第30話:大家、完全に逃げ場を失う
障子の隙間から差し込んできた薄い冬の朝光に、私は呻き声を上げて目を覚ました。
万年床の上で毛布を顎まで引き上げ、じっと天井を見つめる。
飴色に変色した木造の梁、雨漏りの跡が薄く残る木目、どこか懐かしい昭和の匂い。
すべてはいつも通りの「メゾン・サクラ」の朝のはずだった。
――しかし。
「……夢じゃ、なかったのよね……」
記憶の再生ボタンが勝手に押された瞬間、私の全身の毛穴からカッと火を噴くような熱気が噴き出した。
昨夜の中庭。完成したばかりの真新しいウッドデッキの上で繰り広げられた、あの前代未聞のバーベキュー。
私がビール片手に「世界で一番幸せな大家さんだよ」と無防備に微笑んでしまった、あの致命的な一言から始まった地獄の連鎖。
深見怜の『抜け駆けが多すぎやしないか?』という冷徹な口火に始まり、宮原陸の『正々堂々と彼女を口説きに来てます』という堂々たる求愛、野村創の『誰が相手だろうが譲る気ねえから』という魂の叫び、柴崎晴人の『彼女の胃袋の鍵を握っているのは僕です、負ける気はありません』という底知れぬ独占欲、そして深見自身の『他のガキどもにくれてやるくらいなら、一生俺の専属担当にしてやる』という顎クイでの囁き。
「うわあああぁぁぁぁぁぁっっっ!!!」
私は布団の中で足をジタバタと激しくバタつかせ、枕に顔を埋めて絶叫した。
四人全員からの、逃げ場のない公然の宣戦布告。
これまで「親切な店子と新米大家」「プライベート不干渉」という薄氷のような建前で保たれていた結界は、昨夜、跡形もなく粉々に粉砕されてしまったのだ。
「だ、大丈夫……落ち着くのよ、佐伯栞。あんなの、お酒の勢いに任せたただの男同士の張り合いよ。朝になれば、みんな冷静になって『昨日は飲みすぎちゃいましたね、ハハハ』って日常に戻ってるに決まってるわ……!」
元社畜特有の「都合のいい現実逃避スキル」を総動員し、私はパジャマからいつもの作業用チノパンとタートルネックのニットに着替えた。髪をお団子に結び、顔を洗って、管理人室の引き戸に手をかける。
日曜日の朝八時。
いつも通り、共用キッチンの大型冷蔵庫から麦茶を取り出し、廊下の掃除を始めようと、私はダイニングへと足を踏み入れた。
――だが、その淡い希望は、足を踏み入れたコンマ五秒で無残にも打ち砕かれることとなった。
「あ、栞さん。おはようございます」
共用キッチンに足を踏み入れた瞬間、最初に私を捕らえたのは、二〇二号室の柴崎晴人だった。
アイランドキッチンのコンロの前。麻のエプロンをきっちりと締め、テフロンのフライパンを優雅に温めている。
口元には、いつもの完璧な菩薩の微笑み。
けれど――その瞳の奥には、昨夜のバーベキューで見たあの「光を吸い込む絶対零度の独占欲」が、隠しようもなくギラギラと渦巻いていた。
「あ、晴人さん……おはようございます。あの、お茶を一杯いただこうかと――」
「お茶ですか? ちょうど今、栞さんのために朝摘みのカモミールとアップルピールをブレンドした温かいハーブティーを淹れたところですよ」
柴崎さんはトレイから湯気を立てる耐熱ガラスのカップを差し出すと、私がそれを受け取ろうと手を伸ばした――その隙を見逃さなかった。
――スッ。
音もなく、私の背後へと回り込む足音。
次の瞬間、私の背中に、硬く温かい胸板がぴったりと隙間なく密着した。
「ひゃっ……!?」
逃げる間もなかった。
柴崎さんの長い両腕が、私の両脇を抜けて前方へと伸びてくる。
完全なる、至近距離のバックハグ。
しかも、柴崎さんの骨太で温かい右手は、まな板の横に置かれていたペティナイフを握る私の右手を、上から包み込むようにギュッと重ねてきたのだ。
左手は、ごく自然な動作で、私の腰骨を逃がさないように引き寄せている。
「な、何をするんですか晴人さん!? 離れてください!」
「危ないですよ、栞さん。刃物を持ったまま暴れては怪我をします」
耳元に直接吹きかかる、甘くて熱い吐息。
首筋をかすめる柴崎の栗色の髪。バニラとスパイス、そして朝のバターの香りが、逃げ場のない檻のように私の全身を包み込む。
「今朝は、栞さんの大好きなクロックムッシュを焼き上げようと思っているんです。……ほら、パンに塗るベシャメルソースの仕上がり、一緒に確認してください。僕の手に合わせて、トントンと軽く刻むように……」
柴崎さんの大きな手が、私の手を包んだまま包丁をリズミカルに動かし、パセリを細かく刻んでいく。
至近距離で伝わってくる、柴崎さんの心臓の力強い鼓動。
耳元で囁かれるたびに、背筋を甘い痺れが駆け抜け、腰から力が抜けそうになる。
