第35話:過保護モード突入
障子を透かして届く柔らかな冬の陽射しに、私はゆっくりとまぶたを押し上げた。
畳の上に敷かれた敷布団。毛布の端を握りしめたまま、私は天井の木目をじっと見つめて、深く、長いため息を吐き出した。
「……夢じゃ、なかったんだよね……」
右手を持ち上げ、パジャマの袖をそっとまくってみる。
手首から前腕にかけて、昨日の夕方に元上司・工藤から力任せに掴まれた痕が、痛々しく赤紫色の痣となって残っていた。指先で触れると、鈍い痛みがズキンと走る。
けれど――その痣の周囲には、昨夜、柴崎さんが手際よく塗ってくれた消炎鎮痛のジェルと、丁寧に巻いてくれた医療用包帯が、驚くほど優しく私の肌を守っていた。
昨日の夕暮れ。
突然アパートに土足で踏み込んできた工藤の暴力と、十年間のトラウマがフラッシュバックして過呼吸を起こした私。
そして――あの絶望の淵から、私を力づくで引き戻してくれた、四人の男たちの姿。
濡れ鼠になりながら私を背中で庇い、工藤の手首を握り潰しかけた創くん。
法務の知識と親会社へのパイプを武器に、社会的抹殺を突きつけた宮原くん。
料理バサミと防犯カメラの映像で、逃げ場のない刑事罰の包囲網を敷いた柴崎さん。
そして、新作ミステリのモデルにしてネットに晒し上げると脅しつけた深見さん。
工藤を完膚なきまでに叩き出したあと、緊張の糸が切れてエントランスで子どものようにしゃがみ込んで大泣きしてしまった私を、誰一人として茶化さず、それぞれの手法で温もりを与えてくれたあの夜。
ハンカチを握らせてくれた手。
頭を不器用にポンポンと撫でてくれた掌。
肩に掛けられたウールの羽織もの。
そして、胃の腑の底から温めてくれた、特製のスパイスミルクティー。
(あんなに情けない泣き顔を見せちゃって……本当に恥ずかしい……)
思い出して、顔から湯気が出そうになる。
三十代の自立した大家として、あるまじき醜態だった。住人に迷惑をかけないどころか、完全に守られるだけのヒロインのように取り乱してしまったのだ。
だが、いつまでも布団の中で悶絶しているわけにはいかない。
「よし……! 起きて、普段通りの日常を取り戻さなきゃ!」
私は気合いを入れて飛び起きると、髪を後ろで一つに束ね、いつもの動きやすいデニムとタートルネックニットに着替えた。
昨日の恐怖を振り払う一番の特効薬は、身体を動かして無心で働くことだ。
まずは、工藤の泥靴で汚されてしまったエントランスの上がり框を、中性洗剤とデッキブラシで徹底的に磨き上げ、ワックスを塗り直さなければならない。
雑巾とバケツを手に、管理人室の引き戸をガラリと開けた。
そして、意気揚々と玄関エントランスへ足を踏み入れた瞬間――私の足は、ピタリと止まった。
「……え?」
ぽかんと口が開いた。
そこに広がっていたのは、昨日泥だらけに踏み躙られたはずの玄関ではなかった。
上がり框の板張りは、まるで最高級ホテルのロビーのようにピカピカに磨き上げられ、寸分の埃すら残っておらず、すでに完璧な蜜蝋ワックスが施されて飴色に輝いていた。
土間のコンクリートは散水ホースで洗い流された形跡があり、カラリと乾いて清々しいヒノキの香りが漂っている。
それだけではない。
玄関ドアの内側には、昨日までは存在しなかった、頑丈な二重の補助錠と、最新型の電子スマートロックが真新しい輝きを放って増設されていたのだ。
「な、何これ……!? いつの間にこんな工事が……!?」
呆然と立ち尽くす私の耳に、共用ダイニングの方から、何やら真剣な討議の声が漏れ聞こえてきた。
