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家賃は愛嬌じゃ払えません! 〜訳ありイケメンだらけのレトロアパート、今夜も大家(32)の胃袋と心が奪われそうです〜  作者: タカノ


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第32話:遮る背中、冷たい視線

――バッシャァァァァァンッッッッッ!!!!


「ぎゃああああああっっっ!? な、なんだぁっ!?」


鼓膜を劈くような泥水と雨飛沫の炸裂音とともに、工藤の醜悪な絶叫が玄関エントランスに木霊した。

私の腕を力任せに掴んでいた工藤の指先が、激しい衝撃に耐えかねてビクリと緩む。

何が起きたのか理解できず、過呼吸で白濁しかけていた私の視界の端で、一本の巨大な黒いビニール傘が、工藤の顔面すれすれを薙ぎ払い、土間の硬いタタキへと鋭い杭のように突き刺さって激しく跳ね回っていた。

骨組みが歪むほど強烈なスナップで投げつけられた傘から、容赦のない冷たい雨水が四方八方へと飛び散り、工藤の脂ぎった顔面とストライプスーツの胸元をびしょ濡れに染め上げていた。


「冷たっ……! んだよクソッ、誰だぁっ!?」


工藤が顔の雨水を袖で乱暴に拭いながら、開け放たれた引き戸の外――薄暗い中庭の雨空へ向かって怒声を張り上げた、その瞬間だった。


――ザッ。


濡れた砂利を踏みしめる、重厚で硬質な足音が一つ。

続いて、コンクリートの踏み石を蹴立てる、鋭い摩擦音。

雨の夕暮れの暗がりを切り裂き、中庭からエントランスの敷居を跨いで踏み込んできたのは――立ち込める冷気を一瞬にして蒸発させるほどの、凄まじい怒気を纏った一人の男だった。


「……おい」


低く、地割れの底から響くような地低音。

泥の跳ねた黒のスニーカー。びっしょりと雨水を吸い込んで重たく張り付いた黒のワークパンツ。

羽織っていた厚手のチェックシャツは肩口まで雨に濡れそぼり、短く刈り上げられた黒髪の毛先から、冷たい雫がツツッと鋭い顎のラインを伝って滴り落ちている。

野村創だった。


「……そ、創……くん……?」


掠れた私の声は、喉の奥で消え入りそうだった。

美大の大型作業棟で、コンクールの最終搬入に向けた追い込みの最中だったはずの彼が、なぜここにいるのか。

けれど、そんな疑問を差し挟む余地など一ミリもなかった。

目の前に立つ二十一歳の青年から放たれている空気は、普段アパートで見せるあの「耳まで真っ赤にしてそっぽを向く照れ屋な美大生」のそれとは、完全に、何光年もかけ離れていた。


三白眼の黒い瞳。

普段なら少し眠たげに、あるいは気まずそうに伏せられていることの多いその双眸が、今は獲物の喉笛を食い破るためだけに研ぎ澄まされた、獰猛な野生の獣そのものの冷酷な光を宿してギラギラと燃え盛っていた。

眉間には彫刻刀で深く刻み込んだような深い皺が寄り、噛み締められた奥歯の輪郭が、引き締まった頬の皮膚の下でギリギリと軋みを立てている。


「な、なんだてめえは……!? このアパートのガキか!? 人が話してる最中に傘なんぞ投げつけやがって――」


工藤が怒りに顔を真っ赤にして喚き散らそうとした、まさにその刹那だった。


――ドスンッッッ!!


「ひゃっ……!?」


一陣の風が吹き抜けたかと思うと、私の視界から、工藤の醜悪な顔面が一瞬にして完全に掻き消えた。

代わりに私の目の前に現れたのは――分厚く、広く、圧倒的な質量を持った「壁」だった。


百八十五センチを超える長身の体躯。

創が、土間から上がり框を一段飛び越えるようにして、私と工藤のわずか数十センチの隙間へと、暴力的な踏み込みで割り込んできたのだ。

私の華奢な身体など、すっぽりと爪先から頭のてっぺんまで覆い隠してしまうほどの、圧倒的な背中の広さ。

濡れたチェックシャツ越しに伝わってくる、冷気をもろともしない男の猛烈な熱気と、木屑と雨水の匂い。


そして――。


「……誰の腕、掴んでんだ」


耳元を震わせる、殺意を帯びた低音。

次の瞬間、創の太く筋張った右腕が、目にも留まらぬ速さで前へと閃いた。


――ガシィィィッッッッッ!!!!


