第36話:宮原の朝のエスコート
十一月も下旬に入った金曜日の朝。
カーテンの隙間から差し込む光は冴え冴えと白く、目黒の閑静な住宅街はまだ半分ほど眠りの中に沈んでいた。
ピキリ、と古い木造アパートの梁が冷気で小さく鳴る。吐き出す息はうっすらと白く、布団から出た瞬間に足首を撫でていく冷気に思わず身震いした。
「……うう、寒い。でも、今日は資源ゴミと可燃ゴミの回収日……!」
管理人室の小さな鏡の前で、私は手早く髪を整えていた。
着崩したアイボリーのざっくり編みタートルネックニットに、動きやすい細身のインディゴデニム。昨日の夕方、二〇二号室の柴崎さんに丁寧に塗り直してもらった手首の湿布をニットの萌え袖で隠し、上からキャメルのウールショートコートを羽織る。
火曜日の夕方に起きた元上司・工藤の襲来から二日。
四人の住人たちによって物理的・社会的に叩き出された工藤の影は、あれ以来アパートの周囲には一切現れていなかった。けれど、一度刻まれた恐怖の記憶はそう簡単には消えてくれない。夜中にふと目が覚めてエントランスの施錠を確かめに行きたくなるような微かな怯えを、私はまだ胸の奥底に抱えていた。
――そして、その私の怯えを、あのハイスペックな男たちが放置するはずがなかったのだ。
(まさか……本当にやる気じゃないでしょうね……?)
水曜日の朝に突如として突きつけられた、あの悪夢のような『大家警護シフト表(二十四時間体制)』。
冗談であってくれという私の祈りは、時計の短い針がちょうど『7』を指した瞬間、無慈悲にも打ち砕かれることとなった。
――トントン。
正確無比なリズムで、管理人室の引き戸が二回ノックされた。
「栞さん。おはようございます、朝の七時です。ゴミ出しとお買い出しの時間ですよ」
引き戸越しに降ってきたのは、まるで高級ホテルのモーニングコールのように滑らかで、耳障りのいいバリトンボイス。
一〇一号室の住人、宮原陸だった。
「……ほんとに来た……!」
私はごくりと喉を鳴らし、覚悟を決めて引き戸をガラリと開けた。
そこに立っていた男の姿を目にした瞬間、私の視神経は激しい光の暴力に晒されることになった。
「おはようございます、栞さん。よく眠れましたか? 手首の痛みは引きましたか?」
爽やかな百点満点の笑顔。
そこに立っていたのは、部屋着のスウェット姿でも、寝癖のついた気怠げな姿でもなかった。
完璧にアイロンが掛けられた純白のワイドカラーシャツに、上品な光沢を放つチャコールグレーの英国調スリーピーススーツ。ネクタイは深みのあるボルドーのシルクタイが寸分の狂いもなくディンプルを作って締め上げられ、胸元にはシルバーの上品なタイバーが鈍い輝きを放っている。
肩には上質なカシミアのチェスターコートを羽織り、足元には手入れの行き届いた黒の内羽根ストレートチップ。
手には、高級レザーのブリーフケース……ではなく、私が昨日まとめておいた、パンパンに膨らんだ四十五リットルの可燃ゴミ袋と資源ゴミの袋が、両手に二つずつ、極めて優雅にぶら下げられていた。
「み、宮原くん……!? あなた、その格好は一体……」
「見ての通り、出社スタイルですよ。今日は午前中に丸の内のクライアント先で役員プレゼンがありますから」
「そ、その格好でゴミ袋を持たないで! スーツに生ゴミの匂いがついたらどうするの!?」
「大丈夫ですよ、二重に密閉してありますから。それに、栞さんにこんな重いものを持たせるわけにはいきません。……さあ、行きましょうか」
陸は何食わぬ顔でゴミ袋を持ち上げると、革靴をカツンと鳴らしてエントランスの引き戸をエスコートするように開け放った。
朝の凛とした冷気が、二人の頬を撫でる。
外資系コンサルの若きトップリーダーが、ゴミ袋を両手に提げて木造アパートの門をくぐる光景。あまりにもシュールで、けれど直視できないほど眩しい絵面に、私の頭は朝一番からクラクラと目眩を覚えていた。
