第25話:矢吹の警告と大人のディナー
先週末にメゾン・サクラを襲った「共用カレンダーの陣取り合戦」の熱波は、ようやく過ぎ去ったはずだった。
土曜の午前中は宮原陸が有休を取ってスーツ姿のまま脚立を支え、業者の見積もりに対して「この平米単価の根拠と足場架払いの安全係数を提示してください」と理路整然と詰め寄り、午後は柴崎晴人が特製ローストビーフサンドを抱えて車を出し、郊外の大型ホームセンターで「栞さん、洗剤はこれが一番肌に優しいですよ」と手際よくカートを埋め尽くした。
明けて日曜の午後は、野村創が手配してきた軽トラックの荷台へ五十キロの古タンスを一人で軽々と担ぎ上げて「……あんたは見てろ」と耳を赤くし、夜には深見怜が管理人室の引き戸を無言で開けて「おい、ゲイシャの豆だ。濃いめに淹れろ」と居座って煙草の煙を燻らせていった。
四者四様の過剰すぎるサポートによって、アパートの外壁点検も粗大ゴミ搬出もこれ以上ないほど完璧に片付いた。だが、私の体力と精神力は、男たちの無言の視線と牽制合戦の板挟みによって、完全に摩耗しきっていたのだ。
そんな嵐の週末が明けた、翌週の水曜日の夕暮れ。
私は目黒のレトロアパートを離れ、銀座の街を歩いていた。
「……うう、さすがに銀座のど真ん中は空気が違うわね……」
並木通りの舗道には、冷え込み始めた初冬の風が吹き抜けていた。
行き交う人々は上質なカシミアのコートや毛皮を身に纏い、高級ブティックのショーウィンドウからは洗練された暖色のスポットライトが漏れている。
私はといえば、前職の営業事務時代に着ていた数少ない「一張羅」である、ネイビーのノーカラージャケットにプリーツスカート、アイボリーの上品なボウタイブラウスという装いだった。派手すぎず、かといって失礼のないオフィスカジュアル。
今日の予定は、メゾン・サクラの今後を左右する極めて重要で現実的なビジネスだった。
数日前、祖母の代からの顧問税理士兼司法書士である矢吹宗介から、一本の連絡が入っていたのだ。
『佐伯さん。アパートの長期修繕計画の策定と、それに伴う向こう十年の税務シミュレーションがまとまりました。相続税の申告も無事に結了しましたので、一度、正式なご報告と今後の経営方針について打ち合わせをいたしましょう。事務所の近くに落ち着いて話せる席を用意しましたので、よろしければ銀座までお越しいただけますか』
指定された場所は、銀座七丁目の路地裏。
雑居ビルの喧騒から一本入った、黒塀に囲まれた静謐な一角だった。
石畳の路地の奥、控えめに灯る行灯に、達筆な墨文字で屋号が刻まれている。
『割烹 宗庵』
格式の高さを物語る純白の麻暖簾。
一見客を寄せ付けないような凛とした佇まいに、私は思わず息を呑み、ボウタイの結び目を整えてから、恐る恐る引き戸を開けた。
「いらっしゃいませ。佐伯様でいらっしゃいますね。矢吹様がお待ちでございます」
着物姿の女将に恭しく迎えられ、打ち水が施された黒御影石の廊下を進む。
案内されたのは、坪庭に面した純和風の完全個室だった。
雪見障子の向こうには、青々とした苔と手水鉢、竹垣を照らす柔らかな竹灯籠が見える。床の間には季節の椿が一輪生けられ、白木の一枚板のテーブルが、飴色の艶を放って鎮座していた。
「お待ちしていましたよ、佐伯さん。寒かったでしょう」
上座の座布団から、すっと立ち上がった男性がいた。
矢吹宗介(三十六歳)。
チャコールグレーのスリーピーススーツを寸分の隙もなく着こなし、胸元にはシルバーの上品なポケットチーフ。銀縁眼鏡の奥から、知的で落ち着いた眼差しが私を柔らかく迎えてくれた。
三十代後半ならではの、成熟した大人の男の風格と余裕。アパートのあの騒がしい男たちとはまるで違う、静かで、圧倒的な包容力がその場を満たしていた。
「矢吹先生、お待たせして申し訳ありません! こんな格式の高そうなお店を指定していただくなんて……私のような新米大家には勿体ないくらいです」
「いえ。ここは私の事務所の古いクライアントのお店でしてね。防音も行き届いていて、帳簿や資産の話をするには最適な場所なんです。どうぞ、お掛けになってください」