「ぎゃああああああああっっっっっ!??!?!」


先ほどとは比較にならない、鼓膜を引き裂くような工藤の絶叫が木造の廊下に反響した。

創の巨大な手が、私の右腕を締め上げていた工藤の右手首を――上から、丸ごと握り潰すようにして鷲掴みにしたのだ。


メキメキメキッ、と骨が悲鳴を上げるような鈍い音が、私の耳にもはっきりと届いた。

彫刻刀を握り、重たい鉄塊を叩き、巨大な楠の丸太を一日中ノミで削り出し続けている、鍛え抜かれた職人の握力。

握力計など優に七十キロ、八十キロを超えているであろう創の右手の前腕に、ボコボコと太い青筋が凶悪なまでに浮き上がる。

肉厚で肥満気味だった工藤の手首が、創の指先によって無惨に圧迫され、皮膚が鬱血して赤黒く変色していくのが見えた。


「痛っ……痛ええええええっ! 折れる、折れるッ! 離せ、離せバカ野郎ッッ!」


工藤は激痛のあまり涙と鼻水を撒き散らし、腰を引いてその場でもがき苦しんだ。

私を捕らえていた指先からは完全に力が抜け、だらりと私の腕が解放される。

自由になった私の身体が、過呼吸と安堵のあまりガクリと膝から崩れ落ちそうになった。


――ドンッ。


倒れかけた私の肩に、創の逞しい背中が、そっと優しく触れて体重を受け止めてくれた。

びくともしない。どんな嵐が来ようと、どんな暴力が吹き荒れようと、絶対に一歩も引かないという、鉄壁の盾。


「な、なんだてめえ、ガキのくせに……! 俺は客だぞ! こいつの元上司だぞ!」

工藤は左手で創の太い腕を必死に叩きながら、痛みに顔を歪めて喚き散らす。

しかし、創の腕は岩のように硬く引き締まり、微動だにしない。

むしろ、工藤の喚き声を聞くごとに、創の指先に込められる力は、ギリギリとミリ単位で強まっていった。


「……大家さんに、触るな」


ドスの利いた、氷点下の警告。

創は工藤を見下ろしていた。

その目つきは、人間を見る目ではなかった。

自分の大切な巣を、大切な縄張りを、泥足で荒らしに来た害獣を、今すぐその場で噛み殺すか排除するか、ただそれだけを冷徹に計算している獣の眼光だった。


「お、おい……やめろ、手が……手が潰れる……っ!」

工藤の顔から急速に血の気が引き、青白くなっていく。

三十八歳の会社員が、二十一歳の美大生に対して、肉体的な絶対的格差を本能で悟った瞬間だった。

身長、骨格、筋肉の密度、そして何より――纏っている「覚悟」の桁が違いすぎた。


「用がないなら、消えろ」


創は感情を完全に削ぎ落とした声で、工藤の顔面へと吐き捨てた。

吐息が、夕暮れの冷気の中で白く鋭く抜ける。


「次、このアパートの敷地に一歩でも足踏み入れたら……その腕、へし折るぞ。二度とペンも握れねえようにしてやる」


「ひっ……! ひぃぃぃっ……!」


嘘でも虚勢でもない。

本当にこの場で骨を粉砕されかねないという絶対的な殺気に気圧され、工藤の喉から情けない悲鳴が漏れた。

創が握っていた手を、ゴミでも放り捨てるようにパッと解放する。


ドサッ!

