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家賃は愛嬌じゃ払えません! 〜訳ありイケメンだらけのレトロアパート、今夜も大家(32)の胃袋と心が奪われそうです〜  作者: タカノ


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第33話:四面楚歌の元上司

「……傷害罪だぞ! 立派な現行犯逮捕だ! 警察呼んでやるからな!」


雨の夕暮れが染み込む薄暗いエントランスに、工藤秀樹の引き攣れた絶叫が耳障りに反響していた。

潰されかけた右手首を左手で抱え込み、脂汗で顔面をテカテカと光らせながら、工藤は土間のコンクリートの上で腰を引いて喚き散らしている。ポケットから引っ張り出したスマートフォンの画面を、震える親指で何度もタップしようとしては、激痛で滑らせていた。


「俺はこいつの直属の上司で、元カレなんだぞ! ちょっと話し合いに来ただけの男女の揉め事に、赤の他人のクソガキが首突っ込んでんじゃねえよ! おい栞、てめえからも言え! こいつを今すぐ警察に突き出して――」


吠え立てる工藤の言葉は、最後まで紡がれることはなかった。


――バタンッッッ!


アパートの外の路地で、乱暴にタクシーのドアが叩きつけられる重たい金属音が響いた。

同時に、共用ダイニングへと続く勝手口の鉄製ドアが、カチャリ、と硬質な音を立てて内側から押し開かれる。

さらに、一階の薄暗い奥の廊下――一〇二号室の重厚な木製ドアが、軋みひとつ立てずにスウッと横へ開く気配。


「…………っ」


空気が、変わった。

急激に、大気の密度が何十倍にも跳ね上がり、呼吸をするだけで肺の奥が凍りつくような錯覚を覚えた。

十一月の冷たい雨風のせいではない。

メゾン・サクラの四方八方から、音もなく、けれど圧倒的な質量を伴って集結してきた「異様な気配」の数々。


「……随分と、品のない怒鳴り声が外まで響いていましたね」


最初に土間へと足を踏み入れてきたのは、雨上がりの冷気すら寄せ付けないような、完璧な身なりを整えた男だった。

一〇一号室の宮原陸。

直帰してきたのだろう、仕立てのいい濃紺のストライプスーツに身を包み、腕には撥水加工のカシミアコートを優雅に掛けている。

普段、私の前で見せるあの人懐っこい大型犬の笑顔は、微塵も存在しなかった。

冷徹。怜悧。

社内で「氷のプリンス」と恐れられている理由が一目で理解できる、刃物のように研ぎ澄まされたエリートの眼光が、土間に座り込む工藤を上から値踏みするように見下ろしていた。


「おや……エントランスが酷い泥だらけだ。栞さんが今朝、綺麗に雑巾がけをしてくれたばかりの廊下に、泥足を上げる不届き者がいるようですね」


続いて、勝手口から音もなく現れたのは、二〇二号室の柴崎晴人だった。

ビストロ「シェ・シバ」の仕込みの手を止めて駆けつけたのだろう、清潔な黒のサロンエプロンを着け、袖を肘までまくっている。

その口元には、いつもの完璧な菩薩の微笑みが張り付いていた。

けれど――その瞳の奥は、光を完全に失った絶対零度の漆黒。笑っているのに、全身から立ち上る底知れぬ殺気が、玄関ホールの空気をチリチリと焦がしていた。


「……あー、うるせえ。締め切り明けの頭に、甲高いブタの悲鳴を聞かせるんじゃねえよ」


最後に、一〇二号室の廊下の暗がりからスリッパを引きずって姿を現したのは、深見怜だった。

黒いスタンドカラーシャツの胸元を寛げ、丸眼鏡を指先で押し上げながら、口には火のついた煙草を一本。

紫煙をくゆらせるその横顔には、普段の自堕落で気怠げな作家の風貌は跡形もなく消え失せていた。感情の起伏を完全に削ぎ落とした、冷酷な観察者の鋭い双眸が、工藤を捉えている。


