第34話:撃退の後の涙
――ザッ、ザッ、ザザッ……!
遠ざかっていく工藤のみっともない足音と、金属製の門扉がバシャンと跳ね返るように閉まる音が、冷たい雨のカーテンの向こうへと溶けて消えた。
あとには、シトシトとトタン屋根を叩く秋雨の湿った音と、荒れ狂う風が庭木を揺らす細かな葉擦れの音だけが残されていた。
静まり返る、メゾン・サクラのエントランス。
雨水と泥で黒く汚された上がり框の板張り。
ほんの数十秒前まで、そこには私の平穏を粉々に破壊し尽くそうとする過去の亡霊が立ち塞がり、暴力的な言葉で私を絶望の淵へと引きずり落とそうとしていた。
それが、いまは嘘のように消え去っている。
助かったのだ。
あの悪夢のような場所へ引き戻されずに済んだ。
手首を握り潰されそうになりながらも、この四人の男たちが、それぞれの持てる力と知恵と怒りのすべてを注ぎ込んで、一歩も引かずに私を守り抜いてくれた。
それなのに――。
「……あ、あの……っ」
私の唇から最初にこぼれ落ちたのは、感謝の言葉ではなかった。
十年間、ブラック企業という名の檻の中で、理不尽な暴力とモラハラに晒され続けた結果、私の骨の髄まで染み付いてしまっていた、呪いのような防衛反応。
「ご……ごめんなさい……っ! 本当に……ごめんなさい……っ!」
私は腰を折り、深々と、壊れた操り人形のように何度も何度も頭を下げた。
「私の……私のせいで、こんな酷いトラブルに巻き込んじゃって……! 皆さんのお仕事や、大事な作品の準備や、お店の仕込みの時間まで台無しにして……こんな、警察沙汰になりそうな揉め事に巻き込んで……本当に、ごめんなさい……っ! 全部、私の管理不足です……私が、もっとちゃんと退職の手続きを……」
ペコペコと、機械のように頭を下げ続ける。
額から脂汗が吹き出し、息が苦しい。
他人に迷惑をかけてはいけない。自分のトラブルはすべて自分が悪い。他人に責められる前に、土下座してでも謝罪して、その場を収めなければならない。
そうやって、前職で十年間、心を殺して擦り減らし続けてきた元社畜の哀れな習性が、恐怖から解放された途端に暴走していた。
しかし――。
「……ひっ……く……っ」
謝罪の言葉を続けようとした瞬間、私の喉の奥が、ぎゅっと痙攣を起こした。
過呼吸気味だった肺が引き攣れ、胃の底から熱い塊がせり上がってくる。
「あ……れ……っ?」
止めようと思ったのに、止まらなかった。
張り詰めていた細い糸が、プツンと、音を立てて千切れてしまったのだ。
目頭から、大粒の涙がポロポロと零れ落ち、泥で汚れた板張りの上にポタポタと濡れた染みを作っていく。
怖かった。
腕を掴まれた時、本当に死ぬほど怖かった。
またあの冷たいオフィスで罵倒される日々に逆戻りするんじゃないかという恐怖。
誰にも助けてもらえないんじゃないかという絶望。
三十代にもなって、男一人に腕を掴まれただけで足がすくんで動けなくなってしまった自分への、耐え難い情けなさ。
そして――この温かいアパートの住人たちに、これ以上ないほど迷惑をかけてしまったという罪悪感。
あらゆる感情がぐちゃぐちゃに混ざり合い、私の膝からすうっと力が抜けた。
ガクンッ。
「う……あ……っ、うわぁぁぁん……っ!」
私はその場にへたり込み、両手で顔を覆って、子どものようにしゃがみ込んで泣きじゃくってしまった。
みっともない。恥ずかしい。
年上の大家として、三十代の大人の女性として、こんな姿を見せるなんて最悪だ。
怒られるに決まっている。「いい歳して泣くな」「迷惑だ」と罵倒されるに決まっている。
