第26話:玄関先での鉢合わせバトル
低く滑らかなエンジン音が、深夜に近い目黒の住宅街の静寂を静かに切り裂いていた。
革張りのシートに背中を預けた瞬間、沈み込むような心地よい弾力と、上質なナッパレザー特有の芳醇な薫香が車内を満たす。ドイツ製の黒塗り高級大型セダン。遮音ガラスで外界と隔絶された空間は、まるで走る高級ホテルのラウンジのように静謐で、路面の凹凸を吸い尽くすような滑らかなサスペンションが、私の強張った身体を微かな揺れで包み込んでいた。
(……どうしよう。どうしよう、どうしよう……!)
助手席の窓の外、街灯の光が規則正しく後方へと流れていくのを眺めながら、私――佐伯栞(三十二歳)は、膝の上で握りしめたバッグの持ち手をこれでもかというほど強く指先で締め上げていた。
心臓が、銀座を出て首都高に乗った時からずっと、肋骨の内側で早鐘を打ち鳴らし続けている。
先ほど、銀座の老舗割烹『宗庵』の個室で、顧問税理士の矢吹宗介から叩きつけられた言葉の数々が、鼓膜の奥で熱い残響となって何度も蘇る。
――『一人の男として、あなたを見ています、栞さん』
――『穏やかで、安全で、誰にも脅かされない平穏な日常を、私があなたに差し上げます』
――『私なら、あなたにそんな苦労はさせません』
眼鏡を外し、白木の一枚板越しに私の手を力強く、けれど優しく包み込んできた、あの大人の男の手のひらの温もり。
十年間、ブラック企業で理不尽な労働に耐え抜き、心身ともに擦り切れて「平穏と健康」だけを求めて脱サラした私にとって、矢吹が提示してきた未来は、あまりにも魅力的で、眩しすぎる逃げ場そのものだった。
アパートの住人たちの、剥き出しの熱情と激しい独占欲に振り回され、キャパシティが限界を迎えかけていた私にとって、矢吹の差し出す「盤石な安定」という選択肢は、現実主義者の私の胸を激しく揺さぶるのに十分すぎる重みを持っていたのだ。
「……佐伯さん。車内の温度は寒くありませんか? エアコンの風量を落としましょうか」
ハンドルを握る運転席から、穏やかで低く響くバリトンボイスが降ってきた。
横目で盗み見ると、矢吹は再びシルバーフレームの銀縁眼鏡を掛け直し、首都高の出口ランプを滑らかなハンドル捌きで曲がっているところだった。チャコールグレーの三つ揃えスーツの肩の線は微塵も崩れず、横顔には知的で落ち着いた大人の余裕が満ち満ちている。
「あ、いえ……! ちょうどいいです、ありがとうございます! ……あの、矢吹先生。銀座から目黒まで、わざわざ車で送っていただいて本当に申し訳ありません。電車で帰ればよかったのに……」
「とんでもない。こんな夜更けに、大切な依頼人であり、魅力的な女性を一線級の交通機関で一人きりで帰すような無粋な真似はできませんよ。それに――」
矢吹は前方のフロントガラスを見据えたまま、薄い唇を微かにほころばせた。
「あなたと二人きりで、もう少し話がしたかった。……ただ、それだけです」
「っ……」
さらりと、呼吸をするように大人の好意を言葉にして乗せてくる。
その淀みのなさに、私の頬は再びカッと熱くなり、視線を助手席の足元へと落とすしかなかった。
車は住宅街の細い路地へと進入し、見慣れた黒い板塀の影をヘッドライトの白いLEDが鮮明に照らし出した。
築四十五年のレトロアパート「メゾン・サクラ」。
中庭の山桜の枯れ木と、モルタル壁の懐かしい佇まいがフロントガラスの向こうに浮かび上がる。
セダンは音もなく門のすぐ脇へと滑り込み、ハザードランプをカチ、カチと静かに点滅させて停車した。
「着きましたね」
「あ……はい! 本当に、何から何までごちそうになりっぱなしで……! 修繕計画のことも、税務のことも、先生のおかげで目の前が明るくなりました。ありがとうございました!」