勢い余って、工藤は土間のコンクリートの上に尻餅をついた。

右手を左手で押さえ、脂汗を滝のように流しながら、ガタガタと震える膝で這うようにして後ずさりする。

その瞳には、先ほどまでの傲慢で下卑た優越感は微塵もなく、ただ純然たる恐怖の色だけが張り付いていた。


「…………っ」


工藤が土間で縮こまり、立ち上がれずにいる中――。

創は、一度も工藤から目を離さなかったその冷酷な視線を、ふっとわずかに緩めた。

そして、ゆっくりと――本当にゆっくりと、背後にいる私の方へと、首筋だけを振り返ったのだ。


「……っ……」


私の呼吸が止まる。

見上げた創の横顔。

濡れた前髪の隙間から覗くその瞳は、先ほど工藤に向けていた殺人鬼のような眼光とは、まるで別人の色をしていた。

痛ましそうに、苦しそうに、そして胸を締め付けられるような切実さを湛えて、震える私を見つめていた。


「……ふぅ……」


創は肺の底から、熱い呼気を一つ、深く吐き出した。

そして――。


スッ……。


創の大きく、硬く、さっき工藤の手首を握り潰しかけていたあの右手が。

今度は、信じられないほど繊細な力加減で、私の震える右肩の上へと、そっと置かれたのだ。


――トン。


重たい。

けれど、驚くほどに温かい手のひらの重み。

雨に濡れて冷え切っていたはずの彼の指先から、大人の男の、確固たる体温がフリース越しにじんわりと染み渡ってくる。

激しく震えていた私の肩が、その手の温もりひとつで、不思議なほどピタリと震えを止めた。


「……大家さん」


降ってきたのは、掠れた、低く優しい声だった。


「怪我……ねえか」


「……っ……創、くん……」


その一言を聞いた瞬間、私の目頭が、熱い涙で一気に溢れ返った。

怖かった。

本当に、怖かったのだ。

またあの会社に連れ戻されるんじゃないか、過去の暗闇に引きずり戻されるんじゃないか、誰も私を助けてくれないんじゃないか――。

そのすべての絶望と恐怖を、この不器用で寡黙な男の子が、たった一つの背中と、たった一つの手で、すべて粉々に打ち砕いてくれたのだ。


「う……うん……怪我は、ない……痛く、ないよ……」


私が涙声で答えると、創の肩から、微かに強張りが抜けた。

創の手が、私の肩をギュッと、愛おしそうにもう一度だけ引き寄せるように力を込めた。


「……そうか。……なら、いい」


短くそれだけ呟くと、創は再び、土間でへたり込んでいる工藤へと向き直った。

その背中は、先ほどよりもさらに大きく、頼もしく、私の視界のすべてを護るように広がっていた。


しかし――。

事態は、そう簡単に幕引きとはならなかった。


「……て、てめえら……っ!」


土間の上で右手を押さえ、立ち上がった工藤が、恐怖の裏返しである猛烈な屈辱感に顔を真っ赤にして喚き散らしたのだ。


「ガキのくせに……調子に乗りやがって! 傷害罪だぞ! 立派な現行犯逮捕だ! 警察呼んでやるからな! 俺はこいつの直属の上司で、元カレなんだぞ! 痴話喧嘩に赤の他人が首突っ込んでんじゃねえよ!!」


見苦しい負け犬の遠吠え。

工藤は泥だらけのスーツのポケットからスマートフォンをひったくるように取り出し、震える指で画面を操作しようとする。


創の眉が、再びピクリと跳ね上がった。

私の肩から手を離し、もう一度その腕を前に出そうと、創の太い足先が一歩、土間へと踏み出しかけた――その時だった。


――キィィィッ……バタンッ!!


アパートの外の路地で、急ブレーキを踏むタクシーのタイヤの擦過音と、勢いよくドアが閉まる音が響いた。

続いて、勝手口の鉄製ドアがカチャリと開く音。

そして――一〇二号室の廊下の奥から、重たいスリッパの足音が近づいてくる気配。


「……おいおい。ずいぶん賑やかな客が来てるじゃねえか」


静まり返るメゾン・サクラに、四面四方から、新たな足音が雪崩を打って近づいてきていたのだった。

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