第24話:共用カレンダーの攻防戦
水曜日の午後に共用キッチンで起きた、あの背徳的すぎる「味見事件」の熱気は、木曜日を丸一日挟んでも私の舌先と脳裏から綺麗さっぱり消え去ってはくれなかった。
柴崎晴人さんの細く長い人差し指。そこに纏わりつく濃厚で芳醇なポルチーニクリームソース。唇を割られ、舌先でその指の熱と味を直接受け止めた瞬間の痺れるような感覚と、下唇の端を親指で拭われ、そのソースを目の前でペロリと舐め取られた時の全身が粟立つような羞恥。
――『僕以外の味なんて、二度と思い出せなくしてあげますから』。
真壁くんから聞かされた「裏切りを恐れるあまり、逃げ道をすべて塗りつぶす男」の過去と相まって、柴崎さんのあの極上のスパダリスマイルの裏側に潜む底なし沼のような独占欲に、私の心臓はいまだに警鐘を鳴らし続けていた。
けれど、いつまでも身悶えしているわけにはいかない。
私――佐伯栞(三十二歳)の本分は、この築四十五年のヴィンテージアパート「メゾン・サクラ」を適切に維持管理し、平穏な不労所得ライフを守り抜くことなのだ。
「よし……気を取り直して、来週末のタスク整理をしなきゃ!」
金曜日の夜九時。
住人たちがそれぞれの部屋に引っ込み、静まり返った共用リビング。
私は黒の油性マーカーを片手に、リビングの壁に据え付けられた大きなホワイトボードカレンダーの前に立っていた。
縦六十センチ、横九十センチほどのこのカレンダーは、元々は祖母の代から「ゴミ収集日の確認」や「浄化槽点検」「日曜夕食会の担当」を住人同士で共有するために掛けられていたものだ。一ヶ月分のマス目が整然と区切られ、現在は黒板消しと赤・青・黒のマグネットペンが下部のトレイに並んでいる。
「来週の土曜日は……外壁塗装の業者さんが来る日ね。築四十五年だし、先日の大型台風でモルタルに細かなクラックが入ってないか、しっかり専門家に見てもらわなきゃ」
キュッ、キュッと小気味よい音を立てて、私は来週の土曜日のマス目に黒文字で書き込んだ。
『土曜午前:アパート外壁点検(業者立ち会い)』
「それから、日曜日は……先代の遺品整理で出た粗大ゴミの搬出日。壊れた木製脚立に、納屋から出てきた古い壊れかけのタンス、錆びたパイプベッドのフレーム……。目黒区の粗大ゴミ回収車が午後二時に来るから、お昼過ぎには玄関前の道路まで運び出しておかないと」
続いて、日曜日のマス目にも文字を走らせる。
『日曜午後:粗大ゴミ搬出(区の回収立ち会い)』
書き終えた文字を眺め、私は満足げに頷いた。
元・営業事務の血が騒ぐ。こうしてタスクを可視化し、スケジュール通りに進行を管理することこそが、平穏な生活の第一歩なのだ。
「土曜の午後は点検が終わったら駅前で一人カフェでもして、日曜の夕方はゴミ出しが終わったら銭湯にでも行こうかな。久しぶりに誰の顔色も窺わない、完全なるオフの週末……!」
小さくガッツポーズを作り、私は管理人室へと戻って泥のように深い眠りについたのだった。
――この時、私は完全に油断していた。
このアパートに住まう男たちが、私の「隙」に対してどれほど狂気的なまでのアンテナを張り巡らせているかということを。
翌朝――土曜日の午前八時。
心地よい秋晴れの光が差し込む一階の廊下を、私は伸びをしながら歩いていた。
パジャマ代わりのスウェットから薄手のデニムとボーダーシャツに着替え、顔を洗って、朝一番の白湯を飲むために共用ダイニングへと向かう。
「ふあぁ……よく寝たぁ。今日はお天気もいいし、シーツでも洗お――」
リビングの引き戸を開け、ふと壁のホワイトボードカレンダーに視線を向けた瞬間。
私の足が、ピタリと床に縫い付けられたように止まった。
「……え?」
二度見した。
目をこすり、もう一度見つめ直した。
眼鏡もかけていないのに、視界が歪んだのかと思った。
