筆を机に置き、背もたれに深く体重を預けた。

銀縁眼鏡の奥の切れ長の瞳が、まっすぐに私の甘さを抉り出す。


「宮原さんは外資のコンサルタントだ。昇進や海外異動があれば、明日にもこの国を去るかもしれない。深見先生は人気作家だ。印税が入れば、いつでも都心の高級タワーマンションへ引っ越していける。野村さんは美大を卒業すれば地元へ戻るかもしれないし、柴崎さんの店だって、経営が拡大すれば別の場所へ移転する可能性がある」


矢吹の一言一言が、鋭い氷の棘となって私の胸に突き刺さる。


「彼らは、いつかはあのアパートを出ていく『他人』なんです。法的な親族でもなければ、あなたの人生に責任を持ってくれる配偶者でもない。……そんな流動的な他人への情のために、三億八千万円という、あなたの生涯の安全を保障する千載一遇のチャンスを棒に振るおつもりですか?」


「っ……!」


反論できなかった。

矢吹の言うことは、何一つ間違っていなかった。

法的に見れば、私たちはただの「大家と店子」に過ぎない。

一年更新の契約で結ばれただけの、一時的な同居人。

誰かが結婚すれば出ていく。誰かが仕事で成功すれば去っていく。

そんな不確かな他人のために、現実主義者であるはずの私が、一生遊んで暮らせる巨額の資産をドブに捨てるのか。

前職で数字と契約書を扱い続けてきた元営業事務の理性が、矢吹の正論を「百パーセント正しい」と肯定してしまう。


沈黙。

応接室のガラス窓の向こう、東京の街並みが、冬の冷たい陽光を浴びて無機質に広がっている。

私の指先は、冷たく凍りついていた。


「佐伯さん」


矢吹が身を乗り出してきた。

テーブル越しに、矢吹の大きく乾燥した温かい手が、そっと私の震える手の上へと重ねられる。

第二十五話の銀座の割烹の時と同じ、大人の男の、揺るぎない包容力の温度。


「私は、あなたに二度と苦労をしてほしくないんです。ブラック企業で倒れたあなたを、これ以上、古い建物の修繕や他人のお世話で擦り減らさせたくない。……この売却を受け入れなさい。そして、穏やかで、誰にも脅かされない安全な人生を手に入れてください」


耳元に落ちてくる、落ち着いた、甘く重い大人の提案。

矢吹の親指が、私の強張った手の甲を優しくなぞる。


「アパートを売却したあとの生活も、資産管理も、住まいの手配も……すべて私が責任を持ってサポートします。……私のそばにいればいい」


――私のそばにいればいい。


逃げ場のない、完璧な救済の差し出し。

お金も、生活も、将来の不安も、すべてこの男が解決してくれるという約束。

それを受け入れさえすれば、私は明日から、何も恐れることなく生きていくことができる。


けれど――。


重なり合う矢吹の手の下で、私のポケットの中にある、あの小さな木彫りの桜が、チクッと小さく私の太ももを突いた。


(……でも……)


脳裏に浮かぶ、昨日の日曜夕食会の光景。

柴崎特製のビーフシチューを囲んで、陸がパンを頬張り、創が肉の大きさを深見と競り合い、深見が煙草を我慢しながら私の入れたお茶を飲んで笑っていた、あの騒がしくて、温かい、世界で一番愛おしい食卓。


あそこを、売り払う?

あの笑顔を、お金に変えて消し去ってしまう?


「…………っ」


私は唇をぎゅっと噛み締めた。

血が滲むほど強く、強く、下唇を噛む。

莫大な売却金額が記された提案書を見つめながら、私の心は、現実主義の冷たい計算と、胸の奥底で燃え上がる抗いがたい感情の間で、引き裂かれるように激しく揺れ動いていたのだった。

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