そう身を縮こまらせ、冷たい罵声を覚悟して耳を塞ごうとした――その時だった。
誰も、怒らなかった。
誰も、嘲笑わなかった。
誰も、私の情けない涙を茶化したりしなかった。
――スッ。
静寂の中、衣擦れの音が一つ。
「……栞さん」
最初に動いたのは、宮原陸だった。
十万円以上するであろう仕立ての良いスーツのスラックスを、泥水と雨水で汚れた土間に擦りつけることすら微塵も躊躇せず、陸は私の目の前で片膝をついた。
視線を、床にしゃがみ込む私と同じ高さまで下げてくれる。
「宮原……くん……っ」
顔を上げられない私の震える両手の上に、そっと、温かい指先が触れた。
そして、私の強張った指を優しく解くようにして、一枚の布が握らされた。
パリッと完璧にアイロンが掛けられた、純白の上質な綿のハンカチ。
陸がいつも胸ポケットやバッグに忍ばせている、爽やかなシトラスの香りがふわりと鼻腔をくすぐる。
「謝らないでください」
陸の声は、先ほど工藤を論理的に追い詰めていた時の冷徹さとは別人のように、どこまでも柔らかく、甘く、切なさに満ちていた。
「栞さんは、何も悪くありません。悪いのは、土足で人のテリトリーに踏み込んできて、あなたを傷つけようとしたあの男です。……あなたが謝る理由なんて、この世のどこにも一つもありませんよ」
陸の手が、ハンカチを握る私の手を、下からそっと支えるように包み込んだ。
「僕たちが守りますから。……外資コンサルの名前も、親会社へのパイプも、法律の知識も……全部、あなた一人の平穏を守るためにあるんです。だから……もう泣かないでください、栞さん」
まっすぐに見つめてくる、潤んだ切れ長の瞳。
その言葉の圧倒的な肯定感に、私の胸の奥で固まっていた冷たい鉛が、じわりと溶け出していく。
すると――。
――トン。
私の頭頂部に、ずっしりと重たい重みが乗っかった。
「……っ」
見上げると、野村創が、私のすぐ真横に無言で屈み込んでいた。
雨に濡れたチェックシャツの袖から伸びる、傷だらけで節くれ立った大きな手。
その逞しい掌が、私の乱れた髪の上に、不器用に、けれど壊れ物を扱うかのような繊細さで置かれていたのだ。
ポン、ポン、と。
まるで小さな子どもをあやすような、一定のリズムで繰り返される優しい手のひらの動き。
「創……くん……?」
「……もう、大丈夫だ」
創は私から視線をそらし、泥のついた土間を見つめながら、消え入りそうな掠れ声で呟いた。
その横顔。短く刈り上げられた襟足から耳の先までが、先ほどの怒りと、そして隠しきれない羞恥と愛おしさで、真っ赤に染まり上がっている。
「あんな奴、二度と敷居を跨がせねえ。……俺が、ここにいるから。二階からでも、納屋からでも、いつでも走ってくっから。……だから、震えんな」
ぶっきらぼうな、短い言葉。
けれど、頭頂部から伝わってくる創の体温と、力強い鼓動は、どんな長文の慰めよりも雄弁に私の恐怖を塗り潰してくれた。
先ほど工藤の手首を握り潰しかけたあの恐ろしい腕が、今は私を安心させるためだけに、こんなにも温かく私に触れてくれている。
その時――。
バサリ……。
ふわりと、温かな重みが私の背中を包み込んだ。
「ひゃ……っ?」
驚いて肩をすくめると、私の冷え切っていた両肩に、厚手の黒いウールの羽織ものが掛けられていた。
深見怜が、先ほどまで自分の身に纏っていた上着だった。
鼻腔をくすぐるのは、ほのかな煙草の苦い薫香と、深見特有の古本のような落ち着いた大人の匂い。
