第38話:野村の彫刻刀と小さな桜
日曜の深夜から月曜の夜明けにかけて一〇二号室で起きた、深見怜によるあの息も止まるような密室劇の余韻は、火曜日を迎えてもなお、私の胸の奥で燻り続けていた。
夜明け前の青い光の中、眼鏡を外した作家の素顔。ベッドサイドに屈み込み、私の前髪を指先でかき分けながら落とされた――『無防備すぎるんだよ、あんたは』『喰っちまいたいよ、今すぐにでも』という、掠れた低音の囁き。
あのあと、心臓が跳ね上がりすぎてパニックになった私は、深見さんが本格的に唇を重ねてくる寸前で「お、お茶ごちそうさまでした!」と叫んで布団を跳ね除け、転がるように自室へと逃げ帰ったのだった。
金曜の朝には宮原くんに恋人繋ぎで手を握り締められ、日曜の夜には深見さんに唇の数ミリ手前まで追い詰められ、日中は柴崎さんの至れり尽くせりの手料理で胃袋を包囲されている。
元上司の工藤を撃退して以降、四人の男たちが敷いた「二十四時間過保護体制」は、私の平穏な自律神経を情け容赦なく削り取っていた。
「……はぁ。ダメダメ、余計なことばっかり考えてたら手が止まっちゃうわ」
十一月最後の火曜日。
午後四時を回ると、目黒の住宅街は急激に夕暮れの茜色へと染まり始めていた。
西の空には燃えるような紅蓮のグラデーションが広がり、中庭の山桜の枯れ木が、黒い影絵のように夕陽の残光を背負っている。吹き抜ける風にはキリッとした初冬の冷たさが混ざり、肌を撫でるたびにキュッと身が引き締まる。
私はアパートの裏手――母屋と納屋の間に張られた物干しロープの前で、大きな竹籠を足元に置き、乾いた洗濯物を手際よく取り込んでいた。
今日洗ったのは、共用キッチンの大判クロスや、日当たりのいい二階ベランダに干しきれなかった私のネルシャツ、そして木綿のタオル類だ。
カラリと乾いた布地からは、太陽の光と石鹸の清潔な香りがふわりと立ち上り、冷え切った指先にほんのりとした温もりを与えてくれる。
「よいしょ、っと……。畳むのは管理人室に入ってからにしようかな。風が冷たくなってきちゃったし」
籠に洗濯物を放り込み、立ち上がろうとした――その時だった。
ギイィィ……。
すぐ背後で、重たい木製の引き戸が軋む音がした。
アパートの敷地の一番奥に建つ、古い納屋。
祖母の文さんが生前、二〇一号室の野村創のためにアトリエとして格安で貸し出した、あの作業場だ。
「……あ」
振り返った私の視界に、納屋の薄暗がりから出てきた人影が飛び込んできた。
野村創だった。
「……創くん。作業、ひと段落したの?」
「…………」
創は返事をする代わりに、足元の木屑をサッと払うようにして、ゆっくりと私の方へ歩み寄ってきた。
その姿に、思わず息を呑む。
色褪せたチャコールグレーのワークパンツに、厚手のデニムシャツ。袖は肘の上まで乱暴に捲り上げられ、首元には汗拭き用の黒いタオルが掛けられている。
短く刈り上げられた黒髪には、細かな木の粉が白い星のように散らばり、顔のあちこちには削り粉と機械油の汚れがうっすらと付着していた。
百八十五センチを超える筋骨隆々とした長身。
夕陽の逆光を浴びて長い影を落としながら近づいてくるその佇まいは、まるで工房から抜け出してきたばかりの若き職人そのものだった。
「お疲れ様。美大のコンクール、もう今週末だよね? 搬入の準備は順調?」
私が微笑みかけると、創は足を止め、鋭い三白眼をわずかに伏せた。
機嫌が悪いわけではない。
眉間に深い皺を寄せ、唇をぎゅっと一文字に結んだその顔は――何か重大な決断を下す直前のような、切羽詰まった緊張感を孕んでいた。
「……おい」
「ん? なぁに?」
「……手、出せ」
