第29話:中庭の宣戦布告
――ヒュウゥゥ……。
中庭を吹き抜けた夜風が、新しく敷かれたばかりのヒノキの香りをさらっていった。
バーベキューグリルの底で、真っ赤に熾きた備長炭がパチリと小さく爆ぜる。その乾いた破裂音すら、耳をつんざく爆音のように錯覚するほどの、完全な死の静寂。
深見怜の口から吐き捨てられた言葉。
――『最近、誰かさんが個人的に飯に連れ出したり、指で味見させたり、怪我の看病させたり……抜け駆けが、多すぎやしないか?』
「…………っ」
全身の血の気が、一瞬にして足の爪先までサーッと引いていくのを感じた。
先ほどまで心地よく頭をふわふわと包み込んでいたアルコールの酔いが、冷水を頭からぶっかけられたかのように一瞬で蒸発していく。
私の手の中で、飲みかけのビール缶がカサリと小さく音を立てた。
(ば、バレてる……!? 全部、見透かされてる……!?)
大衆中華で宮原くんにチャーハンを食べさせ、玄関先でネクタイを握らされたことも。
柴崎さんにキッチンで抱きすくめられ、指先から直接濃厚なポルチーニソースを味見させられたことも。
納屋で血だらけになった創くんの手を手当てし、深夜のベランダでリンゴをもらったことも。
そして何より――四十度の熱を出した深見さん自身を徹夜で介抱し、翌朝キッチンで壁ドンされて低音で囁かれたことすら。
薄い壁と共用スペースを隔てたこの築四十五年の木造アパートにおいて、男たちの張り巡らせた索敵網から完全に隠れ通せる秘密など、最初からひとつも存在していなかったのだ。
中庭の四隅に置かれたLEDランタンのオレンジ色の光が、男たちの彫りの深い顔立ちを不気味に陰影深く照らし出している。
グリルの前でトングを握りしめたまま硬直する創。
グラスを指先で弄びながら、瞳の奥に冷たい刃を仕込む柴崎。
手元の缶ビールをじっと見つめ、何かを測るように黙り込む陸。
そして、デッキの端で紫煙を燻らせ、三人を冷ややかに値踏みする深見。
息が詰まりそうな重圧。
私が「あ、あの……皆さん、それは誤解で……」と震える声で口火を切ろうとした――まさにその刹那だった。
――コトリ。
ウッドデッキの滑らかなハードウッドの上に、手元の缶ビールが静かに置かれた。
最初に動いたのは、一〇一号室の宮原陸だった。
「……ふっ」
静寂を破り、低く澄んだ笑い声が漏れた。
陸は両膝に手を置き、ゆっくりと背筋を伸ばした。
ワークシャツの袖をまくり、男らしい筋を露わにしたその腕。
街灯とランタンの光を浴びた陸の顔には、先ほどまでの「人懐っこい後輩」の仮面など微塵も残っていなかった。
社内のコンペを総なめにし、数々の百戦錬磨の取締役たちを論理と気迫でねじ伏せてきた、若きトップコンサルタントの完全なる覚醒。
涼しげな切れ長の瞳に、獲物を狙う肉食獣のギラギラとした熱狂を宿し、涼しい顔で口角をキュッと吊り上げる。
「抜け駆け、ですか。……人聞きの悪い言い方をしないでくださいよ、深見先生」
滑らかで、一切の淀みがないテノールボイスが夜気を切り裂く。
陸は紫煙を吐き出す深見を真っ向から見据え、挑発するように小首を傾げた。
「抜け駆けも何も……僕たちは入居時、誰一人として『アパート内での恋愛禁止』なんて契約を交わしていませんよ。祖母の文さんが定めたのは『住人同士の私生活への過剰な干渉・詮索の禁止』でしょう? 干渉を禁じられているのは他人の生活であって、自分自身の感情の行き先を縛るルールなんて、賃貸借契約書のどこにも記載されていません」
「ほお……?」
深見の眼鏡の奥の瞳が、面白そうに細められた。
陸は一切怯むことなく、滑らかな視線を私の方へとスライドさせた。
至近距離で絡み合う視線。