生地に残る彼の生々しい体温が、ガタガタと震えていた私の背筋を一気に解きほぐしていく。
「深見……さん……?」
見上げると、黒いスタンドカラーシャツ一枚になった深見が、煙草をもみ消した携帯灰皿をポケットにしまいながら、丸眼鏡の奥の目を細めて私を見下ろしていた。
深見は長い指先で、私の額に張り付いていた涙で濡れた前髪を、無造作に、けれど優しくかき分けた。
「謝るな、馬鹿」
低く、耳の奥をくすぐるハスキーボイス。
深見の親指の腹が、私の目の下に溜まっていた大粒の涙を、そっと拭い去ってくれる。
「トラブルに巻き込まれた? 上等じゃねえか。退屈な日常に、三流の悪役がスパイスを足しに来ただけだ。……それより、あんたのその情けねえ泣き顔、これ以上他の男どもに見せつけるんじゃねえよ。俺の独占欲が刺激されて、本当に部屋に閉じ込めたくなる」
意地悪そうに口角を吊り上げる、大人の男の不敵な笑み。
からかうような言葉の裏側に、どれほど深い安堵と、私に対する不器用な労わりが込められているか――今の私には、痛いほどよく分かった。
そして――。
「栞さん、温かいものを持ってきましたよ」
廊下の奥から、パタパタと小走りで駆け寄ってくるスリッパの足音。
現れたのは、柴崎晴人だった。
工藤を威嚇していた時のあの料理バサミはどこへやら、柴崎さんの両手には、湯気をもうもうと立ち上らせる二つのマグカップが乗ったトレイが抱えられていた。
「晴人……さん……」
「立ち上がれますか? 床に座っていては、身体が芯まで冷えてしまいます」
柴崎さんはトレイを上がり框に置くと、私を抱き起こすようにして、両脇にそっと手を差し入れてくれた。
ふわりと抱き上げられるようにして、私は框の板張りの上へと腰を落ち着ける。
柴崎さんは私の目の前に膝をつき、両手でしっかりと熱いマグカップを包み込ませてくれた。
「特製のスパイス・ロイヤルミルクティーです。アッサムの茶葉を濃いめに煮出して、シナモン、カルダモン、生姜、そしてたっぷりの蜂蜜を入れました。……一口、飲んでみてください」
湯気とともに漂ってくる、甘くスパイシーな濃厚な香り。
私は震える両手でカップを持ち上げ、ふうふうと息を吹きかけてから、恐る恐る口をつけた。
トプン……。
「…………っ」
温かい。
濃厚なミルクのまろやかさと、生姜とスパイスの刺激、そして蜂蜜の優しい甘みが、強張っていた私の喉仏を伝って、胃の腑へとじんわりと染み渡っていく。
氷のように冷え切っていた内臓が、一口ごとに解きほぐされ、指先の血流がドクドクと再開していくのが分かった。
「……おい、しい……っ」
「よかった」
柴崎さんは目尻を下げ、いつもの菩薩のような柔らかな笑顔を浮かべた。
そして、私の右腕――工藤に力任せに掴まれて赤黒く鬱血していた手首のあたりを、自分の温かい手のひらで、祈るようにそっと包み込んでくれたのだ。
「痛かったですね。怖かったですね。……でも、もう大丈夫ですよ。僕たちがいるんですから。誰にも、あなたを傷つけさせたりしません」
柴崎さんの親指が、私の腫れた手首を慈しむように優しく撫でる。
「僕たちが、あなたを守りますから」
「…………っ……ぅ……」
また、涙が零れ落ちた。
けれど、今度の涙は、先ほどまでの恐怖と惨めさの涙ではなかった。
胸の奥が、熱い。
痛いくらいに、温かい光で満たされていく。
十年間、ずっと一人で戦ってきた。
理不尽な要求にも、怒鳴り声にも、深夜残業の孤独にも、「自分が我慢すれば丸く収まる」「他人に弱音を吐いてはいけない」と自分を麻酔で眠らせるようにして耐え忍んできた。