「手?」
言われるがままに、私が竹籠から手を離し、両の手のひらを上に向けて差し出すと。
創はワークパンツの深いポケットに右手を突っ込み、ゴソゴソと何かを探り当てた。
そして――。
スッ。
私の差し出した手のひらの上へ、無造作に、ひとつの小さな塊をコトリと乗せてきたのだ。
「……これ、やる」
「え……?」
見下ろすと、それは薄い茶色のクラフト紙で、ぎこちなく包まれた四角い小さな包みだった。
包み紙の表面には、細かな木屑と鉛筆の粉がうっすらと付着していて、端っこがセロハンテープで不器用に留められている。
手のひらに乗せると、羽毛のように軽い。けれど、なぜかその包みからは、大地の木立が放つような、甘く清々しい芳香がふわりと立ち上っていた。
「創くん、これ……何?」
「……見りゃ分かんだろ。開けろよ」
創はそっぽを向いたまま、ぶっきらぼうに顎をしゃくった。
耳の先が、夕暮れの茜色とは違う色合いで、微かに赤く色づき始めている。
私は言われるがまま、セロハンテープの端を指先でそっと剥がし、包み紙を丁寧に開いていった。
カサリ、と紙が擦れ合う音。
中から現れたものを目にした瞬間――。
「……っ!」
私の喉の奥から、息が小さく漏れた。
手のひらの上に転がり出たのは、ひとつの小さなキーホルダーだった。
真鍮の丸カンと、丁寧に編み込まれた焦げ茶色の革紐。
そして、その先に取り付けられていたのは――。
手のひらにすっぽりと収まる、親指ほどの大きさの、立体的な木彫り細工。
それは――風に乗ってふわりと舞い散る、一枚の「桜の花びら」の形をしていた。
「わあ……っ」
思わず、感嘆の声が零れ落ちた。
あまりにも、精巧だった。
花びらの先端にある小さな切れ込みの絶妙な角度。中心に向かって緩やかに窪む、柔らかな曲面のグラデーション。風を受けて微かに波打つような、命の宿った立体感。
木目の美しさが計算し尽くされており、桜の淡い紅白色の木肌が、夕暮れの光を浴びて絹のように艶やかに輝いている。
角という角は丁寧に面取りされ、信じられないほど滑らかにやすりが掛けられていて、指先でなぞると、まるで上質な陶器のようにすべすべとしていて、けれど木の確固たる温もりがじんわりと指の腹に伝わってくる。
「すごい……! これ、創くんが彫ったの……!?」
「……当たり前だろ。他に誰がいるんだよ」
創は短く鼻を鳴らすと、手持ち無沙汰そうに首の手ぬぐいをきゅっと引き絞った。
「……山桜の木だ。この中庭の木じゃねえぞ。長野の実家の裏山にある、樹齢百年超えた倒木から切り分けた、一番目の詰まった芯材だ」
「長野の……山桜の木……」
「……メゾン・サクラだから、桜。……それに」
創の言葉が、ふっと途切れた。
夕風が吹き抜け、創の乱れた黒髪をサッと揺らす。
創は視線を宙へと泳がせ、住宅街の屋根瓦の向こうを見つめながら、ボソボソと、けれど一言一言を噛み締めるように言葉を絞り出した。
「……あの変な元上司が、また来ても……それ、持ってろ」
「え……?」
「桜の木は……魔除けになるって、地元の爺ちゃんが昔言ってた。硬くて、狂いがなくて、邪気を払う木なんだと。……だから、鍵でもポーチでもいいから、それくっつけて、肌身離さず持っとけ」
――魔除け。
――肌身離さず、持っとけ。
その言葉の真意を理解した瞬間、胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように熱くなった。
火曜日の夕方。
工藤に土足で踏み込まれ、手首を掴まれて過呼吸を起こしていた私。
あの時、濡れ鼠になって駆けつけ、工藤の手首を握り潰しかけながら私を背中で庇ってくれた創くん。