アパートの敷地を出て、目黒の住宅街の通りへ出る。
朝の澄み切った青空の下、晩秋の冷たい空気が肺の奥まで染み渡る。
普段なら、鼻歌でも歌いながら一人でのんびり往復するだけの徒歩二分のゴミ集積所への道。
だが今朝は、その何気ない日常の風景が、完全に針の筵と化していた。
カツ、カツ、カツ……。
アスファルトに響く、陸の磨き抜かれた革靴の小気味よいステップ。
百八十センチを超える長身、モデル顔負けのスタイル、そして雑誌の表紙から抜け出してきたかのような極上の美貌。
そんな男が、ゴミ袋を提げて私のすぐ真横にぴったりと寄り添って歩いているのだ。
すれ違う通勤客の会社員たちが、二度見どころか三度見していく。
犬の散歩をしていた近所の奥様方が、目を丸くして足を止め、ひそひそと囁き交わしている。
女子高生の集団に至っては、「えっ、嘘、俳優……?」「やばい超かっこいい……」「でも隣の人、誰……?」と、私へ向けて突き刺さるような好奇と羨望の視線を浴びせかけてくる。
「うう……居心地が悪い……! 穴があったら入りたい……!」
私はコートの襟を立て、縮こまるようにして早足になった。
横を歩く陸を見上げると、彼は周囲の視線などまるで空気のように意に介さず、涼しい顔で周囲の路地の死角や電柱の陰を鋭い眼光でチェックしていた。
「……宮原くん」
「はい、何でしょう、栞さん」
「あのね、本当にありがたいんだけど……出社前にこんなことしてたら、遅刻しない? 丸の内まで行くんでしょ? 電車の時間とか、プレゼンの最終確認とかあるんじゃないの?」
私が申し訳なさと気恥ずかしさから問いかけると、陸は歩調を少し緩め、私の顔を覗き込むようにしてふわりと目を細めた。
朝の光を浴びた切れ長の瞳が、甘く蕩けるような熱を帯びる。
「いいえ。栞さんと朝の散歩ができるなら、三十分早起きするくらい何でもありませんよ」
「な……っ」
「むしろ、普段なら満員電車に揺られて胃を痛めているだけの時間に、こうしてあなたと並んで歩けるんです。僕にとっては、どんな高級ホテルのブレックファストよりも贅沢な朝のエネルギーチャージです」
「ちょ、ちょっと、宮原くん……! そういう歯の浮くようなセリフを真顔で言うの、やめなさいってば!」
「本心ですから仕方がありません」
陸はフッと悪戯っぽく笑うと、集積所のカラス除けネットを片手で器用に持ち上げ、持っていたゴミ袋を手際よくネットの奥へと収めた。
汚れひとつスーツにつけることなく、ネットを戻して手をパンパンと払う。
その一連の動作すら、高級レストランでナプキンを畳むかのように洗練されていた。
「さて、ゴミ出しのミッションはコンプリートですね。次は、警護シフトの項目にある『日用品の買い出し』です」
「買い出しって言っても、切らしてるのは共用のキッチンペーパーとトイレットペーパーくらいよ? 駅前のドラッグストアなら私が後で一人で行くから――」
「ダメです。一人で出歩かせないための警護シフトですからね」
陸は私の言葉を即座に却下した。
「ペーパー類は僕が夜にネットスーパーでダース買いしてアパートに配送手配しておきます。それより、せっかくここまで出てきたんです。駅前の通りにある、あの新しくできたベーカリーに行きませんか? あそこの焼きたてのクロワッサン、栞さんがずっと気になっていたのを僕は知っていますよ」
「えっ……あそこのパン屋さん!?」
思わず声が弾んでしまった。
先月、駅前商店街の角にオープンしたばかりの、フランス仕込みのブーランジェリー。朝七時から焼き立てのバゲットやクロワッサンを並べる人気店で、いつも行列ができていて気になっていたのだ。
元社畜の胃袋を刺激するピンポイントな提案に、私のツッコミ精神がふっと緩んでしまう。
「ふふ、やっぱり食いつきましたね。行きましょう、僕がごちそうしますから」
「う……ごちそうはダメ、大家の私が払うからね!」