心臓が破裂しそうなほど強く跳ね上がる。
陸は迷いのない、堂々たるトーンで、夜空の下に響き渡る声で言い放ったのだ。
「僕は、佐伯栞さんを一人の魅力的な女性として見ています。……ただの大家さんとして接したことなんて、入居した初日から一度たりともありませんよ。僕は僕の意志で、正々堂々と彼女を口説きに来てます」
「っ……!?」
息が止まった。
他の住人たちの目の前で、全員がいるこの中庭の真ん中で、これ以上ないほどストレートに叩きつけられた求愛宣言。
陸の瞳には、かつての「甘えた大型犬」の逃げ道はなかった。
一人の大人の男として、全身全霊で私を手に入れようとする覇気が、肌を焦がすような熱量となって押し寄せてくる。
「宮原くん……っ!? 何を言って――」
「――ガタッッッッッ!!!!」
私の制止を遮るように、暴力的な轟音が中庭に響き渡った。
座っていたビールケースを力任せに蹴倒すような勢いで、立ち上がった影があった。
「……おい、陸」
地割れのような重低音。
野村創だった。
タンクトップ一枚の逞しい巨躯が、ドスンと大地を踏みしめて前へ出る。
百八十五センチを超える筋骨隆々とした体躯が、ランタンの光を背負って巨大な影をデッキの上に落とした。
手には、炭を掴む鉄製のトングがギリギリと軋むほどの力で握りしめられている。
短く刈り上げられた襟足から、太い首筋、そして耳の先までが、炭火の照り返しなど目ではないほど真っ赤に沸騰していた。
けれど――その鋭い三白眼は、いつものように照れてそっぽを向くことなど、微塵もしていなかった。
「創くん……?」
「……俺もだ」
創の唇が、震えながら開かれた。
言葉を紡ぐのが苦手なはずの男が、喉の奥から魂を絞り出すように、一言一言を叩きつけてくる。
「年下だからって……弟扱いされる筋合いはねえ。……俺は、美大生だからって子ども扱いされて、あんたの隣に立つ資格がねえなんて思われたくねえんだよ」
創の視線が、陸を、深見を、そして柴崎を射抜くように睨みつけた。
縄張りを荒らされた雄ライオンのような、剥き出しの敵意と覚悟。
「俺は、あんたの手を彫った。あんたのことを考えながら、指先血だらけにして木ぃ削ったんだ。……コンクールで賞獲って、一人前になって……あんたを守れる男になるって決めてんだよ。誰が相手だろうが……譲る気、ねえから」
――譲る気、ねえから。
不器用で、拙くて、けれどどんな流暢な言葉よりも重たい、ピュアな少年の脱皮した男の宣戦布告。
心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく痛む。
あの子が。
あんなに不器用で、目を合わせるだけで逃げ出していた創くんが、男たちの前で、堂々と私への独占欲を叫んでいるのだ。
「へえ……」
低く、どこまでも滑らかな感嘆の声が、静寂の隙間へと滑り込んできた。
――カチャリ。
グリルプレートの縁に、ステンレス製のトングが静かに置かれた。
柴崎晴人だった。
エプロンを風に揺らしながら、柴崎はゆっくりと立ち上がった。
その口元には、花が咲くような、極上の、完璧な微笑みが湛えられている。
けれど――。
その切れ長の瞳の奥底に宿った光を見た瞬間、私の背筋に、氷柱を突き立てられたような激しい悪寒が走った。
笑っているのに、瞳が完全に据わっている。
光を吸い込むブラックホールのような、底なしの暗黒の沼。
真壁くんが言っていた「二度と失わないために、逃げ道をすべて塗りつぶす男」の、狂気すれすれの絶対的な独占欲が、全身から黒いオーラとなって立ち上っていた。
「ふうん。皆さん、ずいぶん威勢がいいですね」
柴崎は首をわずかに傾げ、整った指先で自分のエプロンの結び目をそっと撫でた。
