第39話:柴崎のプライベートレッスン
木曜日の午後二時。
晩秋から初冬へと足早に移り変わる目黒の住宅街は、風が吹き抜けるたびに乾いた銀杏の葉をカサカサと鳴らし、昼下がり特有の柔らかな静寂に包まれていた。
私は管理人室のデスクで午前中の帳簿付けを終え、上着に厚手のケーブルニットカーディガンを羽織ってエントランスを出た。
ポケットの中には、真鍮のキーリングに通されたメゾン・サクラのマスターキー。その鍵のすぐ隣には、火曜日の夕暮れに二〇一号室の野村創から手渡されたばかりの、あの精巧な木彫りの桜のキーホルダーが、控えめに、けれど確固たる重みを持って指先に触れていた。
――『あんたのこと守るためなら、俺、何でもすっから』。
耳まで真っ赤にして地面にしゃがみ込み、指の隙間から濡れた三白眼で私を射抜いてきた、あの二十一歳の少年の剥き出しの告白。指先で桜の花びらの滑らかな曲線をなぞるたび、胸の奥がきゅっと熱く疼くのを感じてしまう。
「……ほんと、みんなして私の心臓をどうするつもりなのよ……」
独り言をこぼしながら、アパートの門を出て左へ折れる。
金曜の朝は宮原陸の完璧なエスコートと恋人繋ぎに翻弄され、日曜の深夜には深見怜の原稿部屋でベッドに横たわったまま至近距離で囁かれ、火曜の夕暮れには創の直球ど真ん中の誓いを受け止めた。
そして――今日、木曜日の予定は。
『木曜日はビストロの定休日なんです。今度の日曜日の全体夕食会で出す特製煮込み料理の仕込みを、店の厨房で手伝っていただけませんか? もちろん、二人きりで』
昨夜の夕食後、共用キッチンで淹れたてのカモミールティーを差し出されながら、あの二〇二号室の柴崎晴人からふわりと微笑みかけられたのだ。
元上司の工藤を撃退して以来、男たちが敷いた「二十四時間過保護体制」。その中でも、生活の根底である「食」を完璧に牛耳っている柴崎からの誘いを、胃袋を掌握されている大家が断れるはずもなかった。
メゾン・サクラの黒い板塀から、細い路地を歩くことわずか三分。
古い民家を改装した隠れ家フレンチビストロ『シェ・シバ』の前に到着した。
普段ならアイボリーのオーニングが広がり、黒板にチョークで書かれたランチメニューやテラスのオリーブの鉢植えが客を出迎えているはずの店先は、今日は「CLOSED」の真鍮プレートが掲げられ、木製の扉が静かに閉ざされていた。
「……こんにちはー。晴人さん、佐伯です……」
通用口のドアノブに手をかけると、鍵は開いていた。
カラン、コロン……と控えめなドアベルが鳴り、足を踏み入れる。
客席のダウンライトは落とされ、ワインレッドのクロスが掛けられた丸テーブルが整然と並ぶ店内は、まるで外界の時間を止めてしまったかのように静まり返っていた。
空気中に漂うのは、長年ワインと上質な料理を供し続けてきた店特有の、オーク樽と焦がしバター、そして微かなハーブの落ち着いた薫香。
「いらっしゃい、栞さん。お待ちしていましたよ」
客席の奥、スイングドアの向こうから、聞き慣れた穏やかな声が響いた。
ドアを押し開けて厨房から顔を覗かせた柴崎晴人の姿に、私の呼吸がふっと止まった。
そこにいたのは、アパートの共用キッチンで見せるあの「世話焼きなお母さん」の姿でも、営業中のビストロで鋭い眼光を飛ばす「冷徹なシェフ」の姿でもなかった。
仕立てのいい上質なスタンドカラーの白シャツ。第ニボタンまで無造作に寛げられた胸元からは引き締まった鎖骨が覗き、腕まくりされた両腕には、厨房用の厚手のリネンエプロンが腰履きで巻かれている。
栗色の前髪は少しラフに流され、耳元には普段の営業中には外しているシンプルなシルバーの小さなピアスが、照明を受けて鈍く光っていた。
大人の男の、リラックスしたプライベートの色香。
その破壊力に、私の心臓がドクンと不規則に跳ね上がる。
「……あ、あの、お邪魔します。定休日なのに、本当に私なんかが手伝いに入って大丈夫ですか?」
「もちろんですよ。むしろ、あなたに来てほしくて仕込みの日を今日に設定したんですから。どうぞ、中へ入ってください」