「昨夜、言いましたよね? あなたの胃袋も生活も、すべて僕が掌握するって。……朝の一口目から、僕の味以外を体内に入れるなんて、許しませんよ」
「っ……!」
冗談でも、お酒の勢いでもない。
この男は、朝の光の中で、シラフの状態で完全に私を囲い込みにかかっているのだ。
「し、失礼しますっ!!」
私は悲鳴を上げて柴崎さんの腕の隙間からすり抜け、ハーブティーのカップも持たずにキッチンから飛び出した。
背後から、「ふふ、逃げてもお昼にはまたお腹が空きますよ?」という柴崎さんの甘い笑い声が追いかけてくる。
パニックのままエントランスへと駆け抜けると、そこには――。
「あ、栞さん。ちょうど探していたところです」
上がり框の前に、完璧に着こなされた濃紺のストライプスーツに身を包んだ、宮原陸が待ち構えていた。
日曜日だというのに、外資系コンサルのエリートオーラ全開の装い。
ピカピカに磨かれた革靴を履き、ブリーフケースを提げた陸は、私の顔を見るなり、昨夜の「正々堂々口説きに来てます」という宣言を体現するかのような、肉食の艶めいた笑みを浮かべた。
「み、宮原くん……日曜日なのにお仕事……?」
「午前中だけ、クライアントへの最終レポートの提出があります。でも、そんなことはどうでもいいんです」
陸は長い足でカツンと床を踏み鳴らし、私の目の前へと間合いをゼロに詰めてきた。
逃げようと後ずさりした私の背中は、無情にも靴箱の角へとぶつかる。
逃げ場を塞ぐように、陸の左手が私の頭の横、靴箱の天板へとドンと突かれた。
「ひゃぅ……っ!?」
至近距離で見下ろしてくる、彫刻のように整った顔立ち。
シトラスの香水と、スーツのウールの匂いが鼻腔をくすぐる。
陸は私の耳元へと顔を寄せ、ネクタイを緩めるような仕草をしながら、低く掠れたバリトンボイスを落とした。
「今夜、二人で食事に行きませんか?」
「え……?」
「昨日、中庭で言った通りです。僕はもう、可愛い後輩のフリをして遠慮する気はありません。……六本木の夜景が見える個室を予約しました。夕方六時に、車で迎えに来ます」
「ま、待って宮原くん! 日曜の夜は、アパートの全体夕食会があるでしょ!? 大家が抜け出すわけには――」
「柴崎さんの飯なんて、毎日食ってるじゃないですか」
陸の唇が、私の耳たぶを掠める寸前の距離で動く。熱い吐息が耳の奥をくすぐり、全身の血が沸騰しそうだ。
「僕の隣で、僕だけを見て、僕と一緒に極上のワインを飲んでください。……断らせませんよ。僕がどれだけ本気か、今夜たっぷり教えてあげますから」
「み、宮原……くん……っ」
「陸、って呼んでって言いましたよね?」
陸は満足そうに口角を吊り上げると、私の頬を指先でそっと撫で、「六時に、綺麗な服を着て待っていてくださいね」と言い残し、颯爽とエントランスの引き戸を開けて出ていってしまった。
心臓が破裂しそうだ。
息を乱しながら、私は二階へ上がる階段の横を通り抜けようとした。
その時――。
ドカドカドカッ!
二階から、地響きのような激しい足音を立てて降りてくる人影があった。
野村創だった。
美大のアトリエへ向かう準備を終えたのだろう、背中には大きな画材リュック、手には無骨な鉄の道具箱。黒のタンクトップの上に、厚手のチェックシャツを羽織っている。
「あっ、創くん……おはよ――」
私が挨拶を言いかけた、まさにその瞬間だった。
――トン。
「……え?」
すれ違いざま。
創の大きく、ゴツゴツとした、傷だらけの手のひらが、私の頭頂部の上に無造作に置かれた。
そして――くしゃり、と。
不器用な、けれど抗えないほどの強い力で、私の髪を優しく撫で下ろしていったのだ。
足が止まる。
振り返ると、創はすでに階段を降りきり、玄関へと向かっていた。
言葉は、何ひとつ発しない。
けれど――チェックシャツの襟元から覗く、短く刈り上げられた襟足と、耳の先、そして逞しい首筋全体が。
今朝の冬の冷気の中でも、湯気が立ち上りそうなほど真っ赤に、真っ赤に染まり上がっていた。
「……創、くん……?」
創は振り返りもしないまま、玄関の土間に手をついてスニーカーを履き、ドアノブに手をかけた。
そして、背中を向けたまま、消え入りそうな、けれど芯の通った掠れ声を落とした。
「……夕方には戻る。……昨日のデッキ、まだバリが残ってるから、俺がやすり掛け直す。……あんたは、中庭で待ってろ」
ピシャリと閉まる玄関ドア。
頭の上に残る、あの大きな手の重みと熱。
言葉少なに頭を撫でて去っていく、少年の殻を脱ぎ捨てた男の破壊力に、私の膝からすうっと力が抜けそうになる。
なんなの……なんなのよ、この怒涛の総攻撃は……!