矢吹は流れるような所作で私の席の座布団を勧め、コートを預かってくれた。
席に着くと、矢吹は手元の上質な革製ダレスバッグから、青いインデックスがびっしりと貼られた分厚いファイルを二冊取り出し、白木のテーブルの上に整然と広げた。
「では、食事が運ばれてくる前に、まずは事務的なご報告と数字の確認から済ませてしまいましょうか」
「はい、よろしくお願いいたします!」
カチリ、と万年筆のキャップが外される乾いた音。
ここからの矢吹の仕事ぶりは、まさに息を呑むほど完璧なプロフェッショナルそのものだった。
「まず、先月完了した相続税の申告是認通知書です。税務署からの指摘事項は一切なし。生前の文様による計画的な減価償却と、私の方で適用した小規模宅地等の特例措置により、予定納税額から約二百四十万円の節税に成功しました。これにより、アパートの納税用引当金に十分な余剰資金が残ります」
「に、二百四十万も……!? すごい……!」
「そして、こちらが先週末の外壁点検の結果を踏まえて策定した、『メゾン・サクラ長期修繕計画書(三十年試算)』です」
提示されたA3のカラー試算表には、築四十五年の木造モルタル建築が直面する将来のリスクが、極めて緻密な数字の羅列として可視化されていた。
五年ごとの外壁塗装・屋根防水工事の費用、十年ごとの給排水管の全面更新費用、シロアリ防除の定期施工費、そして各居室のエアコン・給湯器の更新サイクル。
「アパートの現在の満室利回りは、月額家賃二十六万円、年間で三百十二万円です。相場よりも破格に安く設定されているため、表面上の収益性は決して高くありません。しかし――」
矢吹は万年筆の先端で、キャッシュフローの折れ線グラフを指し示した。
「現在の余剰資金を元手に、年率二パーセントの安全運用を行う信託口座を設定し、毎月の家賃収入から六万円を修繕積立金として強制的にプールします。さらに、小規模企業共済と経営セーフティ共済を組み合わせることで、年間百万円以上の所得控除を合法的に作り出せる。これにより、十年後に必要となる約八百万円の大規模修繕費用は、借入を起こすことなく、すべて手元の留保資金だけで完全に賄うことが可能です」
澱みなく紡がれる論理。
リスクをすべて先回りして潰し、感情論や行き当たりばったりの希望的観測を一切排除した、鉄壁のファイナンシャル・プランニング。
十年間、ブラック企業で数字の辻褄合わせに奔走させられてきた私だからこそ、この計画書の作成にどれほどの時間と知識、そして依頼人への誠実さが注ぎ込まれているかが、痛いほどよく分かってしまう。
「……すごいです、矢吹先生。私、アパートが古いからいつか大きなお金が必要になって破綻するんじゃないかって、心のどこかでずっと怯えていたんです。でも……この計画があれば、私、ちゃんとあのアパートを守っていけます」
心からの感謝を込めて頭を下げると、矢吹は銀縁眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げ、ふっと口元を緩めた。
「お祖母様が命懸けで守り、あなたに遺してくださった城ですからね。私がプロとして完璧な防壁を築くのは、当然の職務ですよ」
その時、トントン、と控えめなノックの音が響いた。
女将が音もなく襖を開け、漆塗りの折敷に乗せられた美しい先付けと、冷えたビールが運ばれてきた。
「お待たせいたしました。先付けの、焼き雲丹と胡麻豆腐のジュレがけ、季節の八寸でございます」
運ばれてきた料理の美しさに、私の息が止まりそうになる。
薄紅色の紅葉をあしらった器に、黄金色に輝く雲丹。銀杏や車海老の艶やかな色彩。
女将が静かに襖を閉め、部屋には再び、坪庭の手水鉢から水が滴る「コトン」という静謐な竹の音だけが戻ってきた。
「さて。硬い仕事の話はここまでにして、食事にしましょうか」
矢吹は机の上の分厚い書類を手早くまとめ、ダレスバッグの中へと仕舞い込んだ。
そして――。
スッ……。