柴崎さんは優しく微笑むと、スイングドアを片手で押さえ、私を厨房の奥へと招き入れてくれた。
客席からはカウンター越しにしか見えなかった『シェ・シバ』の厨房。
一歩足を踏み入れた瞬間、私はその空間の神聖さに息を呑んだ。
「わあ……すごい……!」
ピカピカに磨き上げられたステンレスの調理台。
壁一面に整然と掛けられた銅鍋やフライパンは、傷ひとつなく鏡のように輝き、業務用の大型ガスコンロやオーブンからは、プロフェッショナルだけが立ち入ることを許された張り詰めた清潔感が漂っていた。
アパートの十二畳の共用キッチンとはまるで違う、柴崎晴人という男の「城」の最深部。
その聖域に足を踏み入れているという事実だけで、私の背筋は自然とピンと伸びてしまう。
「ふふ、そんなに緊張しなくて大丈夫ですよ。今日は誰も来ませんから。真壁もお休みをあげて、実家に帰らせています」
「真壁くん、いないんですね……」
「ええ。二人きりの方が、邪魔が入らなくていいでしょう?」
さらりと、逃げ場のない言葉を落としてくる。
柴崎さんは調理台の端から、清潔な糊のきいた真っ白なサロンエプロンを一着取り出し、私の目の前へと広げてみせた。
「まずは、服が汚れないようにエプロンをしましょうか。……着けてあげますよ」
「えっ!? あ、自分で結べます!」
「ダメです。プロの厨房に入るんですから、着付けもシェフの仕事ですよ。ほら、後ろを向いて」
有無を言わさない、いつもの完璧なスパダリの微笑み。
私が観念して背中を向けると、柴崎さんの手が首元へ伸び、エプロンの紐が頭の上からふわりと掛けられた。
続いて、背中へと回される長い両腕。
私の腰を抱きすくめるようにして、柴崎さんの指先が背中側でエプロンのリボンをキュッと結び上げる。
一瞬、背中に柴崎さんの胸板の温もりが微かに触れ、鼻腔をふわりと甘いバニラとカルダモンの香りがかすめた。
「……はい、よく似合っていますよ。可愛いですね」
耳元で落とされた囁きに、私の耳の先が一気に熱くなる。
柴崎さんは満足そうに頷くと、作業台の中央に置かれた巨大な木製まな板を指差した。
「今日手伝っていただきたいのは、日曜日の全体夕食会でお出しする『牛肉の赤ワイン煮込み(ブッフ・ブルギニヨン)』のベース作りです。フォンドヴォーと一緒にじっくり煮込むための香味野菜……まずは、玉ねぎのみじん切り(アッシェ)をお願いできますか?」
「玉ねぎのみじん切りですね! それなら私、自炊でもよくやりますから任せてください!」
料理の基本作業と聞いて、私は少しホッと胸を撫で下ろした。
前職の営業事務時代、唯一のストレス発散が無心で野菜を刻むことだったのだ。包丁捌きには多少の自信がある。
私は気合いを入れてまな板の前に立ち、用意されていた特大の牛刀の柄を右手で握りしめた。
――しかし。
「……っ!?」
持ち上げた瞬間、私の手首にズシリと異様な重みがのしかかった。
家庭用の三徳包丁とは、桁が違う。
刀身は驚くほど長く、分厚く、そして――刃先は砥石で限界まで研ぎ澄まされ、天井の蛍光灯を反射して青白い刃文をギラリと光らせていた。
指先をほんの少し掠めただけで、皮膚ごと骨までスパーンと断ち切られてしまいそうな、本物のプロの凶器。
第二十二話で、勝手口の土間で柴崎さんが冷酷な目で研いでいた、あの牛刀の感触そのものだった。
「う……お、重い……それに、すごく切れそう……」
「プロ用の本焼き包丁ですからね。刃の重みだけで食材を切るように作られています。無理に力を入れると危ないですよ」
「は、はい……!」
私は息を呑み、まな板の上に置かれた半分に切られた大ぶりの玉ねぎに左手を添えた。いわゆる「猫の手」。
そして、包丁の刃先を慎重に落とそうとした。
けれど、包丁の圧倒的な切れ味と重さに気圧され、どうしても腰が引けてしまい、刃の入る角度が斜めにブレてしまう。
その時だった。
――スッ……。
背後の空気が、音もなく熱を帯びて圧縮された。
「……危ないですよ、栞さん」
「ひゃっ……!?」
心臓が跳ね上がった。
