第37話:深見の深夜の原稿部屋
――ガタガタッ、ドスッ……!
『おい栞、お前みたいな何の取り柄もない事務員が、一人で生きていけるわけねえだろ』
『お前は俺の指示通りに動く手足なんだよ! 戻ってこい、戻ってきて俺に尽くせ!』
『嫌です……! 離して、離してください工藤さん――!』
「……っ、はっ……!?」
喉の奥から乾いた悲鳴が跳ね上がり、私は弾かれたように上半身を起こした。
万年床の冷え切った掛け布団を両手で力いっぱい握りしめ、荒い呼吸を繰り返す。
真っ暗な管理人室。
障子の隙間から漏れる街灯の青白い光が、四畳半の畳の上に細長い影を落としていた。
全身にびっしりと冷や汗をかき、パジャマの襟元がぐっしょりと肌に張り付いている。右腕を触れると、湿布を貼った手首のあたりが、まるで今も誰かに万力で締め上げられているかのようにジンジンと鈍く痛んでいた。
「……夢……また、あの夢……」
火曜日の夕暮れ、突然アパートに土足で踏み込んできた元上司・工藤の襲来から数日。
住人たちによって完膚なきまでに叩き出され、金曜日の朝には宮原くんに完璧なエスコートで手を繋いでもらい、昼間は柴崎さんの極上の料理に守られ、夕方は創くんが中庭を隈なく見回ってくれていた。
もう危険なんてどこにもないはずだった。頭では百も承知しているのに、深い眠りに落ちた瞬間、十年間の社畜時代に刻み込まれた恐怖の残滓が、亡霊のように網膜の裏側へと這い上がってくるのだ。
「……はぁっ……はぁっ……」
過呼吸気味の息を整えようと胸元を押さえるが、心臓は肋骨の内側で早鐘を打ち鳴らしたまま、一向に落ち着いてくれない。
喉が、カラカラに干からびていた。まるで砂漠の砂を飲み込んだかのように喉仏が張り付いて、うまく息が吸えない。
枕元の目覚まし時計に目をやると、蛍光塗料の針は深夜一時十分を指していた。
「お水……冷たいお水、飲まなきゃ……」
私は震える足で布団から這い出ると、厚手のモコモコしたカーディガンをパジャマの上から羽織った。
音を立てないように慎重に管理人室の引き戸を開け、静まり返る共用廊下へと足を踏み出す。
十一月下旬の深夜。木造アパートの廊下は、まるで屋外の路地裏のように底冷えしていた。スリッパ越しに床板の冷気が足裏をチクチクと突き刺し、薄暗い廊下には古い木材が軋む「ピキッ」という細かな音だけが響いている。
一階の中央にある共用キッチンへ向かおうと、角を曲がった――その時だった。
「……あれ?」
廊下の最奥。
一〇二号室のドアの足元から、一本の柔らかな光の帯が、暗い板張りへとスーッと伸びていた。
普段なら締め切り前であっても頑なに閉ざされているはずの分厚い木製ドアが、ほんの数センチだけ、外気を取り込むように薄く開け放たれていたのだ。
漏れ出てくる、白熱灯のオレンジ色の暖かな明かり。
そして――微かな紙の匂いと、ほのかに苦い煙草の薫香。
(深見さん……まだ、起きてる……?)
足音を忍ばせてドアの前まで近づくと、部屋の奥から、規則正しく、けれど凄まじい迫力を持った音が耳に届いてきた。
カタカタカタカタカタカタッ……!
タターンッ!
カタカタカタカタッ……!
