第27話:アパート中庭のDIY作戦
水曜日の深夜、銀座から矢吹先生の黒塗り高級セダンで送ってもらい、アパートの門前で宮原陸と柴崎晴人に待ち伏せされたあの胃痛ものの鉢合わせ事件から、三日が過ぎていた。
あの夜、二人の男から浴びせられた冷気配に満ちた視線と、耳元で落とされた「何を言われたんですか」「部屋でゆっくり話を聞かせてもらえますよね」という逃げ場のない尋問は、私の寿命を確実に三年は縮めたと思う。
矢吹先生から突きつけられた『一人の男として見ています』という落ち着いた求婚めいた言葉。そして、『彼らのような不安定な男たちに、あなたの将来を生涯支えられる保証はない』という冷徹な現実論。
その言葉は、アパートの男たち――特に、日頃からプライド高く生きているハイスペック男子たちの逆鱗に、これ以上ない角度で触れてしまったらしかった。
「……それにしても、ちょっと気合いが入りすぎてやしないかしら」
土曜日の午前八時半。
抜けるような秋晴れの青空の下、私は作業用エプロンに軍手をはめ、中庭の中央に立ち尽くしていた。
目の前に広がるのは、中庭のシンボルツリーである山桜の根元を囲むように設置されていた、約八畳ほどの木製ウッドデッキだ。
祖母の代に作られたこのデッキは、長年の雨風と先日の大型台風の爪痕によって、あちこちの板が黒ずんで腐食し、踏むたびにミシッと不気味な軋み音を立てていた。第七話で私が掲示板のポスター貼りに使ってへし折れたあの古い木製脚立と同じように、このアパートの屋外設備は、いつ大事故が起きてもおかしくない限界を迎えていたのだ。
業者に頼めば、撤去と新設で数十万円は下らない。
大家の予備費から出すべきか、それとも矢吹先生が作ってくれた長期修繕計画の積立金から捻出すべきか――そう一人で悩んでいた私に、昨夜、男たちが突きつけてきた回答は極めてシンプルだった。
『明日、全員で張り替えます。材料費は頭割り、施工は僕たちでやりますから、大家さんは指一本動かさなくて結構です』
矢吹先生に「ただの店子」「いつ出ていくかも分からない他人」と見下されたことへの、凄まじい対抗心。
そして今朝――中庭には、およそ日常の共同生活とは思えない光景が広がっていた。
「……おい、大家。ボーッと突っ立ってると木屑が飛ぶぞ」
ガラガラと音を立てて納屋から姿を現したのは、二〇一号室の野村創だった。
その姿を見た瞬間、私の息が止まりそうになった。
色褪せたグレーのワークパンツに、黒のぴったりとしたタンクトップ一枚。頭には手拭いをバンダナのように巻き、腰にはプロ用の牛革製ツールベルトがジャラリと下げられている。
百八十五センチを超える筋骨隆々とした体躯。太い二の腕には、朝の冷気の中でもボコボコと青い血管が浮き上がり、首筋から肩にかけての僧帽筋が逞しく盛り上がっている。
「そ、創くん……!? その格好、まるで本物の大工さんじゃない」
「……美大の立体造形舐めんな。木工も金工も、実習で散々やらされてんだよ。……これくらいのデッキの張り替え、朝飯前だ」
創はぶっきらぼうに言い捨てると、ドンッと重たい音を立てて、巨大な電動丸ノコとレーザー水平器を作業台の上に据え置いた。
普段は無口で、少し褒めただけで耳まで茹でダコになるあの純情少年はどこへやら。今日の創は、完全に「百戦錬磨の現場監督」の顔つきへと覚醒していた。
床板の腐食具合を金槌の柄で叩いて音を確かめ、メジャーをシュルシュルと滑らせて基礎の束柱の間隔をミリ単位で計測していく。その無駄のないプロフェッショナルの所作と、鋭く引き締まった横顔の色気に、私は思わず見惚れてしまった。
「創くん、木材の搬入が完了しましたよ。予定通り、耐久性と防腐性に優れた国産ヒノキの間伐材の規格角材と、床板用のハードウッドです」
中庭の木戸を開けて入ってきたのは、一〇一号室の宮原陸だった。
これまた普段のスーツ姿とは正反対の、ラフなワークシャツにカーゴパンツ姿。袖を肘の上までたくし上げ、腕の引き締まった筋を露わにしている。