声音はどこまでも穏やかで、耳障りがいい。
けれど、その言葉のナイフは、陸と創の喉元を正確無比に切り裂く鋭利さを持っていた。
「若さと勢いに任せたストレートな求愛……微笑ましいですね、陸くん、創くん。でもね――」
柴崎の視線が、すっと私を捉えた。
逃げ場のない、蛇に睨まれた小鳥のように私の呼吸が止まる。
「言葉でいくら愛を囁こうと、将来の約束を叫ぼうと……栞さんの体を作り、彼女の空腹を満たし、疲労を癒やし、生活のリズムを一番深く把握しているのは、僕ですよ」
柴崎は一歩、デッキの中央へと歩み寄り、私のすぐ斜め前の位置で立ち止まった。
バニラとスパイスの甘い香りが、夜風を押し退けて濃厚に漂ってくる。
「彼女が風邪を引いた時、誰が一番にお粥を口元まで運んであげましたか? 彼女が疲れて帰ってきた夜、誰の料理を一番美味しそうに頬張っていましたか? ……彼女の胃袋の鍵を握っているのは、僕です。生活の根底から彼女を掌握している僕に……あなたたちのような青二才が、勝てるつもりでいるんですか?」
「柴崎さん……っ!」
陸が眉をつり上げ、一歩前に出る。
「生活の掌握だなんて、傲慢な囲い込みですよ! そんなの、ただの依存関係の押し付けじゃないですか!」
「依存で結構ですよ」
柴崎はふわりと目を細め、残酷なまでの美しい笑みを浮かべた。
「僕が作った料理以外、何も喉を通らなくなればいい。僕の味だけを舌に覚えさせて、僕の城から一歩も出られなくなればいい。……栞さんを誰にも渡さないためなら、僕はどんな手段だって使いますよ。負ける気なんて、最初から一ミリもありません」
「っっっ……!!」
息が詰まる。
第二十三話で、指先から直接ソースを味わわされたあの瞬間の、逃げ場のない甘い恐怖が全身を駆け巡る。
この男は本気だ。
親友に裏切られ、すべてを失いかけた過去を持つからこそ、もう二度と自分の愛した居場所を手放さないために、私のすべてを胃袋から囲い込もうとしているのだ。
陸の論理的な肉食の情熱。
創の不器用で真っ直ぐな少年の純情。
柴崎の逃げ道を塞ぐ狂おしいまでの執着。
三者三様の、あまりにも濃密すぎる愛の炎が中庭で激突し、火花を散らしている。
その時だった。
――くくっ……。
――あっははははははっ!
沈黙を切り裂いて、低く乾いた哄笑が響き渡った。
デッキの端、柱に背を預けていた深見怜が、肩を激しく揺らして笑っていたのだ。
「深見……先生……?」
深見は指に挟んでいた煙草を、携帯灰皿の中にジュッと押し付けて消した。
そして、ツナギのポケットから両手を引き抜き、長い足を組み替えて立ち上がった。
丸眼鏡の奥の切れ長の瞳。
ボサボサの黒髪を夜風に揺らしながら、深見はゆっくりと、三人の男たちを順番に見下ろすように視線を走らせた。
「おいおいおい……傑作だな、お前ら。コンサルの青臭いプロポーズに、美大生の熱血青春ドラマに、シェフのヤンデレ劇場か? 三文小説のプロットにしても、もう少し捻りがあるぜ」
「深見先生、茶化さないでください!」(陸)
「……あんたに言われる筋合いはねえ!」(創)
「茶化してなんかいねえよ」
深見の笑みが、ふっと消え失せた。
大人の男の、冷徹で、そして誰よりも残酷な作家の眼差し。
深見は長い足でスタスタと歩み寄ると、私の目の前に立った。
見上げる位置。
深見の長い指が、すっと伸びてきた。
そして――何のためらいもなく、私の顎のラインを、冷たく骨張った指先でクイと持ち上げたのだ。
「ひゃっ……!?」
至近距離で交錯する視線。
第二十一話で、眼鏡を外した素顔で見つめられた時と同じ、息を呑むほどに鋭く、熱く濁った大人の色気が、私の視界を塗りつぶす。