打鍵音。
キーボードを叩く、嵐のようなタイピングの音だった。
水曜日の朝、四人で策定していたあの『大家警護シフト表』の項目を思い出す。
――『深夜(21:00〜07:00):深見怜[夜間待機・執筆拠点をリビングへ移管・不審者警戒]』。
リビングにこそいなかったものの、あの男は本当に、この深夜の深い時間帯に眠ることもなく、ドアをわずかに開けてアパートの気配を見張りながら、一人で原稿用紙と向き合っていたのだ。
覗き込むのは失礼だと分かっていた。
けれど、悪夢で凍りついていた私の心は、その生きている人間の力強いリズムに、引き寄せられるようにドアの隙間へと視線を向けてしまった。
「……っ」
思わず、息を呑んだ。
薄暗い六畳間。
散乱していた過去の雑誌の切り抜きや酒瓶は、先日の私の看病の際に片付けられたまま、最低限の清潔さを保っていた。
机の上に置かれたアンティークのデスクライトが、濃い琥珀色の光の円を作っている。
その光の真ん中に、深見怜がいた。
黒いスタンドカラーシャツの袖を肘の上までたくし上げ、逞しく骨張った前腕の筋を露わにしている。
ボサボサの黒髪に、黒縁の丸眼鏡。
顎にはうっすらと無精髭が伸び、薄い唇には火のついていない煙草が一本、無造作にくわえられていた。
ノートパソコンの画面を見つめるその横顔は、普段アパートで見せるあの気怠げで皮肉屋な姿とは、まるで別人の凄みを放っていた。
研ぎ澄まされた刃物のように冷徹で、獲物を解剖台の上に乗せるように峻厳な、累計三百万部超のベストセラー作家の完全なる執筆の鬼気。
画面に反射する光が眼鏡のレンズを青白く染め、叩き出される文字の激流が、夜の静寂を小気味よく切り刻んでいく。
その神聖ですらある横顔に見惚れ、思わず喉を鳴らしてしまった私の唇から、微かな掠れ声が漏れた。
「……深見さん……まだ、起きてたんですか……」
蚊の鳴くような小さな声だった。
激しいタイピングの音にかき消されて当然の、独り言のような呟き。
だが――。
ピタリ、と。
嵐のような打鍵音が、その瞬間に完全に止まった。
「…………」
深見は画面を見つめたまま、首を巡らせることもせず、くわえていた煙草を灰皿の上にコトリと置いた。
そして――背中を向けたまま、左手を無造作に後ろへと伸ばしてきたのだ。
スッ。
「……えっ?」
次の瞬間、私のパジャマの袖口から覗いていた右手首が、冷たくて長い、骨張った指先によって正確無比に捕らえられた。
力任せではない。けれど、絶対にほどけない、抗えない力加減。
「ひゃっ……!?」
引き戸の隙間から、グイッと部屋の中へと引き込まれる。
バタン、と背後でドアが静かに閉まり、カチャリと内鍵が下ろされた。
瞬く間に外界と遮断された密室。
鼻腔を満たしたのは、深見の部屋特有の、古本とインク、そして珈琲と煙草の混ざり合った、大人の男の濃密なテリトリーの匂いだった。
「ふ、深見さん……!? 何――」
抗おうとした私の身体は、深見の腕によって導かれるまま、部屋の隅にある万年床……ではなく、綺麗に整えられたシングルベッドの端へと、ストンと腰掛けさせられていた。
深見は一度も私の顔を見ないまま、床に転がっていた大きめのビーズクッションを足先で手繰り寄せると、私の冷え切った素足の真下にスッと敷き込んでくれた。
「……っ」
柔らかいクッションが、床板の冷気から私の足裏を完璧に遮断してくれる。
呆気にとられる私に、深見は無言で机の脇の保温ポットに手を伸ばした。
湯気を立てる陶器の湯呑み。
注がれた褐色の液体から、香ばしく焙煎された茶葉の芳醇な香りが立ち上る。
深見はその湯呑みを、私の両手の中へと押し付けるようにして手渡してきた。
「……熱いから、気をつけろ」
低く、掠れたハスキーボイス。
湯呑みから伝わってくる熱が、恐怖でかじかんでいた私の指先をじんわりと温めていく。
「これ……ほうじ茶……?」
「お前が夜中に珈琲飲んだら、朝まで目が冴えて大家業に差し支えるだろ。……小野寺が置いていった、京都の老舗のやつだ」
深見は乱れた前髪を指先でかき上げると、ようやく椅子を回転させ、眼鏡の奥の切れ長の瞳で私をジロリと見下ろしてきた。
私の青ざめた顔。
乱れた前髪と、冷や汗で湿った首元。
そして、手首をさするように湯呑みを抱える姿。
深見はそのすべてを一秒でスキャンし、深く、短いため息を吐き出した。
「……眠れないんだろ」
図星だった。
言い訳の言葉すら見つからない。
私は湯呑みを見つめたまま、小さく肩を縮こまらせた。
「あの……ごめんなさい。執筆の邪魔をするつもりじゃなくて……ちょっと喉が渇いて、キッチンにお水を汲みに行こうとしただけなんです。すぐ部屋に戻りますから……」
立ち上がろうとした私の膝の上に、深見の手がポンと置かれた。
重たく、けれど拒絶を許さない力。
「ここにいろ」
「え……? でも、原稿の締め切りが――」
「キーボードの音、嫌いじゃないだろ」
深見は丸眼鏡の位置を直すと、薄い唇を微かにほころばせ、低く喉を鳴らして笑った。
「子守唄代わりに聞いてろ。……部屋で一人で震えてるくらいなら、ここで俺の背中見てる方がマシだろ」
「深見、さん……」
「くだらねえ遠慮すんな。……俺が、ここにいろって言ってんだ」
それだけ言い捨てると、深見は背を向け、再び机の上のノートパソコンへと向き直った。
カタッ、と椅子の軋む音。
そして――何事もなかったかのように、激しいタイピングが再開された。
カタカタカタカタ……タターンッ!