矢吹の長い指先が、自分の耳元へと伸びた。
掛けていた銀縁の眼鏡が、静かに外される。
眼鏡クロスでレンズを丁寧に拭い、スーツの内ポケットへと収めた矢吹が、ゆっくりと顔を上げた。
「……っ!?」
私の喉が、小さく鳴った。
眼鏡という知的なフィルターを外した矢吹宗介の素顔。
それは、第八話で名刺を渡された時にも垣間見たはずの、大人の男の生々しい色気を、さらに濃厚に解き放っていた。
切れ長の涼しげな目元。
眉間に刻まれた、幾多の修羅場を冷静沈着に乗り越えてきた者だけが持つ深い陰影。
普段の怜悧な士業の仮面が剥がれ落ち、そこには――三十代半ばの、脂の乗った大人の男の、艶めかしく危険な眼光が剥き出しになっていた。
「ビールでよろしいですか、佐伯さん」
矢吹は冷えた中瓶を両手で持ち、私のグラスへと滑らかに注ぎ入れてくれた。
黄金色の液体の上に、きめ細かい白い泡が完璧な比率で盛り上がる。
続いて、自分のグラスにもトクトクと注ぎ、薄い唇を微かにほころばせた。
「相続税申告の無事完了と、佐伯さんの新しい門出に。……乾杯」
「あ、ありがとうございます……! 乾杯」
カチン、と極薄のグラスが触れ合う澄んだ音が個室に響く。
喉を通るビールの冷たさと苦味が、緊張していた私の身体をじんわりと解きほぐしていく。
箸を取り、焼き雲丹と胡麻豆腐を口に運ぶ。
ねっとりとした胡麻のコクと、香ばしく炙られた雲丹の濃厚な磯の香りが口いっぱいに広がり、思わず頬が緩んだ。
「……美味しい。こんなに上品なお料理、生まれて初めていただいたかもしれません」
「気に入っていただけて良かった。あなたの口に合うかどうか、少し心配していたんです」
矢吹はビールを一口喉に流し込むと、グラスを置き、肘をテーブルについて私を見つめてきた。
その口調が、先ほどまでのビジネスライクな敬語から、少しだけ柔らかく、プライベートなトーンへと崩れる。
「佐伯さん」
「は、はい……?」
「あの四人の住人たち。……あなたを巡って、あからさまに競い合っていますね」
――ドクン。
心臓が、大きく跳ね上がった。
先週末のホワイトボードカレンダーの攻防戦。あの狂気的なまでの陣取り合戦の光景が、脳裏を焼き尽くすようにフラッシュバックする。
「えっ……!? あ、いえ、そ、それは……! 先生の勘違いというか、皆さんただ親切で、アパートの維持管理を手伝ってくださっているだけで……!」
私が真っ赤になって手を振ると、矢吹は静かに首を横に振った。
その瞳の奥には、すべてを見透かした大人の男の、苦笑交じりの冷徹な光が宿っていた。
「勘違いなものですか。先週末、外壁点検の見積書が私の事務所にFAXで届きましたがね。添付されていた瑕疵チェックリストの筆跡と書式を見て、すぐに分かりましたよ。外資系ファームのトップコンサルタントが作る、完璧なリスクマネジメントシートそのものでした。……宮原さんですね?」
「うぐっ……」
「それに、修繕計画の資材リストには、プロ用の金物や木材の品番が細かく追記されていた。美大生の野村さんでしょう。そして、送られてきた書類の封筒の隅には、高名なミステリ作家である深見怜の万年筆の走り書きがあり、事務所宛てに届いたお礼状には、裏通りのビストロのシェフ・柴崎さんからの特製焼き菓子の詰め合わせが同封されていた」
矢吹はため息を一つ零し、眼鏡のない深い瞳で、まっすぐに私を射抜いた。
「四人全員が、私という『外部の男』に対して、自分たちの存在と縄張りを誇示するために必死になっているんですよ。……あなたを独占するために、目に見える形で爪を研ぎ合っている」
逃げ場のない、完璧な事実の摘発。
第八話で「あなたは自分がどんな檻の中にいるか分かっていない」と警告された時と同じ、鋭利なメスのような指摘に、私は言葉を失ってうつむくしかなかった。
「佐伯さん。彼らは確かに魅力的です。若く、情熱的で、それぞれの分野で突出した才能を持っている」
矢吹の声は、どこまでも穏やかだった。
怒っているわけでも、嘲笑しているわけでもない。
長年、社会の表と裏、無数の契約と破綻を見届けてきた法律家としての、冷静で残酷な現実論。