「ほら見ろ、大家」
深見の薄い唇が、意地の悪い笑みを浮かべて動いた。
耳元に落ちてくる、低く掠れたハスキーボイス。
「あんたが無自覚に餌を撒くから、全員狩る気満々になってるぞ」
「え……っ!?」
「鍵を開けっぱなしにして寝込み、脚立から落ちて男の胸に飛び込み、指からソースを舐め取り、夜中にベランダに出てきてリンゴを受け取る……。あんたがそうやって、世間知らずで無防備に隙を晒し続けるから、こいつらの理性が完全に焼き切れたんだよ」
痛いところを、これ以上ないほど正確に抉り取られる。
深見の親指の腹が、私の顎先をじわりと弄ぶように撫でる。
「言っとくがな、大家。俺も引く気は毛頭ねえぞ」
「ふ、深見……さん……」
「あんたのそのお人好しで普通の感覚が、俺の言葉を現実に繋ぎ止めてるんだよ。あんたがいなきゃ、俺は次の傑作が書けねえ。……だから、責任取れ。他のガキどもにくれてやるくらいなら、俺の部屋に閉じ込めて、一生俺の専属担当にしてやる」
逃げ場のない、四人目の宣戦布告。
言葉を武器にする男が、その圧倒的な言語の力で私の心を縛り付けにかかる。
「深見先生、栞さんから手を離してください!」
陸が激昂して手を伸ばそうとする。
「……大家さんに触るな!」
創がトングを投げ捨てて間に入ろうとする。
「先生、いくらなんでも強引すぎますよ」
柴崎が氷点下の笑顔で深見の肩を掴もうとする。
バチィィッッッッッッ!!!!
目に見えるほどの火花が、中庭のランタンの下で爆発した。
四人の極上男子たち。
外資コンサル、美大生、シェフ、そしてベストセラー作家。
それぞれが異なる武器を持ち、異なる色気を放ち、異なる情熱を剥き出しにした男たちが、私を取り囲み、四方から至近距離で真剣な眼差しを突き刺してくる。
逃げ道はゼロ。
息を吸うことすらできないほどの、過剰すぎる糖度と狂気的なまでの独占欲の嵐。
「ちょ……っ、ちょっと待ってくださいぃぃぃッッッ!!!!」
私は両手で自分の顔を覆い、喉の奥からありったけの声を絞り出して絶叫した。
「皆さん、頭を冷やしてください! わ、私はただの大家です! 皆さんは店子です! 私たちは、賃貸借契約で結ばれただけの、ビジネスライクな関係のはずでしょう!?」
必死の、悲痛な叫び。
元社畜がすがりつく、唯一の論理的な防壁。
けれど――。
「関係ありません。大家だろうが何だろうが、僕が愛しているのは佐伯栞という女性です」(陸・涼やかな笑顔の奥の肉食の瞳)
「……契約なんて知るか。俺は、あんたを男として意識させるまで絶対に諦めねえ」(創・耳を真っ赤にした決死の眼光)
「ふふ、店子だからこそ、一番近くであなたの生活を包囲できるんですよ。逃げられると思わないでくださいね」(柴崎・甘く危険なスパダリスマイル)
「大家だの店子だの、くだらねえ建前で逃げてんじゃねえよ。……俺たち全員、本気配なんだよ」(深見・煙草の香りを纏った大人の低音)
「「「「…………」」」」
四者四様の、一切の妥協のない決め台詞。
私の言葉など、誰の耳にも届いていなかった。
水面下で繰り広げられていたはずの小さな牽制とアプローチは、今夜、この真新しいウッドデッキの上で――完全に、公然のバトルロイヤルへと昇格してしまっていたのだ。
「う、そでしょ……」
私はデッキの上に膝をつき、両手で頭を抱え込んだ。
「私の……私の、平穏な一人暮らし計画は……どこへ行っちゃったのよぉぉぉぉぉっ!!」
夜空に木霊する、新米大家の絶望の叫び。
秋風が吹き抜ける中庭で、四人の男たちの挑戦的で、熱く、ギラギラとした視線が、逃げ場を失った私の一点へと、容赦なく突き刺さり続けていたのだった。