カタカタカタカタカタカタッ……!
静まり返る深夜の部屋に、規則正しいリズミカルな打鍵音が響き渡る。
私はベッドの端に腰掛けたまま、湯呑みを両手で包み込み、温かいほうじ茶を一口、口に含んだ。
香ばしい茶葉の香りと、優しい温もりが、冷え切っていた胃の腑へとゆっくりと落ちていく。
身体の強張りが、ふっと解ける。
目の前には、アンティークランプの光を浴びる、深見怜の広い背中があった。
肩甲骨の起伏。シャツの背中に浮かぶ、大人の男の逞しい骨格。
煙草の紫煙が、ランプの傘の周りでゆらゆらと青白く揺らめいている。
(……不思議だな……)
胸の奥で、小さく呟く。
あんなに激しく脈打っていた心臓の早鐘が、このカタカタという打鍵音を聞いているうちに、嘘のように穏やかなリズムを取り戻していた。
悪夢の中で響いていた工藤の罵倒も、あの冷たいオフィスの怒号も、深見の紡ぎ出す言葉の音によって、綺麗に押し流されていく。
思い返せば、いつもそうだった。
第四話の深夜二時、眠れずにキッチンへ降りてきた私に、ぬるい缶ビールを渡して『前の会社が節穴だっただけだろ』と私の過去を肯定してくれたのも、この人だった。
第二十話で四十度の熱を出して悪夢に魘されていた時、私が手を握りしめ続けたのも、この背中だった。
第二十一話で眼鏡を外した素顔で壁ドンされ、『あんたの普通の感覚が、俺を現実に繋ぎ止めてる』と囁いてきた色気。
そして、火曜日の夕方、工藤の足元に煙草の灰を落とし、『見苦しい三流の悪役だな』と一刀両断してくれた、あの圧倒的な頼もしさ。
口は悪い。皮肉ばかり言う。自堕落で、煙草ばかり吸って、隙あらば私をからかってくる。
けれど――この男の言葉と存在には、どんな甘い慰めよりも深く、私の魂を根底から救い上げてくれる確固たる重みがあった。
カタカタ、カタカタ……。
心地よい音。
まるで、降りしきる静かな夜の雨の音を聞いているような。
あるいは、暖炉の前で薪がパチパチと爆ぜる音を眺めているような。
湯呑みから立ち上る蒸気と、古本の懐かしい匂い。
深見の背中から伝わってくる、絶対的な安全の気配。
「……ふあ……」
小さく、あくびが漏れた。
手足の先までぽかぽかと温まり、重たいまぶたが、じわじわと下りてくる。
空になった湯呑みをベッドサイドの小さなテーブルにコトリと置く。
横になるつもりなんてなかった。ただ、少しだけ背中を休めるだけのつもりだった。
けれど、クッションの柔らかさと、ベッドのシーツに残る深見の体温の心地よさに抗えず、私の身体は、自然と横へと傾いていった。
カタカタカタカタ……。
遠ざかっていくタイピングの音。
暗闇の中で、私を包み込む深い安らぎ。
私は吸い込まれるように、泥のような心地よい眠りの底へと落ちていった。
――チッ、チッ、チッ……。
どこか遠くで、小さな鳥の羽ばたきのような音が聞こえた。
冷たい朝の気配。
微かに開いたカーテンの隙間から、東の空が乳白色から淡い群青色へと移り変わる、夜明け前の青い光が部屋の中へと滑り込んでいた。
「……ん……っ……」
微かな吐息とともに、私はゆっくりと意識を浮上させた。
頭が重い。けれど、昨夜のような悪夢の息苦しさはカケラも残っていなかった。全身の筋肉が解きほぐされ、驚くほど深く、安らかな眠りから覚めた感覚。
身体の上には、いつの間にか厚手の羽毛布団がふわりと掛けられていた。
(あれ……私、深見さんのベッドで……寝ちゃってた……!?)