そんな他愛のない言い合いをしながら、私たちは大通りへと続く商店街の歩道へと足を進めた。
大通りへ近づくにつれて、通勤・通学の人の波が少しずつ増え始めていた。
歩道はそれほど広くない。
陸はごく自然な動作で、私の身体を歩道の内側――建物側へと誘導し、自分自身が車道側を歩くポジションをキープしていた。
完璧なレディーファースト。
背が高く、肩幅の広い陸が車道側に立っているだけで、冷たいトラックの風圧や自動車の走行音が遮られ、まるで頑丈な防壁に守られているような安心感が生まれる。
(……ほんと、隙がない男の子よね……)
隣を歩く陸の横顔を、コートの襟越しに盗み見る。
第一話で手首を掴んできた深見さんの気怠い色気とも、第六話でお粥を食べさせてくれた柴崎さんの包容力とも、第十話のコインランドリーで耳を赤くしていた創くんの純情とも違う。
怜悧で、スマートで、洗練されていて、けれど時折見せる年下特有の傲慢なまでの情熱。
外資系コンサルのエリートとして、親族からの重圧に耐えながら戦ってきたこの青年が、いま、私の隣でただ一人の男として呼吸をしている。
第十七話の大衆中華の帰り道、夕暮れのエントランスで『僕の居場所を取らせないでください』とネクタイを引き寄せられたあの熱い記憶が、冷え切った朝の空気の中で、ふっと胸を焦がすように蘇ってくる。
――その時だった。
「うわっ、どいてどいてぇーッ!」
甲高いベルの乱打音とともに、前方の路地の角から、スピードを出した通勤用のクロスバイクが猛烈な勢いで曲がり込んできた。
スマホを見ながらの危険運転。ハンドルがぐらつき、歩道の内側を歩いていた私の方へと、一直線に突っ込んでくる。
「きゃっ……!?」
突然の事態に、私の足がすくんだ。
火曜日の工藤の時のように、反射的に身を竦めて目を瞑りかけた――そのコンマ一秒後。
――グイッッッ!
「しまっ……栞さんっ!」
強烈な力で、私の右肩と腰が、横から引き寄せられた。
空気の抵抗を切り裂くような素早い動き。
ドスン、と鈍い衝撃とともに、私の額と鼻先が、陸の硬く引き締まった胸板へと隙間なく埋まった。
ヒュンッッッ!
自転車のハンドルが、陸のチェスターコートの背中すれすれを掠めて走り去っていく。
「あぶねえなクソッ!」という罵声が遠ざかるが、そんな声など、私の耳には一切届かなかった。
「……っ……は……」
息が詰まる。
私の身体は、陸の長い両腕によって、すっぽりと抱きすくめられていた。
至近距離で伝わってくる、大人の男の生々しい体温と、力強い心臓の早鐘。
カシミアのコートの滑らかな手触りと、高級スーツのウールの匂い、そして――陸の首筋から立ち上る、洗練されたシトラスとサンダルウッドの芳醇な香水が、私の全身の感覚を暴力的なまでに支配していた。
「……怪我はありませんか、栞さん」
耳元すれすれの距離で、低く、微かに息を弾ませた声が降ってきた。
見上げると、至近距離に陸の顔があった。
額が触れそうな距離。
陸の端正な眉は険しく寄せられ、切れ長の瞳には、私を傷つけさせまいとする剥き出しの焦燥と怒りが宿っていた。
けれど、私の無事を確かめた瞬間、その瞳の奥の険しさが、ふっと濃密な熱を帯びて揺らめいた。
「だ、大丈夫……! 怪我は、ないよ……! 宮原くんこそ、ぶつからなかった!?」
「平気です。……あなたを守るためなら、自転車の一台や二台、体当たりで弾き飛ばしますから」
「そ、そんな無茶言わないでよ……!」
心臓が肋骨を突き破りそうなほど暴れている。
恐怖のせいではない。この男との距離がゼロであることへの、甘いパニックのせいだった。
私は身じろぎをして、陸の胸板からそっと離れようとした。
「あ、あの……宮原くん、もう大丈夫だから……離して……」
「…………」
陸は私の腰に回していた左手を、ゆっくりと解いた。
ふう、と息を吐き出した私。
けれど――離れたのは、腰だけだった。
スッ……。