逃げる間も、振り返る隙もなかった。
背後から忍び寄ってきた柴崎晴人の長身が、私の背中へと――何のためらいもなく、ぴったりと、隙間なくその胸板を密着させてきたのだ。
ドスン、と鈍い体温の衝突。
私の華奢な背中は、柴崎さんの硬く引き締まった胸板へと完全に埋め込まれた。
大人の男の、暖炉のように熱い体温。
首筋に触れる柴崎さんの柔らかな栗色の髪の毛。
そして、耳元を直接撫で下ろしていく、湿り気を帯びた熱い呼気。
「刃の入れ方が違います。そんな風に腰を引いて刃先を押し込んでは、滑って指を落としてしまいますよ」
「は、晴人さん……っ!? ち、近――」
「動かないで」
低く、甘く、けれど抗えない絶対的な声音。
柴崎さんの逞しい右腕が私の肩越しに伸びてきて、包丁の柄を握りしめていた私の右手の上から、自分の大きな手のひらを――ギュッ、と隙間なく重ね合わせてきた。
「……っ!?」
息が止まった。
料理人の、長年包丁を握り続けることで引き締まった硬いタコのある指先。
その熱い手のひらが、私の冷え切っていた右手を丸ごと包み込み、指と指を絡めるようにして包丁の柄を一緒に握らされる。
さらに。
柴崎さんの空いていた左手が、音もなく私の左側から回り込んできた。
そして、私のエプロンで締められた腰骨のラインへと――逃げ場を完全に塞ぐように、大きな手のひらがそっと、力強く添えられたのだ。
完全なる、至近距離のバックハグ。
密着。拘束。
私の下半身は柴崎さんの長い脚の間に挟み込まれ、背中は彼の胸板に押し当てられ、右手も腰も、すべてこの男の体温の中に閉じ込められていた。
「晴人さん……! 近すぎます……離れてください!」
「離したら、怪我をしちゃうでしょう?」
耳元に落ちてくる、低く艶めいた囁き。
鼓膜を直撃するバリトンボイスの振動が、私の首筋の皮膚を粟立たせていく。
「僕の言う通りにしてください。……力を抜いて。刃を前に滑らせるんです。トントン、とリズムよく。……僕の動きに合わせて」
柴崎さんの右手が、私の手を導くようにして滑らかに動き始めた。
サクッ、サクッ、トントントン……!
信じられないほど軽やかな音。
先ほどまであんなに重たくて怖かったプロの牛刀が、柴崎さんの手の中で、まるで魔法の杖のように吸い付くように動き、玉ねぎの繊維を極小の均一なサイコロ状へと切り刻んでいく。
手首のスナップ。体重の乗せ方。
まな板の上で踊る刃先と、二人の重なり合った手のひら。
けれど――私の頭の中は、玉ねぎの仕上がりどころではなかった。
耳元にかかり続ける、柴崎さんの熱い吐息。
首筋をかすめる唇の感触。
バニラとスパイス、そして微かな柑橘の香りが、逃げ場のない檻のように私の全身の思考力を奪い去っていく。
柴崎さんの胸板を通して、トクン、トクン、と力強く脈打つ心音の振動が、私の背骨を伝ってダイレクトに響いてくる。
「晴人さん……もう、十分わかりましたから……一人で切れます……!」
「ダメですよ。まだ半分しか切れていません」
柴崎さんは包丁を動かす手を緩めない。
むしろ、私の腰に添えられた左手の指先が、ジワリと力を増し、私の身体をさらに深く、自分の胸板へと引き寄せてきた。
密着度が、極限を超える。
背中越しに伝わってくる、大人の男の生々しい肉体の硬さと熱さ。
「……それに」
柴崎さんの声の温度が、ふっとワントーン低く、暗く沈み込んだ。
耳たぶを唇が掠める寸前の距離。
「僕の定休日に……誰もいないこの店で、二人きりで厨房にいられるなんて……夢みたいなんです」
「……え……?」
「ずっと、こうして閉じ込めてしまいたかった」
柴崎さんの左手が、腰骨からゆっくりと滑り上がり、エプロンの結び目――リボンの端を、指先で弄ぶようにそっと撫でた。
ほどけそうになる、薄い布の境界線。
背筋を甘い戦慄が駆け抜ける。
「陸くんが朝からあなたを連れ回して、手を繋いで得意げにしているのも……深見先生が深夜に部屋へ連れ込んで、甘い言葉で籠絡しようとしているのも……創くんが中庭で、顔を真っ赤にして小さな桜を渡しているのも……」
――ッッッ!!