『――動線上の死角は、中庭の裏木戸と勝手口の二箇所です。すでにセンサーライトの増設は手配しました』
『食材の仕入れルートも変更します。彼女を一人で商店街へ行かせるわけにはいきませんからね』
『……美大の講義、午後の出席は連れに代返頼む。三時前には絶対戻る』
『おい、夜間の見張り当番の珈琲豆が足りねえぞ。最高級の深煎りを経費で落とさせろ』
「…………」
不穏すぎる。
嫌な予感しかしない。
私はバケツを床に置き、音を立てないように忍び足でダイニングの引き戸へと近づき、そっと隙間から中を覗き込んだ。
そこに広がっていた光景に、私は二度見、三度見した。
水曜日の朝八時。
普段なら、宮原くんはとっくに出勤の身支度を終えている時間だし、深見さんは万年床で死んだように眠っている時間だ。創くんは朝食もそこそこにアトリエへ駆け出しているはずだし、柴崎さんは店のランチ仕込みの段取りに追われているはずだった。
それなのに――四人全員が、無垢材のダイニングテーブルを囲んで勢揃いしていたのだ。
テーブルの中央には、ホワイトボード用の巨大なイーゼル。
そこに掲げられていたのは、カラー印刷された巨大なA3の用紙だった。
上部には、極太のゴシック体で、おぞましいタイトルが躍っている。
『メゾン・サクラ大家(佐伯栞)警護シフトおよび生活防衛基本計画書』
「……け、警護……シフト……!?」
思わず声が漏れた。
その瞬間、引き戸の隙間から私の姿を捉えた四つの視線が、バッと一斉にこちらを向いた。
「あ、栞さん! 起きてこられたんですね!」
スーツ姿の宮原陸が、パッと顔を輝かせて立ち上がった。
「おはようございます、栞さん。手首の痛みはどうですか? 温かいオムレツを焼いてありますよ」
エプロン姿の柴崎晴人が、極上の笑顔で椅子を引いてくれる。
「……おい。顔色、まだ青いじゃねえか。突っ立ってねえで座れ」
黒のスウェット姿の野村創が、ぶっきらぼうに私の手首を掴んでテーブル席へと誘導する。
「寝不足か、大家。クマができてるぞ。ほら、白湯飲め」
丸眼鏡を直した深見怜が、湯気を立てるマグカップを私の目の前へと押しやってきた。
怒涛の気遣い。過剰すぎる手厚いエスコート。
椅子に座らされた私は、出された白湯を一口啜り、呼吸を整えてから、目の前のイーゼルを指差した。
「あ、あの……皆さん。おはようございます。……で、これ、何ですか?」
私の問いかけを待っていましたとばかりに、宮原陸がスーツのボタンを留め、レーザーポインターを片手にスッと前に出た。
外資系コンサルの役員プレゼンそのものの、完璧な立ち居振る舞い。
「ご説明いたします、栞さん。昨日の事件を受け、僕たち四人で緊急危機管理委員会を招集し、向こう一ヶ月間の『大家警護シフト表』を策定いたしました」
「き、緊急危機管理委員会……?」
「ええ。昨日の工藤という男の行動特性を分析した結果、典型的な自己愛性パーソナリティ障害、ならびに執着型のストーカー予備軍であると断定されました。昨日は我々の威嚇によって撤退しましたが、プライドを粉々に砕かれたこの手の人間は、逆恨みによる報復、あるいはターゲットが孤立する時間帯を狙った再襲来のリスクが極めて高い。初動での完全制圧が不可欠です」
陸がレーザーポインターの赤い光を、A3用紙のタイムテーブルへと照射した。
そこに記されていたスケジュールを見て、私の目は点になった。
【大家警護基本シフト(二十四時間体制)】
・朝(07:00〜08:30):宮原 陸[出社前ゴミ出し同行・日用品買い出しエスコート・外周確認]
