第28話:ビール片手の夕暮れバーベキュー
西の空を赤紫色に染め上げていた秋の夕日は、建物の屋根の向こうへと音もなく沈み、目黒の空には藍色の帳が降りてきていた。
吹き抜ける十一月の風はひんやりと冷たく、頬をかすめるたびに肌をキュッと引き締めさせる。だが、中庭の中央に陣取ったメゾン・サクラの敷地だけは、まるで外界から切り離された別世界のように、赤々と燃える炭火の熱と芳しい煙に包まれていた。
「……うわぁ、本当にできたんだ。私たちの手で……」
私は軍手を外し、手洗い場で綺麗に土と埃を洗い流したあと、完成したばかりのウッドデッキの端に腰を下ろした。
靴を脱いで足を踏み入れると、真新しいハードウッドとヒノキの角材が、足裏から心地よい木の温もりを返してくれる。表面には丁寧にやすりが掛けられ、ささくれひとつない。大人が五人乗り、さらに重たい鋳鉄製のバーベキューグリルを据え置いても、軋みひとつ立てない圧倒的な堅牢さだった。
第七話で私が壊して落ちたあの古い木製脚立のような脆さは、もうこのアパートのどこにもない。
「栞さん、寒くありませんか? これ、膝に掛けてください」
ふわりと温かい毛布が、私の太ももの上に掛けられた。
見上げると、ワークシャツの袖をまくった宮原陸が、手持ちのLEDランタンをデッキの四隅に手際よく配置しているところだった。
ランタンが灯ると、温かみのあるオレンジ色の光が、出来立てのデッキを柔らかく照らし出す。朝からの肉体労働で汗を流したはずなのに、陸の横顔は疲れを感じさせるどころか、達成感と健康的な色香に満ちていた。
「ありがとう、宮原くん。でも、宮原くんこそ風邪引かないでね? 一番重い根太を運んでくれたんだから」
「平気ですよ。むしろ、頭だけ使う普段のコンサルの仕事より、よっぽど心地いい疲労感です。……それに、栞さんに良いところを見せられましたから」
耳元で悪戯っぽく囁かれ、私の心臓がトクンと小さく跳ねる。相変わらず、隙あらば甘い言葉を滑り込ませてくる年下エリートだ。
「……おい、陸。油売ってねえで、炭の火起こし手伝え」
デッキの脇で、大きな送風機を片手に炭火を熾していた野村創が、低くドスの利いた声で睨みつけてきた。
黒のタンクトップ姿の創は、首に巻いた手拭いで汗を拭いながら、真っ赤に熾きた備長炭をトングで手際よくグリルの底へと均等に敷き詰めていた。太い前腕には木屑と煤がうっすらと付着し、炭火の熱気に照らされた筋骨隆々とした胸板が、息をするたびに大きく上下している。
火を操る姿すら、金属彫刻を手掛ける美大生ならではの職人技そのものだった。
「文句ばっかり言わないでくださいよ、創くん。僕はテーブルセッティングを終えたところです」
「口だけ達者なコンサル野郎が……。ほら、網乗せるぞ。火加減は完璧だ」
創が重厚な鉄網をバチンとグリルに乗せると、ジュッと微かな熱気が弾けた。
そこへ、共用キッチンの勝手口から、両手に大きなバットを抱えた柴崎晴人が、エプロンを風になびかせて現れた。
「お待たせしました。本日のメインディッシュ、仕込み完了です」
テーブルの上に置かれたステンレスバットを見て、私と男たちの喉が同時に大きく鳴った。
「わ……っ! すごい……! これ、全部晴人さんが!?」
「ええ。昨日の夜から、特製のタレに漬け込んでおいたんです」
バットの中に鎮座していたのは、見事な厚みを持った豚スペアリブの山だった。