手には、早朝からレンタカーのハイエースで大型ホームセンターへ乗り込んで調達してきたという、プロ仕様の電動工具一式。
「マキタの十八ボルト最新型充電式インパクトドライバーを二台と、防錆処理済みのデッキ専用コーススレッド(木ネジ)を千本買ってきました。それから、これが本日の工程管理表です」
陸がクリップボードに挟んだA4のカラー用紙を私に見せてくる。
そこには、『午前:既存床板の解体撤去・基礎束石の水平補正』『午後一番:根太の防腐塗装および骨組み接合』『午後三時:床板ビス打ち・面取り仕上げ』と、分刻みで緻密なタスクと担当者が割り振られていた。
「が、ガントチャート……!? たかがアパートのDIYで、そこまでやるの!?」
「たかが、ではありませんよ栞さん」
陸はフッと切れ長の瞳を細め、悪戯っぽく、けれど冷徹な自信を込めて微笑んだ。
「外資系コンサルのプロジェクトマネジメントを舐めてもらっては困ります。効率的な人員配置と動線設計、そして徹底したリスク管理。……誰かさんみたいに、書類の上で数字をこねくり回すだけの税理士とは違って、僕たちは机上の空論ではなく、実際に手を動かしてあなたの生活基盤を強固にする力があるんですから」
矢吹先生への対抗心がバチバチに隠しきれていない。
陸はニヤリと笑うと、首元のボタンをもう一つ外し、たくましい鎖骨を覗かせながらインパクトドライバーをカチャリと腰のホルダーに差した。
「……チッ。朝っぱらからやかましいエリート野郎だ」
縁側の引き戸が開き、気怠げな足音とともに現れたのは、一〇二号室の深見怜だった。
黒のゆったりとした作業用ツナギを着込み、首にはタオル。ボサボサの黒髪に丸眼鏡、そしてくわえ煙草。
「深見さん! 起きて大丈夫なんですか? 原稿の締め切りは……」
「終わったよ。小野寺の野郎にゲラを投げつけて追い返してきたところだ。……おい創、俺の担当はどこだ。言っとくが、作家の繊細な指先を痛めるようなヘヴィな仕事はNGだからな。万が一突き指でもしたら、慰謝料でこのアパート丸ごと買い取ってやることになるぞ」
「……文句ばっか言ってねえで、これ持て」
創が容赦なく深見の胸元へ放り投げたのは、特大のペンキ用ローラーと、キシラデコール(木材保護塗料)の四リットル缶だった。
「深見先生は、解体した基礎の木材と新しい根太に、防腐ステインを三回重ね塗りする係だ。ローラー転がすだけだから指先は痛まねえ。塗りムラがあったら全部やり直しさせるからな」
「へいへい、人使いの荒い現場監督様だこと」
深見は悪態をつきながらも、煙草をもみ消すと、手慣れた様子で塗料缶の蓋をマイナスドライバーでこじ開けた。
ツナギの袖をまくり、ペンキの缶を片手に持ち上げて中庭の隅へ腰を下ろす。文句ばかり垂れているくせに、いざ作業が始まると、誰よりも丁寧かつ均一なストロークで木肌に防腐剤を塗り込んでいく。気怠げな横顔の隙間から覗く、職人のような集中力。
「さあ皆さん、作業を始める前に、まずは水分補給ですよ」
エプロン姿で勝手口から現れたのは、二〇二号室の柴崎晴人だった。
トレイの上には、大きなガラスポットに入った麦茶と、キンキンに冷えたタオルが人数分用意されている。
「晴人さん! お店の仕込みは大丈夫なんですか?」
「今夜は定休日ですから、時間は丸一日ありますよ。力仕事は創くんや陸くんに敵いませんが、ケータリングと後片付け、細かなビスの仕分けは僕が引き受けます。……栞さん、あまり埃を吸い込まないように、後ろに下がっていてくださいね」
柴崎さんは優しく微笑むと、私の首元に清潔な手ぬぐいをそっと巻き、結び目をキュッと整えてくれた。
至近距離で香る、バニラと爽やかな柑橘の香り。
周囲から、チッと三つの舌打ちが同時に響いたのは言うまでもない。
「よし……作業開始だ! まずは古い床板をバールで引っ剥がす!」
創の野太い号令が、中庭に響き渡った。
そこからの男たちの連係プレーは、まさに圧巻の一言だった。
ギギッ、バキィッ!