陸の右手が、私のコートの袖口から覗いていた右手へと、音もなく滑り降りてきた。
そして。
躊躇うことなく、私の指先を優しく押し開き――。
ヌルリ、と。
温かく、長く、手入れの行き届いた陸の指先が、私の指と指の隙間へと、深く、根元まで滑り込んできたのだ。
「……っ!?」
息が止まった。
絡み合う五本の指。
手のひらと手のひらが、皮膚と皮膚を完全に密着させ、互いの体温を逃がさないように隙間なく組み合わされる。
完全なる――恋人繋ぎ。
チャコールグレーの高級スーツの袖口と、私のアイボリーのニットの萌え袖。
朝の澄み切った陽光の下、冷たい大気の中で、二人の手元だけが狂おしいほどの熱を帯びて絡み合っていた。
「み……っ、宮原くんっ!?」
私は真っ赤になって手元を見つめ、思わず引き抜こうと力を込めた。
だが、陸の指は岩のように硬く、けれど優しく締め上げられ、一ミリたりとも抜け出せなかった。
「手……っ、手、繋ぐ必要ある!? 歩道なんだし、もう自転車も通り過ぎたよ!?」
上擦った声で抗議する私に、陸は前を向いたまま、平然とした横顔で歩き出した。
ぐっと引かれる右手。
繋がれた手を通じて、陸の力強い脈拍が、私の心臓へとダイレクトに流れ込んでくる。
「はぐれたら危ないですから」
「はぐれるような人混みじゃないでしょ!?」
「それと」
陸は歩調を合わせながら、ふっと口角を吊り上げた。
視線だけをこちらに向け、悪戯っぽく、けれど逃げ場のない男の瞳で私を見つめてくる。
「見せつけてやりたいんです。……他の男たちに」
「え……?」
「今朝の栞さんを独占しているのは、僕だって。……柴崎さんにも、創くんにも、深見先生にも。朝一番にあなたと手を繋いで、あなたの隣を歩いているのは宮原陸なんだって、知らしめてやりたいんですよ」
傲慢で、けれどたまらなくストレートな独占欲。
外資コンサルの完璧な仮面をかなぐり捨てた、一人の雄としての本音。
あまりの破壊力に私の思考回路がショートしかけた――その時だった。
「……っ」
ふと見上げた陸の横顔。
完璧なポーカーフェイスを気取っているはずの彼の、短く整えられた襟足と、白い耳の先が。
朝の寒さのせいだけではない、隠しようのない鮮烈な朱色に、ポッと染まり上がっていたのだ。
(あ……)
胸の奥が、ドクンと音を立てて跳ね上がった。
余裕たっぷりに口説いてきているように見えて。
完璧なエリートの顔をして、大人の男として私をリードしているように見えて。
この男の子もまた――私の手を握っているこの瞬間に、心臓を狂おしいほど高鳴らせ、必死に平静を装っているのだ。
二十五歳の、不器用で、一生懸命で、愛おしい年下の男の子。
その落差に気づいてしまった瞬間、私の心臓の鼓動は完全に制御不能の領域へと突入し、繋がれた手のひらから熱い汗が滲み出しそうになった。
「……宮原くんの、バカ」
「バカで結構ですよ。……離しませんから」
陸は繋いだ手に、さらにぎゅっと力を込めた。
痛くない、けれど絶対に逃がさないという、甘く重い拘束。
私たちは手を繋いだまま、駅前の通りへと足を進めた。
やがて見えてきたブーランジェリーのガラス扉の向こうからは、焼き立てのクロワッサンの香ばしい発酵バターの香りと、挽きたての珈琲の匂いがふわりと漂ってきた。
「さあ、着きましたよ、栞さん。好きなパンを全部選んでください。僕が全部買いますから」
「だから、私が払うって言ってるでしょ……!」
繋がれた手をそっと解き、照れ隠しのようにトングとトレイを手に取る私。
けれど、解放されたはずの私の右手には、まだ陸の指の感触と、あの熱い体温が、消えない焼き印のように残り続けていた。
朝の光が差し込むベーカリーの店内で、焼き立てのパンを見つめながら微笑む陸のスーツ姿。
過保護モードに突入した男たちの包囲網は、私の想像を遥かに超えて、甘く、息苦しく、そして抗えない引力を持って加速し始めていたのだった。