記憶が急速に蘇り、サッと血の気が引いた。
なんという失態。大家が店子の部屋に夜這い……ではなく、居座って勝手に熟睡してしまうなんて、前代未聞の不祥事だ。
慌てて飛び起きようと身じろぎをした――まさに、その瞬間だった。
「……っ!?」
私の呼吸が、喉の奥で完全に凍りついた。
動けない。
身動きが取れなかった。
なぜなら――。
スゥッ……。
私の顔の、わずか数センチの至近距離。
ベッドの脇の床の上に、片膝をついて屈み込んでいた影があった。
深見怜だった。
「…………」
丸眼鏡は外され、机の上に置かれていた。
アンティークランプの淡いオレンジ色の光と、窓から差し込む夜明け前の青白い光が交錯する境界線の中。
そこに浮かび上がっていたのは、息を呑むほどに美しく、鋭く、そして濡れたように艶やかな、作家の剥き出しの素顔だった。
高い鼻梁。
徹夜の執筆を終えたばかりの、微かに赤みを帯びた切れ長の瞳。
乱れた黒髪が額にかかり、薄い唇は引き結ばれている。
大人の男の、疲労と色気が極限まで煮詰められたその顔立ちが、私の顔のすぐ真横に迫っていた。
そして――。
スッ……。
深見の長く、骨張った指先が、音もなく伸びてきた。
冷たくて、けれど熱を帯びた指の腹が、私の額の上へとそっと触れる。
そして、寝乱れて額に張り付いていた私の前髪を、壊れやすいガラス細工を扱うかのような、信じられないほど繊細な手つきで、そっと耳の後ろへと払いのけたのだ。
ツツッ……と皮膚をなぞる指の感触。
背筋を、甘い電撃が駆け抜けていく。
深見の親指の腹が、そのまま私の頬骨へと滑り降り、火照った肌を優しく、愛おしそうになぞった。
その瞳の奥にあった光。
普段の皮肉も、毒舌も、作家としての傲慢さも綺麗に削ぎ落とされた――剥き出しの、切ないまでの情熱。
自分自身の手で触れていながら、触れることすら恐れているかのような、痛々しいまでの愛おしさ。
「ふ……深見、さん……」
声にならない私の唇の震えに、深見の指がピクリと止まった。
目が合った。
夜明け前の青い薄明かりの中で、二人の視線が、逃げ場のないゼロ距離で絡み合う。
深見は指を離さなかった。
私の頬に親指を添えたまま、至近距離で見つめ返してくる。
熱い呼気が、私の唇をかすめていく。
「……起きたか」
鼓膜を直撃する、低く、しゃがれたハスキーボイス。
その響きには、夜の静寂を震わせるほどの深い艶が宿っていた。
深見の顔が、さらに数ミリ、私の唇へと吸い寄せられるように近づく。
煙草の苦い匂いと、大人の男の生々しい熱が、私の思考回路を一瞬で真っ白に焼き切っていく。
「……無防備すぎるんだよ、あんたは」
耳元に落ちてくる、掠れた囁き。
深見の親指が、私の下唇の輪郭を、そっと切なげになぞった。
「男の部屋のベッドで……こんな無防備に寝息立てられたら……俺がどれだけ必死に理性保ってたか、分かってんのか」
「っ……!」
「……喰っちまいたいよ、今すぐにでも」
低く呟かれた、甘い毒。
触れ合いそうな唇。
深見の整った顔が、私の吐息を奪うために、ゆっくりと角度を変えた。
逃げられない。
机のランプの灯りと、夜明けの青い光が溶け合う静謐な密室で。
私の心臓は、激しい熱狂の中で、完全に時を止めてしまっていたのだった。




