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家賃は愛嬌じゃ払えません! 〜訳ありイケメンだらけのレトロアパート、今夜も大家(32)の胃袋と心が奪われそうです〜  作者: タカノ


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第31話:亡霊のノック

十一月の冷たい雨は、音もなく街の色彩を奪い去っていく。

午後五時を少し回ったばかりだというのに、目黒の空はどんよりとした鉛色の闇に呑み込まれ、細かな雨粒がトタン屋根や雨樋を「シトシト、パラパラ」と絶え間なく濡らしていた。

急激に冷え込んだ大気はガラス戸を曇らせ、外気と室内の温度差で、窓枠の隅には細かな水滴がじわりと滲み出している。


「……寒い。今夜は本当に冷え込むわね」


一階の共用ダイニング。

無垢材の大きなテーブルの上に町内会の木製バインダーを広げ、私はボールペンを握りながら小さく息を吐き出した。

白く濁る吐息。エアコンの暖房はついているものの、築四十五年の木造建築は隙間風にめっぽう弱い。私は厚手のフリースジャケットの首元を引き上げ、かじかむ指先を温めるように両手で包み込んだ。


火曜日のこの時間帯は、メゾン・サクラが一日の中で最も静まり返るエアポケットのような時間だった。

一〇一号室の宮原陸は、外資系コンサルの大型プロジェクトの定例報告会で終電近くまでオフィスに缶詰め。

二〇一号室の野村創は、目前に迫った現代立体造形コンクールの最終搬入に向けて、美大の大型作業棟に泊まり込みで最後の仕上げにかかりきり。

二〇二号室の柴崎晴人は、徒歩三分の裏路地にあるビストロ「シェ・シバ」のディナー営業の仕込みで厨房から離れられない。

そして一〇二号室の深見怜は、担当編集の小野寺さんに拉致されるようにして、文藝春秋の会議室で行われる文芸賞の選考委員の打ち合わせへと駆り出されていった。


つまり――今、この古いアパートには、私一人しかいない。


(……ふう。静かだわ……本当に、久しぶりの完全な一人時間……)


先週末の中庭バーベキューで起きたあの悪夢のような全員からの宣戦布告、そして日曜日の朝、キッチンや玄関、廊下で四人の男たちから怒涛の勢いで繰り出された甘い包囲網。

親友の朋世に電話で泣きつき、「あんたの平穏な隠居生活は完全に終わったのよ」と大爆笑され、頭を抱えてから二日。

男たちの過剰すぎる熱気と色香に四六時中晒され続け、私の心臓と自律神経は擦り切れる寸前だったのだ。こうして誰の視線も気にせず、回覧板の配布順を整理し、電球の予備ストックを数えている時間だけが、唯一、元社畜としての私を穏やかな現実に繋ぎ止めてくれていた。


「よし、回覧板のチェック完了。次は二〇一号室と二〇二号室の郵便受けに……」


私がバインダーを抱えて立ち上がりかけた、まさにその刹那だった。


――ガタガタガタッッッ!

――バァァァンッッッ!!!!


「きゃっ……!?」


静寂を無惨に引き裂いたのは、耳をつんざくような破壊音だった。

玄関エントランスの木製引き戸が、乱暴に、何の躊躇もなく力任せに開け放たれたのだ。

普段、住人たちが帰宅する時の控えめで規則正しいスライド音とは、まるで違う。

建具のレールを壊さんばかりの、粗暴で、無遠慮で、土足の悪意そのもののような開閉音。


「な、何事……!? 宅急便……? それとも突風……?」


胸騒ぎがした。

ただの不吉な予感ではない。胃の腑の底がキュッと冷たく収縮し、首筋の産毛が一斉に逆立つような、本能的な恐怖の警報。

私はバインダーをテーブルに置き、恐る恐るダイニングを出て、薄暗い共用廊下を玄関エントランスへと向かった。


廊下の角を曲がり、上がり框(かまち)が見えた瞬間――。


「…………っ」


私の足が、コンクリートの冷たさを踏んだかのように、ピタリと止まった。

呼吸が、喉の奥底で凍りつく。

血の気が、音を立てて全身の皮膚から引いていくのが分かった。


開け放たれた引き戸の向こう。

小雨の降る薄暗い夕暮れの路地を背にして、エントランスの土間に立っていたのは――。


ずぶ濡れのビニール傘を土間に放り出し、濡れた安物ではないが仕立ての崩れたストライプスーツを着た、大柄な男だった。

三十代後半。肥満気味に緩んだ腹回りを高級ブランドのバックルで締め上げ、脂ぎった額に薄くなった前髪が張り付いている。

濁った血走った両目。

傲慢に歪んだ薄い唇。

そして――何百回、何千回と私の耳を犯し、自尊心を粉々に踏み躙ってきた、あの吐き気を催すような声。


「おい、栞。……やっぱりここにいやがったか」


――ヒュッ。


私の喉から、引き攣れた呼気が漏れた。

声が出ない。

指先がガタガタと震え、膝が笑い、立っていることすらできなくなりそうになる。


工藤秀樹(くどうひでき・三十八歳)。

前職のIT企業における私の直属の上司であり――営業部長。

そして、私が二十代の半ば、精神的に追い詰められて正常な判断力を失っていた時期に、半年間だけ「付き合ってやっている」という上下関係のもとで搾取され続けた、元カレ。


(な……なんで……どうして、ここに……!?)