息が止まった。
全部、知っていたのだ。
宮原くんとの朝のパン屋の手繋ぎも。
深見さんの部屋での深夜の出来事も。
そして――ほんの二日前に中庭の隅で創くんからもらった、あの木彫りの桜のことすらも。
この男の張り巡らせた包囲網からは、何ひとつとして隠し通せてはいなかった。
「全部、見ていましたよ。……嫉妬で、狂ってしまいそうでした」
柴崎さんの右手から、包丁を動かす力がスッと抜けた。
トスン、とまな板の上に牛刀が置かれる乾いた音。
けれど――私の右手と腰を拘束する柴崎さんの腕は、一ミリたりとも緩まなかった。
むしろ、両腕で私を背後からすっぽりと抱きすくめるようにして、柴崎さんは私の首筋に、自分の額をこてんと預けてきたのだ。
「晴人……さん……っ」
「僕が……一番最初に、あなたを胃袋から手に入れたはずなのに」
掠れた、痛ましいほどに切実な声が、首筋の肌を焼いていく。
いつもの完璧な笑顔も、包容力あふれるスパダリの仮面も、完全に剥がれ落ちていた。
そこにあるのは、第二十二話で真壁くんが語っていた――過去にすべてを裏切られ、失いかけたがゆえに、二度と大切なものを手放すまいと狂気じみた執着を燃やす、剥き出しの「男」の弱さと飢えだった。
「陸くんの若さも、深見先生の言葉も、創くんの情熱も……僕にとっては全部、目障りなノイズでしかないんです。……栞さんの身体を作っているのは、僕の料理でしょう? 栞さんの血となり、肉となり、生命を維持しているのは、僕がこの手で作った味でしょう?」
「っ……」
「僕以外の味なんて、思い出せなくしてあげると言ったはずです。……僕以外の男に、あなたの心も体も、一ミリだって触れさせたくない」
柴崎さんの左手が、私のエプロンのリボンを、ゆっくりと、確実に解いた。
ハラリと落ちる白い紐。
柴崎さんの大きな手が、私のニットのウエストのくびれを、直接布越しにギュッと抱きしめる。
逃げ場のない、圧倒的な独占欲。
「店を畳んで……アパートの一階を僕たちの城に改装してもいい。……栞さん、僕を選んでください」
「晴人……さん……そんな……」
「僕を選んでくれれば、一生、あなたに美味しいものだけを食べさせてあげる。誰にも邪魔されない場所で、僕の手の中だけで、大切に、大切に愛してあげますから……」
甘い毒。
逃げ場のない、完璧な檻。
耳元で落とされる言葉の一つひとつが、私の胃袋だけでなく、心臓の奥底までを甘美な痺れで満たしていく。
恐ろしいほどの執着。
けれど、その奥にある柴崎晴人のあまりの孤独と、私を求める切実さに、私の身体は金縛りに遭ったように動けなくなっていた。
触れ合いそうな首筋。
柴崎さんの唇が、私の耳たぶから首筋の肌へと、吸い寄せられるように触れかけた――その時だった。
――チリン、チリリン……!
静寂を破り、店の奥の固定電話が、けたたましい電子音を鳴り響かせた。
ビストロの予約専用ダイヤル。留守番電話の設定を突き破る、緊急のコール音。
「…………っ」
柴崎さんの動きが、ピタリと止まった。
深く、重いため息が、私の首筋に落ちる。
柴崎さんは名残惜しそうに、私の腰からゆっくりと手を離すと、まな板の上の包丁を整え、額を私の肩から上げた。
「……野暮な電話ですね」
振り返った柴崎さんの顔には、わずか二秒で、いつもの完璧なシェフの微笑みが戻っていた。
けれど、その瞳の奥底には、消えることのない暗黒の炎が、ギラリと妖しく燃え盛っていた。
「栞さん。……続きは、今夜の夕食のあとで」
柴崎さんは私の解けたエプロンの紐を優しく結び直すと、電話機のあるカウンターへと足早に向かっていった。
一人、厨房のまな板の前に残された私。
きれいにみじん切りにされた玉ねぎと、まだ熱く脈打つ自分の手首。
そして――背中に残された、柴崎晴人の狂おしいほどの体温。
逃げ場のない包囲網は、今、確実に私の日常のすべてを呑み込み、後戻りのできない深淵へと引きずり込もうとしていたのだった。