「な……な、ななな……何これぇぇぇぇぇッッッ!?」
ホワイトボードカレンダーの、私が昨夜書き込んだはずの「来週末」のマス目。
そこには――昨夜の私の簡潔なメモなど微塵も見えないほどに、色とりどりの極太ペンによる異様な書き込みが、びっしりと、隙間なく、凶悪な密度で埋め尽くされていたのだ。
まず、来週土曜日のマス目。
『土曜午前:[アパート外壁点検同行]宮原(※有休取得済み。業者との見積もり折衝および瑕疵箇所の写真撮影を担当)』
『土曜午後:[点検後の買い出し同行]柴崎(※栞さんの疲労回復用特製ランチ持参。駅前ビストロ経由で車出します)』
続いて、来週日曜日のマス目。
『日曜午後:[粗大ゴミ搬出・力仕事担当]野村(※軽トラック手配可。タンスと鉄パイプは全部俺が担ぐ。あんたは触るな)』
『日曜夜 :[夕食後の珈琲ブレイク]深見(※最高級ゲイシャの豆調達済み。管理人室への差し入れ指定。冷める前に飲め)』
「…………」
私は絶句した。
息ができない。
土曜の朝九時から日曜の深夜に至るまで、私の予定していたフリーな時間、プライベートな休息の時間が――四人の男たちの名前と、あまりにも周到すぎる計画によって、分刻みで完全に包囲されていた。
「ちょっと待ってよ……! 有休取得済みって何!? なんで外壁点検に外資系コンサルのトップが有休使って同行してくるの!? 特製ランチ持参で車を出すって、買い出しなんて徒歩三分で済むのに! 軽トラック手配って美大生のコネをどこで使ってるの!? 差し入れ指定って何様のつもりよ深見怜ーーーッッッ!!」
私の悲鳴のようなツッコミが、静まり返るリビングに木霊した。
怒りと混乱で頭から湯気が出そうになりながら、私は踵を返した。
許せない。いくらなんでもプライベートへの介入が度を越している。大家としての威厳を示し、このふざけた予定を全部消去させてやる!
鼻息荒く共用ダイニングの引き戸をガラリと開けると、そこには――。
「あ、栞さん。おはようございます」
「おはよう、大家」
「……おす」
「おはようございます、栞さん。今、美味しいオムレツが焼き上がるところですよ」
四人全員が、すでに勢揃いしていた。
朝の澄んだ光が満ちる無垢材のダイニングテーブル。
仕立てのいいシャツを着崩して珈琲を飲む宮原陸。
無精髭に丸眼鏡をかけ、気怠げにあくびを噛み殺す深見怜。
黒のタンクトップ姿で山盛りのトーストを無言で咀嚼する野村創。
そして、フライパンを優雅にトントンと叩き、完璧な木の葉型のプレーンオムレツを皿に滑らせている柴崎晴人。
揃いも揃って、何食わぬ顔で朝の優雅なひとときを満喫している極上男子たち。
私は手帳を胸の前に構え、仁王立ちになってテーブルの端へと歩み寄った。
「皆さん! おはようございますじゃありません! リビングのカレンダー、見ましたか!?」
私の鋭い追及に、四人の視線がすっと集まった。
最初に口を開いたのは、マグカップをソーサーに置いた宮原陸だった。
爽やかで、非の打ち所のない、百点満点のエリートスマイル。
「ええ、見ましたよ。というか、書いた張本人ですから。何か不都合でもありましたか、栞さん?」
「不都合しかありません! 宮原くん、あなた来週の土曜日に『有休取得済み』って書いてありましたけど、どういうことですか!? 外壁点検なんて、業者さんと私が外回りを三十分ぐるっと見て回るだけの簡単な作業ですよ!?」
私が詰め寄ると、陸は涼しげな切れ長の瞳を細め、困ったように肩をすくめてみせた。
「簡単な作業だからこそ、プロの目を挟むべきなんですよ、栞さん。相手は百戦錬磨の建築リフォーム業者です。あなたのような真面目で押しに弱い女性が一人で対応したら、不要な追加工事や法外な足場代を吹っ掛けられるリスクが非常に高い。僕が立ち会えば、相見積もりの妥当性をその場で精査し、契約書の瑕疵担保責任の条項まで完璧にチェックできます」