呼吸を整えようと、私は這う這うの体で一階の奥の共用廊下へと進んだ。
早く自室へ戻らなければ。管理人室の安全地帯へ逃げ込まなければ、私の心臓が持たない。
しかし――その行く手を阻むように。
カチャリ。
一〇二号室の分厚い木製ドアが、音もなく不気味に開いた。
「ひゃっ……!?」
ガシィッッッ!!
「……っ!?」
悲鳴を上げる間もなく、暗がりの中から伸びてきた骨張った長い腕が、私の左手首を正確無比に捕らえた。
強烈な引き込みの力。
廊下の冷気から、煙草と濃い珈琲の匂いが充満する薄暗い部屋の中へと、私の身体が一瞬にして引きずり込まれそうになる。
「ふ、深見さんっ!?」
開いたドアの隙間から覗いていたのは、黒のスタンドカラーシャツを大きくはだけさせ、ボサボサの黒髪を乱した深見怜だった。
丸眼鏡を外し、鋭く濡れた切れ長の瞳が、至近距離で私を射抜いている。
第二十一話で見た、あの息を呑むような美貌の作家の素顔。
「おい、大家。どこへ行こうとしてるんだ」
低く、しゃがれたハスキーボイスが耳元に落ちてくる。
深見の長い指が、私の手首から二の腕へと滑り上がり、そのまま部屋の中へ引きずり込もうとする。
「ちょ、ちょっと、離してください! 部屋に連れ込まないで!」
「珈琲豆が挽けたんだよ。昨日のゲイシャの豆だ。……部屋に入れ。あんたの顔見てねえと、今日の原稿のプロットが一行も浮かばねえ」
「自分で淹れてください! 私は大家であって、深見さんのアシスタントじゃありません!」
「アシスタントじゃなくて、専属担当だと言ったろ」
深見の顔が、ドアの隙間からぐっと近づいてくる。
煙草の苦い息。
唇が触れそうな距離で、深見は意地悪そうに、けれど狂おしいほど熱い眼差しで口角を吊り上げた。
「昨夜、全員の前で宣言したのを忘れたとは言わせねえぞ。……陸の車にも、柴崎の飯にも、創の筋肉にもついていくな。あんたの居場所は、俺の部屋のこの机の足元だ。……今すぐ入ってこい」
「だ、誰が入るかぁぁぁぁぁッッッ!!!!」
私は最後の火事場の馬鹿力を発揮し、深見の手首を思い切り振りほどいた。
そして、脱兎の如く廊下を疾走した。
バタンッッッ!!!!
ガチャリ! ガチャリ!
管理人室に滑り込み、引き戸を力任せに閉めると、私は内鍵とチェーンロックを二重にガチャンと掛けた。
そのまま畳の上に背中を預け、ズリズリと床にへたり込む。
「はぁっ……! はぁっ……! はぁっ……!」
激しい過呼吸。
心臓が、肋骨を内側から機関銃のように連打している。
手足がガタガタと震え、額からは冷や汗がびっしりと噴き出していた。
誰一人として、遠慮する気配がない。
昨夜の「中庭の宣戦布告」を経て、四人の男たち全員が、完全に理性のリミッターをかなぐり捨てていた。
朝のキッチン、玄関、階段、廊下。
アパート内のすべての空間が、私を捕食しようとする極上男子たちの甘く危険なトラップで埋め尽くされている。
一歩部屋を出れば、誰かしらに抱きしめられ、口説かれ、頭を撫でられ、部屋に連れ込まれそうになるのだ。
「む、無理……! もう絶対に無理……! 私のキャパシティ、とっくに限界突破してる……!!」
私は震える手でポケットからスマートフォンを引っ張り出した。
通話履歴から、一番上に登録されている親友の名前を、迷わずタップする。
プルルル……プルルル……ガチャ。
『もしもし? 栞? 日曜の朝からどうしたのよ、珍し――』
「朋世ぉぉぉぉぉぉっ!! 助けてぇぇぇぇぇっっっ!!!」
電話が繋がった瞬間、私は涙声で絶叫した。
受話器を両手で強く握りしめ、畳の上で体育座りになって縮こまる。
『ちょ、ちょっと待ちなさいよ! 何事!? 火事!? それともアパートの配管がまた破裂したの!?』
「違うの! もう限界なの! アパートの住人全員が……全員が本気配で私を口説きにかかってきてるのよぉぉぉっ!!」
『……は?』