私がペコペコと頭を下げてシートベルトを外すと、矢吹は車のエンジンを切らず、サイドブレーキを引いてこちらへ身体を向けた。
薄暗い車内。ダッシュボードのアンビエントライトが、矢吹の整った顔立ちの陰影を艶やかに浮かび上がらせている。
「礼には及びませんよ。……それから、佐伯さん。食事の際にお話ししたこと、急いで答えを出す必要はありません。ですが……私の本気は、信じていただきたい」
矢吹の手が、すっと伸びてきた。
私の膝の上に置かれていたバッグの上から、そっと温かい指先が重ねられる。
銀縁眼鏡の奥の切れ長の瞳が、まっすぐに私の瞳を捕らえた。
「また、ゆっくり話しましょう。……栞さん」
耳元を直接撫でるような、甘く深い響き。
下の名前を呼ばれた瞬間、心臓が跳ね上がり、私は息を呑んだままコクコクと小さく頷くのが精一杯だった。
「は、はい……! 失礼いたします……!」
逃げるように助手席の重厚なドアを開け、夜の冷気の中へと足を踏み出した。
カチリ、とドアが閉まる重たい金属音。
十一月の冷え切った夜風が、火照りきった私の頬を一気に冷やしていく。
私は大きく深呼吸をし、車の窓越しに矢吹へもう一度お辞儀をしようと踵を返した――その、まさに刹那だった。
――スゥッ……。
アパートの門柱の影から、絶対零度の冷気が、まるで氷の刃のように私の背筋を貫いた。
「……大家さん。ずいぶん素敵なエスコートでお帰りですね?」
「……っ!?」
心臓が凍りついた。
鼓膜を直撃したのは、滑らかで、耳障りが良くて――そして、底知れぬ狂気を孕んだテノールボイス。
ギギッ、と錆びついた人形のように首を巡らせた私の視界に、信じられない光景が飛び込んできた。
アパートの門灯。
薄黄色い頼りない光が落ちるその真下に――二人の男が、まるで地獄の門番のように仁王立ちしていたのだ。
一人は、二〇二号室の住人・柴崎晴人。
いつものエプロン姿ではなく、厚手のチャコールグレーのショールカラーカーディガンを羽織り、胸元で固く腕組みをしている。栗色の前髪の隙間から覗く垂れ目は、一見すると穏やかな菩薩の笑みを浮かべているように見えた。
けれど――その口元の端は微かに吊り上がり、瞳の奥には光が一切宿っていなかった。深淵の底のように淀んだ漆黒の闇。笑顔という名の完璧な仮面の下から、漏れ出しているのは獲物を奪われた猛獣のそれだった。
そして――もう一人。
柴崎のすぐ半歩後ろに立っていたのは、一〇一号室の宮原陸だった。
仕事帰りなのだろう、仕立てのいい濃紺のストライプスーツに身を包み、右手にはコンビニのビニール袋を無造作にぶら下げている。
いつも私の前で見せる、あの愛嬌たっぷりの「大型犬の笑顔」はどこにもなかった。
彫刻のように無表情。冷徹で、怜悧で、社内で「氷のプリンス」と恐れられている理由が痛いほど分かる、刃物のように研ぎ澄まされたエリートの冷徹な眼光。
「ひ……っ、は、晴人さん……!? 宮原くん……!?」
私の喉から、引き攣れた悲鳴のような声が漏れた。
どうして二人がこんな時間に、門の前で揃って立っているのか。
しかも、その二対の視線は、立ちすくむ私を完全に通り越し――私の背後に停まっている、黒塗りの高級セダンの運転席へと、殺気配を込めて突き刺さっていた。
ウィィィン……。
静寂を破り、セダンの運転席のパワーウィンドウが滑らかに下降した。
現れたのは、銀縁眼鏡を押し上げ、完璧なポーカーフェイスを保った矢吹宗介の横顔だった。
矢吹は車内から視線を向け、門前に立つ二人の男を、まるで法廷で証拠品を検分するかのような冷ややかな観察眼で見据えた。
バチィィッ……ッッッ!!!