自家製のオレンジマーマレードとバルサミコ酢、燻製醤油、すりおろした生姜とニンニク、そしてフレッシュローズマリーをふんだんに使った特製マリネ液。骨付き肉の筋繊維の奥深くまでタレが染み込み、琥珀色の艶やかな輝きを放っている。肉の周囲には、柴崎さんが隠し包丁を入れた大ぶりの骨付きソーセージも並んでいた。
さらに、創が持ってきた木箱の中には、丸ごとの万願寺とうがらし、肉厚の原木椎茸、輪切りにした長芋、そして真っ赤なパプリカが山盛りに盛られている。
「野菜は俺が焼く」
創がトングを握りしめ、眉間に力を込めた。
「野菜は強火の遠火で一気に水分を閉じ込めるのが基本だ。焦がしたら台無しだからな。……大家さん、椎茸好きだろ」
「えっ? うん、大好きだけど……なんで知ってるの?」
「……いつかの夕食会で、鍋の椎茸ばっかり嬉しそうに食ってたからだ」
創はそっぽを向いてボソリと呟くと、耳の先をほんのり赤く染めながら、グリルの一番火力の安定した場所へ椎茸の傘を下にして並べ始めた。
そんな些細なことまで覚えていてくれたことに、胸の奥がキュッと温かくなる。
「くくっ……観察眼だけは一人前だな、純情美大生」
縁側の引き戸から、黒いツナギのポケットに手を突っ込んだ深見怜が、気怠げに姿を現した。
手には、段ボール箱から取り出してきたばかりの、キンキンに冷えた缶ビールの六缶パックが二つぶら下がっている。
「深見さん! お疲れ様でした。ペンキ塗り、本当に助かりました」
「指先が攣るかと思ったぜ。……ほら大家、受け取れ。労働の後の酒ほど、美味いもんはないからな」
深見は冷たい缶ビールを一本、私の手元へと放り投げてきた。
受け取った瞬間、指先に走る痛快な冷気。銀色の缶の表面には、細かい水滴がびっしりと結露している。
「さあ、皆さん! デッキの完成と、今日一日の無事故を祝って――乾杯しましょう!」
陸の音頭で、全員がビール缶を掲げた。
「「「「乾杯!!」」」」
プシュッ、プシュッ、と小気味よい開栓の音が夜の静寂に連鎖する。
カチン、と五つのアルミ缶が、夕暮れのランタンの光の下でぶつかり合った。
ゴクリ、ゴクリ、と喉を鳴らして流し込む。
――ッッッ、かぁぁぁぁぁっ!
苦味の利いた炭酸が、渇き切っていた喉を心地よく刺激し、胃袋へと一気に落ちていく。
一日中、木屑と塗料と汗にまみれて働いた身体の隅々にまで、冷たいアルコールが染み渡っていくこの快感。
「……ぷはぁっ! 美味しい……! 生きてるって感じがする……!」
私が思わず両手で缶を握りしめて息を吐き出すと、周囲の男たちからふっと柔らかな笑いが零れた。
「栞さん、一口目が一番幸せそうな顔をしますよね」
陸が愛おしそうに目を細める。
「ジューーーッッッッ!!!」
その時、グリルから凄まじい歓声のような音が上がった。
柴崎さんがトングで特大のスペアリブを網の上に寝かせたのだ。
炭火の熱を受け、肉の表面の脂がチリチリと弾け、タレの焦げる甘辛い醤油と柑橘の芳醇な香りが、立ち上る白い煙とともに中庭いっぱいに広がる。
続いて、創が網の端で椎茸のヒダに塩をパラパラと振り、醤油をひと垂らしした。ジュワッ、と香ばしい煙が舞い上がる。
「はい、栞さん。まずは焼き野菜からどうぞ。椎茸のエキスが逃げないうちに」
創が取り皿に、熱々の椎茸と長芋を乗せて手渡してくれた。
箸で椎茸を持ち上げ、口の中へ放り込む。
ハフッ、ハフッ……!