・日中(08:30〜16:00):柴崎 晴人[アパート見守り・昼食管理・仕込み時間調整による共用部常駐]
・夕方(16:00〜21:00):野村 創[大学講義直帰による共用部巡回・施錠確認・屋外力仕事代行]
・深夜(21:00〜07:00):深見 怜[夜間待機・執筆拠点をリビングへ移管・不審者警戒]
「…………」
息が止まった。
二十四時間。
文字通り、一分一秒の隙間もなく、四人のハイスペック男子の名前で私の生活がびっしりと埋め尽くされていた。
「ち……ちょっと待ってぇぇぇぇぇッッッ!!」
私は椅子をガタッと鳴らして立ち上がり、両手を机にバンッと叩きつけた。
「何よこれ! 二十四時間体制って何!? 私、三十歳の節目もとっくに過ぎた、三十二歳の大人の女性だよ!? 一人でゴミ出しも行けない子ども扱いしないで!」
「年齢は関係ありません」
陸が涼しげな顔で即座に切り返してきた。
「相手は成人男性です。物理的な腕力差がある以上、女性が一人で行動すること自体がリスク要因です。朝のゴミ集積所は路地の死角にありますから、僕が必ず横に張り付きます。出社時間を三十分前倒しすれば何の問題もありません」
「問題大アリよ! 宮原くん、外資の激務でしょ!? 朝の貴重な時間をこんなことに使ってどうするの!」
「栞さんの安全より優先すべき仕事なんて、この世に存在しません」
さらりと、呼吸をするように重たい言葉を返してくる年下エリート。
私の反論が喉に詰まると、今度はキッチンから柴崎さんが、とろとろのチーズオムレツが乗った皿を運びながら、甘やかな微笑みで参戦してきた。
「陸くんの言う通りですよ、栞さん。日中は僕が担当します。ビストロのランチ営業は真壁に任せて、僕は仕込みの作業をすべてこの共用キッチンへ持ち込みますからね」
「は、晴人さん!? お店の営業を後輩に丸投げするなんて、プロとしてダメでしょ!?」
「真壁の教育にもちょうどいい機会ですから。それに――」
柴崎さんはオムレツの皿を私の前へ置くと、スッと身をかがめ、私の耳元へ甘い吐息を落としてきた。
「昨日のように、あなたが一人きりで怯えて泣く姿なんて……二度と見たくないんです。三十ニ歳でも、僕たちの大切な、守るべき大家さんなんですから」
「ひゃぅ……っ」
耳元をかすめる低音ボイスに、背筋を甘い痺れが駆け抜ける。
すかさず、テーブルの向かいから創が、タンクトップの逞しい胸板を揺らして身を乗り出してきた。
「……夕方は、俺だ。コンクール前だろうが関係ねえ。三時にはアパートに戻って、あんたの周りを全部見回る。……重い荷物も、電球交換も、外の掃除も、あんたは指一本動かすな。全部、俺がやる」
「創くん、美大のコンクール直前でしょ!? 大事な作品の仕上げがあるじゃない!」
「……あんたがまた腕掴まれて泣いてんの見んのと比べたら、コンクールなんてどうでもいいんだよ」
そっぽを向きながら、耳の先まで真っ赤にして告げられる、直球ど真ん中の庇護欲。
心臓がトクンと激しく跳ね上がる。
そこへ、深見が煙草の煙を天井へ細く吐き出しながら、気怠げに口角を吊り上げた。
「夜は俺のターンだ。原稿用紙とノートPCをリビングに持ち込んで、朝までここで見張っててやる。……夜中に喉が渇いて部屋を出てきても安心だろ? 俺がいつでも抱きとめてやるよ」
「深見さん! あなた、ただリビングでサボりたいだけでしょ!」
「サボりじゃねえよ、命懸けの警護だ。……いい口実ができたんだから、観念して甘やかされてろ、鈍感女」