「外資コンサルの宮原くんは夜景ディナーに連れ出そうとしてくるし! シェフの晴人さんは背後から密着して包丁握らせてくるし! 美大生の創くんは無言で頭撫でて耳真っ赤にして去っていくし! 作家の深見先生は部屋に腕引っ張って連れ込もうとしてくるの! どこに行っても、どこを歩いても逃げ場がないのよ!!」
私が涙ながらに一気呵成にまくし立てると、電話の向こうで、数秒の静寂が流れた。
そして――。
『――ぶっ……! あーっはっはっはっはっはっはっ!!!!』
鼓膜が破れるかと思うほどの、爆笑の嵐が響き渡った。
松永朋世の、一切の容赦のない大爆笑。
「わ、笑い事じゃないわよ朋世! 私、本気で命の危機を感じてるんだから!」
『あはははは! ごめんごめん、でも笑わずにいられないわよ! なにそれ、前代未聞の全方位包囲網じゃない! おめでとう栞、あんた完全に『イケメンだらけの無国籍逆ハーレム』の主役に就任したわね!』
「就任したくない! 辞任したい! 今すぐクーデターを起こして自主退場したいの!」
『無理に決まってるでしょ、男たちの目が据わってるんだから!』
朋世はひとしきり笑い転げたあと、ふっと息を整え、現役バリキャリ女子特有の冷徹で現実的なトーンへと声を切り替えた。
『……でもね、栞。あんた、よく考えなさいよ』
「え……?」
『それってさ……あんたが望んでた「大家としての平穏な隠居生活」は、完全に、跡形もなく終わったってことだからね?』
――ッッッ。
冷水を浴びせられたように、私の息が止まった。
『あんた、ブラック企業で過労死寸前になって、男も恋愛も全部捨てて、「家賃収入で誰にも邪魔されず、静かに一人で暮らす」ためにあのアパートを継いだんでしょ?』
「……うん」
『でも、現実はどうよ。エリート、美大生、シェフ、作家……各界のトップを走るハイスペック男子四人が、あんたという獲物を巡って本気の戦争を始めてるのよ。……あんたが「私はただの大家です」なんて生ぬるい盾で逃げ回れるフェーズは、とっくの昔に終了してるの』
朋世の言葉が、私の胸のど真ん中に、鋭利な杭のように突き刺さる。
『逃げ場がないんじゃないのよ。あんた自身が、あいつらの居場所を守るために、あいつら全員の感情を受け止めちゃったから、こうなってるの。……覚悟を決めなさい、栞。あんたの平穏な日常は、もう二度と戻ってこないわよ』
「覚悟……なんて……」
『じゃあね、健闘を祈るわ! 刺されないように気をつけるのよー!』
ツ、ツ、ツ……と通話が切れる無機質な電子音。
スマートフォンの画面が暗転し、管理人室には再び、重苦しい静寂だけが戻ってきた。
「平穏な生活は……終わった……」
私は膝の間に顔を埋め、両手で頭を抱え込んだ。
朋世の言う通りだ。
私が引いたはずの「大家と店子」の境界線は、嵐の夜を越え、彼らの傷やトラウマに触れるたびに、私自身の手で溶かしてしまっていたのだ。
もう、後戻りはできない。
私は今、四人の男たちの狂気的なまでの愛と情熱の、ど真ん中に立たされている。
その時だった。
――トントン。
静まり返る管理人室の木製引き戸を、外から遠慮がちに、けれど確実にノックする音が響いた。
「ひゃっ……!?」
息を呑む私。
薄い障子と板戸を隔てたすぐ向こう側から、滑らかで、甘く、逃げ場のない声が降ってきた。
「栞さん。……入ってもいいですか?」
宮原陸の声だった。
出勤したはずの男が、なぜまだそこにいるのか。
それだけではない。
廊下の向こうからは、柴崎晴人がお盆を抱えて歩いてくるスリッパの擦れる音。
階段の踊り場からは、野村創が道具箱を置いてこちらを見下ろしている気配。
そして、一〇二号室の前からは、深見怜が紫煙を燻らせながら腕組みをして見守る気配。
四つの影が、私の部屋のドアの周囲を、完全に包囲していた。
平穏を求めて手に入れたはずの、レトロアパート「メゾン・サクラ」。
新米大家・佐伯栞(三十二歳)の心と体は、今、完全に逃げ場を失っていた――。