目に見えるほどの火花が、深夜の住宅街で激しく散った。
黒塗りセダンの車内と、門灯の下。
大人の色気を漂わせるエリート税理士、笑顔の裏に暗黒面を隠し持つ美貌のシェフ、そしてスーツ姿の若き肉食コンサルタント。
三者三様の極上男子たちの視線が交錯した瞬間、周囲の大気の温度が、一気に氷点下十度まで叩き落とされたような錯覚を覚えた。
最初に口火を切ったのは、車内の矢吹だった。
シートに深く背を預けたまま、窓枠に軽く肘をかけ、一切の動揺を感じさせない落ち着いたトーンで唇を開く。
「夜分遅くに失礼。顧問税理士の矢吹です。……佐伯さんのアパートの資産管理と、長期修繕計画の打ち合わせのお手伝いをしておりました。業務の延長で、安全のためにお送りしたまでですよ」
完璧な名刺代わりの牽制。
「私は彼女の正式な相談役であり、ビジネスの正当なパートナーである」という大義名分を掲げた先制攻撃。
しかし――メゾン・サクラの男たちが、そんな大人の理屈にひるむはずがなかった。
スッ、と前に出たのは宮原陸だった。
コンビニ袋を指先で揺らしながら、陸は革靴をカツンとアスファルトに響かせてセダンの運転席側へと歩み寄った。
その顔には、先ほどまでの冷徹な無表情から一転、ビジネスの交渉相手を叩き潰す時だけに見せる、冷ややかな極上の営業スマイルが張り付いていた。
「これはご丁寧に、矢吹先生。店子の宮原です」
陸はスーツのポケットに左手を突っ込み、車内の矢吹を見下ろすようにして、低く滑らかな声を落とした。
「資産管理のお手伝い、結構なことですね。……ですが、夜の十時を回って女性を車で送り届けるなら、門の前ではなく、エントランスのすぐ目の前まで寄せるべきでは? ここは閑静な住宅街とはいえ、門から母屋までの通路は街灯の死角になります。コンサルタントの視点から言わせていただければ、リスクマネジメントの意識が少々甘いのではありませんか?」
「……ほう」
矢吹の眉が、ピクリと小さく動いた。
「門の前で停めたのは、アパートの他の住人の方々の睡眠を、車のアイドリング音で妨げないための配慮ですよ。……それに、門の前にあなたがた二人が仁王立ちしているような物騒な状況なら、なるほど、確かにエスコートの必要性は高かったかもしれませんね」
「配慮、ですか」
陸の口角が、さらに鋭く吊り上がった。
「その配慮の割には、車内でずいぶん長いこと話し込んでいらっしゃったようですね。……窓越しに、栞さんの手を握っているのが丸見えでしたよ」
「っっっ!?」
私の心臓が破裂しそうになった。
見られていた。
車内で矢吹に手を重ねられ、「一人の男として見ています」と囁かれていたあの瞬間を、この男は外の暗闇から完璧に監視していたのだ。
そこへ――。
カサリ、と落ち葉を踏みしめ、柴崎晴人が音もなく割って入ってきた。
カーディガンのポケットから両手を抜いた柴崎は、セダンのボンネットの脇に立ち、首をわずかに傾げてふわりと微笑んだ。
その笑顔は、花が咲くように美しい。
けれど、その瞳の底にある暗黒の沼は、凍りつくような殺気を孕んでいた。
「柴崎です。……矢吹先生、銀座の老舗割烹でお食事だったそうですね」
「ええ。佐伯さんにも大変喜んでいただけましたよ、柴崎さん」
矢吹が淡々と返すと、柴崎の微笑みが、わずかに深くなった。
「それは良かった。……実は僕、今夜、栞さんのために特製の夜食を作って待っていたんですよ。急に冷え込んできたから、身体の芯から温まるように、九条ネギと地鶏の生姜葛餡仕立ての温かいにゅうめんをね」
柴崎は私の顔をチラリと見やり、そして再び矢吹へと冷たい眼光を突き刺した。
「でも……どうやら、余計なお世話だったようですね。高級な割烹で満たされた胃袋には、僕の作った家庭料理なんて、入る隙間もなかったみたいだ」
「ひぃっ……!」
私の喉から、情けない悲鳴が漏れた。
作ってくれていたのだ。私が「今夜は自炊する」と言ったのにもかかわらず、あの男は私の帰りを待って、わざわざ消化の良い夜食を仕込んでアパートで待機していたのだ。
そして今、その好意を無下にして外部の男と高級ディナーを楽しんできた私に対して、笑顔の裏からドロドロとした重たい罪悪感を植え付けにかかっている。
「柴崎さん」
車内の矢吹が、静かに眼鏡の位置を直した。