そして、泣きじゃくる私の頭の上に、無言で大きな手を置いてポンポンと撫でてくれた、あの不器用な手の温もり。
あの日から、創はずっと考えていたのだ。
コンクールの最終制作という、美大生としての人生を左右する極限のプレッシャーの中にありながら。
自分がアトリエや大学にいて、私のそばにいられない時間に、もしまたあの男が現れたらどうするのか。
どうすれば、この無防備で頼りない年上の大家を、遠くからでも守り続けることができるのか。
言葉で器用に安心を囁くことのできない男の子が、自らの持てるすべての技術と、故郷の伝承と、祈りを込めて――この小さな木片に向き合い、削り出していたのだ。
ふと、キーホルダーを持つ創の右手に視線が落ちた。
「……っ!」
私の胸が、激しく疼いた。
夕陽に照らされた、創の大きな手。
骨太で、節くれ立ち、長年重いノミを握り続けてきた職人の手。
第十八話で、納屋で私が消毒液と軟膏を塗り、包帯を巻いたあの傷だらけの手のひら。
その指先に――親指の腹と、人差し指の側面に。
この細かな、ミリ単位の曲面を極小の彫刻刀で削り出すためにできたであろう、真新しい、細かな切り傷がいくつも刻まれていた。
乾きかけた血の跡。
どれほど細かい刃物を、どれほどの極限の集中力で、指先を削りながら振るい続けたのか。その過酷な手仕事の痕跡が、痛々しいほど雄弁に物語っていた。
「創くん……手、また新しい傷ができてるじゃない……!」
「……んなもん、かすり傷だ。気にするな」
創は手を後ろへ隠そうとした。
けれど、その不器用な強がりが、私の涙腺を激しく刺激した。
宮原くんの流暢でスマートな言葉も。
深見さんの色気溢れる艶やかな囁きも。
柴崎さんの計算し尽くされた極上の包囲網も。
どれも私の心を激しく揺さぶるけれど――。
この男の子の差し出してくるものは、いつだって、血の通った、嘘偽りのない、命そのものの手触りをしていた。
「創くん」
私は一歩、彼へと歩み寄った。
そして、手のひらに乗った小さな桜の木彫りを、両手でぎゅっと、宝物を抱きしめるように包み込んだ。
木の温もりが、手のひらを通して心臓へとじんわりと伝わってくる。
「ありがとう……! 本当に、ありがとう、創くん……!」
私は顔を上げ、涙でにじむ視界の向こうにいる創へと、心からの、満面の笑顔を向けた。
「すごく綺麗。こんなに温かくて素敵な桜、見たことないよ。……私、絶対に肌身離さず持ってるね。アパートの合鍵につけて、ずっと大切にする。……私の、一生の宝物にするね!」
夕陽の茜色の光が、私たちの間を優しく照らし出していた。
風に揺れる私の後れ毛。
零れ落ちそうな涙を拭いもせず、花が咲くように笑いかける私の表情。
――その瞬間だった。
ピシリ、と。
創の動きが、完全に凍りついた。
「…………」
見開かれた、黒い三白眼。
私の笑顔を網膜に焼き付けた瞬間、創の喉仏が、ゴクリと大きく上下した。
息を吸うことすら忘れたように、半開きのまま硬直する唇。
そして――。
カアァァァァァァッッッッッ!!!!
肉眼ではっきりと視認できるほどの凄まじい速度で、創の顔面に真っ赤な血が沸騰するように駆け巡った。
第十九話のベランダの時など、生ぬるいと思えるほどの激震。
短く刈り上げられた襟足から、太い首筋、頬のライン、そして剥き出しになった耳の先までが。
夕焼けの赤さなど足元にも及ばないほど、熟れきったトマトよりも、燃え盛る業火よりも鮮烈に、真っ赤に、真っ赤に染まり上がっていく。
「そ、創くん……!?」
驚いて声を上げた私の目の前で、創はガタッと大きくよろめいた。
そして――。
ガバッッッ!!