創が分厚いバールを床板の隙間にねじ込み、体重をかける。
錆びついた古い釘が悲鳴を上げて抜け、腐食した板が次々と剥がされていく。角材を二本まとめて軽々と肩に担ぎ、中庭の端へ運んでいく創の後ろ姿。タンクトップの背中が汗でびっしょりと張り付き、肩甲骨の起伏が生き物のように躍動している。
飛び散る木屑。乾いた土の匂い。
普段の「耳を赤くする照れ屋な少年」の姿は完全に消え去り、そこにあるのは、圧倒的な暴力的なまでの肉体美と男らしさだった。
「陸、そっちの根太のビスをインパクトで外せ!」
「了解。トルクを五番に設定……よし、緩んだ!」
陸が電動ドライバーの引き金を引くと、チュドッ、チュドッ、という甲高い機械音が鳴り響く。
汗が額から顎へと滴り落ちるのを、陸はワークシャツの肩口で無造作に拭った。普段のスーツ姿では絶対に見られない、荒々しく息を弾ませる雄の姿。乱れた前髪の隙間から覗く濡れた瞳が、私の視線とぶつかるたびに、挑戦的な熱を帯びてギラリと光る。
「おい大家。見てるだけなら、そっちの刷毛持ってこい」
深見が呼ぶ声に駆け寄ると、彼はツナギの胸元を大きくはだけさせ、首筋に汗を光らせていた。
木材に染み込む茶色いステインの匂いと、深見の身体から立ち上る煙草の混ざった大人のフェロモン。
「ほら、木口のところは塗料を吸いやすいから、刷毛で叩き込むように塗るんだよ。……ほら、手ぇ貸してみろ」
深見の長い指が、軍手越しに私の手を上から包み込み、刷毛を一緒に握らされる。
至近距離で耳元にかかる、低く掠れた吐息。
「ぼさっと見惚れてんじゃねえよ。ガキどもの筋肉ばっかり見てると、夜、俺の部屋でお仕置きだぞ」
「な、見惚れてなんかいません!」
真っ赤になって刷毛を動かす私を、向こう側から創と陸が「おい深見、大家さんに手ぇ出してる暇があったら塗料足せ!」と怒号で牽制してくる。
午前が終わり、午後に入る。
古い床板がすべて撤去され、腐食していた根太が真新しいヒノキの角材へと差し替えられた。
創が水平器を当て、「よし、水平誤差ゼロだ」と満足げに頷く。
午後一時。
中庭に、ふわりと甘く香ばしい香りが漂い始めた。
「皆さん、お疲れ様です。お昼休みにしましょう!」
柴崎さんが共用キッチンの勝手口から運んできたのは、息を呑むほど豪華な特製ケータリングだった。
「わあ……っ! 美味しそう……!」
大皿の上に山盛りにされたのは、焼き立ての自家製フォカッチャに、低温調理でしっとりロゼ色に仕上げられた厚切りの自家製ローストポークを挟んだサンドイッチ。粒マスタードとコルニッション(小きゅうりのピクルス)の酸味が効いた特製ソースが、溢れんばかりに挟まれている。
さらに、大きなガラスピッチャーには、たっぷりのミントと輪切りのレモン、そして蜂蜜で漬け込んだ自家製ハニーレモネードが、氷をカランと鳴らして汗をかいていた。
「熱中症予防に、クエン酸と塩分をしっかり補給できるように計算してあります。どうぞ、召し上がってください」
男たちが木屑を払い、手を洗って縁側に腰を下ろす。
ローストポークサンドにかぶりついた創が、「……うまっ。肉、めちゃくちゃ柔らかい」と目を丸くし、陸が「さすがプロですね……疲労回復に完璧な味付けです」とレモネードを一気に煽る。
私もサンドイッチを一口頬張り、豚肉のジューシーな旨味とハーブの香りに感動していると――。
「栞さん」
柴崎さんが、私のすぐ真横に腰を下ろしてきた。
肩が触れ合う距離。
柴崎さんの指先には、レモネードから引き上げられた、薄切りのレモンピールが一枚。
「はい、口を開けてください」
「えっ……!? 自分で食べられますよ!」
「手、木屑と塗料で汚れているでしょう? ビタミンCの補給です。はい、あーん」
有無を言わさない、極上のスパダリの笑み。
逃げ場を失った私が、恥ずかしさで真っ赤になりながら恐る恐る口を開けると、柴崎さんの指先が私の唇に触れ、甘酸っぱいレモンピールが滑り込んできた。
爽やかな苦味と甘みが口いっぱいに広がる。
その瞬間――柴崎さんの親指が、私の下唇をそっと撫でた。
「……ふふ、いい子ですね。午後も僕がついていますからね」
バチィィッ!!