頭の中が真っ白に弾け飛ぶ。

過去の記憶が、鮮烈な悪夢の濁流となって脳裏を満たした。

深夜二時のオフィス。フロア中に響き渡る工藤の罵倒。

『お前は代わりがいくらでもいる給料泥棒だ』

『誰のおかげでこの会社にいられると思ってんだ』

『ミスをしたのはお前だ、今すぐ取引先に土下座してこい』

休日だろうと深夜だろうと鳴り止まないチャットツール。工藤のミスをすべて私の責任に押し付けられ、徹夜で修正伝票を打ち込み続けた日々。

そして、適応障害寸前で朝のエントランスで倒れ、救急搬送されたあの日。

会社を辞め、連絡先をすべて消去し、祖母の遺産であるこのメゾン・サクラに逃げ込んだことで、ようやく断ち切れたはずの過去の亡霊が――今、目の前に実体化して立っていた。


「探すのに骨が折れたぞ、まったく。……実家の親父に電話しても『娘の居場所は教えられん』の一点張りで突っぱねやがってよ」


工藤は舌打ちを一つ落とすと、土間に落ちていた濡れた傘を革靴の先で蹴飛ばした。


「だがな、お前が会社宛てに提出した退職後の諸手続きの書類……住民税と年金の切り替えの申請書に、実家の住所経由でこのアパートの仮転居先が添付されてたんだよ。総務のバカ女を丸め込んで控えをコピーさせるだけで、一発で割れたぜ」


――退職手続きの書類。


その単語を聞いた瞬間、私の胃が激痛を訴えた。

会社を辞めた直後、過労と薬の副作用で朦朧としながら、実家の母に頼んで郵送してもらった公的書類の数々。あの僅かな手続きの隙間から、この男は私の逃げ場所を嗅ぎつけていたのだ。


「おいおい、なんだその顔は。元上司であり元カレが、わざわざこんな吹き溜まりのボロアパートまで迎えに来てやったってのに、嬉しそうな顔ひとつできねえのか?」


工藤はニヤリと下卑た笑みを浮かべると、雨水で濡れた泥だらけの革靴のまま、躊躇なく上がり框へと足をかけた。


「ひっ……!」


ドスン。

湿った泥と油の混ざった黒い汚れが、私が今朝、丹精込めて水拭きしたばかりの美しい飴色の板張りに、ベチャリと擦り付けられた。

聖域を土足で蹂躙される屈辱。

けれど、恐怖で金縛りに遭った私の足は、一歩も後ろへ下がることができなかった。


「や、やめてください……! 靴を、脱いで……ここは個人の住居です、入ってこないでください!」


絞り出した私の声は、情けないほどに掠れ、震えていた。

威厳なんてカケラもない。三十代の大家の姿などどこにもない。そこには、ただ理不尽な暴力に怯える、十年前の無力な社畜の少女しかいなかった。


「ああん? 個人の住居だあ?」

工藤は鼻で笑い、両手をポケットに突っ込んだまま、土足で一歩、また一歩と廊下へと踏み込んできた。

漂ってくる、安っぽい整髪料の匂いと、タバコのヤニ、そして酒気帯びのアルコール臭。


「築何十年だよこのオンボロ屋敷。雨漏りしてんじゃねえのか? おい栞、お前、会社から逃げ出してこんなゴミ溜めで何やってんだ? 大家気取りか? 笑わせるなよ。お前みたいな何の取り柄もない事務員が、一人でアパート経営なんてできるわけねえだろ」


「関係ありません……! あなたには関係ない! 帰ってください、警察を呼びます!」


「警察だあ?」

工藤の目の色が、スッと濁った。

恫喝のスイッチが入った時の、あの見覚えがありすぎる凶暴な光。


「呼べるもんなら呼んでみろよ! 元上司が、突然バックレて会社に大損害を与えた元部下に、事情を聞きに来ただけだ! 事件性配(じけんせい)なんざどこにもねえんだよ!」


工藤は大股で間合いを詰めてきた。

逃げようとした私の身体。けれど、恐怖で鉛のように重くなった足は縺れ、廊下の壁に背中がドスンとぶつかった。


逃げ場が消えた。

その瞬間――。


ガシィッッッ!!