そして――私の目の前に仁王立ちし、私の全身をすっぽりと背中で覆い隠している、野村創。

濡れた黒髪から雫を滴らせ、威嚇の唸り声を喉の奥で転がす、百八十五センチの筋骨隆々とした美大生。


「な……な、なんだてめえら……!?」


土間のコンクリートの上で、工藤が青ざめた顔で後ずさりした。

無理もなかった。

狭い木造アパートの玄関先に、外資系コンサルタント、一流フレンチシェフ、累計三百万部超のベストセラー作家、そして圧倒的フィジカルを誇る美大生。

各界のトップを走る、身長百八十センチを超える四人の極上男子たちが、完全なる包囲陣形を敷いて立ちふさがっているのだ。

しかも――その全員が、一切笑っていなかった。

四者四様の、怒り狂った美男子たちの圧倒的な圧迫感。

その光景は、コミックスのクライマックスの見開き大ゴマのように、恐ろしく、そして息を呑むほどに美しかった。


四人の視線が、創の背後で小さく震える私へと、一瞬だけ同時に注がれた。

私の青ざめた顔。

恐怖で涙に濡れた目元。

そして――工藤に力任せに掴まれ、赤黒く指の跡が残って腫れ上がり始めている、私の右腕の皮膚。


ピシリ、と。

男たちの間で、何かが完全に音を立てて決壊した。


「……なるほど」

最初に口を開いたのは、宮原陸だった。

陸はブリーフケースを上がり框にコトリと置くと、スーツの内ポケットから、銀色に光る社員証と、漆黒の本革名刺入れを滑らかに取り出した。

そして、土間で縮こまる工藤の目の前へと、屈み込みもせずにスッと突きつけた。


「某大手ITソリューション企業、営業第一部部長……工藤秀樹さんですね?」


流暢で、極めて澄んだ声。

けれどその響きには、感情の温もりなど一ミリも含まれていなかった。

名刺に印字された世界トップクラスの外資系戦略コンサルティングファームのロゴマークと、陸の役職――『シニアアソシエイト兼プロジェクト統括』の文字を目にした瞬間、工藤の目が点になった。


「な……外資の……!? な、なんで俺の名前を……」


「先週末、栞さんから過去の退職の経緯を伺った際、念のために御社の公開情報および役員構成、組織図をすべて洗わせていただきました」

陸は冷笑を浮かべ、眼鏡もかけていない涼しげな瞳をすっと細めた。

「工藤部長。住居侵入罪、ならびに刑法第二百二十二条の脅迫罪、第二百二十三条の強要未遂罪。さらに、泥靴で他人の住居に上がり込んだことによる器物損壊罪。……現行犯逮捕とおっしゃいましたが、警察に突き出されるのはどちらか、論理的に理解できていらっしゃいますか?」


「なっ……! お、脅迫だの強要だの、証拠が――」


「証拠なら、山ほどありますよ」

陸は自分のスマートフォンの画面をトントンと指先で叩いた。

「弊社の法務チーム直通のホットラインです。御社は現在、親会社である大手通信キャリアの主導による大規模なコンプライアンス監査の真っ最中ですよね? ……実は私、そちらの親会社のグローバル再編プロジェクトの主幹コンサルタントを担当しているんです」


「……は!? お、親会社の……!?」

工藤の顔から、急速に血の気が引いていく。


「御社の代表取締役および監査役、コンプライアンス委員会の直通連絡先を、私はすべて手元に持っています。……元部下の女性の住居を私的に突き止め、土足で押し入り、腕を掴んで暴力を振るい、復職と交際を強要した。この事実を、今この場で御社の役員会宛てに正式な告発文書として送付いたしますが……よろしいですか? あなたの部長職はおろか、懲戒解雇は免れませんが、自己責任ということでよろしいですね?」


「ひっ……! ま、待て……! それは……!」

工藤の額から、大粒の脂汗がボロボロと吹き出した。

会社での地位を守るために、自分の無能さを隠すために栞を連れ戻しに来た男にとって、親会社のトップコンサルタントからコンプライアンス違反として役員会に通報されることほど、致命的な急所は存在しない。

社会的生命の、完全なる抹殺宣告。


そこへ――。


シャキン……。


耳元をかすめるような、鋭利な金属音が響いた。

柴崎晴人が、エプロンの大きなポケットから、磨き抜かれたプロ用の大型料理バサミをゆっくりと取り出したのだ。

刃渡り十五センチを超える、分厚いステンレスの刃先。

柴崎はそれを指先で器用にクルリと回すと、刃をカチカチと二度鳴らし、何気ない動作でポケットへと収め直した。

そして、土間の工藤の目の前へと、音もなく半歩歩み寄った。


「警察をお呼びになるなら、僕が掛けましょうか?」


柴崎の口元には、花が咲くような極上の笑顔。

けれど、その瞳の底にある暗黒の沼は、凍りつくような殺意を孕んでいた。


「ちょうど良かったです。先月、アパートの防犯対策として、中庭とエントランスの照明の隙間に、高画質の暗視防犯カメラを新設したばかりなんですよ。……あなたが門をくぐり、土足で上がり込み、栞さんの腕を掴んで引きずり倒そうとした一部始終が、四K画質の鮮明な映像と音声で、クラウドサーバーに完璧に録画・保存されています」


「ぼ、防犯カメラ……!?」


「ええ。警視庁目黒署の生活安全課には、うちのビストロの常連の警視がいらっしゃいますからね。僕から一本電話を入れれば、十分でパトカーが三台来ますよ。……傷害罪の被害届と、ストーカー規制法違反の告訴状をセットにしてね」