周囲から、殺意の籠もった視線が集中した。
創がサンドイッチを噛み締めながら目を据わらせ、陸がストローを握り潰しそうになり、深見が「あざとい真似しやがって」と舌打ちを鳴らす。
中庭のランタン……ではなく、秋の太陽の下で、早くも男たちの間で火花が散りまくっていた。
昼食を終え、いよいよ仕上げの工程へ。
午後からは、新しいハードウッドの床板を一枚ずつ敷き詰め、コーススレッドを打ち込んでいく作業だ。
チュドッ! チュドッ! ギュルルルッ!
インパクトドライバーの甲高い音が、リズムよく響き渡る。
創が板の隙間に均一なスペーサーを挟み、陸が正確無比な位置にビスを沈め、深見が最後のやすりがけを行い、柴崎が飛び散る木屑を箒で掃き清める。
誰一人としてサボらない。
誰一人として妥協しない。
ただひたすらに、目の前にいる佐伯栞という女性に「自分たちの価値」を証明するために。
この場所が、自分たちにとってもかけがえのない大切な居場所なのだと、全身全霊で形にするために。
夕暮れの茜色の光が、中庭を染め上げ始めた午後五時。
チュドッ……カチリ。
最後のビスが、真新しい床板の中に美しく沈み込んだ。
「……よし。全工程、完了だ!」
創の晴れやかな叫びとともに、電動工具のモーター音が完全に止まった。
沈黙。
そして――。
「……う、わあぁぁぁぁぁ……っ!!」
私は思わず両手で口元を覆い、歓声を上げた。
そこにあったのは、今朝までの腐食して軋んでいたボロボロのデッキとは似ても似つかない、息を呑むほど美しい、真新しいウッドデッキだった。
赤みを帯びた重厚なハードウッドの床板は、寸分の狂いもなく水平に並び、木肌は滑らかに面取りされ、夕陽を浴びて琥珀色に輝いている。
鼻腔を満たすのは、清々しいヒノキと木の芳醇な薫香。
大人が何人飛び跳ねてもびくともしないような、圧倒的な堅牢さと温もりが、そこには確かに存在していた。
「すごい……! すごいよ、みんな! まるでプロのリフォーム業者さんが作ったみたい……!」
私が靴を脱ぎ、靴下のまま真新しいデッキの上に上がると、滑らかな木の感触が足の裏から心地よく伝わってきた。
軋む音はひとつもしない。ただ、どっしりとした大地の安定感。
デッキの周囲に、汗だくになった男たちが集まってきた。
Tシャツの胸元をはだけさせ、満足そうに腕組みをする創。
タオルで汗を拭いながら、誇らしげに息をつく陸。
ツナギの肩を回し、気怠げに笑う深見。
そして、空になった道具箱を片付けながら、穏やかに目を細める柴崎。
「どうですか、栞さん。僕たちのアパートの、新しいデッキの乗り心地は」
陸が眩しい笑顔を向けてくる。
「……最高です。本当に、言葉が出ないくらい……」
私の胸の奥から、熱い感情が込み上げてきた。
矢吹先生の言っていたことは、確かに正しいのかもしれない。
彼らは若く、感情的で、将来の保証なんてどこにもないのかもしれない。
けれど――。
こうして一日中汗を流し、手を汚し、泥臭く木を削り、私のために、この古いアパートのために全力を注いでくれたこの男たちの熱量を、どうして「ただの店子」の一言で片付けることができるだろうか。
「みんな、本当にありがとう……! 私一人じゃ、絶対こんな風に直せなかった……!」
私が満面の笑みでお礼を言うと、男たちの表情が、ふっと一斉に緩んだ。
夕陽に照らされたその四つの笑顔は、どんな高級な宝石よりも、どんな完璧な契約書よりも眩しく輝いていた。
しかし――。
この見事なウッドデッキの完成が、今夜、さらなる危険で甘い「宣戦布告の引き金」になるとは、この時の私はまだ、露ほども知らなかったのだった。