「だーーーっ!! 誰が鈍感女よ!!」
私は頭を抱えて絶叫した。
四者四様の、完璧すぎる「大義名分」。
昨日の工藤の襲来によって、男たちには「栞を守る」という、倫理的にも感情的にも絶対に反論できない最強の盾が与えられてしまったのだ。
嫉妬でもない、抜け駆けでもない、「大家の安全確保」という崇高な目的のもと、堂々と私を二十四時間監視し、独占し、甘やかす権利を全員が手に入れてしまっていた。
「……ちょ、ちょっと待ってください」
私は深呼吸をし、元営業事務としての論理的思考を総動員して説得を試みた。
「皆さん、心配してくれる気持ちは本当に嬉しいです。昨日は本当に助けられましたし、感謝してもしきれません。……でも! ここまでされると、私、まるで軟禁生活じゃないですか! 一人で息を抜く時間すらありません!」
私の抗議に、四人の男たちが顔を見合わせた。
そして――。
「軟禁だなんて、人聞きの悪い」(陸・爽やかな笑顔)
「愛ある見守りですよ」(柴崎・菩薩の微笑み)
「……あんたが一人でいると危なっかしいからだろ」(創・耳を赤くして腕組み)
「諦めろ。逃げ場はねえぞ」(深見・紫煙を燻らせてニヤリ)
「「「「…………」」」」
全員、一歩も引く気がない。
それどころか、その瞳の奥には、獲物を完全に檻の中に囲い込んだことを確信した、肉食のギラギラとした熱狂が宿っていた。
――そして、その「過保護モード」は、宣言通り、その瞬間から容赦なく発動した。
「さあ栞さん、朝食のオムレツが冷めてしまいます。僕が一口ずつ食べさせてあげましょうか?」
「結構です! 自分で食べられます!」
私がスプーンを奪い取るようにしてオムレツを口に運ぶと、柴崎さんは満足そうに目を細めて紅茶を注ぎ足してくる。
食べ終えて立ち上がり、床に置いてあったバケツを手に取ろうとすると――。
「触るな」
創が横から割り込んできて、バケツと雑巾をひったくるように奪い去った。
「水仕事は手が荒れる。……玄関の掃除なら、俺が五分で終わらせる。あんたは座ってろ」
「あ、でも――」
「栞さん、ゴミ出しの時間です。僕がゴミ袋を持ちますから、行きましょうか」
スーツ姿の陸が、私の部屋着の上からカシミアのコートをふわりと羽織らせ、私の背中に優しく手を添えてエスコートしてくる。
「えっ、ゴミ袋くらい自分で持てるよ!?」
「重いものを持たせるわけにはいきません。……ほら、手を出してください」
「手……?」
戸惑う私の指の間に、陸の長い指が、当然のような顔をしてスルリと滑り込んできた。
ぎゅっ。
完璧な、逃げ場のない恋人繋ぎ。
「ひゃっ……!? み、宮原くん!? なんで手を繋ぐの!?」
「はぐれたら危険ですから。……護衛の基本ですよ」
悪戯っぽく微笑む陸の瞳には、工藤への怒りなど微塵もなく、朝の光の中で私を独占できた喜びに満ち溢れていた。
勝手口では柴崎さんが「行ってらっしゃい、栞さん。お昼は何が食べたいか考えておいてくださいね」と微笑み、廊下では深見さんが「寄り道したら承知しねえぞ」と煙草をくわえて見送り、中庭では創がバケツを持って仁王立ちで睨みを利かせている。
(な……なんなのよ、これぇぇぇぇぇっっっ!!)
心の中で、盛大に天を仰ぐ私。
工藤という外敵を撃退した結果、待っていたのは――。
四人の極上男子たちによる、二十四時間体制の、甘くて、過剰で、逃げ場が完全にゼロの「溺愛軟禁生活」だったのだ。
平穏な一人暮らしへの道は、またしても遥か彼方へと遠ざかっていくのだった。