「うぐっ……そ、それはそうかもしれないけど……」
「それに」陸は身を乗り出し、私の目をまっすぐに見つめて声を甘く落とした。
「大家さんの負担を減らすのは、店子としての当然の義務ですからね。……僕、栞さんの役に立ちたいんです」
至近距離で浴びせられる、年下男子の真摯な眼差し。
ぐうの音も出ない正論にたじろぐ私に、キッチンから柴崎さんが皿を運びながら、柔らかな笑みで割り込んできた。
「陸くんの言う通りですよ、栞さん。……でも、点検が終わった後は頭を使ってドッと疲れるでしょう? だから土曜の午後は、僕が美味しいランチを作って、気分転換に車で少し遠くの大型ホームセンターまで連れて行ってあげようと思ったんです」
「は、晴人さん……! 買い出しなんて、近所の金物屋さんでホウキとゴミ袋を買うだけですよ!?」
「ダメですよ。ホームセンターならプロ用の耐久性の高い資材が安く手に入りますし、何より――」
柴崎さんはオムレツの皿を私の前へと置きながら、私の耳元へとスッと身をかがめた。
首筋をかすめる、甘いバニラとバターの香り。
「女性が一人で業者対応をした後に、一人で寂しくコンビニ飯を食べるなんて……僕が許すはずがないでしょう? 栞さんの身体のメンテナンスは、僕の専任事項なんですから」
「ひゃぅ……っ」
耳元で囁かれた低音に、私の背筋を甘い痺れが駆け抜ける。
水曜日の「指先での味見」の記憶がフラッシュバックし、顔が一気にカッと熱くなる。
その私の動揺を見逃さず、テーブルの向かいからガタッと乱暴に椅子を鳴らして立ち上がった男がいた。
「……おい」
野村創だった。
創は分厚いトーストを口に咥えたまま、眉間に深いシワを刻んで柴崎さんを睨みつけると、私へと向き直った。
耳の先をほんのり赤く染めながら、ぶっきらぼうに吐き捨てる。
「日曜の粗大ゴミ。……あんた、一人で運ぶ気だったのかよ」
「え? だ、台車を使って少しずつ運べば……」
「バカか」創は吐き捨てるように言った。「あのタンス、無垢のナラ材だろ。五十キロはあんだぞ。鉄パイプのフレームだって、錆びてて素手で持ったら危ねえ。……重いゴミ、あんたの華奢な腕で持てるわけねえだろ。腰いわすぞ」
「で、でも、軽トラックの手配までしなくても……!」
「……美大の連れから借りてくんだよ。ガソリン代だけでいいって言われてる。……俺が全部担いで積むから、あんたは玄関で立って見てりゃいいんだよ」
そっぽを向いたまま、耳まで真っ赤にして告げられる不器用な庇護欲。
第十九話のベランダで『あんたの笑った顔、悪くないと思う』と消え入りそうな声で言ったあの純情美大生が、自分の肉体を使って私の負担を丸ごと肩代わりしようとしてくれている。
そこへ――。
食卓の端で煙草を弄んでいた深見怜が、鼻を鳴らして低く笑い出した。
「くくっ……若いガキどもが、必死に点数稼ぎに勤しんでるねえ」
「深見さん! あなたですよ一番問題なのは!」
私は矛先を作家へと向けた。
「日曜の夜に『珈琲ブレイク・管理人室への差し入れ指定』って何ですか!? 差し入れなら普通、持ってくる側が指定される筋合いはありません!」
「あ?」深見は丸眼鏡の奥の切れ長の瞳を細め、億劫そうに煙草を灰皿に置いた。
「俺が知り合いの焙煎士から、最高級のパナマ・ゲイシャの豆を仕入れたんだよ。一杯数千円する代物だ。それをわざわざ、あんたの不器用な手で淹れさせてやろうって言ってんだから、ありがたく思え」
「な、なんで私が淹れなきゃいけないんですか! 深見さんが自分で淹れればいいじゃないですか!」
「あんたが淹れた珈琲じゃなきゃ、筆が進まねえんだよ」
――ズキュン。
不意打ちの直球。
深見は足を組み替え、私の目を射抜くように見つめながら、煙草の煙を天井へ細く吐き出した。