倒れた時ですら、会社の人たちは誰も助けてくれなかった。
だから私は、人間関係を信じることを諦めて、恋愛市場から逃げ出して、この古いアパートの殻に閉じこもったはずだったのだ。
それなのに。
いま、私の周りには――。
泥まみれになりながら私の手を包み込む、宮原陸。
頭の上に大きな手を置き、無言で寄り添ってくれる、野村創。
自分の上着を着せ、涙を指で拭ってくれる、深見怜。
温かいミルクティーを淹れ、痛む腕を優しくさすってくれる、柴崎晴人。
四者四様の温もりが、逃げ場のないほど分厚い毛布のように、私を全方位から隙間なく包み込んでくれていた。
(私……もう、一人で耐えなくていいんだ……)
心の中で、何かが音を立てて崩れ去った。
十年間、私を縛り付け、息を詰まらせてきた「自責」という名の呪縛。
人に頼ってはいけない、迷惑をかけてはいけない、完璧に耐え抜かなければ存在意義がないという、あの冷たい氷の鎖が――男たちの体温によって、跡形もなく溶け去っていく。
ここは、ただのボロアパートじゃない。
私が守るべき場所であると同時に――私を命懸けで守ってくれる、絶対的な味方がいる場所なのだ。
「……ぐすっ……ひぐっ……」
私は陸のハンカチで何度も鼻をかみ、マグカップを両手でぎゅっと抱きしめた。
男たちの視線が、心配そうに私の一挙手一投足を見守っている。
「……栞さん、少し落ち着きましたか?」(陸)
「……顔色、ちょっと戻ったな」(創)
「泣きすぎてブサイクになってるぞ、大家」(深見)
「深見先生、余計なことを言わないでください。……栞さん、おかわりもありますからね」(柴崎)
「あ、あんたらなぁ……っ」
私は涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、フッと小さく噴き出してしまった。
泣き笑い。
こんな修羅場の後だというのに、いつもの軽妙な小競り合いを始める男たちが、あまりにも愛おしくて、心強くてたまらない。
「……みんな」
私は鼻をすすり、深見の上着をきゅっと握りしめながら、顔を上げた。
「……本当に、ありがとう。……私、本当に……みんながいてくれて、よかった……」
心からの、偽らざる本音。
その言葉を聞いた瞬間、男たちの表情が、ふっと一斉に緩んだ。
安堵と、愛おしさと、そして――。
ピシリ。
男たちの視線が交錯した瞬間、水面下で、再び別の種類の火花がチリチリと散り始めた。
「……さて。栞さんの涙が止まったところで」(陸・すっと立ち上がり、スラックスの泥を払う)
「……あいつ、また来ねえとは言い切れねえよな」(創・手を頭から離し、鋭い眼光を光らせる)
「そうですね。あの手の人間は、逆恨みで何をしでかすか分かりません」(柴崎・ミルクティーのトレイを片付けながら瞳を据わらせる)
「防犯カメラだの通報だの脅しはしたが……物理的に隙を作らねえのが一番確実だな」(深見・煙草をくわえ直す)
「……え?」
急激に男たちの空気が「戦闘態勢」から「別の何か」へと切り替わったのを察知し、私の涙が一瞬で引っ込んだ。
工藤を撃退したことで、住人たちの絆は家族以上に強固なものとなった。
しかし――それは同時に。
男たちの狂気的なまでの「庇護欲」と「独占欲」に、これ以上ない大義名分を与えてしまったことを意味していたのだ。
雨の音に包まれる夕暮れのエントランスで、私はまだ気づいていなかった。
明日から始まる生活が、これまでの比ではないほど過剰で甘い「二十四時間監視体制」へと変貌を遂げるということを――。