「ですがね……彼らは若い。そして、不安定すぎる」
「不安定……ですか?」
「ええ」矢吹はゆっくりと頷いた。
「宮原さんは確かにエリートですが、外資のコンサルティング業界は常に激しい成果主義とリストラの嵐の中にあります。一握りの勝者であり続けるために、彼は今後も家庭や私生活のすべてを犠牲にして働き続けなければならない。深見先生の才能は疑いようもありませんが、作家という職業は本質的に水物です。過去のスランプのように、一度筆が止まれば収入も精神の安定も一瞬で霧散する」
矢吹の言葉が、私の胸にチクリと刺さる。
「野村さんはまだ二十一歳の学生だ。彫刻家として一本立ちできる保証などどこにもない。柴崎さんのビストロは繁盛していますが、個人事業主の飲食店経営は、体力を失えばその瞬間に終わる。……佐伯さん。あの四人の男たちのうち、誰一人として、あなたの将来を生涯にわたって安定して支えられる保証はないんですよ」
「っ……」
息が詰まった。
三十代の元社畜。過労で倒れ、恋愛市場から逃げ出し、「平穏と健康」だけを求めてアパートの大家になった私にとって――矢吹の突きつける言葉は、反論の余地がないほどに正論だった。
情熱や甘い言葉だけでは、人生は生きていけない。
築四十五年のアパートの修繕と同じように、人生には確固たる地盤と、揺らがない経済的安定が必要なのだと、私の現実主義者の心が痛いほど理解してしまう。
沈黙が個室を支配した。
坪庭の竹から、コトン、と澄んだ音が落ちる。
矢吹は手元のビールグラスを静かに置くと、テーブル越しに身を乗り出してきた。
ふわりと香る、上質なウールと白檀の落ち着いた薫香。
矢吹の手が、白木の一枚板の上を滑るように伸びてきた。
そして――。
膝の上でぎゅっと握りしめられていた私の左手を、ためらいなく、上から包み込むようにそっと重ねてきたのだ。
「……っ!? 矢吹、先生……?」
驚いて顔を上げると、至近距離に矢吹の素顔があった。
大人の男の、驚くほど乾燥していて、温かく、確固たる質量を持った大きな手のひら。
逃げようとする私の指先を、矢吹の長い指が、優しく、けれど抗えない力加減で包み込んでいく。
「佐伯さん」
耳元に落ちてくる、低く、深く響くバリトンボイス。
その声音には、一切の迷いも、駆け引きも、淀みも存在しなかった。
「私なら、あなたにそんな苦労はさせません」
「……え……?」
「私の事務所には、代々受け継いできた強固な顧客基盤と、盤石な資産があります。不況が来ようと、社会がどう変わろうと、あなたとあのアパートの生活を、何一つ不自由なく、生涯にわたって守り抜くことができる」
矢吹の親指の腹が、私の手の甲を、熱く、愛おしそうにゆっくりとなぞった。
その瞳の奥に宿っていたのは、冷徹な税理士の顔ではなかった。
一人の大人の男が、人生を懸けて愛する女性を手に入れようとする時の、揺るぎない覚悟と情熱。
「彼らのような激しい嫉妬や、子供じみた縄張り争いであなたを振り回したりはしません。……穏やかで、安全で、誰にも脅かされない平穏な日常を、私があなたに差し上げます」
――穏やかで、安全で、平穏な日常。
それは、私がブラック企業を辞めたあの日から、何よりも喉から手が出るほど欲しかった、人生の理想そのものだった。
「……矢吹先生……それって……」
私の唇が震えた。
矢吹は私の目をまっすぐに見つめ、一言一言を噛み締めるように告げた。
「一人の男として、あなたを見ています、栞さん」
下の名前で呼ばれた瞬間、私の心臓が、ドクンと耳の奥で激しく跳ね上がった。
「彼らの熱気に流されて、自分を見失わないでください。……あなたを本当に守れるのは誰なのか、冷静に考えてほしいんです」
逃げ場のない、完璧で重厚な求婚めいた言葉。
アパートの男たちの、感情剥き出しの荒々しい好意とは対極にある――大人の男が差し出す、絶対的な安定という名の甘い檻。
私は箸を止めたまま、呼吸すら忘れ、ただ矢吹の真剣な瞳の前に縫い止められていたのだった。