柴崎はふわりと目を細め、耳元に直接吹きかけるように、甘く、冷徹な毒を吐き出した。


「うちの大家を侮辱して……その身体に傷をつけて……タダでこの街から帰れると、本気で思っていたんですか?」


「ひ、ひぃぃぃぃっ……!」

工藤の喉から、声にならない悲鳴が漏れた。

笑顔の裏に隠された、底知れぬ狂気。

料理バサミの冷たい金属光沢と、警察上層部への太いパイプ。逃げ道をすべて塗りつぶすスパダリの完全包囲。


さらに、追い討ちをかけるように――。


トントン。

煙草の灰が、工藤の濡れた革靴の鼻先へと、容赦なくパラリと落とされた。


「……見苦しい三流の悪役だな」


深見怜が、紫煙を工藤の顔面へと吹きかけながら、侮蔑の籠もった笑みを口元に浮かべた。

丸眼鏡の奥の切れ長の瞳が、獲物を解剖台の上に乗せるように冷たく光る。


「おい、元部長さんよ。あんた、さっき『痴話喧嘩』だの『元カレ』だの喚いてたな?」

深見は長い指で煙草を挟み直し、低くしゃがれたハスキーボイスを響かせた。

「俺の新作ミステリのプロット、ちょうど来週から文芸誌で大々的に情報解禁されるんだよ。……『地方の弱小IT企業で、部下の女性に寄生して手柄を横取りし、最後はストーカー化して無様に破滅する無能な中年上司』。どうだ? リアリティがあって最高だろ?」


「な、なんだと……!?」


「累計三百万部超の俺の看板で、全国の書店とネットニュース、SNSで大々的にプロモーションを打ってやるよ。あんたの顔写真、名前、出身大学、手癖の悪さ……ぜーんぶ一字一句違わずにモデルにして、世間に晒し上げてやる。読者からの特定班が動けば、あんたの余生は一生ネットの晒し者だ。……死ぬまで後ろ指差されて生きていく気分は、どんなもんだろうな?」


「お、おい……やめろ……そんなの、名誉毀損だ……!」


「受けて立つぜ? 俺の顧問弁護団と法廷で戦う金と時間があるならの話だがな」

深見は冷ややかに鼻を鳴らすと、吸い殻を携帯灰皿へと乱暴に押し込んだ。


そして――。


ゴキッ、ゴキッ。


私の目の前に立つ野村創が、両手の指を組んで、銃声のような関節の音を鳴らした。

百八十五センチの巨躯が、最後の一歩を土間へと踏み出す。

圧倒的な体格差。

創の三白眼が、工藤の喉元を射抜いていた。


「……三分やる」

創の低く掠れた声が、冷気の中を切り裂く。

「今すぐその汚え靴持って、ここから消えろ。……一秒でも過ぎたら、さっき言った通り、その腕へし折って中庭のゴミ箱に放り込むぞ」


「「「「…………」」」」


完全なる、四面楚歌。


社会的地位とキャリアを人質に取る、外資コンサルの法的包囲(陸)。

防犯映像と警察ルートを握る、シェフの冷徹な刑事罰の圧力(柴崎)。

全国への拡散と社会的抹殺をチラつかせる、人気作家の言論の刃(深見)。

そして、一撃で骨を砕きかねない、美大生の圧倒的な暴力の抑止力(創)。


金、権力、法律、世論、そしてフィジカル。

工藤が誇示しようとした「大人の男の優位性」のすべてが、この四人のハイスペック男子たちの前では、砂上の楼閣のように脆く、無惨に粉砕されていた。

反撃の余地など、最初から万に一つも存在しなかったのだ。


「ひ……っ! ひぃっ……! わ、悪かった……! もう来ない! 二度と来ないから……っ!」


工藤は完全に腰を抜かし、涙と鼻水を撒き散らしながら、土間に落ちていた自分のスマートフォンと濡れた傘をひったくるように掴んだ。

そして、靴べらも使わずに泥靴を踏み潰すように履くと、転がるようにしてエントランスの引き戸を飛び出していった。


ジャリジャリジャリッッッ!

足をもつれさせながら、中庭の砂利道を全速力で逃走していく足音。

アパートの門扉がガシャンと激しく閉まり、路地の向こうへと、情けない悲鳴とともに遠ざかっていく。


シトシト、パラパラ……。


再び、静かな秋雨の音だけが、メゾン・サクラを包み込んだ。

冷たい風が、開け放たれたエントランスを吹き抜けていく。

泥だらけになった上がり框の床板と、そこに残された、亡霊の去った後の静寂。


勝ったのだ。

十年間のトラウマ。私を過労と絶望の底に突き落とし、自由を奪い続けてきたあの男は――この四人の住人たちの手によって、完膚なきまでに、一言の反論すら許されずに叩き出されたのだ。


「……あ……」


私の喉から、微かな声が漏れた。

けれど、安堵の息を吐き出すよりも先に――。

張り詰めていた私の心の糸が、プツリと、音を立てて断ち切れてしまった。

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