「……っ、ぐ…………っ!」
耐えきれなくなったように、両手で自分の顔面を乱暴に覆い隠したのだ。
膝から崩れ落ちるように、その場にドスンとしゃがみ込む。
百八十五センチの巨躯を、丸太のように小さく丸めて、膝の間に頭を深く埋め込んでしまう創。
「ちょ、創くん!? 大丈夫!? どこか痛むの!?」
私が慌ててしゃがみ込み、その逞しい肩に手を伸ばそうとした、その時だった。
「……触るなっ……!」
指の隙間から、掠れた、震える叫びが漏れ出した。
肩が小刻みに激しく震えている。
覆い隠した大きな手の隙間から、隠しきれない熱い肌の赤が、鮮烈に覗いていた。
「……だから、そういう顔すんなって……言っただろ……っ!」
「え……?」
「宝物だとか……一生大切にするとか……っ! そんな顔で、笑いながら言われたら……っ!」
創の指が、自分の前髪をギリギリと音を立てて掻きむしる。
喉の奥から絞り出される、切羽詰まった、泣き出しそうなほど切実な呼気。
「……俺が、どんな気持ちになるか……これっぽっちも分かってねえくせに……っ!」
「創、くん……」
声が出なかった。
夕暮れの冷たい風が、二人の間を吹き抜けていく。
けれど、しゃがみ込んだ創の身体から立ち上る猛烈な熱気は、初冬の空気をチリチリと焦がすほどに熱く、甘く、重たく満ちていた。
創はゆっくりと――本当にゆっくりと、顔を覆っていた指の隙間を、ほんの数センチだけ開けた。
「っ……」
息が止まった。
指の隙間から、私を覗き込んできた瞳。
そこにあったのは、耳まで真っ赤にした少年の羞恥ではなかった。
濡れたように潤み、けれど獲物を決して逃がさないと決めた獣のように、激しく、熱く燃え盛る三白眼。
その瞳の奥に宿る剥き出しの熱情が、私の心臓を、逃げ場のないゼロ距離でズドンと撃ち抜いた。
「……あんたのこと守るためなら」
掠れた、低く震える声が、夕暮れの空気を切り裂いて落ちてきた。
「俺……何でもすっから」
――何でもすっから。
コンクールの大賞でもない。美大での評価でもない。
ただ一人の女を、自分のこの腕で、命を懸けて守り抜くという、少年の脱皮した男の魂の誓い。
言葉の飾りのない、愚直で、重厚で、あまりにも純粋な愛の告白。
「あんな奴がまた来たら……何度だってぶっ飛ばしてやる。……あんたが泣かねえように、あんたが笑ってられるように……俺が、全部やってやっから」
指の隙間から覗く創の瞳が、切なげに歪んだ。
「……だから、俺から離れんなよ」
「…………っ」
胸が、激しく跳ね上がった。
痛いほどに脈打つ早鐘。
両の手の中で握りしめた小さな桜の木彫りが、まるで生きているかのように、ドクン、ドクンと熱狂を伝えてくる。
大人の男たちの、甘く狡猾な誘惑とは違う。
不器用で、真っ直ぐで、けれど誰よりも力強い、二十一歳の青年の全力の体当たり。
その圧倒的な熱量に、私の三十代の錆びついた心臓は、跡形もなく溶かされてしまいそうだった。
夕陽の最後の光が、地平線の向こうへと沈んでいく。
茜色から群青色へと移り変わる中庭の薄暗がりの中で。
しゃがみ込んで耳まで真っ赤にしながら、指の隙間から私を射抜くように見つめ続ける創と。
小さな桜の花びらを胸に抱きしめ、真っ赤になって立ちすくむ私。
二人の間に流れる甘く濃密な沈黙を破るものは、初冬の風の音以外、何ひとつ存在していなかったのだった。