「いっ……痛っ……!?」


私の右腕が、工藤の肉厚で脂ぎった手によって、骨が軋むほどの力で鷲掴みにされた。

無理やり上へと引き上げられる腕。

逃げようともがいても、男の暴力的な腕力には到底敵わない。


「離して……! 離してください、工藤さん!」


「痛えのはこっちだっつーの!!」

工藤の怒声が、静まり返る木造の廊下に轟いた。

飛び散る唾。至近距離に迫る、醜悪に歪んだ顔。


「お前がな……! 何の引き継ぎもなしに急に辞めたせいで、現場がどれだけ大混乱に陥ったか分かってんのか!? ああん!?」


工藤の口から吐き出されたのは、身勝手極まる呪詛の数々だった。


「お前が裏でコソコソやってた取引先の根回しも、請求書の突合も、役員へのゴマすり資料の作成も、全部滞りやがった! 新しく入ってきた中途の奴らは使えねえ無能ばかりで、先月の第一四半期、うちの部署の売上は前年比四割減だ! 役員会で俺がどれだけ吊るし上げを食らったと思ってんだよ!」


「そ、それは……私の責任じゃ……」


「お前の責任に決まってんだろ!!」

工藤は私の腕を乱暴に揺さぶった。

肩の関節が外れそうな痛みに、私の目から涙が滲み出る。


「お前は俺の指示通りに動く優秀な手足だったんだよ! それを勝手に放り出しやがって……! おかげで俺の部長としての社内評価はガタ落ちだ! 次の異動で子会社に飛ばされるかどうかの瀬戸際なんだよ!」


全部、自分の保身だった。

私が会社にいた頃、工藤は私の実績をすべて自分の手柄として横取りし、上層部に報告していたのだ。雑用も、トラブル処理も、夜通しの資料作成も、すべて私に押し付けて自分は銀座で飲み歩いていた。

その「都合のいい盾」がいなくなった途端、メッキが剥がれ、無能さを露呈して失脚しかけている。

自業自得。因果応報。

けれど、この男は自分の無能さを認めることなど天地が引っくり返ってもできない。

だから――私を連れ戻しに来たのだ。

再び自分の都合のいい奴隷として、搾取し尽くすために。


「おい栞、いいか」

工藤は私の顔のすぐ数センチ前まで顔を近づけると、ニチャリと気味の悪い笑みを浮かべた。

首筋に吹きかかる、湿った熱い息。


「今すぐ荷物をまとめて、俺のマンションに戻ってこい。……明日からまた、俺の部署で働かせてやる」


「い、嫌です……絶対に嫌……! 二度と、あんな会社には戻りません……!」


「拒否権なんざねえんだよ!」

工藤は私の腕をさらに強く締め上げた。

骨がミシミシと鳴る。


「戻ってきて、俺の書類を全部作れ。取引先に頭を下げて回れ。そうすりゃ、お前の突然の退職の違約金も、損害賠償請求も見逃してやる。……まあ、お前がそこまで言うならよ」


工藤は私の顎を、空いた左手で力任せに掴み上げた。

指先が肉に食い込む。


「付き合ってやってた頃みたいに……結婚を前提にしてやってもいいぞ?」


「……っ!?」


「どうだ、ありがたいだろ? 三十過ぎて行き遅れて、こんなボロ屋敷で一人で腐っていくはずだったお前を、俺が拾って嫁にしてやるっつってんだ。養ってやるんだから、死ぬ気で俺に感謝して尽くせよ」


――結婚を前提にしてやってもいい。

――拾って嫁にしてやる。


傲慢。身勝手。男尊女卑の塊のような見下し。

けれど、その言葉の裏にある「お前は無価値な女だ」「俺の施しがなければ生きていけない」という呪詛が、かつて私が受け続けたモラハラの記憶と完璧に結びつき、私の全身の自由を奪い去っていった。


(息が……できない……)


過呼吸。

喉の奥が痙攣し、空気が吸い込めない。

視界がチカチカと白く明滅し、足の力が完全に抜けていく。

助けて。誰か。

陸くん。創くん。柴崎さん。深見さん。

名前を呼びたいのに、声帯が凍りついて音にならない。


「ほら、行くぞ。グズグズすんな」


工藤が私の身体を力任せに引っ張り、土間へと引きずり下ろそうとした。

爪先が、泥で汚れた板張りを引きずられる。

終わった。

私の手に入れた平穏な生活も、アパートでの温かい日々も、全部奪われて、またあの地獄の暗闇へと引き戻されるのだ――。


絶望の中、私が涙をこぼして目を瞑った、その瞬間だった。


――バッシャァァァァァンッッッッッ!!!!


「ぎゃああああああっっっ!?」


中庭の暗闇を切り裂き、猛烈な勢いで飛来した「濡れた塊」が、工藤の顔面と足元の土間へ、鋭い銃弾のように突き刺さったのだ。

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