肉厚の傘から、まるで上質なコンソメスープのように凝縮されたキノコの熱いエキスがじゅわっと溢れ出し、炭火の薫香と焦がし醤油の風味が鼻腔を突き抜けた。
「……んんっ! あつっ、おいしい……! キノコなのに、お肉みたいにジューシー!」
「……だろ。長野の山で採れたやつだからな」
創は満足そうに口元を緩め、ビールを一気に半分あおった。
「そして、メインのスペアリブです。焼き上がりましたよ」
柴崎さんが、黄金色の焦げ目をまとった大ぶりのスペアリブを、一人ひとりの皿へと手際よくサーブしてくれた。
骨の周りの肉がふっくらと盛り上がり、表面はタレがキャラメリゼされて照り輝いている。
私は骨の両端を指先で持ち、思い切りかぶりついた。
サクッ、ジュワァァァッ……!
表面の香ばしいクリスピーな食感を抜けた瞬間、驚くほど柔らかい豚肉が、骨からホロリと外れた。
噛むごとに溢れ出す、濃厚でジューシーな肉汁。
マーマレードの爽やかな柑橘の酸味と苦味が、豚肉の脂の重さを完璧に包み込み、バルサミコの深いコクが後味を上品に引き締めている。
「……っ、おい、しい……! なにこれ、骨からお肉が勝手に解けていく……!」
「フォークで下茹でしてから、低温でじっくりタレを染み込ませてありますからね。骨周りのコラーゲンが一番美味しい部分です。手づかみで豪快に食べて正解ですよ、栞さん」
柴崎さんは目を細めて微笑むと、自分の指先についたタレを紙ナプキンで拭い、私のグラスに新しいビールをトクトクと注ぎ足してくれた。
美味しい肉、炭火の香り、そして喉を鳴らす冷たいビール。
二本、三本と缶が空いていく。
心地よい疲労感とアルコールの巡りによって、私の身体はぽかぽかと温まり、緊張していた肩の力がすうっと抜けていった。
頭がふわふわとして、視界が柔らかく滲む。
十年間、ブラック企業で「休むことは悪」「他人に弱みを見せたら負け」と自分を追い詰め続けてきた私にとって、こんな風に誰かと肩を並べ、汗を流した後に笑い合いながら酒を飲む時間など、遠い夢の中の出来事だったはずなのだ。
「……ふふっ」
私の唇から、たまらず柔らかな吐息が漏れた。
ビール缶を両手で包み込み、私は新しくなったウッドデッキを見渡し、そして周囲を囲む四人の男たちの顔を、一人ずつゆっくりと見つめた。
「……みんな。本当に、ありがとう」
私の声に、肉を焼いていた創の手が止まり、缶ビールを傾けていた陸と深見が顔を上げた。
「私ね、水曜日に矢吹先生から『築四十五年のアパートを守るには、将来莫大な修繕費がかかる』って聞かされた時……本当は、すごく怖かったの。私みたいな元社畜の素人が大家になって、本当にこの場所を守り続けられるのかなって……いつかボロボロになって、みんなを巻き込んで破綻しちゃうんじゃないかって……」
ほろ酔いのせいで、普段なら絶対に胸の奥にしまい込んでおくはずの本音が、ポロポロと口から零れ落ちていく。
夜風がふわりと吹き抜け、私の後れ毛を優しく揺らした。
ランタンのオレンジ色の光を浴びて、私の頬は林檎のように赤く染まり、潤んだ瞳が街灯の光を反射してキラキラと濡れていた。
「でも、今日……みんなが朝から泥だらけになって、木を運んで、ビスを打って、美味しいご飯を作ってくれて……。私一人じゃ、板一枚だって直せなかったのに。……こんなに立派で、温かいデッキを作ってくれた」
私は胸元に手を当て、心からの、嘘偽りのない満面の笑顔を四人へと向けた。