「彼女の健康を気遣うのは結構ですが、食事の選択権は彼女自身にありますよ。あまり過保護に縛り付けるのは、店子としての節度を越えているのではありませんか?」
「節度、ですか?」
柴崎の目が、スッと細められた。
「大家さんの心と身体の健康を守るのは、このアパートの共同生活における最優先事項ですから。……外部の人間にとやかく言われる筋合いはありませんよ、矢吹先生」
「外部の人間、ね」
矢吹の口元に、冷ややかな挑戦の笑みが浮かんだ。
「私は先代の遺言執行者であり、彼女の生涯の法的パートナーになり得る存在ですよ。……あなた方のような、いつ退去するかも分からない『ただの店子』とは、立場が根本から違う」
「「…………」」
陸と柴崎の空気が、完全に凍りついた。
『ただの店子』という、もっとも触れられたくない急所を、大人の男の冷徹な事実によって的確に抉られた瞬間だった。
陸の拳がポケットの中でギリギリと音を立てて握りしめられ、柴崎の瞳の奥の闇が、一瞬にして殺意に近い輝きを帯びる。
一触即発。
目に見えるほどの火花どころではない。
このまま放置すれば、深夜の住宅街でエリート税理士と外資コンサルとフレンチシェフによる流血沙汰の乱闘が勃発しかねない。
「ひ、昼間の打ち合わせの延長ですからぁぁぁッッッ!!!!」
私は二人の男の間に割って入るように、バタバタと両手を激しく振り回しながら絶叫した。
「皆さん、落ち着いてください! 矢吹先生とは本当に、アパートの将来の修繕費と税金のシミュレーションをしてただけなんです! 変な雰囲気なんて一ミリもありませんでしたから! 本当です!」
必死の弁明。
けれど、私の真っ赤になった顔と、激しく乱れた呼吸を見て、男たちの誰一人として納得するはずがなかった。
「……栞さん。顔、真っ赤ですよ」(陸・低く濁った声)
「そうですね。お酒のせいだけには見えませんね」(柴崎・氷点下の笑顔)
「佐伯さん。無理に彼らに弁解する必要はありませんよ」(矢吹・車内からの包容力)
「うぐっ……胃が……胃が痛い……っ!」
私は胃のあたりを両手で押さえ、その場にへたり込みそうになった。
ブラック企業の徹夜残業よりも、工藤元部長からのモラハラよりも、遥かに胃壁をダイレクトに削り取ってくる修羅場のプレッシャー。
矢吹は私の苦悶の表情を見て取ると、ふっと小さく息を吐き、これ以上の追撃を思いとどまったようにエンジンを静かに吹かした。
「……今夜はここまでにしましょう。佐伯さん、身体を冷やさないように、温かくして休んでください」
矢吹は窓枠から私を見つめ、大人の余裕を湛えた笑みを向けた。
「また、近いうちに連絡します。……おやすみなさい、栞さん」
ギアがドライブに入る。
黒塗りの高級セダンは、滑らかな排気音を残して、夜の住宅街の闇の中へと静かに走り去っていった。
赤いテールランプが角を曲がって消える。
嵐の元凶が去った。
しかし――メゾン・サクラの門前には、それよりも遥かに恐ろしく、息の詰まるような重厚な沈黙が残されていた。
門灯の薄暗い光の下。
スーツ姿の宮原陸と、カーディガン姿の柴崎晴人。
二人の男が、ゆっくりと、私の方へと向き直った。
「…………」
「…………」
無言の圧力。
矢吹という「経済的安定と大人の余裕」を兼ね備えた強力な外敵の出現は、これまで精神的余裕を気取っていた陸と柴崎の心に、強烈な焦燥感と独占欲の炎を一気に燃え上がらせていた。
「あ、あの……二人とも……?」
私が恐る恐る後ずさりすると、陸が一歩、間合いを詰めてきた。
その瞳は、昼間のコンペを勝ち取った時のようにギラギラと飢え、熱く濁っていた。
「栞さん。……あの男に、何を言われたんですか?」
「え……?」
続いて、柴崎が私の背後に回り込み、逃げ道を塞ぐように門扉に手を置いた。
耳元に落ちてくる、逃げ場のない甘い吐息。
「にゅうめん、まだ温かいですよ。……冷めないうちに、部屋でゆっくり……話を聞かせてもらえますよね?」
挟み撃ち。
完全なる捕獲の陣形。
冷たい夜風が吹き抜けていくというのに、二人の男から放たれる熱気によって、私の全身は火傷しそうなほど熱く包囲されていた。
大家の平穏な日常を守るはずだった夜。
矢吹の告白という起爆剤によって、男たちの嫉妬と執着は、もはや後戻りのできない臨界点へと一気に加速していたのだった。