「日曜の夜は、粗大ゴミを運んでアパート中が埃っぽくなってるだろ。埃を洗い流して、静かな管理人室で、あんたと二人で濃い珈琲を飲む。……それが俺の来週のモチベーションだ。文句あるか?」
「も、文句しかありません……!」
言えない。
第二十一話で、眼鏡を外した素顔の深見さんにキッチンで抱き寄せられ、「他の奴に構ってないで、俺の世話だけしてろ」と囁かれたあの熱狂を思い出して、私の心臓は破裂寸前だった。
四者四様の、完璧すぎる「建前」。
外資コンサルによる法務・財務的リスク管理(陸)。
プロのシェフによる栄養と生活リズムの防衛(柴崎)。
美大生による圧倒的なフィジカルと機材支援(創)。
ベストセラー作家による精神的報酬と執筆動機(深見)。
誰一人として、「栞さんを独占したい」「他の男に近づけたくない」という本音を直接口には出していない。
全員が「大家さんのため」「アパートの共同維持のため」という美しく論理的な大義名分を掲げ、その実、私のスケジュールから一分一秒の隙間すら奪い去ろうと、完璧な包囲網を敷き詰めているのだ。
「……ちょ、ちょっと待ってください」
私は頭を抱え、後ずさりした。
「皆さん、親切心は本当にありがたいです! でも、これじゃあ私の来週末の予定、全部皆さんで埋まっちゃうじゃないですか! 私、一人でのんびりお茶を飲んだり、お散歩したりする時間が一秒もありません!」
私の悲痛な叫びに、四人の男たちの表情が一瞬で凍りついた。
そして――。
バチィィッ……!
目に見えるほどの火花が、男たちの間で激しく散った。
陸が柴崎を冷ややかに見据え、創が陸を睨みつけ、深見が三人まとめて嘲笑うように目を細め、柴崎が全員に対して一切の温度を感じさせない完璧な営業スマイルを向け返す。
「そうですよ、柴崎さん。土曜の午後にわざわざ遠くのホームセンターまで車を出す必要なんてありませんよね? 点検の後は僕が近所で栞さんをお茶に誘おうと思っていたんですから」(陸)
「おや、陸くんこそ、たかが外壁点検に有休を使うなんて大袈裟じゃありませんか? 平日の激務で疲れているなら、部屋で寝ていればいいのに」(柴崎)
「……二人とも引っ込んでろ。粗大ゴミは男手が必要なんだよ。軟弱なコンサルと料理人に、五十キロのタンスが持てるわけねえだろ」(創)
「おいおい小僧ども、騒がしいな。力仕事だの車だの、下品なアピールばかりしやがって。大人の男の時間の使い方は、静謐な夜の珈琲にあるんだよ」(深見)
「「「「…………」」」」
沈黙。
ダイニングの気温が、一瞬にして氷点下まで叩き落とされた。
笑顔の裏で殺し合うエリートとシェフ。
筋肉を強張らせて威嚇する美大生。
煙草の煙越しに冷笑を浮かべる作家。
カレンダーという目に見える戦場で、男たちの水面下の火花は、完全に隠すことのできない全面戦争へと突入していた。
「あ、あの……皆さん……? 落ち着いて……」
私がオロオロと手を振ると、四つの端正な顔が一斉にこちらを向いた。
「栞さん。土曜の午前は、僕が一番にあなたの隣にいますからね」(陸)
「栞さん。ランチのメニュー、何がいいか後で教えてくださいね」(柴崎)
「……日曜の昼、ジャージで待ってろ。手袋は俺が用意すっから」(創)
「おい大家。珈琲のカップ、一番いいやつ磨いとけよ」(深見)
「だーーーかーーーらーーー!!」
私は両手で顔を覆い、ダイニングの真ん中で絶叫した。
「カレンダーはあなたたちの合コンの予約表じゃありませんってばぁぁぁぁっ!!」
朝の澄んだ光の中。
真っ黒に塗りつぶされた予定表を前に頭を抱える新米大家と、その周囲で涼しい顔をして獲物を奪い合う四人の極上男子たち。
逃げ場のない甘い包囲網は、日常のスケジュール帳の隙間すら、容赦なく侵食し尽くしていたのだった。