「ここは、私の家だけど……みんなの家でもあるんだよね。みんながいてくれて、本当によかった。……私、世界で一番幸せな大家さんだよ」
――世界で一番、幸せな大家さん。
その言葉と、無防備すぎる笑顔が夜の空気に放たれた瞬間。
ピタリ、と。
中庭の空気が、完全に静止した。
「…………」
グリルの炭が、パチリと小さく爆ぜる音だけが響く。
男たちの視線が、まるで強力な磁石に引き寄せられたかのように、一点――デッキの端でほろ酔いになって微笑む私へと、釘付けになっていた。
ビールの泡を上唇に小さく白く残し、赤い頬を染め、風に髪を揺らせて潤んだ瞳で見つめてくる、三十二歳の女の素顔。
防壁を完全に解き放ち、全幅の信頼を寄せて微笑みかけてくるその姿は、どんな計算された色気よりも残酷なまでに、男たちの理性を芯から焼き切る破壊力を秘めていた。
陸の呼吸が、喉の奥で詰まった。
手元のビール缶が、指の力でペコリと小さく凹む。その切れ長の瞳には、先ほどの爽やかな笑顔は消え去り、獲物を今すぐ組み敷きたいという生々しい「雄」の熱が宿っていた。
創はトングを握りしめたまま、彫刻のように硬直していた。
炭火の赤さなど比べ物にならないほど、短く刈り上げられた襟足から耳の先、そして首筋までが一瞬にして沸騰するように真っ赤に染まり上がっている。見開かれた三白眼が、激しく揺れていた。
柴崎は、拭っていたナプキンを皿の上に置いたまま、目を細めた。
口元には笑みが浮かんでいる。けれど、その瞳の奥底にあったのは、真壁の言っていたあの「二度と逃がさない」という、底知れぬ狂気じみた独占欲の炎だった。
(……あれ? み、みんな……どうしたの?)
急激に重たく、濃密に変わった空気の密度に、私はようやくお酒の酔いからハッと我に返った。
視線が、痛い。
全方位から注がれる熱量が、肌をチリチリと焦がすように熱い。
その時だった。
カチャリ。
沈黙を切り裂いて、金属の擦れ合う乾いた音が響いた。
デッキの隅に腰を下ろしていた深見怜が、ジッポライターの蓋を開け、親指でヤスリを弾いたのだ。
ボッ、と小さな炎が立ち上がり、くわえ煙草の先端を赤く灯す。
「……ふうぅぅぅぅ……」
深見は紫煙を夜空へと細く吐き出した。
丸眼鏡の奥の切れ長の瞳が、冷徹な光を湛えて細められる。
そして、手元のビール缶を傾け、最後の一滴を喉に流し込むと――低く、ドスの利いた大人の声で、静かに口火を切ったのだ。
「……なあ」
静寂の中庭に、その一言が重く落ちた。
陸が、創が、柴崎が、ゆっくりと深見へと視線を向ける。
深見は煙草を指に挟み、灰を灰皿へとトントンと落としながら、冷ややかな視線で三人の男たちを順番に射抜いた。
「このアパート。……最初の契約で、『住人のプライベート詮索禁止』ってルールがあったよな?」
――ッッッ。
全員の息が止まった。
柴崎のトングを握る手が止まり、陸の眉がピクリと跳ね上がり、創の肩が強張る。
深見は紫煙を再び吐き出し、口元に嘲弄と、そして隠しようのない苛立ちの混ざった笑みを浮かべた。
「最近……誰かさんが個人的に飯に連れ出したり、指で味見させたり、怪我の看病させたり……」
深見の視線が、陸へ、柴崎へ、そして創へと向けられる。
逃げ場のない、核心を突いた弾劾。
「抜け駆けが、多すぎやしないか?」
凍りつく中庭。
ランタンの揺らめく灯火の下、四人の男たちの張り詰めた視線が、一瞬にして殺気立って交錯した。
大家と店子の境界線。
その最後の建前が、今夜――完全に崩壊しようとしていた。




